響きblog
神は死んだ。でも宇宙は在る。
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匿名ユーザー
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- 神は死んだ。でも宇宙は在る。
という事実から始めてみることにする。と言っても宗教とか哲学の問題じゃなくて、「宇宙がある」ということを現象学的に扱うとどうなるかということです。つまり「宇宙が在る」ということを「現象」として捉えたらどうなるかと。
- この世はなぜ法界でなく色界なのか(仏教用語スマソ)
という疑問もある。事実から始めるとしたら、「この世はある。あの世はない。」「この世はあの世ではない。」というところかな。その含みを入れれば「この世は、他でもないこの世である」と言っていいな。
「声字実相義ノート」より抜粋
更には音に限らず総ての感覚の対象をも考える。例えば目で物を識別するというのは、つまり物 と物との差異を判別するということである。視覚像は、差異の集合体であると言ってもよい。則ち 五感は物の差異を感得する器管であるという見方も出来よう。物質には様々な差異がある。その差 異ある姿から意味を見出そうとする時、差異の具合がまさに「文」となる。ところで仏の四身―― 法身、報身、応化身、等流身にはそれぞれの世界がある。従って衆生がどの境涯に居るかによって、 感覚に触れるものは異なってくる。この相違は、当然そこから読み取られるべき「文字」の差を生 むだろう。この違いは、実に人の業縁による。
差異があるとはどういうことかを問うのは、何故この世が均一でないか を問うのと等しいからだ。仏教流に言い換えれば、この浮世は何故法界とならずに色界であるのか、 ということである。
いやしかし空海という人は何とも大スケールなことで悩んだもんですな。このノートの筆者さんも何だかスゴイ。
南無大師遍照金剛。
「差異がある」ということは大げさに言えばエントロピーがまだ小さいってことだから、熱力学にも関係するってことだな。これは言い換えると
- 時間は現在進行中である
ということかな。説明は省くけど、何かが「ある」ということと「時間が経過して行ってる」というのは表裏一体なので、これは単なる言い換えになってるのかもしれない。
(続く)
(続く)
コメント
- 今がある、時間が流れている、というのも「現象」として捉えるのが正しいと思ってます。 -- あらた (2009-10-26 21:17:04)