JFK暗殺事件 製作中

嘘つき列伝

最終更新:

匿名ユーザー

- view
管理者のみ編集可

疑惑の証人

ケネディ暗殺事件では、定期的にセンセーショナルな証言を行う新証人や、ジャーナリストが登場して世間を騒がせるが、やがて偽者である事が判明して、消えていく。 しかし、その後も、彼らの証言だけが検証される事もなく、繰り返し引用される場合も多いので注意が必要である。


ノーマン・サイミラス

サイミラスはカナダ・オンタリオ在住の、飲料業界紙の記者である。 彼は、1963年11月19日~21日までダラスで開催された、業界団体のカンファレンスに出席するため、ダラスに滞在していた。 彼の証言によると、事件前日、ジャック・ルビーの経営するクラブ、「カルーセル」に仲間と訪れ、ジャック・ルビーから大統領のパレードをデイリープラザで観る事を薦められたという。  事件直後、彼はカナダの新聞社に電話し、自分は暗殺を間近で目撃し、事件の瞬間を撮影したと話した。 その後、カナダの複数の新聞社、ラジオ局のインタビューを受け、暗殺時の模様を詳細に語った。 サイミラスは、その後、シカゴ経由でカナダに帰国する際、彼の証言の重要性を認識したAP通信社から、写真提供の要請を受け、まだ未現像の写真をAP通信シカゴ支局に提供した。  現像されたフィルムは、ほとんどがカンファレンスのもので、パレードを撮影したフィルムは、そのうち2,3枚で、ブレた車の前部と後部が写っていたという。 AP通信は、ニュース価値がほとんど無い判断し、彼の記事と写真が掲載される事は無かった。 また、写真が撮影された場所もデイリープラザでは無いと思われた。 しかし、事件後しばらくして、カナダで複数の雑誌のインタビューに応じ、サイミラスは、自分が撮影したフィルムには、暗殺の瞬間のテキサス教科書倉庫ビルの6階が写っており、そこには2人の人影と、ライフルが写っていると話した。 この衝撃的な記事はカナダの雑誌に掲載されたが、写真は今は手元に無いとし、度重なる写真提供の要請に応じず、写真が一緒に掲載される事はなかった。 彼の証言の重要性を認識したFBIは、カナダの警察当局に捜査協力を依頼し、証言を取ったが、結局、信頼に足る証拠と写真が提供される事はなかった。 


1988年テレビ番組に出演するゴードン・アーノルド

ゴードン・アーノルド

事件から15年、1978年ダラス・モーニングニュースに衝撃的なインタビュー記事が掲載された。 ダラス在住の元陸軍兵士、ゴードンアーノルドが、暗殺事件当日にグラシノールで暗殺者にフィルムを奪われたと証言したのだ。 彼の証言によると、事件当日の1963年11月22日、彼は母親から借りた8ミリカメラを持って大統領のパレードの撮影に出かけた。 最初、グラシノールの木のフェンスに行ったところ、シークレットサービスか、CIAの身分証明書を持った男に、向こうに行くように言われた。 仕方なく木のフェンスから手前のコンクリートの壁の付近で撮影することにした。 大統領のパレードが近づいてくると、突然、自分の真後ろから発砲音がして、左耳の真横を銃弾がかすめていった。 彼は驚いて地面に伏せた。  その直後、ダラス市警の警官の服装をした男が2名彼の横にやってきて、一人は拳銃を片手にし、もう一人はライフルを持っており、彼を蹴り上げると、フィルムをよこすように要求した。 彼はカメラを差し出したが、母親から借りたものなので、カメラを返すように要求すると、2名の警官の服装をした男は、フィルムだけ抜き取りカメラを返した。 その翌日、彼は陸軍のアラスカの基地に転勤になり、この事実を長らく第3者に話すことはなかった。 彼の姿はモーマン写真を拡大すると写っているとの説もあるが、大変不鮮明な影である。 彼の直ぐ隣にいたはずの、ザプルーダと、秘書のシッツマンは、彼の姿を目撃していない。 また、当日、デイリープラザで撮影された、数百枚に上る写真にも1枚もゴードン・アーノルドの姿は撮影されていない。 さらに、事件直後のグラシノールには、多くの人間が駆け上ったにもかかわらず、ライフルを構えた犯人にフィルムを抜く時間はあったとは思えない等の理由から、かれの証言の信用度は極めて低いとされた。 


エド・ホフマン

エド・ホフマンは聾唖者で、口がきけなかった。 事件から4年後の1967年、彼はFBIに事件当日に不審な男を目撃したと証言した。 その証言によると暗殺事件当日、彼は職場に向かう途中、ステモンスフリーウェーで、大統領のパレードがあるのを思い出し、路肩に車を止めると、大統領のパレードの到着を待った。 彼が居た場所は、グラシノールから西側の線路を挟んだ場所で、そこから、事件直後にテキサス教科書倉庫ビルの裏側から2人の不審な男が走り去るのを目撃したと語った。 FBIが検証したところ、ホフマンのいた場所からは、塀が邪魔になってテキサス教科書倉庫の裏側が見えないことがわかった。 さらに、彼が居た場所のすぐ近くには3名のダラス市警の警官が警備の為、配置されていたが、誰一人として彼を目撃した者はいなかったため信憑性に乏しいとされた。 ところが、1970年代の後半に、さらにバージョンアップした話を、今度はマスコミ向けに発表した。 それによると、彼は事件直後にグラシノールの駐車場からライフルを持った男が歩いてきて、別の男にライフルを渡すと、それを分解して、車で持ち去るのを目撃したと話した。 その目撃談を近くの警官に知らせようとしたが、口がきけないので誰も気づいてくれなかったとした。 多くの研究家が彼の証言を検証したところ、当日の鉄道操車場には、長い貨車が止まっており、彼の主張どおりの視線をさえぎる事が明らかになった。 また、グラシノールの裏手の駐車場は、すぐに野次馬で一杯になったため、銃を分解する時間など無かったこともわかった。


ビバリー・オリバー

ビバリー・オリバーは、ジャック・ルビーが経営していたクラブ「カルーセル」の歌手で、事件当日、デイリープラザにたバブーショカレディは自分であると証言した。 彼女の証言によると、当日、デイリープラザで、ケネディ大統領が暗殺される瞬間を、8ミリカメラで撮影したものの、事件の2日後にやってきたFBIか、CIAのエージェントにフィルムを渡してから返してもらっていないと話した。  また、彼女は、カルーセルで、よくジャック・ルビーと、オズワルドが会っており、オズワルドはCIAの要員だったと衝撃的な証言を行った。  ところが、彼女の証言を詳細に分析していくと、すぐに様々な矛盾が噴出した。 まず、彼女が撮影したとする8ミリカメラは、日本製のヤシカ・スーパー8で、米国での発売は1965年だった。 また、彼女がオズワルドとジャックルビーが会っていたとされる日時は、カルーセルで働いていない事も明らかになり、それ以外の様々な矛盾により彼女の証言全体の信憑性が問われる事になった。


続く

目安箱バナー