石田清二さんの「昨今の教育問題について」に寄せて 大坂 洋
石田さんの文章を読み、率直に危惧を感じました。石田さん自身にも詳細な批判をメールで送りましたが、理解していただいていないように感じております。
石田さんは行政的な手段だけでは、教育問題が解決できないことを強調します。それはその通りです。しかし、教育はなんらかの行政的側面をかならず持ちます。たとえば、二人教師がいれば、どちらの教師がどの科目を分担するかという問題が生じます。教師が一人であっても、どの科目を何時間づつ時間をかけるかといったことは教育の行政的側面にあたります。その意味で教員の自主性が尊重される教育とは、行政的側面がない教育ではなく、個々の教員に行政がゆだねられた状態であろうと思います。鍵が二つないと開かないドアがあるときに、「この鍵だけではドアが開かない」といって、持っている鍵を捨てるとすれば、それは明らかにおろかなことでしょう。石田さんの主張は論理的にはこのことを同類のことを主張していると言わざるをえません。
現在の教育は指導要領にみられるとおり、多くの行政的側面が官僚的に決定されています。その状況では教員は良心的にあろうとすれば、その行政的にはめられた枠のなかで、良心的教育を行うという課題を持つことになります。これも教員が直面しなくてはならない教育の行政的側面です。
教育者は教育の行政的側面を忘れてはなりません。問題は行政的側面を悪の側面として切り捨てるのではなく、よきものを行政的側面に反映させるよう努力すべきなのです。
また、この部分ははっきりいって怒りすら感じているのですが、石田さんの教育行政に携わる人間への蔑視を文章のなかに強く感じます。石田さんはいいます。「従って公務員という立場が作り上げる資質は「言い訳のために働き、保身に走る」ということです」私も含めて、公教育に携わる人間は国家によって、身分を保証され、流れに身をゆだねれば石田さんのいう傾向を持つ人間になってしまうのは本当のことでしょう。しかし、だからこそ、まともな教員であろうとすれば、そうならない努力を要求されるのです。その努力を忘れないでいれることこそ、教師が自由であるということだと思います。
石田さんはご自分のいっている「「悪に進む自由を持っている人間が自らの意志で善に進む」世の中にこれほど尊いことはなく、そこに我々は努力すべきなのです。」という意味をわかっておられるのでしょうか。
また、昨今のいじめ問題についても、いじめの発生の原因は別として、世間が怒っているのは学校の対応だと思います。これは石田さんのいう性善説とか性悪説といった問題ではなく、端的に官僚機構としての学校の機能不全とみなすべきです。行政的側面を問わないことは、いじめの教育側の当事者にとっては都合のいい免罪符です。
私にとっては昨日の時点でこの問題は決して他人ごとではなくなりました。というのは私の属する富山大学経済学部で過去とまったく同一の編入学試験の試験問題が出題されるという決して許されない事態が発生したからです。私の状況においては石田さんの発言はむしろ快いものです。今回の事態は出題者が常識をこえる手抜きをしたという意味で、おそらくチェック機能の問題で発生したものではありません。システムでは、チェックできなかったという言い訳はできないわけではありません。しかし、これはあきらかに行政的ミスです。私はわれわれが入試が個々の受験生の人生を左右するものであり、彼らに対して責任をとるという覚悟のなさが、行政的側面にあらわれたのだと思います。
石田さんは行政的な手段だけでは、教育問題が解決できないことを強調します。それはその通りです。しかし、教育はなんらかの行政的側面をかならず持ちます。たとえば、二人教師がいれば、どちらの教師がどの科目を分担するかという問題が生じます。教師が一人であっても、どの科目を何時間づつ時間をかけるかといったことは教育の行政的側面にあたります。その意味で教員の自主性が尊重される教育とは、行政的側面がない教育ではなく、個々の教員に行政がゆだねられた状態であろうと思います。鍵が二つないと開かないドアがあるときに、「この鍵だけではドアが開かない」といって、持っている鍵を捨てるとすれば、それは明らかにおろかなことでしょう。石田さんの主張は論理的にはこのことを同類のことを主張していると言わざるをえません。
現在の教育は指導要領にみられるとおり、多くの行政的側面が官僚的に決定されています。その状況では教員は良心的にあろうとすれば、その行政的にはめられた枠のなかで、良心的教育を行うという課題を持つことになります。これも教員が直面しなくてはならない教育の行政的側面です。
教育者は教育の行政的側面を忘れてはなりません。問題は行政的側面を悪の側面として切り捨てるのではなく、よきものを行政的側面に反映させるよう努力すべきなのです。
また、この部分ははっきりいって怒りすら感じているのですが、石田さんの教育行政に携わる人間への蔑視を文章のなかに強く感じます。石田さんはいいます。「従って公務員という立場が作り上げる資質は「言い訳のために働き、保身に走る」ということです」私も含めて、公教育に携わる人間は国家によって、身分を保証され、流れに身をゆだねれば石田さんのいう傾向を持つ人間になってしまうのは本当のことでしょう。しかし、だからこそ、まともな教員であろうとすれば、そうならない努力を要求されるのです。その努力を忘れないでいれることこそ、教師が自由であるということだと思います。
石田さんはご自分のいっている「「悪に進む自由を持っている人間が自らの意志で善に進む」世の中にこれほど尊いことはなく、そこに我々は努力すべきなのです。」という意味をわかっておられるのでしょうか。
また、昨今のいじめ問題についても、いじめの発生の原因は別として、世間が怒っているのは学校の対応だと思います。これは石田さんのいう性善説とか性悪説といった問題ではなく、端的に官僚機構としての学校の機能不全とみなすべきです。行政的側面を問わないことは、いじめの教育側の当事者にとっては都合のいい免罪符です。
私にとっては昨日の時点でこの問題は決して他人ごとではなくなりました。というのは私の属する富山大学経済学部で過去とまったく同一の編入学試験の試験問題が出題されるという決して許されない事態が発生したからです。私の状況においては石田さんの発言はむしろ快いものです。今回の事態は出題者が常識をこえる手抜きをしたという意味で、おそらくチェック機能の問題で発生したものではありません。システムでは、チェックできなかったという言い訳はできないわけではありません。しかし、これはあきらかに行政的ミスです。私はわれわれが入試が個々の受験生の人生を左右するものであり、彼らに対して責任をとるという覚悟のなさが、行政的側面にあらわれたのだと思います。