響きblog
サービスを提供する人達は、たぶんみんな、知らない相手を信頼するのに疲れてる。
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hibiki
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レジデント初期研修用資料
2008年01月16日
「自閉する道具としてのインターネット」
今はまだ法律の問題があるから不可能だけれど、「西洋薬箱」のサービスをやってみたい。
契約結んだ人の自宅に、日曜日の救急外来に置いてある程度の薬、体温計と、電話回線で飛ばせる聴診器、人体に番号を振った地図、あとは体のあちこちを押して、圧力を測定する「触診器」を詰め合わせにして置いてもらう。
1年間、24時間、携帯電話で、医師に電話をかけ放題。調子よかったら、薬箱を引き継いで、もう1年契約を伸ばすルール。
遠隔診療はいいかげんになってしまうけれど、「さっきからお腹が痛いんですが?」という問い合わせが来たら、「7番の場所を、250gぐらいで押してみて下さい。痛いですか?」なんてやりとりをした上で、薬箱から特定の薬を使ってもらう。きっと便利。
鳥インフルエンザみたいな疫病が問題になってきたら、タミフル求めて患者さんが病院に殺到して、そこで感染するのは避けられない。不完全だけれど、「病院にいかないで医師にかかる」手段というのは、あってもいいと思う。
日曜日の救急外来は、天気が良いと150人ぐらいの患者さん。実際問題、それだけの人を診て、入院が必要だったのは6人。残り144人の人達は、「薬箱」があれば、電話で十分なはず。
問題点
救急外来に来る人の症状とか診断手法、それに対する対処方法は、大体がパターン化していて、もうこの10年、使う薬も変わらない。「良くならないなら病院にかかってください」で逃げていいなら、遠隔診療はそんなに難しくはない。
問題になってくるのは、何といっても相互信頼。
電話の先にいる医師は、すべての問い合わせに「大丈夫ですよ」なんて答える阿呆かもしれないし、契約結んでしまったら、あとはしらばっくれて「病院にいったらどうですか?」なんて返事しかよこさないかもしれない。顔が見られないから、医師の「質」を保証するすべがない。
医者側もまた、リスクを背負い込む。プリペイド方式で「問い合わせは年間20回まで」なんて上限設けたら、たぶん年末は一睡もできない。「問い合わせ一回○円」をやったなら、今度は返答の質を保証する責任が発生するし、料金回収の問題を避けて通れない。
結局大切になるのは、裏切り者排除のシステム。患者側も、医者側も、お互い「自分は信頼できる」ことを保証できないと、「薬箱」は動かない。
「電話かけ放題」の持つメリット
お互い信頼できるなら、「電話かけ放題」のやりかたは、たぶん一番効率がいい。
患者さん側は、納得いくまで電話かければいいのだし、医者側がいいかげんな対応したら、また電話がかかってくるのは明らかだから、ルールが自然に努力目標を決定する。
締め切り効果が出現しないから、サービスに満足感を得た人は、たぶん年末になっても電話の頻度を変えないはず。
たとえばこんなサービスで、年間1000万円を集めようと思ったならば、一人あたり20万円、50人の契約者を確保することになる。みんなが週に1回程度電話するとして、医師は1日に7回程度、電話で「診療」を行えば済む。恐らくこの数はもう少し増やせて、「契約料」はもう少し抑えられるはず。
同じようなサービスを、セコムみたいな大手が一般向けに展開したら、たぶんこの程度の金額ではすまないし、莫大な責任が発生するから、契約書も厚くなる。
「信頼できる閉鎖系」で行う商売は、「開放系」で仕事をする企業には絶対に追いつけないし、特に「かけ放題」を実現するのは不可能に近い。契約には、付帯事項が山ほどつくから、ユーザーの満足感は高くならない。
「かけ放題」ルールはその代わり、ただ一人でも「裏切り者」が入り込んだ時点で医師が潰れて、システム全体が動作不能になってしまう。
相互信頼と「信頼系」の大きさ
サービス業は、たぶん一人が相手にできる「系」の大きさが決まっている。サイズのミスマッチを起こすと、その人は食べていけないか、燃え尽きてしまう。医療を含めたあらゆるサービス業で同じなんだと思う。
研修医だった10年前、「虎ノ門病院」とか、「聖路加国際病院」といった有名病院は、みんな名前だけは知っていても、そこがどんなところで、どんな医療をやっているのか、何の情報もなかったし、話題にもならなかった。患者さんもきっと、よほどの目鼻が聞く人でもなければ、状況は同じ。
こんな「小さな世間」こそが、「一般医」なんて無茶な職業を成り立たせていた。ネットが普及して、みんな病院を比較して、医師を取り巻く「世間」の大きさは、何倍にも大きくなって、どこかで限界を越えた。
専門医志向が強まったり、眼科や皮膚科みたいな「全身を診られない」科に進む人が増えたのは、要するに目が効く人達が、大きくなりすぎて破綻した信頼系を目の当たりにした結果なんだと思う。
インターネットは世界の距離を縮めた。患者さん側からはいろんな医師が見えるようになったけれど、医師の側からもまた、いろんな人が見えるようになった。きっとこれから、いろんな分野で「信頼の閉鎖系」だけを対象にしたサービスが出てくる。サービスを提供する人達は、たぶんみんな、知らない相手を信頼するのに疲れてる。
「閉鎖系」に加わった人達は、その中で安価なサービスを享受できて、そこに加われない、自らの信頼性を担保できない人達は、山のような契約書にサインしないといけない。アメリカなんかでも、富裕層向けの健康保険は安価でいいサービスを提供できるのに、貧困層向けの保険商品は、掛け金のわりにサービスが悪いらしい。それもたぶん信頼の問題。
信頼の輪の中に入るには、「私にはその資格がある」ことを証明しないといけない。昔はそのために財力を誇示するしかなかったけれど、今はその人が持つ面白さとか、信頼なんかがそのまんま通用する「輪」がどこかにあって、それを検索することもできる。
これからはたぶん、様々な信頼系に乗り入れるための「パスポート」として、Weblogでの発信みたいな行為に、実用的な意味が出てくる。
信頼貨幣としての「複雑さ」
単純に面白い文章を書くやりかたと、「名刺」を意識した文章の書きかたは異なるのだと思う。それを両立させている人は少なからずいるけれど、面白いのにそこから「力」を生み出せない人も、また多い。
「信頼」が通貨として流通可能になるネットワーク時代、実際持っているお金の量と、その人の社会での立場、あるいはその人が書く文章の面白さとか、「名刺力」みたいなパラメーターは、相互に「両替」可能なものとして通用するようになる。
「面白い」人は、たぶんいろんな信頼系を横断できるから、同じものを手に入れるのに安価で済んだり、自らの信頼を証明するコストが低い。それは結局、富を持っていることと等価になる。
「富としての価値」に繋がる文章と、面白い文章をたくさん書いても、それが信頼に結びつかない人との違いというのは、たぶん文章の「複雑さ」の演じかた、「欺瞞のスタイル」を意識することの有無なんだと思う。
面白いエピソードをただ並べたり、思ったことを素直に見せるだけのやりかたは、それがどれほど豊富な内容であっても、その人の「顔」が見えてこない。作者の顔がはっきり見える文章書いてる人達は、みんなそれぞれに工夫した欺瞞のスタイルを作っていて、それを意識しながら文章を書いている。
方向性の定まらない、乱雑な断片は、「無秩序」であっても「複雑さ」を生み出せない。複雑さというのは、秩序と無秩序との間にあって、秩序の量=エントロピーの考えかたでは表現不可能な何か。
ネット時代、「お金」と「立場」と「面白さ」と、とにかく何かの手段で「複雑さ」を生み出せる人は、それを通貨として、自らのために利用できるようになる。
その状態は裏を返せば、富をもっていない人、ネットで発信を行っていない人、「検索」不可能な人というのは、そもそも世の中にいないのに等しい状態。探す道具としての、見つけてもらう道具としての、ネット世間での発信は、きっとこれから、もう少しだけ切実になるような気がする。
投稿者medtoolz:2008年01月16日16:17