「トップページ」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

トップページ」(2006/05/20 (土) 22:53:38) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

#ref(warren.jpg) **ケネディ暗殺事件 単独犯行説 vs 陰謀説の歴史 91年に公開されたオリバーストーン監督の映画「JFK」は第3次ケネディ暗殺ブームを巻き起こした。 米国のテレビ局ABCが2003年の暗殺40周年に実施した世論調査では、ケネディ暗殺事件が陰謀であったとする人の数は実に70%に達した。 一方で、米国の主要なメディアは、陰謀説に対しての取り扱いは冷淡であり、基本的には単独犯行説の支持を貫いている。 また、本事件の直接の被害者であるケネディ家や、当時のケネディに近い側近達は、陰謀説に基づき再調査の依頼を主張した事はない。 さらに米国の司法当局や法曹界も、ほぼ一貫して単独犯行説を支持している。 この温度差は、いかにして生じているのか? 陰謀史観(コンスピラシー・セオリー)的な考え方では、メディアも法曹界も、FBIも、ダラス市警も、目撃者も、全てCIAの陰謀と繋がっている事になるが、それは安易な発想である。  実際には90年代以降に加速した情報公開と、近年の鑑識技術、コンピュータによる解析技術の進化で、ウォーレン報告書のかなりの部分は、正確であったことが立証されつつある。 すなわち陰謀論の多くは幻だったわけである。(これもCIAによる証拠隠滅工作の結果であると考えるのは、完全なコンスピラシー・セオリーである) 一方で、陰謀が全く無かったとする説も逆接的には極論である。 トンキン湾事件、松本サリン事件等、当初の通説とは異なり実際に陰謀が存在する場合もある。 本HPではこのグレー部分を最大限取り除く目的で、ケネディ暗殺学の最新の動向を提供する事を目的とする。 **ウォーレン委員会 ケネディ暗殺事件直後の1963年11月25日、テキサス州の検事総長ヴァゴナー・カールは、暗殺事件の捜査は、公開裁判形式で、FBIの協力の下、テキサス州にて行いたい旨を、ジョンソン大統領に申し入れた。 テキサス州出身のジョンソンもこの方法に同意し、事態が進むかに見えたが、議会から横槍が入った。 仮に、結果がソビエトや、キューバの陰謀による国家元首殺害事件だった場合、戦争に突入する可能性も否定できなかったのである。 そのため調査は、連邦政府管轄で行うものとし、ウォーレン最高裁判所長官の下で、上院、下院、政府から任命された委員が事件の捜査を行う、いわゆる「ウォーレン委員会」が組織された。  この最初の会合は事件から2週間後の1963年12月5日に開催され、1964年6月30日までに報告書を取りまとめるように期限が設けられた。 FBIからは25000ページにも及ぶ膨大な報告書も提供され、本格的な調査が開始された。 しかし、調査の決定的な証拠であった検視写真とX線写真については、ケネディ家より正式に提供を拒否された。 最重要証拠を利用できなくなった事で、困った委員会は、ロバートケネディ司法長官の裁量で、委員長のウォーレンと ランキン委員の2名だけに、検視写真と、X線写真の閲覧を許した。 この出来事が後に大きな混乱を生じさせる原因となった。 委員会は、この時の閲覧を元に不確かな図を元に事件捜査に重要な、弾道を特定しなければならなかったのである。 また、調査も実質的にFBIの調査を追従する形で行われた。 さらにFBIやCIAは全ての情報を開示していない可能性も当初から指摘されていた。 このため、結論を出す過程で、最も紛糾したのは、一発の銃弾による、ケネディとコナリーの負傷だった。(魔法の銃弾説)、不確かな図からは、1964年当時、この説を立証できる技術的なバックグラウンドができなかったのである。 しかし、結果的に、委員会が取りまとめた結論は、オズワルドによる単独犯行、発砲は3発、組織的な背景は無いと結論付けた。 しかし、オズワルドが射殺された事件は、口封じではないのかと当初から陰謀を噂されていた。 **陰謀説の起源 当初、ウォーレン報告は、短い期間でまとめられ、周囲から絶賛された。 個人研究家が、細部での矛盾を指摘することもあったが、単独犯行説が揺らぐ事は無かった。 初期の段階で、陰謀説を提起し、政府を攻撃しようと試みたのは、主に米国における左翼勢力だった。 最初に出版された1965年発行の”Who killedKennedy?”は、ヨーロッパ在住の共産主義者の米国人、トーマス・ブキャナンによるものであった。  1966年に出版されたマークレーン(後の「ダラスの熱い日」の作者)の”Rush to thejudgement”(急ぎすぎた判決)は、初めて陰謀説の本としてはベストセラーとなった。 マーク・レーンは筋金入りの左翼で、いわゆる人権派弁護士だった。 彼は、もともとウォーレン委員会に対してオズワルドの弁護をさせるように要求して、却下された経験を持っていた。  マーク・レーンは、法廷では主に、刑事被告人の弁護を専門とする敏腕弁護士で、その被告人を無罪にするための手法をフルに使って、ウォーレン報告書の矛盾を突いた。 魔法の弾丸、グラシノールの目撃者、3発発砲説の矛盾等の、ケネディ暗殺事件における主要な問題点は、このときに、そのほとんどが構築されている。   マーク・レーンの本がベストセラーになったことを受けて、これ以降、米国の出版会では、ケネディ暗殺物が大ブレークする。  続く &counter() &counter(today)
#ref(warren.jpg) **ケネディ暗殺事件 単独犯行説 vs 陰謀説の歴史 91年に公開されたオリバーストーン監督の映画「JFK」は第3次ケネディ暗殺ブームを巻き起こした。 米国のテレビ局ABCが2003年の暗殺40周年に実施した世論調査では、ケネディ暗殺事件が陰謀であったとする人の数は実に70%に達した。 一方で、米国の主要なメディアは、陰謀説に対しての取り扱いは冷淡であり、基本的には単独犯行説の支持を貫いている。 また、本事件の直接の被害者であるケネディ家や、当時のケネディに近い側近達は、陰謀説に基づき再調査の依頼を主張した事はない。 さらに米国の司法当局や法曹界も、ほぼ一貫して単独犯行説を支持している。 この温度差は、いかにして生じているのか? 陰謀史観(コンスピラシー・セオリー)的な考え方では、メディアも法曹界も、FBIも、ダラス市警も、目撃者も、全てCIAの陰謀と繋がっている事になるが、それは安易な発想である。  実際には90年代以降に加速した情報公開と、近年の鑑識技術、コンピュータによる解析技術の進化で、ウォーレン報告書のかなりの部分は、正確であったことが立証されつつある。 すなわち陰謀論の多くは幻だったわけである。(これもCIAによる証拠隠滅工作の結果であると考えるのは、完全なコンスピラシー・セオリーである) 一方で、陰謀が全く無かったとする説も逆接的には極論である。 トンキン湾事件、松本サリン事件等、当初の通説とは異なり実際に陰謀が存在する場合もある。 本HPではこのグレー部分を最大限取り除く目的で、ケネディ暗殺学の最新の動向を提供する事を目的とする。 **ウォーレン委員会 ケネディ暗殺事件直後の1963年11月25日、テキサス州の検事総長ヴァゴナー・カールは、暗殺事件の捜査は、公開裁判形式で、FBIの協力の下、テキサス州にて行いたい旨を、ジョンソン大統領に申し入れた。 テキサス州出身のジョンソンもこの方法に同意し、事態が進むかに見えたが、議会から横槍が入った。 仮に、結果がソビエトや、キューバの陰謀による国家元首殺害事件だった場合、戦争に突入する可能性も否定できなかったのである。 そのため調査は、連邦政府管轄で行うものとし、ウォーレン最高裁判所長官の下で、上院、下院、政府から任命された委員が事件の捜査を行う、いわゆる「ウォーレン委員会」が組織された。  この最初の会合は事件から2週間後の1963年12月5日に開催され、1964年6月30日までに報告書を取りまとめるように期限が設けられた。 FBIからは25000ページにも及ぶ膨大な報告書も提供され、本格的な調査が開始された。 しかし、調査の決定的な証拠であった検視写真とX線写真については、ケネディ家より正式に提供を拒否された。 最重要証拠を利用できなくなった事で、困った委員会は、ロバートケネディ司法長官の裁量で、委員長のウォーレンと ランキン委員の2名だけに、検視写真と、X線写真の閲覧を許した。 この出来事が後に大きな混乱を生じさせる原因となった。 委員会は、この時の閲覧を元に不確かな図を元に事件捜査に重要な、弾道を特定しなければならなかったのである。 また、調査も実質的にFBIの調査を追従する形で行われた。 さらにFBIやCIAは全ての情報を開示していない可能性も当初から指摘されていた。 このため、結論を出す過程で、最も紛糾したのは、一発の銃弾による、ケネディとコナリーの負傷だった。(魔法の銃弾説)、不確かな図からは、1964年当時、この説を立証できる技術的なバックグラウンドができなかったのである。 しかし、結果的に、委員会が取りまとめた結論は、オズワルドによる単独犯行、発砲は3発、組織的な背景は無いと結論付けた。  **陰謀説の起源 もともと、オズワルドが射殺された事件は、何らかの口封じではないかと噂されていたものの、当初、ウォーレン報告は、短い期間でまとめられ、周囲からは絶賛された。 個人研究家が、細部での矛盾を指摘することもあったが、単独犯行説が揺らぐ事は無かった。 初期の段階で、陰謀説を提起し、政府を攻撃しようと試みたのは、主に米国における左翼勢力だった。 最初に出版された1965年発行の”Who killedKennedy?”は、ヨーロッパ在住の共産主義者の米国人、トーマス・ブキャナンによるものであった。  1966年に出版されたマークレーン(後の「ダラスの熱い日」の作者)の”Rush to thejudgement”(急ぎすぎた判決)は、初めて陰謀説の本としてはベストセラーとなった。 マーク・レーンは筋金入りの左翼で、いわゆる人権派弁護士だった。 彼は、もともとウォーレン委員会に対してオズワルドの弁護をさせるように要求して、却下された経験を持っていた。  マーク・レーンは、法廷では主に、刑事被告人の弁護を専門とする敏腕弁護士で、その被告人を無罪にするための手法をフルに使って、ウォーレン報告書の矛盾を突いた。 魔法の弾丸、グラシノールの目撃者、3発発砲説の矛盾等の、ケネディ暗殺事件における主要な問題点は、このときに、そのほとんどが構築されている。   マーク・レーンの本がベストセラーになったことを受けて、これ以降、米国の出版会では、ケネディ暗殺物が大ブレークする。  続く &counter() &counter(today)

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
目安箱バナー