「人生いかに生きるべきか」「幸福とは何ぞや」についてのとても深刻な論考
石田清二
石田清二
今回、私は何も書かないつもりだったのですが、原稿があまり集まらず、また藤井さんの原稿を読んでいて、猛烈に書きたくなったことが出てきたので、書くことにします。
藤井さんの原稿で、外国でのゆとりのある豊かな生活が描かれています。私も、アメリカへ行って、そこでのゆったりとした豊かな生活を体験しました。そして、「なぜ、日本人はこんなふうに生きられないのだろうか?」と思いました。日本に戻ってからもそれを考え続けました。
理由はいろいろあるのでしょう。しかし、一つの理由は間違いなく、経済力の格差から来ていると思われます。おカネを得る競争による貧富の格差が今や世界規模で進んでいて、持てる国と持てない国の格差は広がる一方のようです。ワーキングプアとよばれる人たちのことが話題になっていますが、国全体がワーキングプアである国がたくさんあるのです。一方で豊かな国は豊かです。先ほど「外国でのゆったりとした豊かな生活」と書きましたが、実はこれは世界全体から見ると、ほんの一握りの国のことでしかありません。つまり、欧米のいくつかの国だけがそれにあてはまるのです。これらの国がなぜ豊かなのか、それは少し歴史や経済のことを勉強すればわかります。帝国主義で外国から搾取したからです。アメリカなどは今でもより巧妙な帝国主義によって、合法的に外国から搾取しています。私はインドにも行ったことがあり、インドの人々がどれほど貧しい、希望のない生活をしているか、知っています。イギリスがインドを植民地にして、搾り取れるだけ搾り取ったからなのです。インドはその後遺症からまだ立ち直れていません。完全に立ち直るのは永遠に無理かもしれません。アジアやアフリカ、そしてラテンアメリカの多くの国々が今、恐ろしく巧妙な方法により、一部の先進国(その中には日本も入ります)の食い物にされています。彼らはここ数十年の間にもどんどん貧しくなっているようです。
これに気付くと、「外国でのゆったりとした豊かな生活」への憧れはなくなるでしょう。他の人々の犠牲の上になりたつそんな生活を楽しいなんて思えなくなるはずです。そもそも「楽しい」というのはいったい、どういうことなのか?他の人が苦しんでいる中で、自分ひとりだけ楽しむなんてことが果たしてできることなのでしょうか?もしできるとしたら、その人は見えるものを完全にシャットアウトして、違うものを見ているのです。それはそれで大した集中力ですが、ここでわかるのは「楽しむ」ということが自分以外の何かとのつながりの上に成り立つということです。楽しいイメージすら、自分以外の何かですから。そして、この点において洞察を徹底させれば、他者の苦しみをなくすことが自分の喜びにつながるということが明瞭になってくるはずです。
すると次に「人々が苦しむのは何が原因なのか。そして、この問題を解決するには私たちはどうすればいいのか」を追求することになるでしょう。しかし、同時に私たちは自分の生活をなりたたせなければなりません。ボランティアをするにも自分で自分の生活を成り立たせた上でのことでなければ変なことになるでしょう。
ところが、今の社会で、世界への罪悪を何も犯さずに生活をなりたたせるということ自体が非常に困難になっていることに私たちは気付くでしょう。例えば異様に安いスーパーへ買い物に行くこと自体が低賃金長時間労働の広がりに手を貸すことになるのです。さらにそういう安いものは環境への負荷をかけずに生産することは無理です。つまり、環境破壊にも手を貸すことになるのです。「いかに生きるべきか」それは本当に難しい問題です。
さらに、ワーキングプアに代表されるように、多くの人は生活するのがやっとです。余裕がないのです。「いかに生きるべきか、だって?それどころじゃないよ!どうやったら生きられるか、を教えてもらいたいくらいだよ!」という声が返ってくるでしょう。
社会のしくみを変えなければならないのは明らかです。といっても、私は革命がいいとは全然思いませんし、政府が良かれと思うものを上から押し付けるのがいいとも全く思いません。右翼も左翼も権力によって何かをしようとする点で同じです。
社会のしくみをどう変えるかについて何か言えるほどの見識を私はもっていませんが、私がわかるのはおカネという魔物に幻惑されてはならないということ、そして、一人一人がもっと自立しなければならない、ということです。自立するということは状況に流されず、洞察力をもって意識的に生きるということです。そのためには心に余裕がなくてはなりません。余裕なんかないよ、という声が聞こえそうですが、余裕がなければ私たちは自分たちの状況をますます悪くする愚行を必ず犯してしまうのです。ですから、心に余裕(冷静さ)を持つことは最優先課題なのです。おそらくは経済的安定以上に。そうして、やはり前述したように「こうなったのは何が原因なのか。どうすればそれを解決することができるのか」という難問に常に取り組みながら生きなければならないのだと思います。
そして、ここにまた別の困難な点があります。それは「何をなすべきか」について、自分の外からくる押し付けがこの国では異常に多いということです。学校でも、社会でもその押し付けがあまりに多いので、それを自分で考えるという余裕を作れる人が少ないのです。しかし、この余裕を「作らなければなりません」。そのためにそういった押し付けに対して、必要に応じて「ノー」と言えることも大事です。
これが出来るためには内的に強くなることが必須です。自分が頼るべきものは自分で自分の中に用意しなければならないのです。「安らぎ」というものも自分で自分に用意しなければなりません。それができると幸福を他者に依存することもなくなるでしょう。そして自分が洞察したことのよって自分で目的を設定し、その目的を達成することが幸福であるといえるようになるでしょう。こういうと、自己満足のようですが、事実、それは他者に理解してもらう必要もないのです。それが「他者が幸福になることに寄与する」という中身を持つものであっても。
何だか小難しいことを言っているようですが、子どもたちが何十年後かに感謝してくれるようなことを今からやることが、そして彼らの負債になるようなものを何も残さないことが私の目標であり、幸福です、と言っているのです。
藤井さんの原稿で、外国でのゆとりのある豊かな生活が描かれています。私も、アメリカへ行って、そこでのゆったりとした豊かな生活を体験しました。そして、「なぜ、日本人はこんなふうに生きられないのだろうか?」と思いました。日本に戻ってからもそれを考え続けました。
理由はいろいろあるのでしょう。しかし、一つの理由は間違いなく、経済力の格差から来ていると思われます。おカネを得る競争による貧富の格差が今や世界規模で進んでいて、持てる国と持てない国の格差は広がる一方のようです。ワーキングプアとよばれる人たちのことが話題になっていますが、国全体がワーキングプアである国がたくさんあるのです。一方で豊かな国は豊かです。先ほど「外国でのゆったりとした豊かな生活」と書きましたが、実はこれは世界全体から見ると、ほんの一握りの国のことでしかありません。つまり、欧米のいくつかの国だけがそれにあてはまるのです。これらの国がなぜ豊かなのか、それは少し歴史や経済のことを勉強すればわかります。帝国主義で外国から搾取したからです。アメリカなどは今でもより巧妙な帝国主義によって、合法的に外国から搾取しています。私はインドにも行ったことがあり、インドの人々がどれほど貧しい、希望のない生活をしているか、知っています。イギリスがインドを植民地にして、搾り取れるだけ搾り取ったからなのです。インドはその後遺症からまだ立ち直れていません。完全に立ち直るのは永遠に無理かもしれません。アジアやアフリカ、そしてラテンアメリカの多くの国々が今、恐ろしく巧妙な方法により、一部の先進国(その中には日本も入ります)の食い物にされています。彼らはここ数十年の間にもどんどん貧しくなっているようです。
これに気付くと、「外国でのゆったりとした豊かな生活」への憧れはなくなるでしょう。他の人々の犠牲の上になりたつそんな生活を楽しいなんて思えなくなるはずです。そもそも「楽しい」というのはいったい、どういうことなのか?他の人が苦しんでいる中で、自分ひとりだけ楽しむなんてことが果たしてできることなのでしょうか?もしできるとしたら、その人は見えるものを完全にシャットアウトして、違うものを見ているのです。それはそれで大した集中力ですが、ここでわかるのは「楽しむ」ということが自分以外の何かとのつながりの上に成り立つということです。楽しいイメージすら、自分以外の何かですから。そして、この点において洞察を徹底させれば、他者の苦しみをなくすことが自分の喜びにつながるということが明瞭になってくるはずです。
すると次に「人々が苦しむのは何が原因なのか。そして、この問題を解決するには私たちはどうすればいいのか」を追求することになるでしょう。しかし、同時に私たちは自分の生活をなりたたせなければなりません。ボランティアをするにも自分で自分の生活を成り立たせた上でのことでなければ変なことになるでしょう。
ところが、今の社会で、世界への罪悪を何も犯さずに生活をなりたたせるということ自体が非常に困難になっていることに私たちは気付くでしょう。例えば異様に安いスーパーへ買い物に行くこと自体が低賃金長時間労働の広がりに手を貸すことになるのです。さらにそういう安いものは環境への負荷をかけずに生産することは無理です。つまり、環境破壊にも手を貸すことになるのです。「いかに生きるべきか」それは本当に難しい問題です。
さらに、ワーキングプアに代表されるように、多くの人は生活するのがやっとです。余裕がないのです。「いかに生きるべきか、だって?それどころじゃないよ!どうやったら生きられるか、を教えてもらいたいくらいだよ!」という声が返ってくるでしょう。
社会のしくみを変えなければならないのは明らかです。といっても、私は革命がいいとは全然思いませんし、政府が良かれと思うものを上から押し付けるのがいいとも全く思いません。右翼も左翼も権力によって何かをしようとする点で同じです。
社会のしくみをどう変えるかについて何か言えるほどの見識を私はもっていませんが、私がわかるのはおカネという魔物に幻惑されてはならないということ、そして、一人一人がもっと自立しなければならない、ということです。自立するということは状況に流されず、洞察力をもって意識的に生きるということです。そのためには心に余裕がなくてはなりません。余裕なんかないよ、という声が聞こえそうですが、余裕がなければ私たちは自分たちの状況をますます悪くする愚行を必ず犯してしまうのです。ですから、心に余裕(冷静さ)を持つことは最優先課題なのです。おそらくは経済的安定以上に。そうして、やはり前述したように「こうなったのは何が原因なのか。どうすればそれを解決することができるのか」という難問に常に取り組みながら生きなければならないのだと思います。
そして、ここにまた別の困難な点があります。それは「何をなすべきか」について、自分の外からくる押し付けがこの国では異常に多いということです。学校でも、社会でもその押し付けがあまりに多いので、それを自分で考えるという余裕を作れる人が少ないのです。しかし、この余裕を「作らなければなりません」。そのためにそういった押し付けに対して、必要に応じて「ノー」と言えることも大事です。
これが出来るためには内的に強くなることが必須です。自分が頼るべきものは自分で自分の中に用意しなければならないのです。「安らぎ」というものも自分で自分に用意しなければなりません。それができると幸福を他者に依存することもなくなるでしょう。そして自分が洞察したことのよって自分で目的を設定し、その目的を達成することが幸福であるといえるようになるでしょう。こういうと、自己満足のようですが、事実、それは他者に理解してもらう必要もないのです。それが「他者が幸福になることに寄与する」という中身を持つものであっても。
何だか小難しいことを言っているようですが、子どもたちが何十年後かに感謝してくれるようなことを今からやることが、そして彼らの負債になるようなものを何も残さないことが私の目標であり、幸福です、と言っているのです。