警察庁の『漫画・アニメ・ゲーム表現規制法』検討会問題まとめ @Wik kyou01.htm

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日本基督教婦人矯風会とは?(1)
(文責・鳥山仁+ROSF)

 ここでは、本文である、『誰のための法律か?『児童ポルノ禁止法』に関する基礎知識』からは紙数の都合により削除された、児ポ法に関する様々なデータを追加する。まずは日本で児ポ法をポルノ狩りに利用している疑惑をもたれている、エクパット東京と密接な関わりのある『日本基督教婦人矯風会』について語っていきたいと思う。

 国家や共同体の周辺部、悪く言えば辺境の地域には、ラディカルな活動家、言論人を輩出する傾向、あるいは彼らを引き寄せる魅力をたたえている。この原則は日本にも当てはまり、北海道や九州出身の、またはそれらの地域を重視する過激な言論人は後を絶たない。

 明治維新前の日本でも、仙台藩の林子平(ただし江戸出身)がロシアの南下を説いた「海国兵談」や「蝦夷国全図」を著して物議を醸し出したし、同じく仙台藩医の工藤平助が「赤蝦夷風説考」を著して幕府の政策に少なからぬ影響を与えている(どちらも仙台藩=現在の宮城県であることに注目すべし)。明治維新直後には、榎本武揚が北海道共和国を作ろうとしたのはあまりにも有名な話だろう。

 九州に至ってはとても本稿では論じきる事が不可能なほど、多くの政治家や言論人が現れている。西郷隆盛、大久保利通を筆頭に、大隈重信、黒田清隆(この人は後に北海道開拓事業の主要人物になる。困ったモンだ)、副島種臣、江藤新平等がその代表だろうか? (他の同時代の政治家、言論人に長州藩=現在の山口県と土佐藩=高知県出身者が多かったことに注目すべし)維新後も右翼の大物である頭山満などが産まれている。

 彼らの多くは良く言えば情熱的で行動力があり、悪く言えば視野狭窄で精神的に強いショックを受けるところっと意見を変える傾向がある。最近では、初期の「新しい歴史をつくる会」の牽引役になった九州出身の藤岡信勝と小林よしのりが、北海道出身の西部邁とタッグを組んでいたのが目についた。おまけに、この3人は同じ主義主張を持つはずの西尾幹二(東京出身)とあまり仲が良くなかったのも「ああやっぱり」という感じである。困ったモンだ。

 さて、本稿で主題として扱う『日本基督教婦人矯風会』(以下矯風会)だが、実は彼女らも九州の「過激な」活動家によって作り上げられた、いわば、九州言論人、活動家コネクションを代表する団体の一つだったりする。創立者の名前は矢島楫子(本名は勝子)。一八三三年、肥後藩=現在の熊本県で生を受けた。兄の名前は矢島直方という。

 矢島直方の名前を聞いてぴんと来た人は、かなりの近代日本史マニアだろう。そう、彼は横井小楠が開いた私塾「小楠堂」の塾生だった。横井は肥後藩を代表する、明治維新を彩った著名人物の一人である。坂本龍馬や吉田松陰らとも親交があり、維新後は岩倉具視の相談役として活躍した。

 ただし、この人物は酒癖が非常に悪く、たびたび問題を起こしていたために出遅れて、ついに主流となれぬまま明治2年に暗殺されてしまう。小楠に限らず当時の明治政府関係者には酒乱が多かった。黒田清隆に至っては、酒乱が原因で妻を殺害した疑惑をもたれている。これは、重要な議題を酒席で決める風習が武士階級の間にあった(今でも日本にはこの悪習が存在する)ために、多少酒癖が悪くても黙認されるというなあなあ体質がもたらしたもので、矯風会の活動に大きな影響を及ぼしている。

 話を元に戻すが、矢島直方には五人の妹がいた。それぞれの名前を、順子、久子、つせ子、勝子、さだ子という。まるでどこかの妹ばかり出てくるアニメの設定のようだ。同時に直方には小楠堂で知り合った仲間も何人かいた。小楠の一番弟子だった徳富一敬や竹崎茶堂などである。

 ここから先もアニメのような話なのだが、横井、徳富、竹崎は、それぞれ直方の妹と結婚してしまう。横井は後妻として三女のつせ子を迎え、徳富は次女の久子を、竹崎は長女の順子を娶ったのである。これで小楠塾を縦軸に、矢島家の娘を横軸にした熊本系の閥が完成する。そして、このファミリーは後に様々な教育家、社会事業家、言論人を世に送り出していくのである。

 まず、竹崎茶堂と順子は地元で塾を開き、女子教育にその生涯を捧げることになる。特に順子は一九八九年に熊本女学院(現・フェイス女学院)を設立してしまうのだから、たいしたものだ。彼女の地道な努力は現在でも熊本県に影響を与えており、同県は全国でも女性総合職の占める割合が四位という高い比率を示している。

 徳富一敬と久子は本人達こそあまり著名な人物ではないが、子供達がそろって優れていた。長女初子は楫子と並んで廃娼、禁酒運動に活躍した人物だが、日本初の男女共学校として知られる熊本洋学校に学んだ経歴を持つ。この熊本洋学校こそ、日本におけるキリスト教史上重要な『熊本バンド事件』が発生した舞台である。

 熊本バンドとは、熊本洋学校の教師だった米国人、L.L.ジェーンズが生徒に(プロテスタントの)聖書教育を行った際に発生した宗教的な連帯(バンド)で、明治維新前後に発生した同様の横浜バンド、札幌バンド(ここで「ああ、やっぱり」と呟きましょう)と並んで、明治維新後のプロテスタント布教活動に影響を及ぼした、三大バンドの一つと目されている。

 この熊本バンドのメンバーが、何をトチ狂ったか花岡山に登って祈祷会を開き、「優れたキリストの教えによって、日本を救ってやるのだ」とぶちあげたのだからたまらない。今と違ってキリスト教を禁止していた江戸時代は、ついこの間の話なのだ。当然の事ながら、この祈祷会は大問題となり、洋学校は廃校に追い込まれ、参加者はジェーンズのつてを辿って新設されたばかりの同志社大学へと移籍する羽目になる。

 余談になるが、この熊本バンド事件をきっかけに同志社大学へと移籍したメンバーの多くが、後に日本が朝鮮出兵をした際に同地でキリスト教伝道に従事することで、日本キリスト教史に拭いがたい汚点を残している(ここでは「困ったモンだ」と呟きましょう)。

 上記の『熊本バンド事件』に連座した人物の中には、初子の弟で長男の徳富蘇峰もいた。日本近代史に疎い人でも、さすがに蘇峰の名前は知っているだろう。「国民之友」や「国民新聞」を創刊した戦前言論界の重鎮である。その活動初期は自由民権運動を支持していたが、有名なってからは内務省勅任参事官に就任してしまい、変節漢のそしりを受けて読者の信用を失った挙げ句に、戦後にはA級戦犯扱いされてしまった九州言論人の典型とも言える経歴の持ち主だ(ここは「ああ、やっぱり」と呟く箇所です)。

 この蘇峰の弟が作家として有名な徳富蘆花である。戦前の日本文学史上『金色夜叉』と並んで好評を博した恋愛小説、『不如帰』を著した人物だ。今で言うなら、村上龍や村上春樹クラスか、それ以上の影響力を持った作家だったのだ。何せ、兄貴の新聞の売り上げが、弟の小説が載っているかどうかで上下したというのだから凄すぎる。

 本稿の主人公である矢島楫子は、血縁上彼らの伯母ということになる。彼女は活動家としては遅咲きの存在だった。その原因は彼女の最初の夫にあった。楫子の夫は典型的な酒乱で、彼女を長きに渡って苦しめ続けたのだ。結局、結婚後一〇年で当時としては珍しい離婚に踏み切ったのだが、女性が家長や夫の所有物扱いであった当時の事情を考えると、よほどどうしようもない駄目男だったのだろう。

 姉の元に身を寄せた楫子は、四十にして上京を決意。この際に、「大きな船を動かすのは楫(かじ)だ」と本名の勝子から楫子へと改名する。

 上京後の楫子は教員伝習所(主に小学校教員を速成するために設けられた機関で、後に多くが大学や教育大学になっている)を卒業し、小学校教員となった。彼女は教育者としては熱心かつ優秀な人物だったらしく、数年後には新栄女学校(旧B六番女学校)教員に転職、最終的には桜井女学校校長まで上り詰める。この桜井女学校が新栄女学校と合併して出来たのが今の女子学院で、この学校の初代院長も楫子が務めている。推薦人は女子教育に熱心だった、マリア・ツルーという宣教師だった。

 しかし、職業上の順風満帆とは裏腹に、楫子の私生活は心労の連続だった。何と彼女は妻子ある男性と恋愛関係に陥ってしまったのである(いわゆる、不倫というやつですね)。おまけに、その男性の子供を身ごもってしまい、出産にまで至っている(ここは「避妊しろよ」と突っ込みを入れる部分です)。

 また、桜井女学校がミッションスクールであったにも関わらず、楫子本人はキリスト教を信仰していなかった。加えて彼女は大の愛煙家で、人前でもスパスパと長煙管を吹かしていたものだから、文字通り周囲から煙たがられていた。

 そんな楫子に転機をもたらしたのは、女子寮の当直と大好きな煙草だった。寝ぼけていたのか、彼女は当直中に煙草を消し忘れ、女子寮に火災を起こしてしまうのである。厳罰は免れないと考えた楫子は、自分を取り立ててくれたツルーに平謝りに謝った。しかし、ツルーは楫子を怒るどころか彼女の前に両手をついて、「悪いのは祈りの足らなかった私の方です」泣いて謝罪する。

 この一件で強いショックを受けた楫子は禁煙を決意し、同時に教会を訪れる。そこで行われていた説教は姦淫の罪を犯した女性をキリストが赦すという内容で、自己の不倫体験と重ね合わせた彼女はその場で泣き出してしまうのだ(ここは「ああ、やっぱり」と呟く箇所です)。

 こうして、2度の宗教的な体験を経た楫子は一八七九年に正式なキリスト教徒となる………と、ここまで読んでいただいた方は既にお解りかと思われるが、私はこの人物が大嫌いなのである。

 誤解の無いように釘を刺しておくが、私は楫子が火災を発生させてしまったり、不倫をしたことに対して嫌悪感を示しているのではない。人間は完璧でないのだから、誰にでも過ちはあるし、倫理的に問題のある行動に走ることもある。

 だからこそ、人間は自分がミスをした時の為にリカバーする方策を立てておくべきだし、倫理的に問題のある行動をとった時の為に、自己決定能力を磨いておく必要があるのだが、楫子はツルーから赦されたり説教を受けるまで、そうした術をほとんど行使していないのである。

 これが、まだ社会的な経験に欠ける一〇代、二〇代の若者であるなら、「仕方ないな」とも思えるが(それでも仕方ないというレベルの話であって、本来は駄目である)、当時の楫子は四〇代という立派な大人なのだ。どうして、ここまで幼児性が色濃く残っているのか理解に苦しむし、このような問題人格の持ち主が教職、それも校長という重責に就いてた事に対しては、マリア・ツルーを含む学校関係者の見識も疑わざるを得ない。

 しかし、彼女の無邪気さや一度思いこんだら「とことんまでやる」という態度が、周囲からは「情熱的」、「魅力的」と思われていたのもまた事実である。特に宗教の世界では、情熱に裏打ちされた徹底性は美徳の一種であると受け取られることが多い。その意味において楫子は確かに希有な人物であったし、彼女を校長に推薦したツルーも、教育者よりもむしろ宗教家としての素質を、人選に際して重視したのではないかというフシが随所に見られるのである。おそらく、宣教師だったツルーにとって、教育と宗教は不可分の存在だったのだろう。困ったモンだ。

 とにもかくにも、洗礼を受けた後の楫子の性格に、ほとんど変化は見られなかった。いや、むしろキリスト教から信徒という「お墨付き」を貰ったことで、水を得た魚のように活き活きとし始める。

 矯風会設立後の楫子が教育者として行った有名な改革に、女子学院の校則廃止がある。彼女は生徒達に、「あなた方は聖書持っています。だから校則などなくとも、自分で善悪を判断できます」と宣言して、全ての校則を廃止してしまったのだ。また、楫子は校則廃止に続いて、試験の監督官制度も廃止してしまう。心に(キリスト教によって培われた)モラルがあるのなら、カンニングの防止を外部から強制する必要はないはずだ、というのがその理由だった。

 これら一連の措置は、マリア・ツルーの賛同を得て実施された。私はこの2つの改革に、二人の宗教観と教育観が集約されていると考える。一見すると、彼女達の改革は生徒の自主性を重んじたものに思えるが、実際には聖書という倫理モデルの模倣を彼女達に強要しているのだ。最大の問題は言うまでもなく、倫理的な強要を本人達が全く自覚していない点にある。この無自覚さが矯風会にもきっちりと受け継がれ、後に様々な問題を発生させるのである。

 倫理観の押しつけが何故に駄目なのかに関しては、理解できない人間が多いと思われるので、詳細な解説を加えたいと思う。何故なら、今でも日本にはきちんとした倫理観さえ確立されれば素晴らしい社会が出来る、と本気で信じている単細胞が少なからず存在するからだ。

 倫理とは善悪(美醜)の規範を説いた価値体系である。質の高いものは善く、美しく、正しいものであり、質の低いものは悪く、醜く、誤っているという前提がなければ倫理は成り立たない。

 それでは、成分検査が可能な物質とは異なる、実体のない倫理という価値観は、一体何をもって妥当であるとすべきなのだろうか? その根拠は二つある。

 一つは「優れたもの(善いもの)は優れた人(善き人)にしか分からない」という考え方である。骨董の目利き、あるいは美食家がそうであるように、膨大な知識量や経験の持ち主、あるいは優れた頭脳の持ち主であれば、善いことや悪いことを、たちどころに判断することが出来るだろうという推測が、その背景に存在する。

 従って、全ての人間が善悪の規範を作れるわけではなく、優れた少数の人間(選民)が作った価値観を、多数の無知蒙昧な人間(衆愚)が模倣することで倫理が成立するはずだ、というのが前者の考える倫理観の在り方である。こうした価値体系(あるいは近しい価値体系)を唱えた思想家として、性悪論の荀子やルサンチマンを発見したニーチェなどが挙げられる。

 もう一つの考え方としては、「善悪の規範を判断する能力は、人間であれば誰にでも産まれながらに備わっているものである」という考え方である。たとえば、世の中の大多数の人間は殺人や窃盗を「悪い行いである」と判断することが出来る。同時に、そうした行いをしてしまった人間は、「道を外れた」存在(外道)であり、彼らを正しい方向に導くことで更正することが可能である、とも考えられる。

 従って、全ての人間が自然体になりさえすれば自動的に倫理が成立するはずだ、というのが後者の考える倫理観の在り方である。この倫理観の在り方を敷衍していけば、数多くの人々が自然体で「正しい」と思ったことが「正しい」事となる。こうした価値体系(あるいは近しい価値体系)を唱えた思想家として、性善説の孟子などが挙げられる。

 ご覧のように、二つの根拠は真っ向から対立するし、どちらにもそれなりの説得力があるように思われる。ところが、この二つの根拠を子細に眺めると、双方共に質(価値観)について語っているようで、実は量(人数の多少)についてしか語っていない事に気づかれるはずである。

 前者の選民的な考え方は、「価値観を作れる優れた人間は少数しか存在しない」という前提がなければ成立しない。つまり、少数≒質である。一方後者の考え方は、「人間は産まれた時から善悪を判断する能力が備わっているが、道を外れると悪いことをしてしまう」という前提がなければ成立しない。つまり、多数≒ 質である。

 以上のように、質の優劣(美醜、善悪)を語っているようで、実は量の多少しか語っていない思想をまとめて『質量転倒』=アトミズムと呼ぶ。アトムとはギリシャ語で分割不能を意味する単語であり、ここでは「質と量を分けて考えられない知恵遅れの思想」といったような意味で用いられる。

 アトミズムの信奉者は、数の多少が質の優劣や善悪に直結すると考える。たとえば、的中確率の高い推論(量)は優れている(質)、宝くじの当選などの低い確率をモノにできる人間(量)は運が良い(質)、賛同者が多い提案(量)は素晴らしい(質)、少数の人間しか理解できない難解な概念(量)は高尚である(質)、などがその典型であるが、旧来の倫理体系もその中に含まれる。アトミズムの信奉者は、質と量を分けて議論を展開させることを嫌悪する傾向がある。自分の信奉する(あるいは自らが打ち立てた)価値体系の前提が突き崩されてしまうからだ。

 旧来の倫理的な価値体系(を含むアトミックな理論全般)はすべからく質量転倒の問題に突き当たって破綻する。数が少ない人間が優れた価値体系を有しているとは限らないし、みんながそうだと思っているからといって、その判断が正しいとは限らないからだ。当たり前の話である。

 現代社会において倫理(を含むアトミックな理論全般)が軽視されるのは、道を誤った人間が増えたからでもなければ、衆愚が増えたからでもない。倫理(を含むアトミックな理論全般)の根拠が不適当でしかない為に、もはや馬鹿馬鹿しくて真面目に取り扱う必要性を誰も感じ無くなってしまっただけの話である。それは、反倫理的ともいえるニーチェの思想についても同様で、こんなことを本気で信じていると生きた化石扱いされるのが関の山だ。

 余談になるが、人権及びに性の問題を扱い始めると、必ず人権や性行動を倫理問題と勘違いするアフォが、賛成派、反対派を問わず多数現れて私を驚かせる。おそらく、未だに人権や性行為が倫理観と密接に結びついていると誤解されている、日本特有の社会環境によるものなのだろうが、正直言って勘弁して欲しい。人権は本質的に倫理、それも宗教的倫理とは対立する概念(反倫理ではない。念のため)だし、性行為は基本的にプライバシーの範疇に属する以上、人権として保護されるべき対象であり、同様の理由から倫理とは対立する(反倫理ではない。念のため)。

 まあ、こんな当たり前のことをかみ砕いて説明しなければならない状況でなければ、児ポ法がらみで矯風会を母胎とするエクパット東京のような時代遅れの団体につけ込まれる隙は発生しなかったわけで、日本ではこの2つの概念に対する理解度が未だに低いということなのだろう。なお、こうした理解度の低さを日本文化独自の現象と捉え、他国と比較して劣位であると断定する論調に不快感を示す人間も存在するが、カソリックやイスラム教が強い諸外国でも同様の社会現象が発生しているので、これをジャパン・オリジナルとして扱うのには無理がある、という点も強調しておきたい。日本人が無宗教だという定説は嘘だね。単に宗教的儀式が統一されていないだけだ。