史実のアドミラルヒッパーについて

史実のアドミラルヒッパーについて


Admiral Hipper 1939年,新造時 Prinz Eugen 1940年,新造時(推定)

同型艦5隻。うち2隻、ザイドリッツとリュッツオゥは未完成。

  • Admiral Hipper アドミラル ヒッパー
  • Blücher ブリュッヒャー
  • Prinz Eugen プリンツ オイゲン
  • Seydlitz ザイドリッツ
  • Lützow リュッツオゥ

なお、Prinz Eugen、Seydlitz、Lützow の3隻は他の2隻より船体寸法や排水量が若干大きく、別クラスとされることもある。

第一次大戦後のベルサイユ条約による軍備制限のため、ドイツは巡洋艦については排水量6千トン以下の軽巡洋艦しか建造できなかった。
しかし1935年の同条約破棄と英独海軍協定によって増強を開始したドイツ海軍は、Z計画に基づき戦艦中心の大規模な艦隊の建設を開始した。
それに伴うシャルンホルスト級の巡洋戦艦に続いて建造されたのが本級である。

主にフランス海軍のアルジェリー級重巡洋艦を意識して計画されたようである。排水量は1万2~3千トン級とやや大型だが、
主砲は20.3cm連装砲4基で同時期の他国重巡に比して多くはない。いわゆる「条約型巡洋艦」に分類される普遍的な重巡洋艦といえよう。

シルエットはシャルンホルスト級巡洋戦艦や、後に建造されたビスマルク級戦艦と非常によく似ている。
最初に完成したアドミラル ヒッパーは当初艦首が垂直だったが、凌波性の問題で完成後すぐに前方へ若干傾斜した形状へ改められた。
他の艦については最初から大きく傾斜したクリッパー・バウ形式となっている。上掲の写真を比較されたい。
また、細かい相違点だが、プリンツ オイゲンは先に完成した2隻とは偵察機の格納庫とカタパルトの位置が逆である。

機関は軽巡のケーニヒスベルク級等とは異なり、蒸気タービンのみとなっている。実はこのタービン機関に故障が多く、
また航続力が低く大西洋での通商破壊作戦に適しなかったことが、本級があまり活躍できなかった原因と言われる。

NF内ではヒッパーが灰色一色、オイゲンが迷彩塗装となっているが、両艦とも時期により塗装の状態は異なっている。
たとえばノルウェー侵攻作戦時のヒッパーは船体が灰色、主砲塔上面が黄色(識別のため)だったらしいが、迷彩の時期もある。
NF内のオイゲンの塗装は、ビスマルクと共に行動した際、シルエットの良く似た本艦を英軍にビスマルクだと誤認させるため、
ビスマルクと類似の迷彩塗装にしたものらしい。上掲の写真のオイゲンは砲塔上面が赤色の状態であり、新造直後と推定できる。

各艦の経歴については下記を参照していただきたいが、ザイドリッツは建造中に上部構造物を撤去し、空母へ改造された(未完成)。
リュッツォウは建造中ソ連に売却されたため、その艦名が装甲艦のドイッチュラントへと引き継がれている。

余談だが、本級は最初に完成したアドミラル ヒッパーが一般的にはネームシップとなっている。しかし計画時の仮称艦名は
ブリュッヒャーが「G」、ヒッパーが「H」だったらしい。本来ならば「ブリュッヒャー級」と呼ぶのが正当なのかもしれない。


Admiral Hipper	アドミラルヒッパー
第一次世界大戦、ジェットランド沖海戦にて巡洋戦艦からなる索敵部隊を指揮した Franz Ritter von Hipper 提督(中将)から。
開戦後はバルト海、スカンジナビア沿岸で警戒を行ったり、シャルンホルスト、グナイゼナウと共に連合軍輸送船団攻撃を試みるが接敵できず。
1940年4月8日、Weserubung 作戦(ノルウェー攻略)の一部として駆逐艦2隻と共に陸軍兵士をトロンヘイムへ輸送する任務に就き、
英国駆逐艦 Glowworm と遭遇交戦、撃沈するが衝突し小破。
1940年6月4日、Juno 作戦(ノルウェー攻略)に、シャルンホルスト、グナイゼナウ、駆逐艦4隻と共に参加。
ノルウェー北方ナルヴィク近郊の Harstad を強襲、兵員輸送船 Orama 、油送船 Oil Pioneer 、駆潜艇 Juniper を撃沈。

1940年12月27日、Nordseetour 作戦。
大西洋での初任務に就き、スペイン Finisterre 岬の西方 1100km 付近で、連合軍輸送船団 WS5A を発見、交戦。
護衛に就いていた英国重巡洋艦 Berwick と駆逐艦数隻と砲火を交え、Berwick と商船一隻を大破せしめ、他商船を撃沈。
占領下にあるフランスのブレスト港へ帰還。
1941年2月14日、大西洋で連合軍輸送船団 SLS64 を発見し交戦。護衛艦がいなかったため、輸送船19隻のうち7隻を撃沈し、他に損害を与えたが、
燃料不足により離脱、ブレスト港へ帰還。
1941年3月、デンマーク方面で移動し、キール港へ帰港、修理と改修を行い、ノルウェーのトロンヘイムへ移動。

1942年7月5日、Rösselsprung 作戦、ソビエトの援助物資を輸送する輸送船団 PQ-17 攻撃。
戦艦ティルピッツ、装甲艦アドミラルシェーア、駆逐艦9隻、水雷艇2隻とともにヒッパーは北極海で PQ-17 捜索を行うが発見できず。
(余談ではあるが、輸送船団 PQ-17 は出発時、商船33隻乃至36隻だったが、無事ソビエトに到着したのは11隻だけだった)
(損害の全てはドイツ軍航空機、潜水艦による)

1942年12月、バレンツ海海戦に参加。輸送船団 JW51B と交戦。
掃海艇 Bramble を撃沈、駆逐艦 Achates に命中弾(後に沈没)。
軽巡洋艦 Sheffield 、Jamaicaと交戦し、記録によればヒッパーは被弾1、同行していた駆逐艦 Friedrich Eckoldt が撃沈される。

水上艦艇による攻勢が消極的になり、
1945年1月30日、 Gotenhafen (Gdynia 現ポーランド北方の港)から、客船 Wilhlem Gustloff と共に避難民1529名をキール港へ移送。
ヒッパーは無傷だったが、Wilhlem Gustloff はソビエト潜水艦の雷撃を受け沈没。
9343名が死亡した、とされる("ja.wikipedia.org/wiki/ヴィルヘルム・グストロフ号")

1945年4月3日と9日に英国軍機の爆撃を受け致命的な損害を被り終戦を迎え、解体された。

Blücher		ブリュッヒャー
プロイセンの将軍 Gerhard Leberecht von Blücher (1742-1819) から。同将軍の名を冠した艦船は同艦級以外に2隻存在した。
1935年8月15日、キール Deutsche Werke 造船所にて起工。
開戦後はバルト海で訓練を行い、1940年4月、Weserubung 作戦(ノルウェー攻略)に参加。
シュバイネミュンデ(現ポーランド領)で陸軍兵士を乗せ、装甲艦リュッツオゥ、軽巡洋艦エムデン、他水雷艇3隻、機動掃海艇隊?で第5戦隊を形成。
4月9日午前5時21分(ドイツ時間)、ブリュッヒャーを先頭に戦隊はオスロフィヨルドの最も狭い地点、Drobak に差し掛かり、
Oskarborg 要塞から28cm砲による砲撃を受け、ブリュッヒャーは艦橋及び砲撃指揮所、艦載機燃料タンクに被弾。
反撃を行うものの、重要施設への命中弾は得られず、逆に沿岸魚雷の射程に入り込み、2発の魚雷を受け、
午前7時23分、830名余と共に沈没した。

Oskarborg 要塞に配置されていたのは47年前の、ドイツ製の28cm砲だったそうな。
ブリュッヒャーは沈んだ今でも燃料やオイルを流出させているらしく環境に対する影響が心配されているらしい。

Prinz Eugen	プリンツオイゲン
トルコ、フランス、 スペインとの多くの戦争で勝利した Prinz Eugen von Savoyen-Carignan (1663-1736) から。
1936年4月23日、キール Germaniawerft 造船所にて起工。
幾度か爆撃や雷撃を受けたものの、終戦まで生き延びた幸運艦。
開戦後は戦艦ビスマルク等と行動を共にし、 1941年5月24日、ブレスト西方沖でビスマルクと共に英国艦隊と砲火を交えた。
ビスマルクは撃沈されたが、プリンツオイゲンは無傷でブレストへ辿り着き。7月2日に英国軍機から爆撃を受け損傷。
1942年2月11日、ドーバー海峡を突破してドイツへ帰還する Cerberus 作戦を実施。
シャルンホルスト、グナイゼナウ、他駆逐艦6隻、14隻の水雷艇と共に作戦を遂行し、プリンツオイゲンは無傷でドイツへ帰還した。
1942年2月23日、ノルウェーのトロンハイムフィヨルド沖で英国潜水艦トライデントから放たれた魚雷が艦尾に命中し、
航行不能に陥るが曳航されトロンハイムで応急修理を受け、本修理のため5月にキールへ向け出港、
英国軍の攻撃を受けるも無傷でキールに到着し、修理を行った。
1942年末には復帰し、バルト海方面で行動し、1944年10月にはメーメル(現リトアニアのクライペダ)の後退するドイツ陸軍を支援。
10月15日、軽巡洋艦ライプツィヒと衝突。損傷軽微。

終戦後は英国の管理下に入り、1945年12月に米国海軍へ譲渡され、原爆実験に供された。
1946年7月1日、二発の原子爆弾の試験に付き合わされ、浸水こそ起こしたが沈没せず、
クアジャリン(クェゼリン)環礁へ曳航され、12月22日、傾斜が増大し転覆、沈没した。
スクリューの一つは引き上げられドイツ海軍記念館に展示されている。
原爆実験前に取り外された一番砲塔は、米国ヴァージニア州ダルグレン海軍研究所に、
搭載機はスミソニアン博物館にある・・・・・らしい。

(余談ではあるが、クェゼリン環礁にはプリンツオイゲンらしき残骸が衛星から確認できる。ページ末に画像を掲載)

Seydlitz	ザイドリッツ
プロイセンの将軍 Friedrich Wilhelm von Seydlitz (1721-1773) から。高名な騎兵司令官。
1936年1月19日、ブレーメン Deschimag 造船所にて起工。
1942年8月26日、補助航空母艦(Project Weser1)への転換工事が始まるが、1943年1月には工事を中断し、ケーニヒスベルグへ移動。
1945年1月29日、侵攻してきたソビエト軍に鹵獲されるのを防ぐため、自爆自沈。
戦後、ソビエトが浮揚接収しレニングラードへ回航し、1947年3月10日にはソビエト海軍の艦籍簿に載っていた。
が、損傷が酷かったせいか4月9日は艦籍簿から削除されている。
ザイドリッツの部品がリュッツオゥに流用されたのではないかとする説もある。

Lützow		リュッツオゥ
プロイセンの将軍 Ludwig Adolf Wilhelm von Lützow (1782-1834) から。ナポレオン戦争時、プロイセン義勇兵の指揮・編成で有名。
1937年8月2日、ブレーメン Deschimag 造船所にて起工。
1940年5月、物資の見返りとしてソビエトへ未完成のまま売却、レニングラードへ曳航された。9月にペトロパブロフスク Petropavlovsk と改名。
1941年9月17日、未完成のまま独ソ戦に突入したペトロパブロフスクは浮き砲台とり、ドイツ軍地上部隊に対して砲撃を敢行したものの、
逆にドイツ軍重砲の攻撃を受け(210mm砲弾53発が命中)、沈没。港内であったため全没には至らず。
その後、致命的な爆撃を受けたが復旧し、1944年1月には退却するドイツ軍へ対し、1036発を超える砲撃を敢行。
1944年9月、タリン Tallin と改名。
1945年夏以降、工事続行のため(まだ未完成だった)バルト海へ移動。
以後、装備の変更に伴い(8インチ連装砲から6インチ三連装砲へ、等)、艦種が軽巡洋艦へ変更を行ったり、
老朽化のため係船練習船、係船兵舎となるなどし、1958年にソビエトの艦名簿から削除された。
後に解体された。

満載排水量	:18600t
全長		:205,9m
全幅		:21,3m
喫水		:7,7m
乗員		:1600名
武装		:20,3cm L/60 C/34	連装4基8門
		:10,5cm L/65 C/33	連装6基12門
		:4cm L/56 Flak 28	6門
		:3,7cm L/83 C/30	8門
		:2cm L/65 C/30		32門
		:53,3cm魚雷発射管	3連装4基
搭載航空機	:Arado Ar-196		3機
装甲		:水平12-50mm
		:垂直70-80mm
		:艦橋50-150mm
		:砲塔70-105mm
機関		:3軸 Blohm & Vos type turbines	3基
その他性能	:機関出力(軸馬力)	132000shp
		:最大速度		32,5knot(およそ60km/h)
		:航続距離		20knotにて8000mile(およそ37km/hにて12870km)
※アドミラルヒッパーの数値であるが資料によって数値が違う場合がある。

クェゼリン環礁にあるプリンツオイゲンらしき沈船。

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最終更新:2007年12月08日 02:44
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