響きblog
機が熟すを待つ
最終更新:
匿名ユーザー
-
view
機が熟すとは?
因縁と因縁が重なり合い、いよいよ最後の因縁を待つばかりになった時。
因縁と因縁が重なり合い、いよいよ最後の因縁を待つばかりになった時。
機は熟すのか?
因縁は変えられない。しかし因果は変えることができる。
果とは、因縁によって起こったことの現れ方。
つまるところ、その価値である。
因縁は変えられない。しかし因果は変えることができる。
果とは、因縁によって起こったことの現れ方。
つまるところ、その価値である。
価値は変えることができる。
なぜなら価値は実ではないからだ。
だから因果は変えることができる。
そうすれば、新しい因縁が生まれる。
(この因縁は自らに由がある。そこに自由がある。)
なぜなら価値は実ではないからだ。
だから因果は変えることができる。
そうすれば、新しい因縁が生まれる。
(この因縁は自らに由がある。そこに自由がある。)
今、果は変えられると言ったが、本当のところ果は無い。
だからこそ変えることができる。
あるのは真実ただひとつ(だからこそ真実という)。
智(精神)と理(物理)を超えて、大日如来ただひとつ。
智も理も超えてこそ時間もその中に含むであろう。
だからこそ変えることができる。
あるのは真実ただひとつ(だからこそ真実という)。
智(精神)と理(物理)を超えて、大日如来ただひとつ。
智も理も超えてこそ時間もその中に含むであろう。
真実は得ることができるのか?
智と理を超える方法であればできる。
智を超えるということは知ろうとしないこと。
理を超えるとは感じようとしないこと。
これが秘である。
智と理を超える方法であればできる。
智を超えるということは知ろうとしないこと。
理を超えるとは感じようとしないこと。
これが秘である。
そのような秘なる覚(観?)はあるのか?
ある。自分が自分自身についてそうではないか。
ある。自分が自分自身についてそうではないか。
あなたはあなたがいるということを、
智によって知ることもできるし(例えば精神)、
理によって感じとることもできるだろう(例えば五感)。
しかし、それが全てだろうか?
振り返ってみれば、あなたはあなたにとってただ然りという他ない。
智によって知ることもできるし(例えば精神)、
理によって感じとることもできるだろう(例えば五感)。
しかし、それが全てだろうか?
振り返ってみれば、あなたはあなたにとってただ然りという他ない。
即ち、智と理を超えるということは、
分かりやすく言えば、一体になるということ。
正確に言えば、そのものになるということ。
これが蜜である。
分かりやすく言えば、一体になるということ。
正確に言えば、そのものになるということ。
これが蜜である。
私というものはない。
私は果に過ぎない。
何度も言う。真実はただ一つだ。
私があって、真実があるのではない。
大日如来が自ずから然る。
私は果に過ぎない。
何度も言う。真実はただ一つだ。
私があって、真実があるのではない。
大日如来が自ずから然る。