昨今の教育問題について
石田清二
教育問題が世間を騒がせています。これについて、私には言うべきことがあると思うので、一文を書いてみました。
1.教育問題は行政によっては解決できない
先日、国会中継である人が「いじめゼロ」回答の理由を述べていました。政府が「いじめをなくせ」とせっつき、いじめ件数を報告せよ、と命令すると、各教師は保身のためにいじめ件数はゼロですと書かざるを得なくなる。仮に正直な教師がいて、実態をありのままに書くと、教頭などが、「お前はこんなことを書いて俺の身を危うくするつもりか」と言って「いじめゼロ」と書き直しを命じるのであると。
この人は「これはシステムが悪いのだから、それを改めろ」と政府に迫りました。政府は「政府としては、いじめをなくせというしかないではないか」と答えていました。
私は思いました。これはシステムの問題ではなく、行政によっては教育問題は解決できないということを露呈しているのだ、と。公務員というものは上司の命令に従うのが仕事であり、自分の意志で何かをするわけではありません。結果的に「命令はちゃんと果たしました」といういいわけのために働くことになってしまうのです。いいわけのための仕事がどんなものか、それは各自の経験から考えてみればおよその察しはつきます。
また、お上は命令を確実に達成するためにどんな手段をとるか。罰です。権力の本質は脅しなのです。つまり、相手の「保身本能に訴える」のです。教員が保身に走るのは行政の末端に位置づけられることからくる当然の帰結といえます。
従って公務員という立場が作り上げる資質は「言い訳のために働き、保身に走る」ということです。こういうと、そうじゃない公務員だっている、という意見が出てくるでしょう。もちろん、私なんぞ足元にも及ばない立派な先生は大勢おられるに違いありません。しかし、その人のそういう資質は公務員である、ということとは全く別のところからくるもので、公務員という資質とは日々葛藤しているようなものなのではないでしょうか。私は公務員を否定しているのではありません。公務員という立場がこういう資質を作り上げやすい、ということを言っているのです。
これが「問題の本質を洞察し、解決する」態度と程遠いことは明らかです。こういう態度は「自由で自立した人間」だけが持てます。教育問題の解決は教師が「自立し、自由になること」によってのみ可能なのです。行政によるしめつけは問題を悪化させるだけです。
2、いじめは管理によっては解決できない
いじめはなぜ起こるのか?人間の未成熟さから起こるのです。だから人間を成熟させること、これが本質的解決です。「人をいじめる」のは人間の中にある弱い部分であり、自分のそういう部分を熟知し、それと上手につきあえるようになるのが成熟ということでしょう。
これは一番難しいことであり、どんな状況でも通用する唯一のマニュアルなどありません。個別的、集団的なあらゆる方法があるでしょう。あらゆる方法を使うべきです。しかし、効果はすぐには現れないでしょう。本当の成熟には長い時間がかかるのです。そして、教師と生徒との信頼関係は必須です。管理主義は一時的に効果があがるように見えますが、これこそが人間の成熟を妨げ、いじめを深刻化させているのです。
問題を明確にするのに役立つ昔からの言葉があります。「性善説」「性悪説」という言葉です。この国は我々が意識するとしないとに関わらず性悪説によって動いており、それがいじめを生んでいます。この国の人は人を信頼なんかしていません。人を自由にさせたら碌なことをしないと思っています。だから、徹底的に型にはめようとします。そしてそこからちょっとでもはずれた者がいれば集団で罰します。これははいじめそのものです。村八分、職場や学校でのいじめ、マスコミで批判された人への非難殺到など、大義名分の下に公然といじめが行われます。「管理主義でいじめを解決しよう」、というのは「いじめによっていじめを解決しよう」というのと同じです。それは新たないじめを生むだけです。
そして、罰への恐怖から、人は保身に走り、言い訳のためだけに仕事をするようになります。管理主義は人を萎縮させ、いびつにし、その成熟と自立を妨げるのです。
性善説によらなければ人を成熟させることなどできません。といっても、人の性の中には悪が容易に入り込むことも認めなければなりません。人の心は善や悪が次々と登場してはドラマを演ずる劇場です。人の心の成長はドラマに似た法則や順序のもとにゆっくりと進行するものと思われます。それをふまえて善に導くように努力すれば、人は善に進むことが大いに期待できるのです。なぜなら、人は善性への萌芽を最初から持っていると信じられるからです。しかし「必ず善に進む」という保障はできません。人間は不完全だからです。しかし成熟のためには自由が必要なのです。自由であるということは悪に進む自由もあるということです。「悪に進む自由を持っている人間が自らの意志で善に進む」世の中にこれほど尊いことはなく、そこに我々は努力すべきなのです。ここに保険をかけてはならないのです。保険は自由を奪うものであり、自由のないところに自立も成熟もないからです。だから性善説の教育は本質的には見返りを期待しない、ほとんど愚直なまでの奉仕であるべきです。ただし、人間性への洞察はいくらあってもありすぎるということはありません。これだけが唯一の武器なのですから。これが性善説の教育です。
このような教育からのみ人間の成熟は期待でき、そしてそこからのみ「いじめ」が本当に減ることが期待できます。
3.未履修問題は死んだ教育の一端にすぎない
教育と受験対策とは本来まったく異なるものなのに、この両者を混同することからこの未履修問題が起こったと思います。教育とは上述したように、もともと聖職者のような仕事です。受験対策は投資家のような仕事です。
この両者はそれほど違うものなのですが、しかし、ある能力を育成するという点に関して、共通部分がないわけでもありません。そういうことに敏感な教師ならば、単なる投資家的な部分を慎重に避け、教育的な部分だけを行うことができます。あるいは、教育的な部分だけを正規の教育として行い、受験対策は別枠で行うことができます。欧米のシュタイナー学校では後者のやり方を採っていると聞いたことがあります。
問題なのはこういう区別をしないときです。このとき何が起こるか?教育が死ぬのです。「試験のための詰め込み」になるのです。生徒の真理感覚、知的欲求、芸術的感性は全く相手にされず、ただ、いかに効率的に詰め込むか、だけが問題にされるのです。洗脳です。教育は全く死んだものになります。「指導要録に嘘を書いていたのがばれた。さあ、どうする?」どころの騒ぎではないのです。教育が死んでいるのですよ。洗脳になっているのですよ。そっちのほうがはるかに重大な問題ではないですか。
真の教育はもっと生き生きとしたものです。教師は生徒の「今の」知的欲求、芸術的感性に見合うものを提示できなければなりません。一回一回の授業が真剣勝負です。試験による「脅し」一切なしに彼らの信頼を獲得できなければなりません。その信頼だけをたよりに、こちらのいうことを聞いてもらわなければなりません。一回一回の授業が細心の注意によって用意され、なおかつ予想外の状況に柔軟に対応できる即興性を持つべきです。これが生徒にとって「生きた」学習となるのです。そこには退屈などありません。人間は本質的に学びたいものであり、それに沿ったことをやれば人は退屈などしないのです。