dej@Wiki オリジナル短編小説:『Welcome to Vancouver!』


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Welcome to Vancouver!(2004年2月3日)
 

  待ち合わせの午後1時30分。トムはまだロビーに姿を見せていない。ガラス張りのドア越しに中の様子を伺うと、奥の方でコンシェルジュが退屈そうに外を見 ている。こちらも数分遅れてしまったので、それはそれで少しほっとしたのは事実だが、肌寒い小雨の中で待ちぼうけを食らうのは勘弁してもらいたい。

  彼の住まいはホテルと住居を兼ねた建物にあり、入り口はセキュリティ用の鍵がかかっている。このままではロビーに入れない。そうだ、部屋の番号を書いた紙 を持参したはずだ。そう思い出しながらポケットの中を手で探り、メモを取り出す。自分だけがかろうじて数字と分かる程のなぐり書きは、くしゃくしゃになっ た紙の上で今にも風化しそうだ。

 入り口に設置されたの画面に向かってトムの部屋番号を押そうとしたその時、背の高い男がドアを開けて出てきた。一瞬互いの視線がぶつかり、そしてすぐにそのほつれが切れていく。……確か、もっと精悍な顔つきだったはずだ。

 だが、そんないい加減な記憶は、いつも外れる。彼は横を少し通りすぎてから思い出したように振り返り、「はるき?」と声をかけてきた。先ほどの仏頂面からは想像も出来ないほどの優しげな笑顔だ。「トム?」こちらも負けじと聞き返し、すぐに互いの手を合わせた。

 「しばらく振り」「本当、しばらく振りだね」

 簡単な言葉を交わす僅かな時間の間に、二人の足は動き出していた。左に曲がれば、そこはコーヒーショップなのだが、トムは躊躇することなく右に折れた。━━どこに行くつもりだろうか。

  「仕事の調子はどう?」と、話しベタな人間が口を開けば出てくる数少ない言葉で早速会話を始めてみた。どうも喋るのは苦手だ。「いいよ、とても。すごくい い。まだまだ良くなりそうだし」と、トムはさらりと答えた。「そりゃ良かった」と頷くと、もう会話が続かなくなってしまった。まったく、先が思いやられ る。

 「この先に新しくカフェが出来たんだ。結構大きいから、ちょっと行ってみよう」と、トムはようやく行き先を教えてく れた。同じ地元の人間なのに、そんな店のことは全然知らなかった。でもまあ、少しくらいの雨の中を歩くのも、そんなに悪くはない。新しい店というのは、誰 でも少しは行ってみたいと思うものだし、とにかく覗いてみよう。別にこじつける訳でもないのだが、そんな風に思いながら足早のトムに遅れないよう急いだ。

  近くまで来ると、その店の入っているビルの明かりが付いていないことに気付いた。トムは「オフィスビルに入っているから、今日はやってないかも知れない な」と、まるで他人事のように言い放った。行き先も言わずにさっさと歩き出し、こちらの返事も聞かずにその店を選んだのはどこのどいつだ。まったく、そう いうことは先にチェックしておいて欲しい。けれど、それがカナダ人の良さなのかも知れない。早く言えば、あまり気を使わないのだ。つまり、こちらも気を使 う必要はない。北米の生活で一番の良さは、そういうところだと思う。人の目を気にしない。人がどう思うかなど、考えたこともない。良く言えば、とても大ら かなのだ。あくまで、良く言えばだが。

 案の定そこは、薄暗く誰もいなくなった一塊の洞窟のように静まり返っていた。高い 天井だけが息苦しさから解放してくれるようなその店を横目に、トムは歩く速度を緩めないまま、また行き先を告げずに先を急ぐ。だが、次の行き先の目星はつ いている。2年前に初めて会った時、2時間近くを過ごした別のコーヒーショップだ。ダウンタウン唯一のモールに繋がる大きなオープンスペース。そこに、カ ナダ人にはなくてはならないドーナツ屋と共に嗅覚を刺激するコーヒーの臭いを漂わせ、その店は二人を向かい入れた。ドアを開け中に入ると、足早に歩いたせ いもあって身体が少し火照った。

 コーヒーを頼むと、トムは紅茶を手にしながら先に席に着いていた。彼は2年前も紅茶を飲んでいた。その時はグリーンティーだったが、きっと今日も同じだろう。自分が決めたコーヒーショップに入り、自慢のコーヒーには目もくれずに緑茶をすするトム。不思議な男だ。

  席に着くと、まず支払いの小切手を渡してくれた。いつもは郵便で送ってくれるのだが、今回は久し振りに会って、その時手渡すからと言われていたのだ。つま りトムは客である。こちらがトムの気まぐれに付き合わなければならないのも、実はそこに理由がある。お客様は神様である。機嫌を損ねることだけは絶対に出 来ない。いつの世でも、どこの世界でも、これは同じである。

 こちらも小切手の領収証を手渡し、仕事の様子や今後の展望などをそれとなく聞いてみる。他意はない。ただ、話をつなげたいだけだ。あとは世間話で時間をつぶす。話しベタな人間としては、これでも精一杯のもてなしをしているつもりだった。

 1時間ものらりくらりと喋っていただろうか。トムが身体をかがめて、どこか奥の方を覗きこんだ。つられてその方向を見てみるが、特に変わった様子はない。不思議な顔をしていると、トムが少し間を空けて口を開いた。「どうやらスリがいるようだ」

  2年前にここでトムと会った時も、カモを物色するようにただうろうろと歩き回っているやつがいた。その男はどうやら私の真後ろの席に座ったようで、トムが すかさず「カバンに気をつけろ」と鋭い口調で言ったのを覚えている。その時カモにされようとしていたのは、何と自分だったのだ。あの時も、トムは話しをし ながら辺りの様子を逐一観察していた。

 すぐにその時のことを思い出し、もう一度彼の視線の先を見ると、ひょろっとした体格でよれよれの赤いジャンパーを着た若い男が、背中合わせに座っている初老の男の上着に手をかけていた。その男の視線は、辺りを伺うように忙しく動いている。

  男の腕は、静かにゆっくりと伸びて行く。身体を僅かにかがめ、イスの脚に沿って右手を垂らし、少しずつ少しずつ肩を落としていく。相変わらず目はきょろ きょろと辺りを見回しているものの、首から上が硬直して、指先に全神経を注いでいるのが手に取るように分かる。だが、まったく躊躇する様子は見られない。 ぎこちなさはあるが、常習犯だろう。頭の中でそんなことを考えつつ、自分の鼓動がいつの間にか大きくなっていることに気付いた。こちらも首が硬直してきそ うだ。すると男は、ふと手首を曲げて上着のポケットに手を入れた!

 トムがすかさず立ち上がる。こちらも遅れずに立ち上が り、その男の元へ駆け寄る。トムが男の手を掴み、それを視界の中で見届けながら、「財布を取られましたよ」と初老の男に声をかける。まさに一瞬の出来事 だった。まったく他の事は目に入らなかった。恐らく数秒のことだったろう。しかしその一方で、やけに時間が長く感じられた。

  驚いた老人はすぐに上着のポケットを確認すると、財布が無事であることに安堵の色を見せた。だが、目を大きく開いた表情はそのままだ。同時に手を掴まれた 若い男は、余計な事をしてくれたという感じでトムの手を振り解き、小走りに逃げて行く。二言、三言、何か喚いていたが、はっきりとした言葉ではかなった。 逃げる男を、トムは追わなかった。男も、歯向かうことも、否定することも、そして走り出すこともなくその場を去っていく。少し離れた上りのエスカレーター に乗りながら、男はようやく恨めしそうにこちらを睨みつけた。しかしその目には、怒りではなく怯えが浮かんでいたように思う。

 「どうもありがとう。助かったよ」

  良く見ると、センスのいい大学教授のような感じの初老の男は、大した事はないさという感じで礼を述べた。いや、あまりの急な展開に、それしか言葉が出な かったのかも知れない。事実、向いに座っていたやはり初老の連れは、ただひたすらに目を丸くしているだけだ。ぽかんとした口も情けなく開いていた。こちら もそうだが、かなり驚いたようだ。

 未遂に終ったものの、スリの現場を見るのは初めてだった。この街はスリや窃盗が多いと散々聞かされてきたが、まさか目の前で起きるとは思わなかった。席に戻ると、少し興奮してしまったのか、コーヒーを持つ手がかすかに震えてしまった。

 「Welcome to Vancouver!」

 トムが笑って言った。「これがバンクーバーさ。以前、家内が狙われてね。その時から、こういう所では特に気をつけているんだ」

  何か気の利いた返事をしたかったが、あははと笑い、頷くことしか出来なかった。日中の人ごみの中、あれだけおおっぴらにスリをする方も大したものだが、狙 われる方は無用心極まりないと、冷静になるにつれ思い始めた。他人事ではない。自分も気を付けなければ。ジーンズのポケットに手をやり、財布を確かめなが らそう自分に言い聞かせた。

 コーヒーショップの中は、まるで何事もなかったように活気を取り戻していた。ふと見ると、老人達の頭上には監視カメラが仕掛けられている。すべては見られていたことになる。スリも未遂で終ったことに感謝すべきだろう。そうでなければ、確実に捕まっていたはずだ。

  スリなど、この街ではよくあることだ。誰も気にしない。初老の二人連れも、テーブルの上に広げたノートにペンを当てながら、すっかり先ほどの事を忘れてし まったように話し込んでいる。やはり、ここは海外か…。住みなれてしまったがためにすっかり緊張感を失ってしまっていたが、それを久し振りに思い出すこと が出来た。そしていつか、この街に新しくやってきた人達に自分がこの言葉を誰かに言う日がくるのだろうか━━

  「Welcome to Vancouver!」