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般若心経(私的現代語訳)
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hibiki
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但し、漢字は一部現代字にしてある。盡→尽など。
写経などと云いながら漢字変換が大変だつたので、
後半はコピペスマソである。
写経などと云いながら漢字変換が大変だつたので、
後半はコピペスマソである。
参考にしたサイト
現代語訳は此処から頂きてゐます。
http://www2.inforyoma.or.jp/~chance/kannon/singyouyaku.htm
本頁のねらい
後者のサイトに於て、三蔵の訳は漢語訳ではなく漢字訳であるとの指摘が在り重要である。そこで此れを受けて本頁では
現代語訳(上記サイトからのコピー)
も参考にしながら、現代「字」訳を試みた(赤字)。「語訳→語訳」よりも「字訳→字訳」のはうが誤差が少なひ事もあらうかといふ事を意図してゐる。自分の勉強のための注釈は緑字。
以下で試みた現代字訳では、菩薩が瞑想の中で観自在になりてゐる状態を舎利子に実況中継して聞かせるという前提になりている。また個人的に思想背景として大日如来を意識してゐるので言葉の選択等に何がしかの影響があるやもしれない(「心を識別しようにも隔てが無い」など)。
取り敢へず最後まで訳したものの、借り物の所も多く、上記サイトや「般若心経秘鍵」などで更に勉強しやうと思ふ。
本文
仏説-摩訶 般若 波羅蜜多 心経
仏の大いなる智慧の完成した心の教え
仏さんが説く
不思議なる般若波羅蜜多
生き生きと伝へる
不思議なる般若波羅蜜多
生き生きと伝へる
「般若-心経」は「般若心-経」の読み方もある(般若深行秘鍵)。
原文の「心」が何の意かは不勉強ではあるが、心→心臓→生きているということ→Liveということで、「心経」は「ライブで(=活きたまま)お届けします(小林克也風)」の意ではないかと見当をつけている。和製英語も何なので「生き生きと」とした。少なくとも心(漢字訳では「意」)は無いと云っているのだから、別の意に解するべきである。
なお、「経」はその目的からして、また「経る」の訓からも「伝へる」の訳が適当と解釈した。一般的には「教え」と訳す事が多いと思はれるが、知る事は無い(無智)と言ひているのだから別の意に解するべきである。
般若はサンスクリットからの音写で、智慧と訳される事が多い。goo=三省堂大辞林では他に「根源的な叡智、究極的心理を知ること、慧」。波羅蜜多もサンスクリットからの音写で、最早為す事が無いの意。
原文の「心」が何の意かは不勉強ではあるが、心→心臓→生きているということ→Liveということで、「心経」は「ライブで(=活きたまま)お届けします(小林克也風)」の意ではないかと見当をつけている。和製英語も何なので「生き生きと」とした。少なくとも心(漢字訳では「意」)は無いと云っているのだから、別の意に解するべきである。
なお、「経」はその目的からして、また「経る」の訓からも「伝へる」の訳が適当と解釈した。一般的には「教え」と訳す事が多いと思はれるが、知る事は無い(無智)と言ひているのだから別の意に解するべきである。
般若はサンスクリットからの音写で、智慧と訳される事が多い。goo=三省堂大辞林では他に「根源的な叡智、究極的心理を知ること、慧」。波羅蜜多もサンスクリットからの音写で、最早為す事が無いの意。
観自在
菩薩
行 :深・般若→波羅蜜多 時、
照見:五薀皆空
度 :一切苦厄。
菩薩
行 :深・般若→波羅蜜多 時、
照見:五薀皆空
度 :一切苦厄。
聖なる観音菩薩は、この世にあるすべてのものがどのようにして存在しているのかを知ろうと、観察と瞑想による深遠な智慧の完成の修行をして、ついにそれを極めました。
そして、人間を構成する五つの要素である、身体、感覚、意識、意志、認識は、すべてみな『空(くう)』という本質を持っているという真理を見抜いたため、この世のすべての苦しみから解放されました。
『空』とは、すべてのものは常に移り変わり、永遠に同じ状態では存在できないという真実と、すべてのものはお互いに関連しあいながら存在しており、他との関連性なくして存在できないという真実をあわせた、存在に関する真理です。
観音菩薩は、この『空』の真理について、釈迦十大弟子の中で知恵第一といわれる舎利子(しゃりし)に説法されます。
観ること自由自在
菩薩さん
般若波羅蜜多 深い瞑想の時
見へてきた 5つの薀はそれぞれ何物でもない
乗り越へる 一切の苦厄
菩薩さん
般若波羅蜜多 深い瞑想の時
見へてきた 5つの薀はそれぞれ何物でもない
乗り越へる 一切の苦厄
薀の字は薀蓄の薀。集合体、集めたもの、など
度は渡るの意。
度は渡るの意。
舎利子。
色不異空
空不異色
色即是空
空即是色。
空不異色
色即是空
空即是色。
受・想・行・識、亦復如是。
舎利子よ、この世に存在する形あるものはすべて、『空』という本質を持ち、また、『空』の原理に基いてこの世に存在しているのです。つまり、存在する事と『空』とは異質ではないのです。この世に存在するとは『空』であるという事であり、『空』だからこそ存在可能なわけなのです。
この真理は、私たちの心の作用にもあてはまり、感覚も、意識も、意志も、認識も、すべて『空』という本質を持つのです。
シャーリプトラさん
「何かであるもの」は「何でもないもの」と違わない
「何でもないもの」は「何かであるもの」と違わない
「何かである」が即ち「何でもない」
「何でもない」が即ち「何かである」なんだ
感覚・意識・意志・認識もまたこれと同じさ
「何かであるもの」は「何でもないもの」と違わない
「何でもないもの」は「何かであるもの」と違わない
「何かである」が即ち「何でもない」
「何でもない」が即ち「何かである」なんだ
感覚・意識・意志・認識もまたこれと同じさ
舎利子。
是
諸法空相
不生不滅
不垢不浄
不増不減。
諸法空相
不生不滅
不垢不浄
不増不減。
舎利子よ。この世において存在するすべてのものが『空』の現われた相(すがた)であり、『空』の特性は、生まれるものでも死ぬものでもなく、汚れたものでも清浄なものでもなく、減るものでも増えるものでもないのです。
シャーリプトラさん
こうだよ
諸々の原理は「何でもない」の面から理解できる
生まれもしない消えもしない
穢れもしない澄みもしない
増へもしない減りもしない
こうだよ
諸々の原理は「何でもない」の面から理解できる
生まれもしない消えもしない
穢れもしない澄みもしない
増へもしない減りもしない
浄はインドのカーストに於て重要な概念。日本の神道でも穢れを清めること(御祓い)を重視しているのはご存知の通り。一神教の世界では罪が重要なので「罪も無ければinnocentも無い」となるところだろう。
諸法の実相は空とされるさうだ
諸法の実相は空とされるさうだ
是
故 空中
無:色
無:受・想・行・識
無:眼・耳・鼻・舌・身・意
無:色・声・香・味・触・法。
無:限-界
乃至
無:意識-界。
故 空中
無:色
無:受・想・行・識
無:眼・耳・鼻・舌・身・意
無:色・声・香・味・触・法。
無:限-界
乃至
無:意識-界。
だから『空』という真理の立場から見れば、物質的現象もなく、感覚・意識・意志・認識という心の作用もなく、眼・耳・鼻・舌・体・心という感覚器官もなく、その感覚器官の対象である形・音・香り・味・感触・意識もなく、感覚器官の対象の領域も、見える形の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのです。
こうだよ
「何でもない」の中だから
「何でもない」の中だから
実体が無い | (実体がない) | |
感覚・意識・意志・認識が無い | (受け止めて無い) | |
眼・耳・鼻・舌・体・心が無い | (受ける止めるものが無い) | |
形・音・香り・味・感触・意識が無い | (受けるはずのものが無い) |
不勉強のため受・想・行・識の訳は丸写し。「想」を「意識」と訳し乍ら、下の「意-識」を「心」に訳すと云ふ「ねじれ」が生じてゐる
右側は明らかに意訳なので主旨には反している。参考。
右側は明らかに意訳なので主旨には反している。参考。
限ろうにも隔てが無い
それが至りて
心を識別しようにも隔てが無い
それが至りて
心を識別しようにも隔てが無い
意識は識の一つ。眼・耳・鼻・舌・身・意がある。科学では五感を意識が認識する事になってゐると思うが、仏教哲学では並列し、これらの前提に阿頼耶識(あらやしき)を措定する。西洋で探せばデカルトのエゴか精神分析の無意識あたりか。ユングと密教の話はまたどこかで。
無限界乃至無意識界の訳は引用した現代語訳と全く逆の訳となりてしまふた。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識を合わせて限といふのだらうか。それなら限の界から意識の界に至るまで無いという意味にはなるし、感覚器もその対象も無いということで筋も通る。個人的には今の訳で気に入っているのだが。
従ってこのセンテンスは一般の解釈と違ひ、下のブロックに入れたい。
無限界乃至無意識界の訳は引用した現代語訳と全く逆の訳となりてしまふた。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識を合わせて限といふのだらうか。それなら限の界から意識の界に至るまで無いという意味にはなるし、感覚器もその対象も無いということで筋も通る。個人的には今の訳で気に入っているのだが。
従ってこのセンテンスは一般の解釈と違ひ、下のブロックに入れたい。
無:無明
亦
無:無明尽。
亦
無:無明尽。
乃至
無:老死
亦
無:無老死尽。
亦
無:無老死尽。
さらには“無知”もなく、“無知”が消えることもないのです。そしてついには老いと死の苦しみもなく、老いと死の苦しみが消えることもないのです。
よく分かんない事がない
それでいて
よく分かんない事は無くならない
それでいて
よく分かんない事は無くならない
それが至りて
老ひたり死んだりする事が無い
それでいて
老ひたり死んだりする事は無くならない
それでいて
老ひたり死んだりする事は無くならない
無明は、悟りに至る十段階の最低。地獄や餓鬼よりも下。良きと悪しきの違ひも分からないくらい初歩的な段階。
乃至という言葉は独特のニュアンスがあるので他に置き換え難い。
乃至という言葉は独特のニュアンスがあるので他に置き換え難い。
無:苦・集・滅・道。
無:智
亦
無:得。
以
無:所得
亦
無:得。
以
無:所得
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみをなくすことも、苦しみをなくす道もないのです。何一つ所有するものがないので、知ることもなく、得ることもないのです。
苦しみが無い
原因が無い
消へる事が無い
そんな道が無い
原因が無い
消へる事が無い
そんな道が無い
頭に入れない
身につけもしない
そもそも身につけるものなんて無い
身につけもしない
そもそも身につけるものなんて無い
何でここで突然、無苦集滅道なのかよく分らない。なお苦・集・滅・道は各々を受け容れる事で四諦を成す。集は苦の原因、滅は苦を滅する事、道はその方法
得は本来悟りを得るの意。智は悟りを完成するための智慧
得は本来悟りを得るの意。智は悟りを完成するための智慧
故
菩提薩埵 依 般若波羅蜜多
菩提薩埵 依 般若波羅蜜多
故 心:無-罣礙
無:罣礙 故
無:罣礙 故
無:有恐怖
遠離:一切 転倒夢想
究竟涅槃。
遠離:一切 転倒夢想
究竟涅槃。
三世諸仏
依 般若波羅蜜多 故
得 阿耨多羅三藐三菩提。
依 般若波羅蜜多 故
得 阿耨多羅三藐三菩提。
悟りを求める人はこの真理を拠り所とするので、心に何のこだわりも持たずにいられます。心にこだわりがないから恐れるものは何もないのです。一切の相対的な囚われの妄想から遠く離れて、永遠の平和な境地に安住していられるのです。過去・現在・未来のすべての仏たちも、この智慧の完成によって、この上ない真実の悟りを得たのです。
そんな様子なので
悟りを求める人が般若波羅蜜多に依れば
怪しきものが無いから
心にこだわりは無くなつて
怖がつて恐れるなんてことがない
悟りを求める人が般若波羅蜜多に依れば
怪しきものが無いから
心にこだわりは無くなつて
怖がつて恐れるなんてことがない
想像で創り上げた思い込みの世界
そのすべてから遠く離れて
涅槃での在り様を極める
そのすべてから遠く離れて
涅槃での在り様を極める
現在過去未来の色んな仏さんも
般若波羅蜜多に依ればこそ
この上ない真実の悟りを得てるんだな
般若波羅蜜多に依ればこそ
この上ない真実の悟りを得てるんだな
何度も出てくる「故」を何処に掛けるかで色んな訳となりさう
阿耨多羅三藐三菩提は何の意か勉強してゐないので丸写し
阿耨多羅三藐三菩提は何の意か勉強してゐないので丸写し
故
知、般若波羅蜜多
是 大神 呪
是 大明 呪
是 無上 呪
是 無等等 呪
知、般若波羅蜜多
是 大神 呪
是 大明 呪
是 無上 呪
是 無等等 呪
能除一切苦
真実不虚。
真実不虚。
それゆえに人は知るべきです。大いなる真言、明らかな真言、この上ない真言、比べるものがない真言は、一切の苦しみを取り除いてくれる、虚しくない真実なのだと。
だから知ってほしい
般若波羅蜜多を。
大ひなる神の言葉
大ひなる明かりの言葉
この上ない言葉
比類なき言葉
般若波羅蜜多を。
大ひなる神の言葉
大ひなる明かりの言葉
この上ない言葉
比類なき言葉
一切の苦を取り除くことができる
虚ろでない真実
虚ろでない真実
(一般的な「真実であって虚に在らず」といふ読み下しに従ひて訳したが、「空」を説くに当たりて、「真実は(空なりて)虚ならず」即ち、「真の実相である「空」は「虚」ではないのだよ」といふ解釈とも取れるやうに訳した
故
説、般若波羅蜜多 呪。
即説 呪曰
羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。
説、般若波羅蜜多 呪。
即説 呪曰
羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。
智慧の完成においてその真言は次のように説かれました。
渡ろう、渡ろう、彼岸に渡ろう、すべてを越えて彼岸に渡ろう、そこにある無上の目覚めに幸あれ!
だから唱えよう 般若波羅蜜多の言葉
さう、この言葉を唱えやう
ガーテー・ガーテー・パーラーガーテー・パラサンガーテー、ボーデーソーワカ
乗り越へる、乗り越へる、完全に乗り越へる、すべてなるものを完全に乗り越へる、ああ目覚めの幸福感!
さう、この言葉を唱えやう
ガーテー・ガーテー・パーラーガーテー・パラサンガーテー、ボーデーソーワカ
乗り越へる、乗り越へる、完全に乗り越へる、すべてなるものを完全に乗り越へる、ああ目覚めの幸福感!
「羯諦」以下はサンスクリットの音写(当て字)。般若波羅蜜多も同様。羯諦は英語で言ふとgoneださうだ。「行く者よ」といふ訳もよく見る。「度一切苦厄」で「度」を「乗り越へる」としたので合わせてある。
空海は最初の羯諦を声聞の悟り、二つ目を縁覚の悟りなどとしてゐる。何れにしてもここは呪文であればこそ音写になってゐる処で、密教的である。訳してみたものの、「感じが出ない」と相成りたものとお察しする。
で、実際訳してみたが如何であらうか。かなりヤバい。逝きてしまふてゐる。
空海は最初の羯諦を声聞の悟り、二つ目を縁覚の悟りなどとしてゐる。何れにしてもここは呪文であればこそ音写になってゐる処で、密教的である。訳してみたものの、「感じが出ない」と相成りたものとお察しする。
で、実際訳してみたが如何であらうか。かなりヤバい。逝きてしまふてゐる。
般若心経
以上で智慧の完成した心の教えを終わります。
目覚めを生き生きと伝へる。