どうして数学を勉強するのでしょうか。
私は大学の経済学部の教員なのですが、経済学という学問は数理的な側面が強いにもかかわらず、高校や中学の公民の経済分野はその部分をごまかしているため、入学時点でほとんどの学生は数学をする必要性を感じていません。数学が苦手だからということが経済学部を選んだ理由の上位にはいるような状態です。
しかし、これらの学生が素直で、十分に「意欲的」であれば、数学を勉強することを説得するのは簡単です。経済学を勉強する理由を聞くとほとんど学生は要するに「お金儲けにつながるから」といいます。ここにつけこむのです。「あなたはお金を儲けるためには、世の中の経済法則を知る必要がある。その経済法則は非常に数学的なものだから、経済法則の理解のためには、数学を勉強する必要がある。」これを聞いて、素直でなおかつ、欲深な学生は数学の勉強に邁進するでしょう。世の中でいう数学を勉強する理由づけのほとんどは、基本的に上と同じもののようになると思います。たとえば、エンジニアになりたい学生には「あなたは物を設計するためには、物理法則を理解する必要がある。その物理法則は非常に数学的なものだから、物理法則の理解のためには、数学を勉強する必要がある」と工学部の教師はいうでしょう。さらに一般化すれば、「何かを為すためには、その法則を理解する必要がある。その法則は非常に数学的なものだから、数学を勉強する必要がある」となります。
しかし、ほとんどの場合、教員は学生の動機づけに失敗します。教師のかなりの部分は「もっと目標をしっかりもちなさい」といって学生がもっと欲深になることをすすめたり、「数学の必要性がわかってない」となげいたりします。でも、私はこの件に関しては教師より学生の方が分があるのでは感じています。学生の多くは、おそらく、ワンパターンの動機付けのいかがわしさを感じているのではないでしょうか。
「何かを為すためには、その法則を理解する必要がある。その法則は非常に数学的なものなら、数学を勉強する必要がある」というのは正しいと思います。にもかかわらず、数学そのものでない他の何かを目標に数学を勉強をはじめることは、ほとんどが失敗するように感じています。
抽象化していえば、何かを為すために数学の勉強をはじめるというのは、支配力をえることを動機として、数学を勉強するということです。数学の勉強、あるいは法則性の理解ということと、支配力への欲求というのはそぐわないように感じます。
たとえば、経済学者が、円高になったとき、貿易黒字が増えるか減るかといった分析をするとします。経済学の論文を書くとき、ほとんどの人間はその論文が発表されたときの評価を気にします。この分析の場合、一番高い評価がえられるのは、ある数字が増えたとき、ほかの数字がかならず増えるとか、必ず減るといった結果が得られることです。それができなければ、○○という条件があれば、必ず増えるとか、減るとかという結果です。しかし、しばしば、膨大な計算をしたすえに、なんかよくわからんときに、増えるときもあれば、減るときもあるという結果しか得られないことがあります。こういう結果は、まず評価されることがありません。こうなりそうだという時、膨大な努力が水のあわになるかもしれませんので、私のようなへたれた人間は「たのむから、符号(プラス、マイナス)がはっきりしてくれ、♪符号、符号、符号がでてほしーい(小林明子の「あなた、あなた、あなたにいてほしーい」のメロディで)」という馬鹿な精神状態になります。こうなったら、もう分析どころではありません。
また、公務員試験などのために経済学や数学を勉強する学生は、科目自体への興味がなければ、あきらかに、受験への意欲と内容の理解は反比例するようです。経済学や数学の理解がない学生が試験を受かろうとすると、ようするに、試験問題の出題パターンの丸暗記になります。経済学の数学は一部では工学部の学生でも知らないような数学も使われますが、中学や高校の受験勉強にくらべても、素直な数学の使われ方をしているのがほとんどで(というか、入試の数学が変すぎなのですが)、教科書を理解していれば、ほぼ、記憶力の助けを借りずに解ける問題がほとんどです。ところが、それを記憶力だけで処理せざるをえない学生は点数がのびません。
数的法則の理解のないところで訓練や計算ばかりしても、基礎的応用ですらままなりません。そして、数的法則の理解のためには、冷静さが必要で、支配力への欲求から数学をはじめるとき、あるいは、理解の途上で支配力の欲求にとらわれてしまうとき、数的な法則性への理解から人々はそれてしまうように思います。
まとめると、世の中の多くの現象は数学的法則にのっとており、それを支配するには数学の理解が必要になるというのは本当です。しかし、支配力の欲求から数学を勉強はじめるとき、ほとんどの人は数学勉強に失敗します。
以上のことから、ひとついえることは、数学自体を楽しんだ経験はのちに数学が必要になったときに役に立つだろうということです。数学自体が楽しみであれば、それに取り組むとき、過剰に支配力の欲求に振り回されることは少なくなりそうです。
では、そういう経験がもてなかった人はどのように数学を勉強をはじめればよいのでしょうか。これには私は答えるだけの経験も知識もありません。だけども、逆説的ですが、「何か支配したい」という動機から出発して、失敗することが、本当に数学を勉強をはじめる出発点になりえると思います。たとえ支配したいというどろどろとした願望から出発したとしても、それの達成の途中では、冷静さを必要とすることを、何度も失敗すれば人は学ばざるをえないでしょう。そこで、「ああ、自分には数学は無理だ」とあきらめる人もいれば、支配力から独立した冷静さを身につける必要性を感じ、そのためにもう一度数学に取り組む人もいるでしょう。それが数学の勉強につながるかどうかにせよ、こうした経験から得たものは、数学におとらず重要なもののように思えます。
このような失敗が意味のある勉強につながるのだとすれば、親や教員に必要なのは、一度の失敗で学生や子どもの能力を判断しないだけの余裕と忍耐力のように思います。
そして、ここでは詳しく説明できませんが、個々人が数学をする場合、たよりになるのは、数的な現象についてのイメージです。支配力への欲求があるとき、数的現象への理解が遠のくのは、イメージと欲望が頭の中で同じ場所に位置を占めれないからかもしれません。そして、このイメージの中身は個人差があります。数的な現象自体はきわめて客観的なものですが、それを個人が認識するためには極めて個人的なイメージの力を借りるのです。経済学をしていると、数学的には同じ定義の対象を他人がまったく違ったイメージでとらえていて、まったく違うアプローチで処理していることにおどろかされることがよくあります。そのイメージは個々人の数だけあるのですから、対象は客観的なものであるにもかかわらず、個々人の数だけ数学があるといえます。その意味で数学を必要とする人は自分の数学を大切にすべきですし、教師や大人も個人の数学を大切にする態度が必要だと思います。
しかし、これらの学生が素直で、十分に「意欲的」であれば、数学を勉強することを説得するのは簡単です。経済学を勉強する理由を聞くとほとんど学生は要するに「お金儲けにつながるから」といいます。ここにつけこむのです。「あなたはお金を儲けるためには、世の中の経済法則を知る必要がある。その経済法則は非常に数学的なものだから、経済法則の理解のためには、数学を勉強する必要がある。」これを聞いて、素直でなおかつ、欲深な学生は数学の勉強に邁進するでしょう。世の中でいう数学を勉強する理由づけのほとんどは、基本的に上と同じもののようになると思います。たとえば、エンジニアになりたい学生には「あなたは物を設計するためには、物理法則を理解する必要がある。その物理法則は非常に数学的なものだから、物理法則の理解のためには、数学を勉強する必要がある」と工学部の教師はいうでしょう。さらに一般化すれば、「何かを為すためには、その法則を理解する必要がある。その法則は非常に数学的なものだから、数学を勉強する必要がある」となります。
しかし、ほとんどの場合、教員は学生の動機づけに失敗します。教師のかなりの部分は「もっと目標をしっかりもちなさい」といって学生がもっと欲深になることをすすめたり、「数学の必要性がわかってない」となげいたりします。でも、私はこの件に関しては教師より学生の方が分があるのでは感じています。学生の多くは、おそらく、ワンパターンの動機付けのいかがわしさを感じているのではないでしょうか。
「何かを為すためには、その法則を理解する必要がある。その法則は非常に数学的なものなら、数学を勉強する必要がある」というのは正しいと思います。にもかかわらず、数学そのものでない他の何かを目標に数学を勉強をはじめることは、ほとんどが失敗するように感じています。
抽象化していえば、何かを為すために数学の勉強をはじめるというのは、支配力をえることを動機として、数学を勉強するということです。数学の勉強、あるいは法則性の理解ということと、支配力への欲求というのはそぐわないように感じます。
たとえば、経済学者が、円高になったとき、貿易黒字が増えるか減るかといった分析をするとします。経済学の論文を書くとき、ほとんどの人間はその論文が発表されたときの評価を気にします。この分析の場合、一番高い評価がえられるのは、ある数字が増えたとき、ほかの数字がかならず増えるとか、必ず減るといった結果が得られることです。それができなければ、○○という条件があれば、必ず増えるとか、減るとかという結果です。しかし、しばしば、膨大な計算をしたすえに、なんかよくわからんときに、増えるときもあれば、減るときもあるという結果しか得られないことがあります。こういう結果は、まず評価されることがありません。こうなりそうだという時、膨大な努力が水のあわになるかもしれませんので、私のようなへたれた人間は「たのむから、符号(プラス、マイナス)がはっきりしてくれ、♪符号、符号、符号がでてほしーい(小林明子の「あなた、あなた、あなたにいてほしーい」のメロディで)」という馬鹿な精神状態になります。こうなったら、もう分析どころではありません。
また、公務員試験などのために経済学や数学を勉強する学生は、科目自体への興味がなければ、あきらかに、受験への意欲と内容の理解は反比例するようです。経済学や数学の理解がない学生が試験を受かろうとすると、ようするに、試験問題の出題パターンの丸暗記になります。経済学の数学は一部では工学部の学生でも知らないような数学も使われますが、中学や高校の受験勉強にくらべても、素直な数学の使われ方をしているのがほとんどで(というか、入試の数学が変すぎなのですが)、教科書を理解していれば、ほぼ、記憶力の助けを借りずに解ける問題がほとんどです。ところが、それを記憶力だけで処理せざるをえない学生は点数がのびません。
数的法則の理解のないところで訓練や計算ばかりしても、基礎的応用ですらままなりません。そして、数的法則の理解のためには、冷静さが必要で、支配力への欲求から数学をはじめるとき、あるいは、理解の途上で支配力の欲求にとらわれてしまうとき、数的な法則性への理解から人々はそれてしまうように思います。
まとめると、世の中の多くの現象は数学的法則にのっとており、それを支配するには数学の理解が必要になるというのは本当です。しかし、支配力の欲求から数学を勉強はじめるとき、ほとんどの人は数学勉強に失敗します。
以上のことから、ひとついえることは、数学自体を楽しんだ経験はのちに数学が必要になったときに役に立つだろうということです。数学自体が楽しみであれば、それに取り組むとき、過剰に支配力の欲求に振り回されることは少なくなりそうです。
では、そういう経験がもてなかった人はどのように数学を勉強をはじめればよいのでしょうか。これには私は答えるだけの経験も知識もありません。だけども、逆説的ですが、「何か支配したい」という動機から出発して、失敗することが、本当に数学を勉強をはじめる出発点になりえると思います。たとえ支配したいというどろどろとした願望から出発したとしても、それの達成の途中では、冷静さを必要とすることを、何度も失敗すれば人は学ばざるをえないでしょう。そこで、「ああ、自分には数学は無理だ」とあきらめる人もいれば、支配力から独立した冷静さを身につける必要性を感じ、そのためにもう一度数学に取り組む人もいるでしょう。それが数学の勉強につながるかどうかにせよ、こうした経験から得たものは、数学におとらず重要なもののように思えます。
このような失敗が意味のある勉強につながるのだとすれば、親や教員に必要なのは、一度の失敗で学生や子どもの能力を判断しないだけの余裕と忍耐力のように思います。
そして、ここでは詳しく説明できませんが、個々人が数学をする場合、たよりになるのは、数的な現象についてのイメージです。支配力への欲求があるとき、数的現象への理解が遠のくのは、イメージと欲望が頭の中で同じ場所に位置を占めれないからかもしれません。そして、このイメージの中身は個人差があります。数的な現象自体はきわめて客観的なものですが、それを個人が認識するためには極めて個人的なイメージの力を借りるのです。経済学をしていると、数学的には同じ定義の対象を他人がまったく違ったイメージでとらえていて、まったく違うアプローチで処理していることにおどろかされることがよくあります。そのイメージは個々人の数だけあるのですから、対象は客観的なものであるにもかかわらず、個々人の数だけ数学があるといえます。その意味で数学を必要とする人は自分の数学を大切にすべきですし、教師や大人も個人の数学を大切にする態度が必要だと思います。
<謝辞>
この文章にまとめた考えは十和田のシュタイナー教育体験講座で、増渕智さんの数学の講座を2年つづけて受けたことに触発されました。
2004年の夏、増渕さんにプラトン立体を粘土でつくる講座を受けました。そのとき、自分が数学をいじっているときの「あてになるもの」にたよっているときと「あてにならないもの」にたよっているときの感覚の違いに気がつきました。それから、経済学の仕事や学生に数学や経済学を教えるとき、自分のなかで「あてになるもの」によっているのか、「あてにならないもの」によっているのかを気にしながらすごしてきました。
2005年の夏に増渕さんの講座をもう一度受けたときに、増渕さんがある受講生の方にこたえて、数学を勉強する理由は「世界の法則性を知ること」と答えたのを聞いて、強い違和感を感じました。このことは正しいのにもかかわらず、このことを聞いたときにほとんどの人のなかでおこることは「あてにならない」ものの暴走のように思えたのです。それ以来、ここに書いたようなことをぼんやりと考えてきました。増渕さんに感謝いたします。
この文章にまとめた考えは十和田のシュタイナー教育体験講座で、増渕智さんの数学の講座を2年つづけて受けたことに触発されました。
2004年の夏、増渕さんにプラトン立体を粘土でつくる講座を受けました。そのとき、自分が数学をいじっているときの「あてになるもの」にたよっているときと「あてにならないもの」にたよっているときの感覚の違いに気がつきました。それから、経済学の仕事や学生に数学や経済学を教えるとき、自分のなかで「あてになるもの」によっているのか、「あてにならないもの」によっているのかを気にしながらすごしてきました。
2005年の夏に増渕さんの講座をもう一度受けたときに、増渕さんがある受講生の方にこたえて、数学を勉強する理由は「世界の法則性を知ること」と答えたのを聞いて、強い違和感を感じました。このことは正しいのにもかかわらず、このことを聞いたときにほとんどの人のなかでおこることは「あてにならない」ものの暴走のように思えたのです。それ以来、ここに書いたようなことをぼんやりと考えてきました。増渕さんに感謝いたします。