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オズワルド

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リー・ハーヴィー・オズワルド (Lee Harvey Oswald)

1939年10月18日生まれ、1963年11月24日没

リー・ハーヴィー・オズワルドは、ウォーレン委員会と、下院暗殺特別調査委員会の2回の公式調査において、ケネディ大統領と、ダラス市警ティペット巡査の殺害事件の犯人と断定された人物である。 暗殺事件の2日後、テキサス州の拘置所に移送途中に、ダラスのクラブ経営者、ジャック・ルビーに射殺された。 

幼年期から海兵隊時代

(左からロバート、リー、ジョン・ピック)

オズワルドは、ルイジアナ州スリデルで生まれた。 彼が誕生した時、彼の父、エドワード・リー・オズワルドは既に亡くなっていた。 母親のマルガリータ・クラベリーは、彼を2人の兄弟(兄のロバート、腹違いの兄、ジョン・ピック)と共に育てた。 一家は、転居を繰返す生活スタイルで、オズワルドが18歳になるまでに、主にニューオリンズやダラス近辺で、22回の引越しと12回の転校を繰返した。 子供の頃のオズワルドは、内向的で気性の激しい性格だった。 彼は14歳の時、兄のジョン・ピックが沿岸警備隊に入隊し、ニューヨークに一家で移動した際、義理の妹(ピックの妹)をナイフで脅し、その義理の母を顔を殴りつけた事もあった。 その時、オズワルドを診察した精神科医、レナウス・ハートは、”受動的攻撃性と、分裂症の傾向”があると語った。 こうしたオズワルドの性格は、ニューヨーク滞在中に改善を見せたため、母親は1954年2月にニューオリンズにリーと共に戻る決心をした。 その後、彼は学校でマーチングバンド部に所属したが、卒業証書を受け取る前に、海兵隊に入隊する事になった。 彼は、生涯を通じて、文章を論理的に書く能力に著しく欠けており、後年、彼の日記や手紙などの分析から、難読症状者の疑いが指摘されている。 また彼は15歳の頃から、熱狂的なマルクス主義者であることが、判明している。


兄のロバートの影響を強く受けていたリーは、マルクス主義者にもかかわらず海兵隊に入隊した。 これには、彼を威圧的に支配してきた母から逃れる目的も強かったと推察されている。 彼の入隊は1956年10月、17歳の誕生日の1週間後であった。 海兵隊ではレーダー員としての訓練を受け、カリフォルニア州のエルトロ基地に配属後、日本の厚木基地に転勤となった。 当時、冷戦下の厚木基地は、U2偵察機の作戦基地として、主にソビエトの偵察任務を行っていたが、オズワルドがこうした任務に直接関わっていた証拠は残っていない。オズワルドにとっての海兵隊暮らしは、快適では無かった。 他の隊員に比べて、小さく、虚弱だったオズワルドは、アニメキャラから名をとった”オージーラビット”と呼ばれてからかわれた。 海兵隊の中でも親ソビエトを公言して憚らなかった彼は、オズワルドビッチとも呼ばれた。 この頃、米国の左翼誌である"Worker"に掲載された記事を通じて、海兵隊側も彼の思想信条を把握していた。 彼がこの間、彼は2度に渡って軍法会議に掛けられた。 最初は、許可されていない銃を持ち込み、誤って肘を負傷した為で、2度目は、自分の受けた罰が不服で上官の軍曹に殴りかかったものである。 その後、フィリピンに駐留した際に、理由もなくジャングルに向けて銃を発射する騒ぎを起こしたが、この時は軍法会議に掛けられる事なかったものの、彼の軍でのキャリア事実上終わりとなった。

ソビエト亡命

1959年10月、彼のソビエト旅行は事前に入念な準備の下で行われた。 学生ビザを得るために、複数の海外の大学に偽の申し込み書類を送り、海兵隊の予備役を回避しつつ、フランス、イギリス、フィンランドへのパッケージツアーを利用して、最終的にソビエトに入国した。入国後、すぐにモスクワのアメリカ大使館を訪れ、アメリカ市民権の返上を告げると、ソビエト政府に対して、亡命を申し出た。 しかし、ソビエト政府は、彼の海兵隊時代の勤務記録を、あまり評価せず亡命と、ソビエトへの居住を拒否した。 そのため、失望したオズワルドは、ホテルの浴室で左手首を切って自殺を試みた。 ソビエト政府は、同様の騒ぎを再び起こされることを恐れて、KGBの反対を押し切る形で、政治的な判断の元でオズワルドのソビエト滞在を認める事になった。 オズワルドはモスクワ大学への入学を希望したが、すぐにミンスクに送られた。 当時のミンスクは、外国人の立ち入り制限区域であったため、外国のメディアとの接触を避け、当局の監視下に置くには好都合であったと考えられる。 ミンスクで、オズワルドは巨大なゴリゾント電器工場で旋盤工の仕事を与えられた。 工場では狩猟クラブに属し、工場の同僚達と狩猟に出かける事が多かった。 ソビエト連邦崩壊後に一般の目に触れる事になった、当時のKGBの文書によると、オズワルドがミンスクに滞在していた13ヶ月間の間、KGBは彼を監視対象下に置き、詳細な活動報告書を作成している。オズワルドのKGBでのファイル番号は31451、コードネームはレノイ、ロシア語で、”口が達者な奴”の意味だった。

それらの報告書によると、当初は米国のスパイと疑われていたが、やがて彼が純粋な共産主義信仰者のアメリカの若者である事が明らかになっていった事が判明している。  しかし、ソビエト生活が長引くにつれ、その官僚的な体制や退屈な生活、モスクワ大学への入学失敗などの不満が徐々にオズワルドに蓄積されていった。  また、この頃、同僚の女性にプロポーズをするものの拒絶される経験も味わっている。 1961年、オズワルドはダンスパーティで、後の妻となる19歳のマリナ・アレクサンドリアに出会い1ヶ月もしないうちに結婚した。。 マリナの両親はレニングラードに住んでいたが、マリナは薬剤師の学校に通うために、ミンスクの親戚の家に下宿していた。 

後年の調査で、当時のオズワルドを知るロシア人の証言が数多く明らかになってきている。 それによると、オズワルドは、怠け者で、工場労働者として質は低かった。  オズワルドのアパートの1階上の住人によると、オズワルドは、妻マリナに対して、家事や、料理の不出来を罵り、暴力が絶えなかったという。 彼は酒も煙草もやらず、唯一の楽しみが甘い物を食べることだったので、周囲のロシア人からは奇異の目で見られており、彼と付き合った事のある女性は、彼のことを”口うるさく、どケチだった。”と称した。

フルシチョフ暗殺未遂事件(?)

近年発見されたKGBの報告書によると1961年12月、オズワルドは自宅でパイプ爆弾を製造した。 これは工場から持ち帰ったパイプに、狩猟用に所持していたショットガンの火薬を詰めたもので、1991年にインタビューに応じたオズワルドの当時の友人、エリック・ティトベッツも、これを裏付ける証言をしている。(KGBの情報公開の前である) 当時ミンスクでは翌年1月に迫ったフルシチョフのミンスクのリゾート訪問を控えており、KGBは、爆弾製造は訪問に向けた暗殺の準備作業ではなかったかと疑っていた。(1962年2月にフルシチョフの暗殺未遂事件に関しては、KGBはまだ情報を公開していない)、これと同時期の1961年12月25日、オズワルドはソビエト政府に対して、出国ビザの申請を行い、受理されている。 しかし、今度は米国政府が、オズワルドと妻のマリナの入国を渋った。 そのため、さらなる書類処理のため、米国の入国許可を得るまでに6ヶ月もの期間がかかった。

ダラス・フォートワース

1962年6月、米国に帰国したオズワルドは、ダラス・フォートワース地区に住居を見つけた。 まず最初に彼は、ソビエト時代の生活を文章にまとめようと試みたが、文章力の無さからすぐにあきらめた。 オズワルドが妻に英語を教える事を拒絶していたため、妻のマリナは全く英語が喋れず、なかなか米国での生活に馴染む事ができなかった。 さらに、この頃にはオズワルドによる家庭内暴力も激しさを増していた。 しばらくすると、オズワルドは、ダラス市内の金属加工会社に溶接工の見習いとして就職したものの、いつもの怠け癖が出て、3ヶ月で首になった。 その後、印刷加工会社に、印刷工の見習いとして職を得たオズワルドは、時間を見つけては、職場の印刷機器を使って様々な、偽造身分証明書を作る事に勤しんだ。 しかし、勤務態度が悪く、上司の評判はすこぶる悪かった。 職場で殴りあいの喧嘩をした事などもあり、6ヶ月間の試用期間後は、契約を更新する事なく、またも無職の身となった。

オズワルドの自宅から見つかったウォーカーの自宅の写真

ウォーカー将軍暗殺未遂事件

ウォーカー将軍は、人種隔離政策と、反共主義者の急先鋒だった。 1961年、西ドイツ駐留の第24歩兵師団長だった際に、極右的な言動が問題視されて、ケネディより師団長を解任され、自ら辞職して故郷のテキサスに戻っていた。ウォーカーは1962年のテキサス州知事選に、6人の民主党の候補として残ったが、ジョン・コナリーに敗れた。 その後、右翼系の地元紙に記事を書くなどしていた1963年2月頃、オズワルドは、ウォーカー将軍の身辺調査を行っていた。 有名な裏庭の写真を撮影したのと、同じカメラを使って、ダラス市内のウォーカー将軍の自宅を撮影した写真がオズワルドの自宅より見つかっている。 偽造したアレックス・ハイデル名義の身分証明書を使って、ライフル銃を購入したのも同時期である。 印刷会社を解雇された10日後、妻のマリナに、自らが逮捕された場合の、身の振り方を記したロシア語の手紙を妻の渡していた。 1963年4月10日水曜日の夜、ダイニングルームの椅子に座っていたウォーカーに向かって、約30メートルの距離から、ライフルを発射した。 銃弾はウォーカーを捕らえていたが、幸いにも窓枠に当たったため、直撃せず、手のひらに銃弾の破片が当たって負傷した。 後年のマリナの証言では、オズワルドはこの時、暗殺計画を記述した計画書をバスタブで燃やすなどして証拠隠滅を図ったという。 マリナは、夫の奇行に悩み、ロシア語で自分宛に書かれた手紙は、再び同様の事件を起こしそうな場合は、警察に持ち込むつもりで、ロシア語の分厚い書籍の間に手紙を隠した。 当時、捜査を担当したダラス市警は、全く容疑者を絞り込む事ができなかった。 この時、発見された銃弾の破片からは、有効な線条痕を取ることが出来なかった。

ニューオリンズ

ウォーカー将軍の暗殺に失敗したオズワルドは、その2週間後の1963年4月25日、逃げるようにダラスからニューオリンズへ転居した。 ここで、彼はコーヒーの製造会社に職を見つけるが、またしても職務怠慢で、2週間で解雇されてしまう。 この頃、オズワルドと、妻のマリナはワシントンのソビエト大使館宛てに、再びソビエトで生活したいとの要望書を送っている。 一方で、マルクス主義者としての理想の対象をソビエトから、キューバのカストロへと転換し始めたのも、この時期であると推察されている。  オズワルドは、この頃、全国組織のカストロの支援団体である「キューバ公平委員会( Fair Play for Cuba Committiee)に加わり、通りに立って、チラシ配りを始めた。 この年の8月9日、チラシを配っていたオズワルドは、反カストロ主義者と取っ組み合いの喧嘩になり、全員がニューオリンズ警察に逮捕され、一晩拘留された。 この事件の裁判の模様は  

※編集追記中

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