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目次

アイヌ語


 アイヌ語は日本語とは全く異なる言語だといはれてゐると、大野晋などが書いてゐた。變だとは思ひながらそんなものなのかと濟ましてゐた。しかし、最近では、繩文時代の日本語が殘つてゐるのではないかと考へられてきてゐるやうだ。
 或る人がいふには、金田一京助がアイヌ語は日本語と無關係と言つたさうである。金田一は、アイヌ人はヨーロッパ系の民族だと信じてをり、従つて、言語も日本語と同系統であるはずがないとしたといふ。
 何の根據もなく斷定したのだが、アイヌ語研究の先覺者が言つたので、それが通説となつたといふことらしい。「何の根據もなく」と書いたが、「アイヌ人はヨーロッパ系の民族である」といふ根據があると言へなくもない。しかし、「日本語とは全く異なる」という點についての具體的な檢證は缺けてゐたのではないか。

 人はとかく斷定したがる。狹い自分の経験から、何とか全體を推し量らうとする。それはそれで構はないので、そこから發展させていけばいい。
 問題はそれを聞いた方で、ああさうですかと根據もなく鵜呑みにしてゐてはいけない。
 とはいへ、聞いたことを何から何まですべて先づは疑つてかかるといふ譯にもいかないだらう。そんなことをしてゐたらきりがない。とりあへずは承りつつ、批判精神は持ち續けるといふことしかないのか。

H18.3.19

二重否定


 なに小唄だつたか、「雪にかはりはないぢやなし」といふ文句があり、「ないぢゃなし」では「ある」になつてしまふから、「あるぢゃなし」でないとをかしいと思つてゐた。

 しかし、もし、「ないぢやない」と現代調でいふと、二重否定でなくなり、「ない」といふ意味になつてしまふ。「何々ぢやない」と疑問文風に言ふと、反語的な響きを持ち、肯定することに贊同を呼びかけてゐる感じになる。發見の感動を込めていふと、斷定的な響きをもつ樣にもなる。また、「ではないか」も、同樣に、完全に肯定するのに使はれる。この違ひは何なのか。

 「ぢやない」或は「ではない」は、普通にいふと、單なる否定になるのは、「なし」と古典調でいふ場合と同じである。現代語では「ない」を反語的に使ふ用法が出來たといふことか。

H17.6.1

歌詞と旋律


 テレビでヒット曲の歌詞を覺えているかどうかといふのをやってゐた。平井堅の「瞳を閉ぢて」といふ曲で、「瞳を閉ぢて、君を描くよ、それだけでいい」の「それだけでいい」といふ文句を當てられない人がかなりゐる様だつた。
 ごく最近のヒット曲なのになぜかと思つたが、なんとなく分る気もする。「それだけでいい」の「それ」の部分の旋律が、普通にしゃべるときのアクセントと違ふのだ。日本語のアクセントは高低アクセントなので、言葉のアクセントとメロディーが異なつてゐると、不自然で頭に入りにくいのではないか。そのため、「それ」がなかなか出てこないのではないか。
 隨分昔の話だが、「こんにちは赤ちゃん」といふ歌がはやつたことがある。その時、或る人が、この歌は覚えやすいと言つてゐたのを思ひ出す。旋律が言葉のアクセントと一致してゐるので覺えやすいのだと思ふ。

H17.1.6

かな表記は頭に殘らぬ (H20.8.15)


 買ひ物に行つたら店員の名札が假名で書いてあつた。なにかしつくり來なかつたものの、その時はそれなりに分つたつもりでゐたが、一時間後に歸つて來たらもう思ひ出せない。
 もし、漢字で書いてあつたなら、こんなことはないだらう。漢字の像が頭に燒きついてゐて、一時間やそこらは殘つてゐる。

 支那で先に文字を発明したのが入つて來たので、日本人は漢字を使ふ羽目になつた。それがたまたま表音文字でなく表意文字であつた爲、をかしなことになつた。
 ひとつは訓讀みの發生である。これは、例へば英語の「rain」を「あめ」と讀ませるのと同じで、ある國語學者は日本人の發明と書いてゐたが、實は朝鮮の眞似である。

 漢字は表意文字であるから、音は勝手に變へてもいいのであり、すべてこの手でいけばよかつたのである。しかし、なかなかさうはいかなかつた。
 訓読みだけでなく、音讀みと稱する讀み方が普及することになる。これは支那語が日本語に入つたといふことである。

 結局、日本語は支那語と原日本語のクレオールの樣なものになつた。ここで、原日本語と呼んだものも、もともと、いくつかの言葉からできたものなのであらう。

 いい惡いはともかく、それが現實なのであり、日本語から漢字を外すことは出來ない。少くとも、日本人は、漢字の像によつて言葉を理解してゐる。口語においてすらさうである。ここで口語と言つたのは、話し言葉の意味である。よく、古典文語に對して現代文語(文章語)を「口語」と稱してゐるが、その意味ではない。
 漢字の力のお陰で、日本人の理解力、記憶力は優れたものになつてゐるのではないかと思ふ。また、漢字かな交じり文のお陰で、文章も非常に讀みやすくなつてゐる。
 アルファベットを使つてゐても、文章を讀むときは、単語を一つの塊として認識してゐる。つまり、単語が一個の漢字みたいなものである。それゆゑ、イギリスでは発音が變化してゐても、綴はなかなか變へられない。
 漢字は一字で一単語を凝縮して表してをり、一旦覺えれば、アルファベットなどより強力であることは間違ひない。

 韓國では漢字を止めてハングルのみにしてゐるといふ。朝鮮語にも、日本で音讀みと稱してゐる讀み方が入り込んでゐる樣であるが、だとすれば、日本で漢字を止めるのと似たやうなことになるのではないか。
 或は、漢字の像に頼らない新しい言語が創造されていくのか。と言つてみても、現在の朝鮮語の漢語由來の言葉をすべて止めてしまふ譯にはいかないだらう。
 漢字を知つてゐる世代がゐるうちはまだいいが、ハングルしか知らない人ばかりになつた時に、一體どうなるのであらうか。よそ事ながら心配である。

縦書の効用 (H21.4.19)


 パソコンで日本語を讀むのは讀みにくい。ひとつには文字間や行間が適切でないといふこともあらう。フォントの問題もある。畫面では通常ゴシックにしてゐるが、明朝體と比べると、ぱつと見たときにすぐ分る感じがしない。また、根本的に、ディスプレイは光るから疲れる樣な氣がする。

 ところが、青空文庫 (http://www.aozora.gr.jp/) の作品をあるソフトで讀んだら、意外に讀める。字を少し大きくしたり、明朝體にしたりはしてゐる。しかし、明朝體とはいつても、ディスプレイ上であるから、ゴシック體より少し細い程度で、縦横の線の太さの差もあまり分らない程度である。詰るところ、縱書きのせゐなのではないかと思つた。
 若い世代だとこんなことはないのかも知れぬが。

常用漢字をまだやめないのか (H21.5.18)


 常用漢字をまたいぢらうとしてゐる樣である。當用漢字の時代からさんざん弄り散らして來たが。
 どの漢字を追加しようとか、この漢字は惜しいが止めておかうとか、もういい加減にしたらどうか。使ひたい漢字を勝手に使へばいいのである。國にそんなことを決める權利も義務もない。言葉は傳統であり、國であれ學者であれ勝手に弄ることは出來ない。傳統に從ふしかない。

 漢字は歐州系の外來語と違ひ、深く日本語の中に食ひ込んでをり、日本語の造語成分になつてゐる。いはゆる外來語にはそんな力はない。
 それ以前に、日本人は會話においてさへ漢字の力で理解してゐる。すなはち、耳で聞いた音から漢字の像を頭に描いて、その像により理解してゐる。であるから、漢字なくして日本語は成立しない。

 最近、テレビが皆字幕を出してゐるが、これを見れば如何に日本人が文字に、すなはち漢字に頼つてゐるかが分るといふものである。
 歌手にしてもタレントにしても發生練習など全然してゐないから、字幕で補つてやらないと何を言つているのか分らないのだらうが、これはさすがにやり過ぎで、目障りでしようがない。漢字が出てゐると、ついそつちに目が行つてしまひ、他の画像が見えなくなつてしまふ。

日本語の「ない」は完全な否定ではない (H21.5.24)


 日本語の「ない」は完全な否定ではない。例へば、「お金がない」といふとき、全くない譯ではなく、十分にはないことを意味する樣である。英語であれば、この樣な場合、'I don't have enough money' などといふのではないか。
 十分にはないといふのは主觀的な判斷であり、正確に言へば、話し手にとつて滿足出來る状態ではない時にかう言ふのであらう。

 「開幕まであと三日しかない」といふ表現もある。否定的な表現ではあるが、三日はあることを認めてゐる譯で、ある意味では肯定ともいへる。
 さういへば、歌の文句で、「雪に變りはないぢやなし」といふのがあつたが、これは「あるぢやなし」が正しいのに、誰も文句を言はなかつた。日本人は否定表現が好きなのだらうか。

 實際、「それでいいのぢやない」などと反語的な表現で肯定する場合が非常に多い。
 また、何かを頼む場合、以前は、「何々して頂けませんか」などと否定形で問ひ掛けるのが普通であつた。近頃は單に「何々して頂けますか」などと言ふ人が多いが、非常に違和感を覺える。

 否定形で問ふのであるが、逆に肯定での反應を期待してゐる。期待はしてゐるが、相手の都合が分らないから、一應否定形で問ふ。形式に過ぎぬかもしれぬ。また、相手を尊重するふりをしてゐて、實は下心があり、狡いとも言はれさうであるが、肯定的に言へば、日本人の奧牀しさの現れであると思ふ。

舐めるな「マニフェスト」 (H21.7.21)


 衆議院が解散して選擧になる樣だ。マニフェストなどと言つてゐる。
 いつ頃からか、マニフェストといふ言葉が横行してゐる。公約といふ言葉があるのに何故聞き慣れぬ言葉を使ふのか。
 公約は今まで散々反古にされてきた。その結果、「公約」と言つて掲げると、選擧用の「嘘」だと、條件反射的に思はれる。それで何か別の言葉を用ゐる必要を感じたのだらう。そこでたまたま外國でこの言葉が使はれているのを知つて飛付いたといふところか。

 しかし、「マニフェスト」と言はれて、信用する人がゐるだらうか。公約よりもつと信用しないのではないか。何と言つても輕い。カタカナ語といふのは中味が感じられない。漢字できちんと書いてこそ意味がしつかり定着する。眞意を覺られたくないとき、或は、何も中味がないとき、カタカナ語で煙に巻く。人を舐めるのも大抵にしろ、である。

東京辯はなぜ東北辯と違ふか (H21.9.22)


 東京周邊の地域、例へば、千葉縣、神奈川縣、或は多摩などの人の喋るのを聞いてゐると、意外に東北辯に似てゐる。

 もつとも、東北辯はどんなものかよく知らないで言つてゐるのであるが。シとス、チとツを區別できないとか言つてゐる樣であるが、區別できないとすれば、もともと區別していないと云ふことであらう。例へば、壽司をスシでなく、ススまたはシシと理解してゐるのである。或は、音がよく似てゐるため、他の方言の人には聞分けられないと云ふことかも知れない。英語の微妙に異なる母音を、なかなか聞分けられない樣に。
 それは兔も角、東北辯は、濁音が多い、鼻音が多いといふ印象がある。昔は、東京辯でも、助詞の「が」を鼻にかけて發音してゐた。アナウンサーや俳優はそれを練習させられた樣である。まだ鼻音が出來ないとお叱りを受ける俳優もゐた。最近は、しかし、東京出身と言つてゐる人でも、鼻音でない人が多い樣であるが。
 それに加へて、獨得の抑揚とリズムがあるやうに感じられる。リズムに關しては、長音が多い樣な氣がするが、微妙な音の變化が聞取れず、一音の長音である樣に聞えるだけなのかも知れない。

 本題に戻ると、意外だと言ふのは、東京周邊はもともと東京辯で、東北辯は北關東以北の方言かと、なんとなく思つてゐたからである。それにしても、東京辯と東北辯の差は、東京人が言ふ程大きいとは思つてゐなかつた。東京から青森まで、徐々に變化してゐるのだらう位に思つてゐた。
 しかし、實際は、東京だけが特殊で、それ以外の關東、東北は、すべて東北辯なのである。と云ふことは、もともとは、東京も含めて、關東、東北はすべて東北辯と大きく括られる方言だつたのではないか(或は關東辯と呼んでもいいが)。それが、東京だけが變化し、周邊はすべて東北辯の儘殘つたのではないかと思はれる。しかし、何故、東京だけ變つたのか。

 東京は、江戸の時代に徳川家が入り、また、全國の大名が屋敷を構へた。そこでいろんな方言が混ざり合ひ、各地の人間が理解出來る樣に江戸辯が出來たのであらう。その際、當時は、關東は遲れた地域との認識もあり、また、支配者が關東出身ではなかつたこともあつて、關西系の方言の影響を大きく受け、東北辯から大きく變つてしまつたのではないか。
 その際、どうも、言葉そのものよりも、發音が大きく變つた樣に見える。發音は、關西辯と大差なく、東北辯とは少々異なる。言葉は、例へば、否定に「ない」を使ふとか、關東、東北の特徴が殘つてゐる。會話するとき、音が聞取れないとどうにもならないが、聞取れれば、言葉の少々の違ひは何とかなると云ふことなのであらうか。

 東京辯は、今日では、東北辯をズーズー辯などと言つて馬鹿にしてゐる。その割に、關西辯は馬鹿に出來ないでゐるのは、東京辯自體が、關西辯を取込んで東北辯から拔出て出來たものであるからであらうか。

「よろしかつたですか」はなぜ變なのか (H21.10.10)


 テレビで「よろしかつたですか」といふ言ひ方の是非を論じてゐた。結局、あまりよろしくないといふ結論になつた樣である。

 その途中で、大學の先生といふ人が出てきて、これはまともな表現で、「た」はぼかして言つてゐるのであるとのたまはつてゐたが、これはをかしい。全く逆で、「た」は確認の氣持を表してゐる。だから押しつけがましく聞えるのである。「どいた、どいた」などといふと、相當、押しつけがましい。

 ところで、日本語には、もともと、過去も未來もない。「た」は、歐文の過去形の飜譯に利用されてゐるので、過去や完了の助動詞などと學校文法で敎へてゐるが、勘違ひも甚だしい。確認なので、過去のことによく使はれるだけであり、それ自體が過去を表す譯ではない。「明日、雨が降つた場合は」などと、未來のことでも構はない。

 そもそも、「よろしい」といふ言葉もなんとなく氣になる。普通は、上の人が下に向つて使ふ言葉である。例へば、部下が上司に向つて、「これでよろしい」などとは言はない。ただ、「これでいいでせうか」といふところを、「これでよろしいでせうか」とぼかして言ふのはありさうである。
 「よろしい」といふのは、「よい」とは違ふ。よくはないが、「可」であるといふ程度である。下から上に言へないのは、その為であらう。しかし、「よいでせうか」と訊きたい時には、へりくだつて「よろしいでせうか」と言へるのである。
 しかし、これに「た」がつくと、押しつけがましく聞える。よろしいかどうか判斷するのは、話し手ではなく、言はれる方であるのに、その判断を、言ふ方が先にしてゐる感じなのである。

 さらに、「よろしかつたですか」と言はれると、「本當によろしかつたのですか。實はよろしくなかつたのではありませんか」と問はれてゐるかの樣な感じがする。「た」といふ確認の意味の言葉がわざわざ入つてゐるがために、そんな印象を受けるのである。

 日本語では、人にものを頼むとき、「何々していただけませんか」と否定形で問ふ。さう問はれれば、「いや、致しませう」と言ひたくなる。最近は、「何々してくれる」などと言ふ人が多いが、あまり快くはない。さういふ心理が、人間には、少くとも日本人にはある。「何々してくれる」といふのは、もしかすると、英語などの直譯の影響であらうか。しかし、英語でも、Would you などと言ふのが普通であり、普通のぶしつけな疑問文ではないのである。
 これに對し、「よろしいでせうか」といふのは、純粹の質問であり、依頼ではないので、これで構はないと思へる。しかし、そこに「た」が入るとをかしくなるのである。

中國語、韓國語とはなんぞや (H21.10.17)


 日本では、今、中國語といふ言葉が通用してゐる。國號は中國に變つたかも知れぬが、言語まで變へたのか。變へてないのなら、昔の通り、支那語と呼ぶべきであらう。
 朝鮮語のことは、韓國語と言つてゐる。北朝鮮の人が聞いたら怒らないかと心配になる。それとも、北朝鮮は、北鮮語で別の言葉だとでも言ふのか。

 言語といふものは、國とは無關係である。南米では、スペイン語やポルトガル語が使はれるが、アルゼンチン語とかブラジル語とは、少くとも日本では言はない。支那では王朝はいろいろ變つたが、言語はずつと支那語である。

 「支那」や「朝鮮」が「差別語」だといふことで使へないらしい。
 支那や朝鮮を差別してゐる人は使ふべきではなからう。しかし、さうであれば、何と呼んでも同じなのである。中國や韓國と呼んでも、ただ言ひかへてゐるだけであり、差別の氣持があれば、同じことである。問題は氣持であり、どう呼ぶかは關係ない。

 しかし、敢て云へば、差別がそんなに惡いのか。例へば、イギリス人とフランス人は互いに惡口を言つてゐる。風俗習慣や考へ方が多少違ふから、そこを揶揄してゐるのである。とはいへ、本氣で馬鹿にしてゐる譯でもなからう。基本的には、同じヨーロッパ人として認めてゐる。しかし、みんな同じになつては困るので、違ひをきちんと認めあつてゐるのである。

 日本人は、支那や朝鮮には敵はないと、もともと思つてゐる。それが、たまたま、西歐化に先んじたものだから、のぼせ上つてしまつた。元々の劣等感の裏返しの優越感である。しかし、西歐化に先んじられたと云ふのも、思想の無さが齎しただけとも言へる。

 日本人がおよそ抽象的思考が出來ないことは、特異的と言へるくらゐではないか。目に見えるものしか信じないし、信じようともしない。あの世などと言葉では言ふが、誰も信じてはゐない。佛敎徒もキリスト敎徒もゐるが、詰るところ、現世利益を期待してゐるだけである。いつも、今日の飯のことしか考へられない。

 しかし、この無思想、無節操が、日本人の傳統であり、一種の「思想」なのかもしれない。少くとも、抽象的思考を身につけようと努めてみても、野狐禪に陷るだけであらう。むしろ、現世利益追求に專心した方がいいのではないか。

敎師の驕り (H22.10.23)


 朝起きたら、「おはやう」と家族に挨拶する。たとへ目上でも、おはやうでいい。(義理の關係であれば、一緒に住んでゐても、「おはやうございます」といふかもしれないが)
 しかし、他人に會つたら「おはやうございます」と挨拶する。たとへ目下であつても、「ございます」といふのが普通である。

 先輩に、目下に對しては「おはやう」と答へる人がゐたが、少し違和感があつたのを思ひ出した。さういへば、世の中で先生と呼ばれる人達は、ございますを付けない樣である。相手が子供だから丁寧に言つては沽券に關はると思つてゐるのであらうか。それとも、あるいは、家族的な氛圍氣を出さうとでも思つてゐるのであらうか。

 まあそれ位の神経でないと敎師は出來ないといふこともあらう。しかし、その樣な驕つた氣持では碌な仕事は出來ないのではないか。

 日本で「おはやう」と答へるのがふさはしいのは天皇陛下だけである。天皇陛下が「おはやうございます」と答へたら逆にをかしい。また、軍隊は、なんと挨拶するのか知らないが、上官は部下に對しては丁寧な言ひ方はしないのであらう。しかし、一般人は常に謙虚な氣持を持ちたいものである。

口てい疫とはなんぞや (H23.2.6.)


 テレビニュースのタイトルに、「口てい疫」がどうのかうのと出たが、何のことか分らなかつた。結局、「口蹄疫」のことと分つたが。
 「口蹄疫」と書けば、蹄の字を知らない人でも、何となく、ひづめか何かだと分るであらう。しかし、「てい」などと書かれては、全く想像のしやうがない。

 さる神宮に行つたら、案内板はすべて新字體で書いてあつた。立派な書であつたが。

 常用漢字、またその前身の當用漢字なるものは、單に目安として決めただけと聞くが、新聞が、印刷が樂になると思つて飛付き、そのせゐか、国民が守らねばならぬものとの錯覺が一般化してゐる樣である。困つたものである。

お疲れ樣の發明 (H24.5.26)


 ある人が、最近は「お疲れ樣」とよく言はれるが、違和感を感じると言つてゐた。そして、昔は「ご苦勞樣」などと言つてゐたが、最近はこの言ひ方は目上から言ふ言葉とされてをり、普通に使ふと傲慢と思はれるらしいといふ(日本では、長幼の序は一應あるが、基本的に皆平等と思つてをり、目上であつても偉さうな言ひ方はしないのが普通である)。

 どうも言葉は段々と惡い使はれ方をする樣になる樣である。例へば、貴樣といふ言葉は今では相手をののしる時にしか使はれないが、元々はさうではなかつた。また、差別語といふのがあり、使つてはいけないとされてゐる樣であるが、大部分は差別する言葉ではない筈である。言葉はあるものを他のものから區別するために作られただけであり、そこに區別はあつても差別の意識などは込められてない。
 それがなぜその樣になるのか。よく使はれる言葉は、例へば喧嘩などの時にも使はれる。その時、相手に對する惡い感情を込めて言ふ。そこで、言はれた方は、どうかすると、その言葉自體に惡い印象を持つたりする。かうして、使ひ古された言葉には惡い印象が積重なつていき、終には專ら惡い意味にしか使はれなくなる。「貴樣」はののしる言葉になり、「ご苦勞樣」は見下した言ひ方とされる樣になる。その結果、惡い印象のない新しい言葉が代りに使はれる樣になる。

 「お疲れ樣」に關して言へば、主に歸りの挨拶として使はれてゐる樣に思ふ。歸りの挨拶は、昔は、「さよなら」で十分であつた。しかし、「さよなら」では丁寧さに缺ける感がある。それで、自分が先に歸る時は、「お先に失禮します」とか、「お先に」などと言つてゐた。ところが、相手が先に歸るときは「お先に」とは言へないので困る。仕方なく「さよなら」で間に合はせてゐた。そこに「お疲れ樣です」が發明されたのではないか。就職難時代になつて、若い人が會社組織に、以前にも増して、恐怖感を抱く樣になり、詰らぬところで上司の機嫌を損ねては馬鹿らしいと、「お疲れ樣です」といふ歸りの挨拶を作りだした。それが、破竹の勢ひでそれ以外にまで廣まつてしまつた。
 年寄は耳慣れぬものだから違和感を感じる。時々、「お疲れ樣」に對しても、目上から言ふ言葉で、目下が目上を労ふのはをかしいといふ人もゐる樣である。これも多分年寄の違和感からの發想であらう。しかし、何年かたてば耳にたこが出來て、何も感じなくなるのであらう。心の隅では變だと思ひながらも。かうして言葉は變つていく。