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チェスタトンの主張 (H25.6.23, H26.12.6, H27.6.6, H27.7.20)


内容
  • 絶對神を假定すると、決定論になる。それを避けるため、キリスト敎は人間に自由意志と理性を假定したが、その結果、己を神とする愚に陷つてゐる。
  • キリスト敎社會では、神たる人間は孤立し、技術開發で金を儲け、金がさらに開發を加速するといふ自動運動が始まり、誰も止められなくなつてゐる。無用の筈の科學も、技術を派生して一役買はされてゐる。

  • イエスは道徳や倫理を説いたのではない。貨幣が出來てから、競爭にあけくれる世の中であるが、人間本来の助け合ひの心を思ひ出せと叫んだだけである。しかし、劣等感に凝り固まつた弟子達は、新しい革嚢に舊い妬む神を満たして、守護神を絶對神にしてしまつた。
  • そして、絶對神の力により敵を地獄に落とさうとたくらんだが、その結果、裁く神といふ魔術を信者にかけることになつた。その果てに、生真面目なルターが天國行きを確實にせんと、救濟の方法を魔術から解放したが、逆に、神の裁きといふ魔術の完全な虜になつた。その結果が今日の資本主義全盛である。

  • あの世で裁く神とは迷信であり、神といふより悪魔である。悪魔は人格を失ひ抽象化されつつあるが、人々は今なほその魔術にはまつた儘である。未開人や異教徒は宗敎に騙されたふりをして、精神の集中に利用してゐる。「祭るときは神いますが如く」と言ふのは、本當は在さぬことが前提である。キリスト教社會は騙されまいとして騙されてをり、その自覺がないのが問題なのである。世界の諸惡の根源はここにある。

  • 道てふことなけれど、道ありしなりけりといふ日本の生き方は、イエスの理想に通じるものかもしれぬが、外國は弱肉強食の世界であり、甘いことを言ふと逆に怪しまれる。世界はさういふ所であることをわきまへた上で己の道を歩むしかない。



 死後に魂がなくなるとしたら、この世でもまともに生きていけない。人間が正しい判断が出來ないとしたら、日々の暮しもまともに出來なくなる。とチェスタトンは書いてゐる。

Gilbert K. Chesterton, 'Orthodoxy' VIII. THE ROMANCE OF ORTHODOXY (l. 5298)
With their oriental doubts about personality they do not make certain that we shall have no personal life hereafter; they only make certain that we shall not have a very jolly or complete one here.
With their paralysing hints of all conclusions coming out wrong they do not tear the book of the Recording Angel; they only make it a little harder to keep the books of Marshall & Snelgrove.
Not only is the faith the mother of all worldly energies, but its foes are the fathers of all worldly confusion.
The secularists have not wrecked divine things; but the secularists have wrecked secular things, if that is any comfort to them. The Titans did not scale heaven; but they laid waste the world.

 つまり、魂がしかとあるなら、それは永遠に存在する筈である。なぜ肉體とともに亡ぶのか。もつともではある。しかし、それでどうだと言ふのか。魂だけが宇宙に漂つて、或は天國に集ふのかも知れぬが、何をするのか。何が樂しいのか。勿論、すべては假説に過ぎず、誰も本當のことは分らぬので、大事なのは、その假説により世の中が樂しくなるかどうかである。或は、永遠の魂を信じれば、命を捨てる勇氣を得られると言ふ。しかし、永遠なのは己の魂でなくていい。己を超える何ものかを信じる必要があるだけである。
 チェスタトンは、いや、ヨーロッパ人は、存在は永遠でなければならぬと考へてゐる樣に見える。永遠でないものは假初めに過ぎず、存在したとはいへぬと思つてゐる。例へば、夢の中の人物の樣に。しかし、自分は今しかと存在してゐる。これをもし夢かも知れぬと言ひだしたら、何も議論出來ぬ。たとへそのうち覺めるとしても、現時點では、自分の存在だけは間違いないと假定するしかない。しかしその自分もいつかは滅びることも恐らく間違ひない。今まで皆さうであつたから。死ねば體は腐敗してなくなる。構成してゐた物質は不滅かもしれぬが。
 自己とは物質の集積ではない。物質は日々入れ代はる。しかし、自己は一貫してゐる。それを魂と呼んでゐる。魂は肉體とは別なのか。しかし、肉體が出來たときに魂も出來たのであり、切離すことは出來ない。肉體は魂の宿り場所にすぎぬのではない。肉體が魂であり、肉體が滅べば魂も滅びる。

 チェスタトンは、また、日々生活出來るのなら、そこそこの判斷をしてゐると云ふことであり、人間には理性が備はつてゐるのであると言ふ。確かに、獲物を捕まへられなければ食つていけない。どうやれば捕れるか考へてやつてゐる。事務員は帳簿をつけられなければ給料を貰へない。ちやんと計算してゐる。確かになにがしかの理性は備はつてゐる。それはしかし、動物も同じではないのか。生きるために眞劍に考へ判斷して行動してゐる。單なる本能に過ぎぬと云ふかもしれぬが。しかし、人間の理性も本能の一種であるとも言へる。
 とはいへ、人は間違へる。間違へながらも生きるために必死でやり直す。我々は間違へることを強調するが、チェスタトンは、それなりの認識が出來ることを強調する。それだけ無氣力な不可知論が横行してゐるのであらうか。本人も、十二歳の時は異敎徒で、十六歳では完全な不可知論者であつたと書いてゐるが('Orthodoxy' VI.) 。

 彼は改善や進歩を言ふ。理性により的確に判断し行動してゐるから進歩するといふ。本人もいふ樣に、それは理想があるからそれに向つての改善も考へ得るのである。不動の理想がなければ、進んだかどうか判定できない。彼の理想とは、例へば、徳と秩序の完璧な都市である。ここでなぜ都市が出てくるのか不思議である。寓意として言つてゐるだけのつもりであらうが、ヨーロッパの整然とした都市を理想とみなしてゐる氣持が出たのであらう。理想といつても、具體的で身近なものである。本當に不動の理想と言へるのか。整つた街路や建物が神の理想であると何故言へるのか。神はごみごみした町を好むかもしれぬではないか。或は、田舎暮しを理想とするかもしれぬではないか。

'Orthodoxy' VII. The Eternal Revolution (l. 4316)
And here again my contemplation was cloven by the ancient voice which said,
"I could have told you all this a long time ago. If there is any certain progress it can only be my kind of progress, the progress towards a complete city of virtues and dominations where righteousness and peace contrive to kiss each other.
An impersonal force might be leading you to a wilderness of perfect flatness or a peak of perfect height. But only a personal God can possibly be leading you (if, indeed, you are being led) to a city with just streets and architectural proportions, a city in which each of you can contribute exactly the right amount of your own colour to the many coloured coat of Joseph."

 チェスタトンは理想に到達出來るとまでは言つてゐない。しかし、近づいてゐると云ふことは、いつかは到達できると云ふことに等しい。到達できないのなら、いくら近づいた積りでも實は無限に遠いのであり、近づいたと言つても意味がないことにならないか。つまり、理想に一歩づづ近づけると思つた途端に、到達の可能性を肯定してゐることになるのである。さらに云へば、既に到達してゐるに等しい。
 ヨーロッパの都市は、完璧な都市を目指してゐるのかもしれぬが、その理想像は何かと云ふと、今の都市をモデルとしたものであり、それはつまり今の都市と本質的に變らない。
 ゼノンの二分法の詭辯と云ふのがある。何處かに行くには、そこまでの距離の先ず半分を行かねばならぬ。次に殘り半分の半分を行き、その次にまたその殘りの半分を、と次々に半分にして行くと、永久に目的地に着かぬといふ。ヨーロッパの理想はこれに似てゐるかもしれぬ。現實に見えてゐるものを到達不能の神の理想だと錯覺してゐる。と云ふより、牽強附會してゐる。
 或は、技術の華々しい勝利が念頭にあるのか。技術は、ピューリタニズムの變形である資本主義と結合して、自動運動を開始し、人類をあらぬ所に追ひやらうとしてゐる。足を使はず、自動車を使ひ、飛行機を使ふことが進歩であり、理想なのか。そんなことはない。ただ、際限のない金儲けの加速に役立つのみである。

 資本主義はピューリタニズムの生んだもので、カトリックは眞當であるとチェスタトンは言ふであらう。果たしてさうか。
 イエスは「下衣を取らんとする者には、上衣をも取らせよ」とか、「人に與へよ、さらば汝らも與へられん」、「富める者の神の國に入るよりは、駱駝の針の孔を通るかた反つて易し」、「明日のことを思ひ煩ふな」などと言つた。すなはち、孤立せず、助け合つて生きよ、さうすればこの世は樂しい。しかし、同時に、「カイザルの物はカイザルに、神の物は神に納めよ」とも言つた。つまり、普通の生活や金儲けを否定はしなかつた。
 敎団で共同生活してゐれば財産を捨てて暮していけるが、一般庶民はさうはいかぬ。イエスも元は、多分、大工をして暮してゐた。イエスは心の持ち方を言つたのである。生業にいそしんでゐても、孤立せず助け合ひの氣持を忘れるなと。道徳や倫理を説いたのではない。貨幣が出來てから、金にしがみつき、競爭にあけくれる世の中であるが、人間本来の心を思ひ出せといふ叫びである。ユダヤ敎の何々するなかれといふ戒律ではなく、本来の汝自身たれといふ生き方である。

 ところで、ロレンスは、「カイザルの物はカイザルに」といふ言葉で、イエスは、パンや權力を敵に讓り渡したと言つてゐる(D. H. Lawrence, 'Apocalypse')。そして、個人的自我のみ考へ、集團性を無視したのは明らかな過誤であると斷定する。しかし、個人的自我とは何か。『「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る」と録されたり』(マタイ傳)から、精神性が大事とイエスは言つたと考へてゐるのであらう。確かにさうなのであるが、精神性とは必ずしも個人的なものとは限らぬ。人間は集團で暮してをり、集團の中での自己のあり方が精神を支配する。集團を抜きにして精神もない。ロレンスの言ふ樣な純粹な個人など假想的なものでしかないのではないか。
 さういふ集團性を含む自我をイエスは問題にしたのである。イエスは、ユダヤ敎のひねくれた利己主義を脱却して、助け合ひの氣持を持てと説いた。そして、今、カイザルに敵對しても甲斐がないと無抵抗を決め込んだが、先づは心の持ち方が大事といふことで、決して無視してゐる譯ではあるまい。そのうちに國家も政治も變つて來るといふ魂膽なのであらうか。 

 弟子たちはイエスの言ふ意味が分らなかつた。明日のことを思ひ煩ひ、イエスの敎へを離れ、ユダヤ敎の傳統に從つた。イエスといふ新しい革嚢でローマに反抗したが、中味は舊いユダヤ敎であつた。ユダヤ人の劣等感から孤立し、裏返しの優越感から選民と思ひ込み、守護神を絶對視して己だけのご利益を求める世界である。ヤハウェに歸依すれば、選民としてご利益が得られると固く信じ、天の國も、イエスは譬へとして言つたのであるが、弟子達は眞にうけ、とにかく敎會に来れば選民になり天國に行けるとした。ユダヤ敎なら、生まれつきのユダヤ人は皆選民であらうが、キリスト敎では敎會に來れば選民になれる。
 そして、來世のご利益をより確實にと追究した擧句に到達したのが資本主義である。意識的には來世を狙つてゐるが、實質は、何故か、現世利益の確實化にすり替つてゐる。ただ、陰に籠つてをり、儲けても素直には喜べない。金など要らぬと寄附してやつと溜飮が下がる。
 カトリックのご利益は怪しげであつたので、プロテスタントが出てきたまでである。蛙の親は蛙である。實際、忘れがちであるが、ルターはもともとカトリック敎徒である。反抗したのは、己の救ひが敎會で保證されるかどうかの心配と、ドイツ人の金をローマに取られる心配の故であつた。カトリックの道を踏み外した異端といふであらうが、地獄落ちを脅されれば、より確實な救濟を追求したくなるのは當然である。心配しなくとも敎會が救つてやるからと言つてゐたのではあるが、ユダヤ・キリスト敎の常で、必ず選ばれぬ者が必要である。さもないと選ばれた有難味がない。魔女狩りもそのために行なはれた面もあらう。カトリックとて長閑な異教世界ではなかつた。選民の自覺により、己の我が儘を神の攝理と強引に主張する世界であり、プロテスタントと變はるところはない。浸透度はまちまちであつたかもしれぬが。

 チェスタトンは、カトリックの城壁に守られて異敎の樂園が生き殘つたと言つてゐるが('Orthodoxy' IX)、本當にさうか。異敎の快闊さがどこにあるのか。永遠の觀念に歪められ、倒錯した、見掛の快闊さしかない樣に見える。彼の言ふ通り、壁の中の自由でしかなく、本當の暢びやかさはない。
 保存されたのは、異敎の風習、外観と兇暴さのみである。しかも、兇暴さは、壁に守られて放し飼ひになつた。絶對の守護神に守られてゐると安心し、神の名のもとに惡事を犯す。或は惡と知りながら平然と惡を犯す。これは、とびきりの惡人でなくとも、一般人も皆さうである。金儲けにしても、惡と禁じられてゐるが、それでは生きていけないと、惡と思ひつつ惡を犯してゐる。別に惡ではないのであるが。ヨーロッパはさういふ倒錯の世界である。
 チェスタトンは、イスラム教徒の殘忍さを言つてゐるが、カトリックの方が餘程殘忍かつ野蠻ではないか。神に守られ、自己を神にして好き勝手をするといふのは、カトリックもプロテスタントもない。世界中でカトリック敎徒が亂暴狼藉を働いてきたことを、彼も知らないことはなからう。或は、キリスト敎の所爲ではないと考へてゐるのか。どうしてどうして、惡の極限を安心して追究出來るのは、キリスト敎に守られてゐるお蔭ではないか。
 もともと、カトリックの城壁などなくても異敎世界は安泰の筈である。しかし、世界にはいかがはしい宗敎まがひが無數に發生する。その防護にはなつたのであらうか。日本では、新興宗敎が雨後の筍のごとく出てくるが。
 ところで、文明は未開よりいいか。いいかどうかは誰も分らぬ、兩方經驗してゐない以上。ただ、一旦かうなつたものを容易に逆戻りは出來ぬだけである。しかし、貨幣のない時代はもつと長閑に暮らしてゐたのだらうといふことは確實に言へる。イエスが言ふやうな助け合ひの世界であつたのであらう。ユダヤ敎では、かつてのエデンが理想だといふのはこのことを言つてゐるのか。

 ヨーロッパでは、神は己の似姿として人間を創つたと言つてゐるが、逆に、人間が神を理想象として作つたのである。人間が己を元にして神を作つたのである。それ故かどうか知らぬが、彼等には神に少しづつでも近付かねばならぬといふ強迫觀念がある。近付けると云ふことは、つまり、神になれると云ふことになる。と云ふことは、既に彼等は神になつてゐるのである。神性を分有してゐるといふが、つまりは神だといふことである。
 仮想的なエデンが理想だといふのはいいが、キリスト敎はイエスといふ人間が神だつたといふ。一度は神の理想が地上に實現したと云ふことである。假説としてもいかがはしいが、これを文字通りに信じてゐるから、をかしなことになる。自己を絶對化するために、それが好都合だつたのである。
 ユダヤ民族の守護神であつたヤハウェをキリスト敎が絶對神に改造したのであるが、結局、己を絶對とする愚に陷つてゐる。絶對神といふが、自由意志や神の理性を人間に與へたとすれば、眞の絶對神ではなくなる。人間は神に近い存在となり、神は人間を超える存在ではなくなる。己に似せた神を作り、そして己を神にしてゐる。

 チェスタトンは、キリスト敎の神髓は、荒唐無稽な三位一體にあると考へてゐる( 'The Everlasting Man' CONCLUSION)。それは間違ひない。そして、三位一體が正しい理由として、劫初、この世を創る前に、父なる神は、もし子がゐなければ、何を愛したのか、と言つてゐる( 'The Everlasting Man' PART II, IV )。そして、ユニテリアンは結局不可知論に陥ると言ふ。
 三位一體について言へば、神に子がゐるかどうかは知らぬが、ゐたとしても、何故この世に現れるのか。何故かはともかく、現實に現れたのだと言ふのであるが、現れた、となれば、それはもう神でも絶對でもなく、八百萬の神々のひとりに過ぎぬ。
 キリスト敎は愛の宗敎といふ。ユダヤ敎以來、人は劣等感で孤立してゐるが、神の愛により人も神を愛し、神を通じて辛うじて他人も愛せるとする。となれば、人は愛さねばならぬ。なんとも囘りくどい話である。歪んだ、義務の愛である。孤獨と劣等感はそのままで、人を愛す。愛すといふが具體的に何をするのか。單に、他人の存在を認め、殺し合ふなといふだけか。

 絶對神を假定すれば決定論になる。すなわち、劫初に神が法則と境界條件を與へてこの世を始動したとすると、その後に起ることはすべて決つてゐることになる。それを避けるために自由意志と理性を假定すれば人間を神とすることになつて、絶對神は成立たぬ。しかし、人間に神の理性を假定しないと不可知論になる。チェスタトンの言ふ樣に、不可知論ではこの世に希望が持てず、改善も進歩もないか。
 目標がないから、當然、進歩はない。希望も、所詮は目標があつてこそ、それへの希望があり得るので、目標のない世界では希望などない。しかし、それがどうだと云ふのか。目標や希望の奴隷にならず、活き活きと暮せるではないか。
 ところで、目標のない江戸時代の日本を見ても、經濟は次第に發展してゐる。それを進歩とは決して云はぬが。變化ではあるが、よいか惡いかは分らぬ。變化しない方がよいのであらうが、人間は生きる以上どうしても勝手に活動して變化してしまふ。
 希望を持ち進歩をめざせば、人はそのための齒車になつてしまふ。何かを假想目標として勝手に頑張るのならいいが、初めからそのための道具として生まれるのでは困る。また、目標に近づいたとしてどうだと言ふのか。その目標は、例へば理想の都市は、何か価値があるのか。單に彼等の現實の延長に過ぎず、絶對的に価値のあるものではあるまい。本當に時代が變つても廢れないものなのか。例へば、四階建ての煉瓦建築を竝べた中世の都市は當時の最先端なのであらうが、今以つてさうなのか。ヨーロッパ人にとっては、或は、さうかも知れぬが、すべての人がさう思ふ譯でもあるまい。また、それが廃れたからといつて、どうだと云ふのか。

 チェスタトンは、アジア社會は停滯してゐると言ふ。

Gilbert K. Chesterton, 'The Everlasting Man' Part I, VI. The Demons and the Philosophers (l. 4509)
Now it is true that Christendom is more progressive, in a sense that has very little to do with the rather provincial notion of an endless fuss of political improvement. Christendom does believe, for Christianity does believe, that man can eventually get somewhere, here or hereafter, or in various ways according to various doctrines.
The world's desire can somehow be satisfied as desires are satisfied, whether by a new life or an old love or some form of positive possession and fulfilment. For the rest, we all know there is a rhythm and not a mere progress in things, that things rise and fall; only with us the rhythm is a fairly free and incalculable rhythm.
For most of Asia the rhythm has hardened into a recurrence.
It is no longer merely a rather topsy-turvy sort of world; it is a wheel.
What has happened to all those highly intelligent and highly civilised peoples is that they have been caught up in a sort of cosmic rotation, of which the hollow hub is really nothing.
In that sense the worst part of existence is that it may just as well go on like that forever. That is what we really mean when we say that Asia is old or unprogressive or looking backwards.

 その象徴として、キリスト敎の聖人は目をかつと見開いてゐるが、佛教の聖者は目を閉じてゐると言ふ('Orthodoxy' VIII)。これは、單に、坐禪する時に半眼になるだけであらう。坐禪は心を落着かせるための手段に過ぎぬ。
 チェスタトンは輪廻を意識してゐる樣であるが、これはインドに固有の思想に過ぎぬ。佛教にも侵入してゐるが、中心的敎義ではあるまい。華やかな裝飾の一部にはなつてゐるが。
 ヨーロッパは中世以來、實は、全く変化してゐない。コンクリートのビルも出來、高速道路も出來たが、人々の暮し方は變つてゐない。中世どころか、部族時代の傳統を受継いでゐる。魔法使ひに呪ひをかけられたかの樣に眠つたままである。ただ、眞理の布敎或は後進國近代化と稱しての自己の利益追究が益々貪欲になるばかりである。。
 ヨーロッパ文明に征服された日本は、自ら傳統を破壊して、右往左往してゐる。といつても、それが日本人の生き方なのかもしれぬが。
 日本の場合、進歩がないかも知れぬが、變化がありすぎる位である。時代、時代でがらりと變つてしまふ。室町時代は能が榮え、江戸時代は歌舞伎が隆盛を極める。しかも、それぞれが殆ど何の關係もないまま、まだ殘つてゐる。殆ど死に體であるが。そして、現代の芝居は、能や歌舞伎から養分を取ることも出來ず、未だに樣式も作れないまま、學藝會を繰返してゐる。

 絶對神はゐるとしてもこの世の外にゐる。ヨーロッパの神はこの世にをり、絶對神ではない。神は外にをり、この世のことは本當はすべて決定してゐるのかもしれぬが、人は何も知らずに必死に生きるしかない。人間が苦し紛れに勝手なことをする結果、世の中はいやでも少しづつ變化していく。ヨーロッパは不動の理想に向つて進んでゐる積りであるが、現實の姿を理想としてゐるだけで、その理想がやはり變つていく。しかし、本質的には何も變らず、同じ暮しが繰り返されてゐるだけなのではないか。
 自由意志で好き勝手にやつてゐるつもりでゐても、結局はお釋迦様の手のひらの中の孫悟空なのかもしれぬ。眞相は神のみぞ知るである。人はただ必死に生きていくのみである。

 チェスタトンの理性信頼と不可知論批判への反論をだらだらと書いて來た。特に、不可知論否定が氣になつてゐた。不可知論はごく當り前の考へであるが、人間に神の理性を假定することに何か飛躍的な利點があるのか。
 大木英夫「ピューリタン」(中公新書)によると、クロムエルは、革命軍のパトネー会議で意見が分れたとき、各々の意見は異なつてゐるが、それは神が各人に語つたことであり、神は矛盾の作者ではないから、共通の目的に対して方法が異なるだけであるので、討議により全體の方向を見出せる筈だと考へたといふ。確かに、人間の考へといつても、本當は神に導かれてゐるだけであるとは云へる。
 さらに、ミルトンは、人間は眞理の斷片は掴めるが、イエスの再臨までは決して全部を見つけることは出來ず、各人の掴んだものはまちまちであるが、すべてを尊重して、それらを繋ぎ合はせ、先に進む努力が大事だと言つたといふ。大木英夫は、これにより、自己絶對化を否定し、眞理に対して謙虚ならしめると同時に、眞理は捉へられぬいふ斷定も否定して、謙虚が虚無に転落するのも抑止できると言ふ。
 勿論、見えたものが全く幻影だと思つては何も考へられぬ。それなりに信じなければ行動できぬ。しかし、それが絶對に正しいとは誰も思はぬ。常にを觀察を怠らず、修正していかねばならぬ。全てはその時點での情報に過ぎぬ。その時點ではそれしかないから一應それに基づいて判断して行動するだけである。さういふ意味では、ミルトンが言ふやうに、掴んだ断片を信じて人間は行動してゐる。しかし、それで眞理に近づけるとは普通は思はぬ。また、眞理に近づけぬからと云つて絶望に陥ることもない。

 ここでちよつと氣になるのは、「眞理」と譯しているのは多分「truth」であらうが、眞理といふより眞實、事實程度なのかもしれぬことである。さう考へると、ミルトンの言ふことは尤もであり、常識的である。ただ、truthを眞理と解釋すると話が違つて來る。歐米では、具體的な話の延長線上に絶對や神がある。兩者の区別が定かではないふしがある。地球の果ては到達可能であるが、無限遠には行き着けない。それどころか見えもしない。

 それはともかく、ミルトンの樣な考へから科學が發達したのも事實である。自然の構造や法則を完全に見つけることは神ならぬ身には不可能な筈なのであるが、断片を繋ぎ合はせる努力により、眞理に近づけるといふ思想である。そして、今や、それが成功してゐると信じられてゐる。
 本當にさうなのか。實は、成功してゐるのは技術である。科學は假説に過ぎず、本質的に成功などあり得ない。また、證明もなされてゐない。といふより、證明出來ないのである。數學では、公理から出發して定理の證明がなされてゐる。あくまで公理を直觀により認めればの話である。科學の假説も公理の樣なものであり、證明は出來ない。ただ、今の技術で観測されてゐる事實に反しない樣に組み立てたといふだけである。従つて、技術の進歩により新しい現象が見出されれば、假説は変更されることになる。科學はそれを繰返して來てゐる。すなはち、科學は技術の進展により修正を余儀なくされる。別に進歩するのではない。
 科學は技術の變化を反映する鏡のようなものである。ギリシャの科學は當時の技術に基づいてゐるし、二十世紀の科學は二十世紀の技術を集約したものになつてゐる。それ以上のものではない。

 科學の勝利が信じられてゐるのは、科學の理論から新しい技術が生れたとされてゐるためであらう。原爆とか、トンネルダイオードなどがその例として挙げられる。確かに、科學の理論も關係してそれらが開発されたのであるが、單にひとつの論理的思考を提供したに過ぎない。開発するにはどうやればよささうかとか、何故うまくいかないかとか、因果關係を論理的に考へることが大事である。その方法のひとつとして科學の論理もあると云ふことである。
 開發の根本は實驗事實である。核分裂によるエネルギー發生が知られてゐたからこそ原爆も出來た。その實驗事實の解釋としてこそ相對論の理論も出來た。トンネルダイオードも、「接合の電圧・電流特性を測定中に負性抵抗特性を発見し、これが量子論で予想されるトンネル現象であることをつきとめた」とある(http://www.shmj.or.jp/innovation50/detail_D01.htm)。どちらが先かはともかく、開發に必須なのは事實である。負性抵抗特性が確認される発見があつたから開發出來たのである。事實を他の事實と繋ぎ合せたりする論理も勿論必要であるが、それは科學の獨占ではなく、先づは常識的な論理で事足りる。科學は見通しをよくしてくれるかもしれぬが、あくまで假説であり、事實により確認されてこそ意味があるのであらうと認識される。
 ものが出來たのは間違ひないが、科學の論理が當つたかどうかは分らないのである。出來たから當つてゐるのであらうと決め込んでゐるだけである。また、出來たものが本當に科學の理論に従つて動いてゐるのかどうかも、誰も知らない。また、それらにより科學理論が證明された譯でもない。一方に科學の理論があり、他方に開發があるが、兩者が本當に関係してゐるかどうかは何の證明もなされていない。風が吹いたら、たまたま桶屋が儲かつただけかもしれぬのである。往々にして、理論から發明がなされたから理論が正しいと證明されたかの樣に解釋されてゐるが、短絡である。矛盾はしない、否定はされないと云ふ程度の話でしかない。
 實際、技術の最先端を牽引するアメリカはピューリタンの國で、科學にはあまり興味がない。名門MIT (Massachusetts Institute of Technology) の名前からも分るやうに、技術開發に専念してゐる。科學は、どちらかといふと、カトリック國で趣味的に研究されて來た。日本人は「科學技術」といふ言葉が好きだが、英語ではその樣な表現は見當たらず、technologyとだけいふ。技術と科學は別のものである。

 科學は萬能であるかの樣に思はれてゐるが、自然法則についての假説に過ぎぬ。その前提である、自然が法則に從つて動いてゐるといふ考へも、勿論、假説であり、キリスト敎がもたらしたと言はれてゐる。しかし、キリスト敎でなくとも、虚心に考へれば普通に思ひ至ることではあらう。それよりも、神の作つた法則を知りたいといふ好奇心を生んだのが、絶對神への忠誠心なのかもしれぬ。忠誠心といふのは、詰るところ、ユダヤ敎以來の劣等感である。神の力で世界を制覇し復讐しようといふ孤獨な姿である。
 不可知論の否定から、近代科學が發達し、今日の技術の繁榮をもたらしたと考へられてゐるが、不可知論でも技術はいやでも發展する。支那でも技術の進展はそれなりにあつた。近代では、ピューリタニズムの末裔たる資本主義により、やたらと加速してゐるのは間違ひないが。そして、本當は、技術の進展が新しい情報をもたらし科學を修正させてゐるのである。しかし、いくら修正しても完全ではあり得ず、際限なく修正されていく。現時点で最新で正しいと信じてゐるかもしれぬが、何十年、何百年と経つと、昔はこんな馬鹿なことを考へてゐたのかと懐かしがられるのである。現代人がギリシャの科學について感じてゐる樣に。

 自然科學は技術が生んだ假説であり、無用の長物であるが、相對論や量子力學などから演繹して宇宙論や素粒子論などを展開してゐる。しかし、基本原理を公理として認めればのお話でしかない。
 正確には、「公理」に相當する部分が假説であり、すなはち科學である。公理からの演繹は、假説ではなく、従つて、科學ではない。幾何學も、公理から演繹してゐるだけであり、科學ではない。公理を認めればすべて決つてゐる筈であるが、人知が到つてゐない部分があるから探究してゐるだけである。それを究めようと云ふのは、一種の技術である。少くとも、自然の法則を知らうと云ふ行爲ではない。一般の技術の樣に、何かを作らうといふことではないが、假想世界を究めようといふ好奇心に基づいてゐる。しかし、純粹の好奇心ではなく、何かに役立つといふ下心もある。存在を許されてゐるのもその期待からである。すなはち、一種の技術なのである。
 ニュートン力學も色々な技術を派生した。すなはち、慣性の法則、運動の法則、作用・反作用の法則の三つを公理として、材料力學や流體力學等が展開された。これらを科學とは誰も言はない。
 この樣な技術的な探究が積み重ねられた結果として、ある時、新しい公理が提案され、科學がひつくり返る。例へば相對論の樣に。そして、その後しばらくは、その公理から演繹する時代が續く。現代も次の公理までの中間の時代である。と云つても、殆どはその中間の時代なのであるが。

 資本主義は、技術開發が金を儲けさせ、金がさらに開發を加速するといふ自動運動になり、誰も止められなくなつてゐる。無用の筈の科學も、一種の技術を派生して一役買はされる。キリスト敎社會ではユートピア建設のために無用は許されない。この際限のない自動運動から拔出す手立てがないとなれば、あとは滅亡しかない。
 と書いたが、本當はすでに滅亡してゐる。ユートピアと云つても、實は吾々はもうそこにゐるのである。一歩づつ近づいてゐるといふが、それが本當の理想なら、理念としてあるだけで、絶對に近づけない。近づいてゐるのなら、それは現實であり、本質的に既に到達してゐる。
 そこでは、人間は神となり、すべてを蹴散らして無人の荒野に一人君臨する。神の心を騷がす樣な他人の存在は許されない。全ては機械化され、他人の手を煩はさずとも生きていける。ギリシャの理想が再現されるのである。彼らは奴隸の労働で食つてゐたが、現代は機械が代りをする。彼らは奴隸狩が必要だつたが、現代人は絶えざる技術開發の奴隸になる。

 イエスは貨幣以前の助け合ひを理想としたが、弟子たちには通じなかつた。彼らは金と競爭の世界に埋沒しており、キリスト敎は古代ユダヤ敎の劣等感を墨守することになつた。そこを抜け出すべく、相對的存在である守護神を絶對化したが、その結果決定論になつては生きる價値がないと、人間は劫初の決定に逆らふ自由意志を持つとし、結局、自己を絶對化した。しかし、自由意志は幻に過ぎず、今やユートピア建設の機械に成下がつてゐる。
 また、キリスト敎は、しひたげられた腹いせに、憎い敵を地獄に落とさうと企んだ。キリスト敎體制が確立すると、それは、逆に、人々をあの世での神の裁きといふ魔術にかけた。その果てに、生真面目なルターが天國の切符を確實にしたいとローマに反抗し、完全に魔術の虜になつた。ウェーバーはプロテスタンティズムを魔術からの解放と呼んだが、確かに、救ひの方法を魔術から解放したかもしれぬが、逆に、「あの世での裁き」といふ魔術に完全にはまりこんだと言はずして何と言ふのか。人は騙されまいとすればするほど騙される。古代の敗者の征服者への呪ひが、結局は後繼者に祟つてゐるのである。
 さらに、ルターやカルバンは、己が救はれることを確信し、憎きローマと萬が一にも天國で出食はしたらかなはぬと、豫定説を稱へたが、己の救ひに自信の持てぬ一般信者たちはうろたへることになる。救ひの確信のために金儲けに精を出し始め、その結果が今日の資本主義全盛である。

 人間は命限りある相對的存在に過ぎず、絶對を語ることは出來ない。キリスト敎文明は根本的な過誤を犯してゐる。人間に理想は無いとは言へぬが、あるかもしれぬが、それを語ることは出來ない。語ればすなはち嘘になる。理想ではなく、現實に變貌する。
 絶對神は、ゐるのであらうが、信仰の對象にはならぬ。この世のすべてを支配してゐるのであるから、この世の外にをり、人間と關りを持たぬ。そもそも、創造者が自分の創造したものに含まれてゐてはをかしからう。また、いくら縋つても、絶對神は特定の者にご利益を與へる譯にはいかぬ。そんなことをすれば、絶對でなくなる。
 不滅の魂を欲するのは、敗者の感傷である。普通の人間はこの世で卷返しを図るが、初期キリスト教徒はあの世での復讐を目論んだ。この世では手も足も出ないといふ譯である。これほどの劣等感はどこから來たのか。永年の悲惨な歴史があつたにしても理解出來ない。何れにしても、この劣等感がキリスト敎の根源である。

 キリスト敎は、他の宗敎はすべて異敎と呼び、自分だけが本當の宗敎であるとする。キリスト敎は神から「啓示」により與へられた正統なものであり、信者は選ばれて「天國」に入るが、信者でない者や選ばれぬ者は「地獄」に落ちる。この考へそのものが迷信であり、魔術である。それどころか、「悪魔」に魂を賣つて己だけの榮光を夢見てゐるのであることが何故分らぬのであらうか。
 そもそも、絶對神がなぜ人間にあらはれるのか。この世に現れたとしたら、それは絶對ではない。「悪魔」の惑はしでしかあるまい。
 今は歐米でも敎會に殆ど行かぬといふ輩も多い。しかし、キリスト敎の支配が緩んだのかと云ふと、さう云ふ譯ではない。人格神がより抽象化されていつてゐるだけで、魔法が解けてゐるのではない。あるアメリカ人は、アメリカ人なら、たとへ無神論者でも、大文字で書いた「TRUTH」に忠實に生きねばならぬといふ樣な重苦しい観念があると書いてゐたが、地獄落ちの恐怖を克服出來てゐないのである。
 フォイエルバッハ、マルクス以來、唯物論も盛んであるが、神が法則に形を變へただけで、本質は變はらない。唯物論は日本人に人氣があるが、唯物論といふより、即物的なだけで、形のあるもの、目に見えるものしか信じない、想像も出來ないといふことでしかない。物質を支配する法則があるとすれば、それを作つた者は誰なのかとなる筈であるが、そんなことは氣にもしない、呑氣なものである。
 本當の唯物論は、そこを考へる。といふより、何とか神の縛りを逃れたいと唯物論を模索してゐるだけである。しかし、法則の作り主を答へられない以上、唯物論は觀念論を超えてはゐない。悪魔は、退治したと思つても、形を變へてしぶとく生き殘る。
 未開人や、宗敎にまで至つてゐない神道世界にゐる日本人などは、八百萬の神を信じて、精神の集中などに利用してゐる。騙されたふりをしてゐるが、「祭るときは神いますが如く」と言ふのは、本當は在さぬことが前提である。
 本當の問題は、神の存在そのそものではなく、あの世で裁くと神が啓示したといふ迷信に陷つてゐることなのである。キリスト敎はそこに氣がついてゐないから救ひ樣がない。

 道あるが故に道てふ言なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり、と言挙げせぬ日本の道は、イエスの理想にも通じるかもしれぬ。支那に見向きもされぬ味噌つかすで、征服されることもなく仲間うちで和氣藹々とやつて來た日本だからこれで來れたが、これからも、この道を貫いていけるのであらうか。
 そもそも、道は生れた時から人に具はつてゐる。いはば本能である。それ以外に生き方はない。息を止められない樣に、腹が減つたら食はずにゐられない樣に、困つてゐる人を見たら助けたくなるのが人間である。貨幣が出來てからは、それをねぢ曲げなければ生きていけなくなつた。それは日本でも同じである。しかし、日本ではまだその氣持が殘つてゐる。世界では、そんな甘い氣持を表に出したら生きていけない。まさに弱肉強食であり、自分が生き殘ることが先決である。
 日本人はそれが分つてゐないから甘いことを言ふ。それで逆に怪しまれる。少くとも、世界はさういふ所であることをわきまへねばならぬ。その上で己の道を歩むしかない。信じる道といふ譯ではない。それしか出來ないだけである。

ソクラテスの詭辯 (H28.4.15)


  • ソクラテスは魂の不滅を證明したとしてゐるが、詭辯ではないか。そんなことは人間の手に餘る。一種の宗敎として、信じる人は信じればよい。
  • 死ねば魂もなくなるのであれば、惡人にとつてはこれは天の惠である、死ねば魂もろとも自身の惡もなくなつてしまふから、とソクラテスは言つてゐる。ソクラテスは不滿かもしれぬが、凡人はこの惠を頼りになんとか生きていくしかない。



1. 魂の不滅
 ソクラテスは魂の不滅を證明したとしてゐる。「パイドン」の五十四から五十五(105から106)に於いて、ケベスの疑問に答へて最終の證明をしてゐる。
 まづ、肉體が生命をもつのは肉體のなかに魂が生じるからであり、魂は、何かをとらへると、常に生命をもたらすと考へてゐる。とすれば、魂は、生命と反対の性質である死を受け入れることはないと言ふ。
 反対の性質を受け入れないといふのは、「奇數は偶數といふ性質を受け入れない」といふ例からの發想である。しかし、この例は性質についてであるが、命や死は性質ではない。また、奇數と偶數は別々に存在するが、生命は、同じ個体があるとき死に轉ずる。奇數・偶數と同列に扱へるものではあるまい。
 これはいはゆる詭辯ではないか。魂など、人間に扱へる問題ではないものを、無理やり論じようとすると、詭辯を弄することになる。やがて死すべき人間に、永遠とか命とかが解明できる筈がない。素直に分らぬと言へばいいのである。分らなくとも、信じる人は信じるだけである。

 魂が肉體に入り込むと命が生まれるといふのも、證明が必要である。逆に、命が魂を生じさせてゐる可能性もある筈である。これは、結局、何を根本のものと捉へるかの問題になる。いづれにしても、本當のことは分らぬのであるが。
 魂を根本と考へれば、肉體はその單なる宿り先となり、魂と肉體は別々のものとなるが、魂とは何なのか分からぬ。命を根本と考へれば、魂も肉體も一諸くたになる。両者を區別する必要はなくなる。この場合は、命とは何かと訊かれる。
 命とは、活動してゐる肉體であり、その活動の一部を分離して捉へたのが魂である。實體は何なのか分らぬ。
 このことについては、「パイドン」でシミアスが、魂は肉體の調和が生むもので、肉體の死とともに滅びるのではないか、と質問してゐるが、ソクラテスは想起説により否定してゐる(パイドン 三十六〜 (85e〜))。しかし、後で述べるが、その想起説が納得できない。

 「パイドン」の十五から十六(71cから72)には、人間が死んでも魂は存在し續けることの理由として、生きてゐるものは死んでゐるものから生じるといふ話もある。小さいものは大きかつた状態から小さくなつて出來、また小さいものは大きいものが變化して出來る樣に、すべてのものは反對のものからから生じる。このことから、死んでゐるものは生きてゐるものから生じ、生きてゐるものはその反對の死んでゐるものから生じるといふ。それゆゑ、魂は死んだ後どこかに(ハデスに)存在してゐることになると結論する。
 しかし、生きてゐるもの反對である死んでゐるものとは、普通に考へれば死人を意味するので、それから生きてゐるものが生じるといふのであれば、死人が生き返るといふことでなければならぬ。しかし、そんなことを言つてはをらず、死んだものの魂から生じると考へてゐる。すなはち、死んだら肉體は動かなくなり、やがて腐敗して無くなるが、魂は消えることなく存在し續けてゐると假定してゐることになる。
 しかし、そもそも、死んでも魂が存在し續けるといふことを證明しようとしてゐたのである。魂が存在し續けることを前提として、魂が存在し續けることを證明するといふ矛盾に陷つてゐる。
 また、生き續けてゐる魂が別の肉體に乘移ることで生きてゐるものが出來るのであれば、生が死んでゐるものから生じてゐることにはならないのではないか。死んでゐるものから肉體を除いたものと新しい肉體とから生じてゐる。
 さらに、「生きてゐるもの」については、肉體と魂の両方を言ひ、「死んでゐるもの」については、魂だけとしてゐるのであるとすると、「反對のもの」とは言へない。「生きてゐるもの」も魂だけとすれば、一應、この矛盾は避けられる。しかし、單に魂は生き續けるといふだけのことになつてしまふ。

 「人間には魂があり、魂は永遠に生き續ける」といふことを一種の「宗敎」或は「公理」とすればいいのである。そして、これを信じればかうなる、といふ風に論じればよい。なまじ證明などといふからをかしくなる。

2. 知識の獲得(想起説)
 「パイドン」の十九から二十一(74から76)には、あるものが他のものに似てゐるがそつくりではなく、何か欠けてゐると考へるとすれば、その規準になる「等しい」といふ概念を生れる前から魂が知つてゐるのでなければならない、といふ議論がある。このことから、魂は、我々が生れる前から存在してゐたのだと結論してゐる。
 しかし、ものとものが、似てはゐるが完全には一致はしてゐないといふことは、違ふ點が見つかれば言へることで、規準は必要ない。

 完全に等しいものは世の中にはない。しかし、窮極には完全に等しいものがあるだらうと、「等しい」といふ概念が生まれた。この概念は、個々のものが似てゐることとは別であることは分るが、生まれる前から知つてゐなくとも、經驗の延長上に考へつくことなのではないか。似てゐるが違ふ點がある例から、違ふ點がなくなれば等しくなるなどと。
 また、もし、魂に元々そなはつてゐたとしても、そのことから魂が出生以前から存在してゐたと結論出來るか。父母から半分づつ受継いで新しい命が生まれ、魂もその時生れるとすれば、魂も父母から何かを受継いでゐるといふ可能性もあるのではないか。どういふ風にして受継ぐのか、また、魂がいかにして生まれるのか、何も知らぬが。

 ソクラテスは、似たものを見たことから「等しい」といふ規準を思ひ浮べたのなら、それは「想起」であると言ふ。想起とは思ひ出すことをいつてゐる。從つて、魂は前以つて規準を知つてゐなければならぬと言ふ。しかし、魂が次から次へと肉體を乗換へていくと云ふのであれば、魂はいつその知識を得たのか。最初の肉體に宿るときから知識を持つてゐたことにならうが、それはどうやつて得たのか。この問ひに答へられなければ、この議論はまやかしである。

3. ついでに、美そのもの
 ところで、美そのものとか善そのものとかいふことをソクラテスは言ふ(例へば、パイドン 二十 (75d))。

 美とは、何かを見たり聞いたりして感じることである。しかし、その「何か」に美がある譯ではない。それに接して人が何か感じた時に美が生じるだけである。ものは物質に過ぎない。しかし、その物質に媒介されて人の心が動けば美になる。
 いつも何氣なく見ている風景にたまたま感動することもある。
 また、同じものに接しても、人により感じ方は違ふ。例へば、西洋の有名な画家の精密な繪を見ても、よく描いたとは思ふが、必ずしもいいとは思はぬ。見る目がないだけだと言はれても、感動しないのであれば仕方ない。

 善もさうである。ある人によいことが、他の人にもよいとは限らぬ。
 動機がよければいい筈であるともいへぬ。善意で行つたことが、相手には、或は傍の人には、迷惑なこともある。また、結果がよければいいともいへぬ。惡意で行つたことが他人に喜ばれることもあらうから。
 かういふ風にいふと、人にとつて得か損かだけで判斷してゐるのが間違ひであると言はれるかもしれぬ。損得でなく、互ひに助け合つて生きて行かうといふ行爲が善なのかもしれぬ。それにしても、その方が、例へば名譽の観点から、得だといふ判斷がどこかに隠れてゐたりする。また、善意といふのも曲者で、本人は善意のつもりでも、裏には複雑な心理が隠されてゐたりする。完全にまつすぐな心などあり得ない。
 善か惡かは知らぬが、恥づかしくない樣に、見苦しくない樣に、行動するしかない。

 美といふ概念は、個々の美とは別に存在してゐるのであらう。「等しさ」の場合の樣に、完全な美は實際にはなく、吾々の感じてゐる美は、自分なりにいいと感じればそれで十分なのではあるが、確かに、完璧ではないであらう。しかし、完璧でないところを探すよりは、この場合、よいところだけ見た方が救はれる。
 善については、その概念はあらうが、人は善のかけらでも行ふことが出來るのか。人間存在自體が惡とは思はぬが、今自分がある空間を占めてゐるといふことは、誰かにとつて不快の種になつてゐるかもしれぬ。私有財産は貨幣出現以降の慣習であり、根本的に惡である。ジャイナ敎徒は、畑を耕せば虫を殺すかもしれぬといふ。これは論外かもしれぬが、生きてゐる限り、惡は避けられぬ。惡を犯しながらも、善行も可能なのであらうか。

4. 魂とは
 本能といふ言葉がある。生れた時からそなはつてゐる能力や習性の樣なものをいつてゐるが、その實體は何も分らず使はれてゐる。これは、ソクラテスのいふ樣な「魂」の一部なのかもしれぬ。誰だつたか、人間はDNAが自分を増殖するための媒體に過ぎない、といふ樣なことを言つた人がゐるさうであるが、これも「魂」の本體を探らうとするあがきなのかもしれぬ。

 脱線するが、人間は、99%以上本能により行動してゐる。本能は、食欲、性慾など色々あるが、集團本能或は社會本能とでもいふ樣なものもある。これは、人間が、虎の樣に單獨でなく、群で生きるための本能である。女性の井戸端會議もこの本能のなせる業である。男の子がぐれるのも、社會本能が満たされぬ時である。さらに、互ひに助け合ふといふ本能も人間には具はつてゐると思ふ。
 本能に從つてゐれば、人間、をかしなことはしない。なまじ知性で判断して、本能を押へつけると、碌なことにならない。表面はこじつけの理屈で繕つてゐても、裏に妙な慾が潜んでゐたりする。
 慾とは、色慾など、大抵、抑壓された本能である。競爭社會で助け合ひの本能が抑壓されると、權力慾や金錢慾などが幅を利かす樣になる。
 實際、世の中、本能に從つて行動する方がむしろ難しいので、人は何かと理屈をつけて本能を押さへつけて行たを取る。これがこの世の惡の原因である。

 結局、魂について、いくら眞劍に考へても、限りある命の人間に本當のことは分らぬ。分らぬことを認めるしかない。人間、永生などあてにならぬことに期待せず、日々の暮しの惡戰苦闘を樂しむしかない。

 ところで、ソクラテスの名前が殘つてゐるのは、その詭辯そのものよりも、己の説に詰腹を切らされて毒杯をあふぐに及んだ行動のせゐかもしれぬ。人は何かを信じて行動するしかない。たとへ犬死と言はれても。

 ソクラテスは、死ねば魂もなくなるのであるとすれば、惡人にとつては、死ねば魂もろとも自身の惡もなくなつてしまふから、これは天の惠だと言つてゐる(パイドン 57 (107c))。自分は惡人ではないといふ自信があるのであらう。それにしても、惡を犯したといふ自覺が全くないのであらうか。しかし、惡にまみれた人間は天の惠にすがるしかない。

考へるといふこと そして意識とは何か (H29.1.28)


 アスペルガー症候群だといふ人の手記を読んだら、自分の中に別の人間がゐて絶え間なく喋り續けてをり、その言葉に耳を傾けた途端に、頭も體も支配されてしまふといふ樣なことが書いてあつた(http://www2u.biglobe.ne.jp/~pengin-c/jihei.htm)。
 何かを考へるとき、心の中でしやべつて考へてゐる。言葉にすることによつて考へてゐると思つてゐた。しかし、この手記を讀んで、それだけではなく聞いてもゐることに氣付かされた。
 聞くことの意味はさつぱり分らなかつたが、そのことについて思ひを巡らせてゐるうちに、聞くことによつて自分の考へを理解してゐるのではないかと思ひ當つた。考へのもとは心の中に、頭なのか腹なのか知らぬが漠然とあつて、それを意識が把握するには言葉にすることが必要で、かつ言葉は發するだけでなく耳で聞かないと理解出來ず、そして理解した内容は、無意識の記憶にまた格納されるといふことなのではないか。 勿論、聲が出てはゐないが、心の中の聲を聞いてゐる。默讀と同じである。

 この人の場合は、しやべる自分と聞く自分とが別々になつてゐて、しやべる方の自分は意識が支配できてゐない樣である。普通の人は、兩者が同じである。あるいは、しやべる方に意識があり、聞く方は殆ど意識してゐない。
 「今こうしてパソコンに向かっているのも、きっとソイツ」といふ不可思議な記述もあつた。「自分の中の別の人間」が自分を支配してゐて、勝手に文章まで書いてゐるといふのである。そして、さう感じてゐる自分も別にゐるらしい。いはゆる解離なのであらうか。
 別の人間の聲を聞いてゐるのは、もともとは意識下の自分と思はれるが、無意識の別の人間がそれを乘つ取つた上に、表に出て來て半意識的に文章を書いてゐるのであらうか。そして、本來の意識が時々その姿を眺めたりするのか。 

 尚、日本人は音だけでなく、頭の中の漢字の像でも理解してゐるが、これは副次的なもので、本質が耳であることは間違ひなからう。ところで、書くことにより、ただ讀むだけよりもよく覺えられるといふ。書く行爲自體もあるが、書かれたものを見ることが記憶に利いてゐるのか。頭の中で喋つたことを聞いて理解するやうに。
 碁や將棋も、詰碁や詰將棋を、問題の本を見て頭の中で解くだけでなく、盤に並べてみることで、その過程まで頭に入りやすくなるのかもしれぬ。その訓練が、頭の中の盤で手を讀むことに役立つてゐるのであらうか。
 音が大事なら、耳の聞えない人はどうなのかとなるが、その場合はまた別の機構で言葉が成立つてゐるのであらう。

 この手記でもうひとつ興味深いのは、立體視が出來ないとあることである。普通の人は、何かを見た時、幅だけでなく奥行きも感じ、ある質量をもつたものがそこにあると實感してゐる。立體視が出來ないと、目の前に平面があつてそれに模様が見えるだけで、物や人がそこにあると實感出來ないらしい。目の前に平面は見えてゐる筈であるが、得體のしれない像が浮かんでは消える譯の分らないものなのであらうか。
 さらに、自分自身の存在も感じられないといふ。自分の全身は見えないにしても、手足や胴体は見えるが、それが薄つぺらな平面のなかの模様でしかなければ、實在してゐると感じられないのであらう。
 詰るところ、外部世界、物質世界がないのである。自分の體すら感じられない。自分の心の中だけが世界なのである。
 生まれてからの経験により、人や物が、そして自分も、存在してゐるらしいと頭で理解してはゐるが、實感は何もない。手で觸つて確認することは出來るが、もともと盲人ではないので視覺でものを認識する樣になつてゐるであらうから、觸覺だけでは納得出來るやうな實感は得られないのであらう。
 感覺の問題であるから、色盲の人に赤はかうだと説明しても分らない樣に、あなたの外に世界は實在してゐるといくら言つても無駄である。

 立體視出來ないことがアスペルガー症候群の原因なのではないか。そんな記述を見たことはないが。立體視出來ないために、ものの存在を感じられないことが、すべての症状の原因なのではないかと思へる。
 もしかしたら、立體視は幻想にすぎず、すべては幻だといふのが本當なのかもしれぬ。しかし、この世で生きるためには、先づこの世を信じることが必要である。

 立體視から、サルトルの斜視を思ひ出した。検索したら、彼はアスペルガー症候群だつたのではないかと言つてゐる人が何人かゐた。存在を氣にしたのは、もしかしたらその所為なのかもしれぬ。

 それはさておき、この人の場合、無意識が暴走して喋つて意識を支配してしまつたりしてをり、意識と無意識の關係がうまくいつてゐない。自分の存在もしかと感じられないといふのであるから、意識が不安定で、無意識が叛逆せざるを得なくなるのであらうか。それで辛うじて全體の安定を保つてゐるのか。
 先の解離の樣な現象では、文章を書いてゐる自分は言葉を操つてゐるのだが、意識にはなつてゐないのだらうか。書いてゐるのだから意識はありさうに思へるが。ふと氣がつくと別の自分、つまり元々の自分に戻つてゐる、といふことなのだらうか。或は、自分の意識は一貫してあるのだが、考へる内容を選べなくなつてしまふのか。

 人間の本體は無意識にあり、「腹を割つて」とか「腹に据ゑかねる」などの言ひ方がある樣に、それは腹にある樣に思つてゐた。そして意識は脳の作用で生じると、なんとなく思つてゐたが、考へてみると、脳の大部分も無意識の領域である。記憶にしても、必要なものを無意識の中からその都度汲み上げてくるだけである。人間を動かしてゐるのは本體の無意識で、そのために表に出てきて活動してゐるのが意識であるが、それはほんの表面に過ぎない樣に思へる。

 人間は言葉で考へる樣になつたので、言葉をあやつるために意識が發生してゐる樣な氣がする。或は、言葉で考へる行為が意識として感じられてゐると言ふべきか。
 それでは、言葉を使はない動物はどうなつてゐるのか。意識はないのか。行動はどうやつて決めてゐるのか。
 人間にしても、意識が關與してゐるのはごく一部に過ぎず、場合によつては言葉なしに行動してゐるのではないか。日常の定型化した行動など、特に意識せずに體が動いてゐる樣に思へる。勿論、目や耳などはちやんと働いてゐるし、意識がない譯ではないのであるが。
 意識をはつきりと感じるのは、やはり何か考へてゐる時である。何も考へてゐない時は意識があると感じてゐない樣に思へる。考へるといふことは、言葉をあやつることであり、つまり、言葉が意識なのである。
 例へば、繪を見たりしてそれに沒頭してゐる時は、覚醒はしてゐるが、意識が働いてゐるとはいへないのではないか。勿論、大きな音がしたりすれば聞えるし驚きもするが、意識は働いてはゐない樣に思ふ。
 意識不明の重態などといふ時の「意識」も、呼べば答へるか、少くとも合圖をするといふ樣なことで、言葉を理解するかどうかを問題にしてゐる。言葉には反応しないが、叩いたら手を動かしたといふ樣な程度では、意識があるとは言はないだらう。意識はやはり言葉を操ることにある。

 無意識から記憶を汲み上げると言つたが、例へば過去のことを思ひ出さうとする時は、先づその時の何かの光景を思ひ出して、それを切つ掛けにいろいろと思ひ出して行き、これはといふ像が出て來たら、そこでそれを言葉にする。言葉にすることで、記憶の内容が確定され、思ひ出す作業が完成する。
 言葉なしでも思ひ出すことは出來るであらうが、そのうち消えてしまひさうである。また、思ひ出さうとする行爲自體が、普通は、言葉で意識することで始められる。かほどに言葉は便利である。また、それをさらに便利にしたのが、文字の發明である。
 動物はみな行動するために考へるが、人間は言葉で考へる。それにより考へをより明確に捉へられる。そして、言葉をあやつる作業を意識と呼んでゐる樣に思へる。
 言葉があるから高度の行動がとれるといふことではない。逆に、言葉に支配されて行動がぎこちなくなつたりすることもある。動物は言葉を使はぬが、それなりにちやんと行動してゐる。人間は考へを言葉により意識する結果、他の動物とは違つた風になつてきたといふだけである。
 動物は意識がないとはいはないが、少なくとも人間の意識とは相當異なつてゐるであらう。文字のない時どんな風であつたか、今となつては想像出來ないが、言葉のない世界はもつと想像出來ない。しかし、いづれも、自足した豐かな世界なのであらう。

 言葉の効果は他人と交流出來ることである。これによつて人間は、力を合はせることが他の動物より上手になつた。その結果、か弱い體でありながら何とか生き延びてきた。
 それが苦手なのがアスペルガー症候群の人である。外の世界を認識出來ず、自分の心だけの世界に住んでゐるのであるから、言葉はただ個人的に考へるためだけのものであつて、他人との對話は基本的にはないのであらう。
 しかし、言葉は根本的に對話を前提としてゐる。頭の中で考へる時も、誰かに向って話してゐる。相手は誰と決つてはゐないが、なんとなく誰かを想定してゐる。それが出來ないから、喋る自分が勝手に現れてもともとの自分に話しかけるといふことが起るのであらうか。相手のゐない完全な獨語といふのははあり得ないことなので、おのづと話す相手を求める。それで一人で二役を演じることになるのではないか。

 言語は本質的に對話であるとすると、どうやつて言語は發生したのか。言葉を話すものが一人出來ても会話にならない。最初から二人以上ゐたといふことなのか。つまり、突然会話の出來るものが二人以上發生したのか。

 ところで、この手記の人は次の樣に書いている。
「普通になろう・立派にしていなければいけないと考えるから自分はダメで、のけものにされているように感じてしまう。でも、『できないことはできない・わからないことはわからないと』素直に認めてしまえばいいんじゃないか」
「そうして、普通になろうとしなくなったら、普通になってしまった。」
「わかってもいないのに分ったふりをするのをやめたとたん、人に対する構えがなくなって自然につきあえるようになったのです。なぁんだ、私は『ここではこういう風にふるまうべき、できないのはダメ人間』という決まりを自分で作ってそれを守ろうとしていただけだったんだって、気がついたのです。」
「この社会の中におさまってしまおうなんてもう思いません。ひとづきあいがうまくできなくても、無理して人に合わせなくても良かったんです。もともと私はこういう≪ひとと・ちがった≫個性の持ち主だったんですから。それなら、普通になろうと背伸びして生きるよりも、中途半端な人間じゃなければ出来ない仕事をしていけばいいんじゃないか!」

 言葉は對話を前提としてゐる。しかし、相手のゐない思考においても使はれる。とはいへ、やはり相手を誰か想定してゐる。人間は常に一人では生きていけないのであらう。