編集後記
「のはら」第7号をお届けします。今回もさまざまな原稿が集まりましたが、やはり一つの共通点があるなあ、と思いました。それは「人が人らしく生きる」ことへの感覚ではないでしょうか(二口さんもおっしゃっておられますね)。人間の歴史を振り返ると、それは野蛮な状態から人が人らしく生きることへの試行錯誤の連続であるかのように見えます。私は過去を美化するつもりはありません。やはり過去は総体的に今以上に野蛮であったのではないか、そしてその野蛮さは少しずつ改善されているのではないかと思っています。しかし、現代でもやはり野蛮な面が数多くあるのは論を俟たないことでしょう。合理主義というものは因習の押し付けから人を解放するというすばらしい効用を持ちましたが、今、その負の側面が人間性を疎外しています。別の野蛮さが現れているのです。「理性の働き」の長所を認めながらもその限界を補填する必要を多くの人が感じています。おそらくそれは「反」合理主義ではなく、人間性をより細やかにとらえる「より洗練された」合理主義というべきものでしょう。町並み修復やオイリュトミー、自力整体などの身体技法。あるいは文化の香り高いクリスマス行事もそういうものとしてとらえられます。教育はこの点、まだまだひどく野蛮な状態に留まっていて、洗練や人間性からは程遠い状態ですが・・・。
(石田)
「のはら」第7号をお届けします。今回もさまざまな原稿が集まりましたが、やはり一つの共通点があるなあ、と思いました。それは「人が人らしく生きる」ことへの感覚ではないでしょうか(二口さんもおっしゃっておられますね)。人間の歴史を振り返ると、それは野蛮な状態から人が人らしく生きることへの試行錯誤の連続であるかのように見えます。私は過去を美化するつもりはありません。やはり過去は総体的に今以上に野蛮であったのではないか、そしてその野蛮さは少しずつ改善されているのではないかと思っています。しかし、現代でもやはり野蛮な面が数多くあるのは論を俟たないことでしょう。合理主義というものは因習の押し付けから人を解放するというすばらしい効用を持ちましたが、今、その負の側面が人間性を疎外しています。別の野蛮さが現れているのです。「理性の働き」の長所を認めながらもその限界を補填する必要を多くの人が感じています。おそらくそれは「反」合理主義ではなく、人間性をより細やかにとらえる「より洗練された」合理主義というべきものでしょう。町並み修復やオイリュトミー、自力整体などの身体技法。あるいは文化の香り高いクリスマス行事もそういうものとしてとらえられます。教育はこの点、まだまだひどく野蛮な状態に留まっていて、洗練や人間性からは程遠い状態ですが・・・。
(石田)