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日本の分割統治
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hibiki
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色々と勉強になるサイトを見つけた。今の政界・財界・マスコミでは一致団結したように古臭いゾンビ経済学が主流な中、このサイトはケインズ経済学という当たり前のマクロ経済学を当たり前に主張しているがために、当世では非常識に属する事を訴えているんですが、1つだけあまりに悲痛なエントリーがあったので転載します。涙。
経済コラムマガジン04/8/2(355号)
「日本の分割統治」
のコピペ。
日本の分割統治
日本中がバラバラ
今日の日本国民は、まさにバラバラになっている。無意識的なのか意識的なのか分らないが、日本中がバラバラにされている面もある。たしかに日本の産業の中心が農業だった時代は、「村の共同体」というものが確固として存在した。「家」も大家族が普通であり、これが社会の最小単位だった。まともな個人は、この「村の共同体」や「家」に属することによって存在した。
近代産業が興ってからも、日本の企業は独特の共同体的社会を作り上げた。「会社」は「村の共同体」の代りのようなものであった。さらに大会社は、多くの関連会社を持ち、さらに下請企業や孫請会社などを含めた巨大なグループ共同体を形成していた。このような終身雇用を基本とした運命共同体的な企業形態が完成したのは昭和恐慌の頃である。
経済高度成長期には都会の地価や人件費が上昇し、人手不足も深刻になった。このため工場が地方にどんどん進出した。また「国土の均衡ある発展」という当時の国家の方針に異を唱える者はおらず、地方への補助金や厚めの地方交付金も当り前と考えられた。実際、地方の経済的な発展による購買力の増加の恩恵は、都会にも還流して、都会のさらなる発展に寄与した。この時代からしばらくは、少なくとも都会と地方の利害の対立というものが表面化しなかった。
ところが今日、日本中がバラバラになり始めた。「大家族」が「核家族」となり、さらに「個人」が家庭の単位となっている。この背景には農業や個人商店の没落がある。「村の共同体」はこれまで農協を中心に維持されて来たが、今日ではこれも半分以上崩壊している。
「会社」を取巻く環境も変化している。下請企業や孫請会社は、取引会社のグローバル化に伴い、突然、商売が切られたりする。また株式の持合いの解消が進み、企業間の取引もドライになっている。特に外人株主の持株比率の高い企業は、常に高収益を上げることを課せられ、かってのような出入りの企業と甘い取引はできない。
「会社」の内部も変化している。まず終身雇用制度が怪しくなっている。正社員は確実に少なくなっており、契約社員や派遣社員の比率が大きくなっている。また成果主義や業績主義が一般化し、働いている者同士の人間関係は希薄になっている。社員旅行や社員運動会は死語になりつつある。
最近は、都会と地方の間も対立関係と捉えられるようになった。都会には、地方の公共事業に対して異常な不快感を示す人が増えている。このような感情があるためか「公共事業は生産性が低く、これが日本経済の不調の原因」という真っ赤な嘘がまかり通っている。驚くことに「鈴木宗男みたいな政治家が地方に金をバラ撒いたから、日本経済は不調になった」といった明らかなデマを信じている人が都会には結構いる。
また地方分権、税源の移譲と言われているが、税源が移譲されても地方では税収は上がらない。もしその代りに補助金や地方交付金をカットされれば、確実に地方財政はさらに悪化する。三位一体の改革と言葉の上ではきれいごとを言っているが、実態は地方の切り捨て政策である。これについても「地方を切り捨て」によって日本の経済は良くなると信じている人が都会にはいるのである。
選挙で通用しない分割統治
国民がバラバラになるほど管理・支配が容易になる。さらにバラバラになった国民を対立させることによって、管理や支配がより容易になる。「分割統治」という言葉があるが、日本国民はまさに「分割統治」されている。しかし国民は不満を持っていても、多くの場合それは個人の問題と見なされる。特に今日のような「勝組」「負組」という分け方が、このことを助長している。
先日、サンデープロジェクトに出演した竹中大臣が昨年度の自殺者の数が史上最多になったことに感想を求めらた。彼は「構造改革が進んだから自殺者が増えたのではなく、多重債務者が増えたことが原因」と答えていた。多重債務者が増えたことにマクロ経済政策は全く関係がないかのような発言である。つまり自殺者の増加は小泉政権の政策が原因ではなく、あくまでも個人の問題と言っているのだ。驚くことに今日では数少ない小泉・竹中信奉者である田原総一郎氏は、このインチキ発言に納得していた(他の出演者にはささいなことにも食って掛かる田原氏は、この竹中氏に対してこれまで批難めいたことを言ったことがない)。
どの地方の財政も苦しいが、合併する自治体には特例公債の発行を認めている。これも地方自治体を管理するための「分割統治」の手法の一つである。合併が住民にとって良いことなのかどうかは関係がないのである。もし地方議員の数が多過ぎると言うのならば、議員の数を減らせば良い話である。
先週号で述べたように、昨年の総裁選でほとんどの業界が小泉支持に回った。普通に考えれば、全く信じられない行動である。例えば公共投資が毎年減らされているのに、土木・建設業界が小泉支持に回ったのである。これは小泉支持を打出した業者だけに仕事を回すという話があったと推測する他はない。もしそうでなければ、土木・建設業界はマゾヒストか大ばか者の集まりということになる。程度の差はあるが亀井・高村・藤井の3候補は公共投資は減らし過ぎと訴えていたのに、こちらには票が集まらなかったのである。
他の業界も様々な約束の元に小泉支持に傾いたと考えられる。このようにバラバラにされた国民を「分割統治」することは容易である。「お前だけは助けてやる」と言えば良いのである。「勝組」にならないまでも、「負組」になりたくない人々の心理を巧みについている。
一般の国民だけでなく、政治家もバラバラにされている。小泉首相の政策は支持できないが、小泉首相は支持すると言ったわけの分らない事を言い出す政治家が続出した。「毒まんじゅう組」と揶揄されても、ポストほしさに抜け駆けする政治家が沢山いた。派閥の力もなくなり、まさに政治家までが「分割統治」されているのである。
バラバラになった国民も不満と不安を持つ。しかし自己責任が強調される今日の日本では、それを口に出すことがはばかれる。そして国中がこれだけバラバラにされると、結束の固い組織が相対的に力を持つようになる。今日かろうじて結束を維持しているのは宗教団体と公務員である。
本来ならマクロ経済政策によって、経済を拡大する中で問題を解決すべきなのに、問題を分配の問題にすり替えている。また問題を分配の問題にすることによって、利害関係者の対立を誘っている。たとえば年金の問題でも、国民年金と厚生年金の加入者同士を対立させたりする。
さらに分配が問題になる時にはたいてい「悪者」が仕立てられる。補助金の場合は地方が「悪者」であり、年金なら議員年金・年金未納者や社会保険庁が「悪者」である。しかしこれらの「悪者」が征伐されても、問題は解決しない。問題が解決しないのに、さもこれによって問題が解決するような錯覚を国民に与えている。そしてこのような動きを助長しているのがマスコミである。
国民は小泉政治に強い不満や不安を持つがバラバラにされているので、これが声にならない。もし日本が一党独裁国家や専制国家なら、このような日本国民なら完全に封じ込めることは可能であろう。しかし曲がりながらも日本は民主国家である。ここが重要なポイントである。国民は政治に対する不満や不安を一票に託すことができるのである。
小泉首相周辺は業界や地方のボスの支持を取り付けておけば、今回の参院選でも勝てると安易に考えていた。たしかに自民党の総裁選ではその手法がみごとに通用した。しかし末端の自民党の支持者は、今回の参院選で小泉政治にはっきり「ノー」を突き付けたのである。もっと言えば根っからの自民党支持者は、昨年の衆議院選挙から既に小泉首相を忌み嫌うようになっていた。実際、自民党に今回投票した人でも「これが本当に最後」と悲痛な思いで投票した人が多いはずだ。
小泉政治の本質は、国民をバラバラにして抵抗できないようにすることである。マスコミもこれに乗せられて踊って来た。典型的なのが道路公団であり郵政である。これらを次々と「悪者」に仕立て、国民の敵にするのである。さらにこのような問題を提起することによって、都会と地方を対立関係に持って行った。
もちろん筆者は道路公団・郵政に全く問題がないと言っているのではない。しかし日本には他に解決すべきもっと重要な問題が沢山ある。これらから国民の目をそらすことが小泉流政治の本質である。ところで既に小泉政権は泥舟であることが知れ渡っている。誰がこの泥舟を最後まで支えるのか見物である。
来週から3週間、本誌は夏休みである。次回号は8月30日に予定している。
自民党は、政策はどうでも良い政治家に支配されている。青木参議院会長の口癖は「政策の勉強をすると政局を読む感が鈍る」である。このような人物はもはや政治家とは呼べない。まさに「ブローカー」である。でもよく見てみれば、一番のブローカーは小泉首相自身である。このように小泉政治の本質はブローカー政治である。