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謝罪 平成27年4月29日

 韓國や中國が謝罪、謝罪と五月蝿いが、謝罪して貰つてどうするといふのか。それに、謝罪は既にしてゐる。何度もするものではない。嫌がらせをして、どさくさ紛れに少し儲けようとでもいふのか。やはり劣等感の故なのであらうか。

英語への飜譯が心配 27.5.1

 安倍首相がアメリカ議会で英語で演説してゐたが、公式の演説は日本語ですべきである。細かい表現で揚げ足を取られたらどうするのか。そこまでちやんと分つた人が飜譯してゐるのか。日本人の英語では心配である。英語は喋れても、文化的背景も何も知らぬ輩ばかりである。過去にも飜譯のミスで失敗した例はいくらでもある樣である。公式には、責任の持てる日本語で話すべきである。

科學は證明要らず 27.5.2

http://www5b.biglobe.ne.jp/~sugi_m/page008.htm より引用
「アインシュタインは、「光速度不変の原理」と「特殊相対性原理」が無矛盾であることの証明に、この二つの原理から導き出したローレンツ変換式を用いて、その無矛盾性を証明しているのです。
無矛盾性を証明するのに、はじめに二つの原理が両立する(無矛盾である)と仮定した所から導いた道具を用いて、無矛盾性を証明している。
これは、数学的な証明になっていません。」

 相對論はちやんと證明されてゐないといふことの樣であるが、その通りで、相對論は假説に過ぎない。しかし、科學はすべて假説である。相對論も例外ではない。光速不変と物理法則はすべての慣性系で同等だといふことを假定したのが特殊相對論である。そこから導き出されることが観測と一致するか否かが問題である。一致しない観測結果が出れば修正されるだけである。
 もし、アインシュタインが證明したかの樣に書いてゐるのなら、それはとんだ間違ひである。そもそも、物理法則は證明は出來ない。見出されてゐる現象と矛盾しない樣に組立てるだけである。矛盾する現象が新たに見出されれば、假説は修正される。勿論、數學で證明出來る筈もない。法則を數式に表し、どんな現象が起こるか豫測したりするのに有用であるが。

 時間とか、空間とかの議論もあるが、人間だから氣になつて色々言つてみるだけで、科學にそんな能力は元々ない。ニュートンはF=mαの假説を提案したが、力Fとは何なのか、分つてゐたのか。ちなみに私は分らぬ。ただ、加速度×質量の次元を持つと習つただけである。科學とはそんなもので、人間の感覺から出發して、力や質量、さらにはエネギーやエントロピー等の概念を作つたが、それ自體が一種の假説であり、その意味は手探りしてゐるだけである。
 ただ、科學すなはち假説から演繹されることが観測と矛盾せず、また、技術で検討されて破綻しなければ、文句は言はれない。元々、無用の存在であるから。

工業製品はがらくた 27.5.4

 工業製品はすぐに古くなる。少し前のものを見るとやけに古ぼけて見える。テレビなどでも、ブラウン管のものをたまたま見ると、大昔の樣に感じる。昔はこんな不細工なものを使つてゐたんだなと思ふ。そして、そんなものを使つてゐた時代が哀れにさへ思へて來る。
 しかし、その時は、最新式だと輝いて見えたのである。必要でも何でもないのであるが、資本主義の流れに乘つて、金儲けのために開発された、何とか機能を果たせばよいといふ、未完成品である。それでも、その時の最新と云ふことで通用するが、時が流れると捨去られる。
 職人の作るものはそんなことはない。古くてなつてもいいものはいい。必要なものを作つてゐる。
 工業製品といふのは、要らざるものを無理矢理作つてゐるのではないか。イギリスのプロテスタントが金儲けの加速のために始めた産業革命が、世界を不要な工業製品で埋め盡くさうとしてゐる。すべて、金儲けだけのためである。己が選ばれたものであることを證明するための。

たんぼぼ 27.5.5

たんほぽの特徴
一 春、他の草より早く出てきて花を咲かせる。日光を獨り占め出來る。
二 花の柄は短いが、種になると長い。周りに高い草が伸びてくると、より長くなる?
三 花が萎むと柄は一旦寝る。

家事は瑣事か 27.5.23

 フェミニストの言分を聞くと、家事労働をただでやり、擧句に「誰の稼ぎで食はせて貰つてゐるんだ」と凄まれては堪らぬといふことの樣である。すべて金に還元されると思つてゐる樣なのも問題であるが、家事を厭ふべき瑣事と心得てゐる樣である。
 家事や育兒こそ人間のやるべきことである。家の外の仕事は、食ふために必要ではあるが、價値のあるものではない。詰らないことであるから、勳章を作つたり、賞を作つたりして、お手盛りで勞をねぎらはうとしてゐるのである。

 家事の負担を輕減しようと便利な道具が色々作られてゐるが、究極的に家事が要らなくなつたらどうなるのか。生きるために他人の手を借りる必要がなくなり、人間は孤立してしまふ。他人のために何かをすることで人は生きてゐる。
 人は他人のために生きる以外に生き方がない。人との關係により人は確立する。關係がなければ人は何者でもない。イエスがペテロに言つた樣に、「我もし汝を洗はずば、汝われとかかはりなし」で、世話をしたりされたりすることが關りである。

競馬の調教の考へ方

 競馬の中継で最後に、スピードを出したので足を痛めてゐなければいいが、といふやうなことを言つてゐた。と云ふことは、普段の調教ではそんなにスピードを出したりしないのだらうか。それとも、芝のコースでスピードが出るからといふだけの事なのであらうか。それならば分るが、前者なら、もつとスピードをつける練習をなぜしないのであらうかと思つた。

ふところが深い 27.7.13

 「折々のことば」(朝日新聞)に、釜ヶ崎あいりん地区の人たちは人生経験豊富なので懐が深く、<異物>が入つてきても受けとめる力が高いと云ふやうなことが出てゐた(H27.7.12)。
 けちをつける譯ではないが、競爭社會から逃れてゐるから、人間本来の暖かさが出る。御隱居さんが人情味あふれるのと同じである。勿論、金に困つてゐないのが前提であるが。
 逆にいへば、人々がいかに競爭でいじけてゐるかといふことである。

崔元植(チェ・ウォンシク)さん 27.7.14

 「歐米が最も恐れてゐるのは日中が手を組むこと。日中が協力しあひ、韓国がその懸け橋になることが、私の理想の東アジアの姿です。」
 韓国が懸け橋になる、などと控へ目すぎる言ひ方が氣になるが、韓国にもものの分つた人がゐる。

志位和夫は何人か 27.7.18

 もう二箇月位前になるが、共産黨の志位が國會で安倍首相に質問したことがあった。ポツダム宣言の内容を質問して安倍の足をすくはうとした。しかし、問題なのは志位の方である。ポツダム宣言は戰勝國の宣言であり、これを正とするかの樣な発言は、敗者としてをかしい。志位はアメリカ人なのか。それとも中華民國人なのか。

 國際關係は弱肉強食であり、勝てば官軍である。どんなえげつないことをしてでも勝たねばならぬ。互いに正義を主張し、何があつても謝つたりはしない。
 アメリカの潜水艦が日本の水産練習船を沈めたことがあつたが、艦長は決して謝らなかつた。謝つてはいけないのである。謝つたら、自分たちが最善を尽くしてゐなかつたと認めたことになる。さうなつたら人間失格であり、社會から葬られるしかない。米國海軍の名も傷つけてしまふ。

 村山富市などが謝るものだから、外國はみな呆れただたらうが、一旦さうなれば、かさにかかるだけである。
 ドイツも謝つてはゐない。ヒットラーといふ悪魔がやつた事で、自分たちは全く責任がないと言つてゐる。責任はないが、二度とあってはならぬことで、あとを継いだ國としては遺憾であり、お悔やみ申し上げてゐるだけである。
 日本についても、A級戰犯といふ悪魔に責任を押し付けようとアメリカが目論み、吉田茂が受け入れた。アメリカの魂膽は、自分たちの惡事を、悪魔の戰犯から日本人を救ふためにやむを得なかつたと主張することにある。この問題は、アメリカにきちんと言はないと方がつかぬ。

原爆は厭戰、反戰の理由にならぬ 27.8.9

 原爆を落とされたから戰爭はいけないと云ふやうな聲を聞く。
 ところで、原爆投下は戰爭の一部なのか。原爆は、戰爭とは無關係である。戰爭のどさくさに紛れて行われた虐殺である。もちろん、燒夷彈も、機銃掃射も、艦砲射撃も、すべて、虐殺である。

GDPの詐欺 27.8.11

 昔はGNP、今はGDPを使ってゐる樣であるが、これが増えてどうだと云ふのか。

 もの自體に価値はない。人が生産するから価値を生じる。ものの価値は、人の手が掛つた量に比例する。人手が一人・日掛って出來たものなら、一人・日の価値がある。
 例へば、鑛石は地中で眠つてゐる時は無價値である。人が働いて掘り出せば、価値を生じる。掘つた人の生活費を賄はねばならぬからである。
 人が一年間に作るものは、人が一年暮らせるだけの金が取れないといけない。でないとそれを作つても暮らしていけない。それ以下でしか捌けなければ、そんな仕事はやめるしかない。逆に、それ以上で売れるからと喜んでゐてはいけない。それなら安く売るべきである。自分に必要なだけの金を得れば十分ではないか。これが金の基本である。

 とすれば、国民総生産とは、国民のうち、働ける人数分でしかない。千人ゐれば千人・年、一千萬人ゐれば一千萬人・年である。
 ところが、一年掛けて作つた物で、二年分も三年分も、いや十年分或はそれ以上も稼がうとする。効率が上つたら、その分安く売ればいいのである。それを、そしらぬ顏して以前と同じ値段で売る。詐欺ではないか。

安倍談話へのアメリカの反応 27.8.16

 朝日新聞によると、ニューヨーク・タイムズは、安倍自身の謝罪は無いなどと批判的とある。原文を読んでないので本當のところは分らないが。
 自分のことは棚に上げてよく言ふよといふ感じであるが、彼らも自身を防衛するために必死なのである。日本を悪魔としなければ、アメリカの蠻行が辯護出來ないから。

専門家のご指摘 27.9.11

 テレビのニュースで避難行動だつたか何かの「専門家」と稱する大学の先生が出てきて、川の氾濫の際の自治體の對應のまずさを指摘してゐる樣であつた。殆ど聞いてゐなかつたが。よく、しやあしやあといふものである。
 タケシが何かの番組で「何とかに詳しい専門家」といふ惡ふざけをしてゐるが、まさにその通りであった。後からなら、判断の間違ひを指摘することは誰でも出來る。専門もへちまもない。

書評から 27.9.14

 神野直彦「人間國家への改革」といふ本の書評を見た。
 まづ、人間國家とは何なのか。合ひ言葉に使つてゐるのだらうが、中味は分らない。
 骨子は、工業社會から知識(集約)社會に變つていく變換點に今ゐるといふことの樣である。知恵が大事なのは今はじまつたことではない。
 この変換に對應するには、敎育と社會保障の改革が必要で、それをやらないから經濟成長もないといふ。風が吹けば桶屋が儲かるに似てゐないか。
 また、參加型民主主義の充實も重要だといふ。民主制とは人民の參加によるのではないのか。
 これらが豐かな社會をつくる鍵だといふ。豐かとは何を指してゐるのか。物が豐富になればいいのか。それなら今も結構豐富ではないか。

違憲さはぎ 27.9.19

 安保法案が通つたといふが、違憲だといふ聲がかまびすしい樣である。しかし、元々自衞隊が違憲ではないか。それを默つてゐて、今回急に違憲だと言ひだすのはをかしい。
 また、違憲といふのなら、自衞隊そのものも槍玉にあげねばならぬ。安保法案だけに矛先を向けるのは何故か。
 自衞隊は永年の實績があるからしようがない、といふのか。それなら安保法案もそのうち實績ができてなんとも思はなくなるのではないか。

 現實に戰場に派遣される可能性が見えて來たので慌てたのではないか。自分や自分の家族が戰場に行かされては嫌だと。日本人にとつて政治とはその程度のものである。

朝日の常識 27.9.21

 ラグビーで日本が南アフリカに勝つたが、朝日新聞は、一面ではあるが、下段に載せてゐた。最上段は安保批判か何かの記事であつた。これが朝日の常識なのか。もともと常識など全くない連中ではあるが。

數の暴力 27.9.22

 安保反對のデモが盛んであつた。新聞やテレビに煽られてのことであらう。
 數の暴力に反對してゐるが、デモもまた暴力である。政府と同じ土俵に上がつて爭つてゐるのであるが、自分たちは政府とは違ふと思つてゐるのか。

 自分たちは絶對に正しいと思つてゐるのであらう。民主主義とか、平和主義とか、絶對に正しい理念に基づいてゐるから絶對に正しい行動であると。
 世の中に絶對に正しいことはない。しかし、行動する以上、信じてやるだけある。途中で間違つてゐると思つたら修正する。ここで、行動するとは、相手に勝つべく何かをすることである。デモをやつて自己満足してゐることではない。文句を言ふだけでは行動ではない。

確實なこと 27.10.31

 養老孟司「バカの壁」(H15年)に、「(疑つたり、檢證したりしてゐる)その過程を全部飛ばして「確實なものはない」といふのは言葉遊びの樣なものです」とある(27頁)。さう言ふ人も、自分の家は焼けたりするとは夢にも思つてゐないと言ふ。「言葉遊び」と言つてゐるのは、深く考へもせずに、ただ言葉を弄んでゐるだけではないかと云ふ位の意味であらうか。
 さう言ふ人は、焼けるとは思つてはゐないだらうが、焼けないとも思つてゐないだらう。その可能性がいくらかあるとは思つてゐる。決して確實に存在し續けると思つてはゐないだらう。著者の思惑はよく分らぬが、世の中に確實なことは、やはり、ないのである。しかし、これは技術的な檢討が當つてゐるかどうかといふ話とは、全然違ふのではなからうか。
 「「80%の確率で(温暖化の原因は)炭酸ガスと思へる」といふ結論を持てばよい」と書いてゐるが、80%といふ数字はともかく、今のところ、炭酸ガスである可能性が高いのはその通りであらう。確實ではないが、間違ひないかどうか、さらに検討を續けていかねばならぬが。
 ただし、これは科學ではなく、技術である。技術であるから、目的を確實にやり遂げる努力を續ける。その時點でそれが本命だとなればそれを追究し、駄目ならまた考へ直す。
 科學は言ひつぱなしである。何の目的もないので、追究は不要である。また、證明も出來ない。科學の法則とは、幾何学の公理の樣なもので、證明不可能である。やれるのは、それから導かれる事柄が實驗テータと矛盾しないかどうかを見る程度である。それを確認したからといつて、證明された譯ではなく、いはゆる十分条件の檢討も必要であるが、到底不可能である。

尾崎豐五十 H27.11.29

 尾崎豐が生きてゐれば今日で五十歳だと、「ぶつかり、傷ついた」人生を顧みる記事があり、ある高校敎師は、「若いやつをあふらんといてくれよつて思つたけれど、ボクら若手の敎員がカラオケで歌ふのも尾崎の歌」だつたと懐かしんでゐた。
 彼は何にぶつかつたのか。音樂業界と付き合ひそこそこにやつてゐた。敎師にぶつかつたかもしれぬが、力のないものに反抗の姿勢を取ってみても、遊びでしかない。そのポーズを賣物にし、なりはひとしただけである。

獵の獲物 H27.12.6

 「第二次世界大戰中、南の島で戰死した日本兵の頭蓋骨を持歸つたアメリカ人もけつこうゐたらしい。居間に飾られた頭蓋骨に、家族も次第に愛着を感じ、そこにあつて當然の存在として接した」これは、フランシス・ラーソン「首切りの歴史」といふ本の書評の一節である(朝日新聞、H27.12.6)。
 獵で仕留めた鹿の頭を飾るやうな感じである。本當だとしたら、彼らが日本人など人間と思つてゐない、少なくとも思はない樣にしてゐることの證據ではないか。

歸還兵 H27.12.14

 撃ち落とされたB29の乘員で捕虜になつてゐた人が訪日したといふ記事が新聞にあつた。付添ひの息子がいふには、「我々は許すことをしてきた」(朝日新聞、H27.12.12夕刊)。
 なんとなく腹立たしかつたが、何がさうかといふと、それを當然の言ひぐさの樣に無批判で載せてゐる新聞の態度であらう。米軍の無差別空襲の違法を咎める言葉と兩方書くのが、新聞の大好きな「公正」といふものであらう。

經濟成長はよきことか H28.1.8

 内田樹といふ人へのインタビュー記事を見た(朝日新聞、H28.1.5)。今は、經濟成長にブレーキを踏むときだといふ。しかし、その理由は、單に、成長があり得ない經濟史段階だからとのことであり、成長そのものはよしとしてゐるのであらう。經濟成長に對する根本的な懷疑は全くなささうである。
 また、経済史的段階といふのは、收奪できる植民地がなくなつたといふことを言つてゐる。植民地はなくなつても、經濟的に奴隷となつて、別の形で收奪されてゐるとは思はぬのであらうか。奴隷を使つてゐる方も、金の奴隷なのであるが。

 經濟成長自體は、ものを澤山作つて澤山消費するだけであり、何の價値もない。必要な量以上に作つても、結局、殘飯となつて捨てられるか、或は、藏に死藏されるかするだけである。例へば、衣類でも、大量に賣られているが、すぐに捨てられるか箪笥にしまひ込まれるかしてゐる。大事に着られてゐるのはごく僅に過ぎぬ。

 より根本的には、成長などあり得るのか。成長を何で測つてゐるかといふと、金である。生産效率が上がれば、一人當りの生産量や賣上げ増える。これを成長と稱してゐる。しかし、ひと一人の勞働に變りはないので、一人當り必要な儲けを一定とすれば、ものの單價を下げるべきで、さうすれば儲けは變らず、成長もない。單價を變へずに賣つて儲けるのは詐欺である。
 勿論、ものの量は増える。といつても、大量に作つて大量に捨てるだけのことである。ただし、食料は少し違ふ。人が食べる量には限りがあるから、大量に出來れば、人口の増加が可能になる。實際、日本は工業で稼いで食料を輸入し、人口を増やしてきたが、輸入食料は、アメリカ等他國で生産効率が上がつた結果、餘つたものである。ただ、それは、命をつなぐには足りるが、必ずしも美味しいものではなかつた。
 それはともかく、生産効率向上は、人口増加には役立つてゐる。しかし、それが何だといふのか。もはや天敵のゐない人間は、放つておいたら幾らでも増える。それを防いでゐるのが食料であつた。その枷がなくなつたら、最後には、地球が溢れてしまふ。尤も、さうなる前に他の天體に移住するのかもしれぬが。
 何れにしても、人口増加に何も価値はない。今の自分たちが楽しく暮せればそれで十分である。

 しかし、今の暮しには、景気がよくなることが必要である。成長は必ずしも必要ではないが。それには、金の囘りをよくするのが大事である。囘る金が足りなければ、日銀に國債を買はせて、作るだけである。金とは元々さういふものである。

「共有された價値觀」の押賣 H28.1.11

 「『偏り』攻撃 批判封じは間違いだ」といふ標題の社説があり、「平和」や「民主主義」といつた戰後の日本社會で共有されてきたはずの價値觀の表明まで「政治的に偏つてゐると受け取られかねない」と抑制された例があり、かうした風潮がはびこるのは非常に危険だと述べてゐた(朝日新聞、H28.1.10)。

 先づ、「平和」や「民主主義」が價値なのか。平和は戰爭がないといふだけで、それ自體は價値にはなり得ない。民主主義は、正しくは民主制と譯すべきもので、政治體制のひとつに過ぎない。王制、貴族制と色々な體制があるが、一長一短あり、現代では民主制が好まれてゐるだけである。それも、消去法で選ばれてゐる。政治は元々多数の人間の妥協のためのものであり、理想などとは次元が異なる。

 また、「共有されてきた價値觀」といふ表現は、それこそ、「危険」である。戰爭中の「一億火の玉」と選ぶところがない。鰯の頭を絶對として信じるのは勝手かもしれぬが、それを他人に強制するのは、をかしい。民主制は、今はこの體制しかないかもしれぬが、絶對ではない。それを絶對と錯覺し、更に、民主主義とか民主的とか言ひかへて、すべてのことに押し廣げようとしてゐる。「民主的」經營とは、具體的に何を言つてゐるのかも分らぬ。經營するには指示して實行させねばならぬが、指示されたものが自分の考へで勝手なことをしたら、經營になりはせぬ。
 民主制は、決める手續は王制など他の體制と違ふが、決つたら従ふのは同じである。でなければ政治は成り立たぬ。獨裁と違ひ、反對意見を述べることは許されるが。

 日本の知識人は、全く變つていない。總白痴化ではなく、もとから一億總白痴である。戰爭中は一億火の玉で天皇陛下を奉じ、戰後は一億總懺悔して民主主義なるものに乘り替へ、舶來思想は間違ひないと床の間に飾つてゐるが、實體は何もない。みんなで渡れば恐くないと、何も見ず、考へもせず、ただひたすら走つてゐる。

 ちなみに、明治の體制は民主制である。憲法に基づく帝国議会による間接制民主制である。天皇を戴いてゐるが、國務大臣が天皇を輔弼してゐる。則ち、天皇は承認するだけで、内閣が行政權をもつてゐる。イギリスなどと同様である。軍部の統帥權干犯の主張は全くの出鱈目である。天皇に決定して戴くと、何かあつた時に陛下に傷がつく。天皇の決定を仰いだのは、昭和二十年のポツダム宣言受諾の時だけではないか。

個人主義のゆくへ H28.2.8

 アメリカで馬の長距離レースみたいなものをやつてゐるのをテレビで見かけた。一日に十何マイルかを走るのを何日かやる樣な感じであつた。馬のことを「パートナー」と呼んでゐた。馬が疲れたのか、降りて一緒に歩いてゐる人もゐた。

 テレビを見始めたとき、馬が故障して飼主が涙を流してゐた。途中で止めてしまつたからではなく、馬がかはいさうで涙が出たのだと説明してゐた。
 これをみて、歐米人も本當は同じだな、といふ思ひがふと頭をよぎつた。ただ、キリスト敎に痛めつけられてゐるのが違ふ。すなはち、地獄に落ちる恐怖から生じた個人主義がはびこつてゐる。それでなくては生きていけない。地獄か天國かの判定は、完全に個人個人の問題であり、家族といへども助けることは出來ぬ。「天は自ら助くるものを助く」とはピューリタンの好きなことわざであるが、そのとほり、自分以外の誰にも頼れぬ。従って、やむをえず個人主義でやるしかないが、いいことだとは決して感じてゐない。

 ジョン・レノンは「イマジン」で極惡人のレッテルを貼られたが、ロンドンオリンピックではその「イマジン」を歌つた。イギリスもをかしくなつたかと思つたりしたが、人々のキリスト敎を憎む氣持が背景にあるのではないか。地獄に落ちるぞと幼い頃から脅されて育ち、大部分の人は、頭こびりつき信じ込まされてゐるが、内心うんざりしてゐるのではないか。

ステンレスの職人用鋏 H28.2.11

 ステンレスで理容師や美容師用の鋏を作つてゐるといふ。鋼の方がよく切れると普通いふから、職人の使ふものは當然鋼かと思つてゐたが。
 ステンレスでも硬いものもあり、材質を選べば必要なだけの切れ味が出せるといふことであらうか。それに加へて、錆びにくいといふ利点があるのでいいといふことか。

浮気と志 H28.2.14

 浮気が取沙汰された議員が辭職するといふ。黨からも辞めろと言はれたのかも知れぬが、なぜ頑張らぬのか。
 この人は何を考へて立候補したのか。何の志もなく、ただ流れに乗せられて議員になつただけなのであらうか。失敗はあつても、志があるのなら、それを乘越えてなんとかやり遂げたいと思ふ筈である。

 浮気してもいいとは言はないが、政治家に聖人を期待するのは間違ひである。世の中に聖人などゐない。自分のことを考へれば分る筈である。政治家や藝能人にだけなぜ聖人を要求するのか。賄賂を取るなど法に觸れてははいけないが。

大甘の代表選考

 柔道で、五輪代表選考會で負けた選手を、實績を考慮して代表に選んでゐた。これでは何のための選考會なのか分らない。
 過去の實績など言つても始まらない。羽生名人がいふ樣に、強い奴が勝つのではない、勝つた奴が強いのである。
 こんな甘い世界では育つ人も育たない。

四十五十ははなたれか。データを取るのが技術か。 H28.4.15

 「40、50のとき偉さうな顔をして、いつぱしのことを口走つたが、いまはチヤンチヤラをかしいといふ感じです。」立花隆、朝日新聞、H28.4.4
 1940年生まれとあるから今年七十七なのであらうが、九十になつたら、同じ樣に、「70、80のとき偉そうな顔をして、いつぱしのことを口走ったが、・・・」と言ふのであらうか。

 偉さうな顏をしたのは、何かが分つてゐると思つたからであらう。分つたといふのは、言葉で論理を組立てて何かの結論を得たのであらう。しかし、その言葉が雑なのである。眞理だ、科學だ、意識だと、翻譯語を、皆が使つてゐるからと眞劍に考へもせず、當り前のこととして使つて議論する。形式的に何らかの結論に達するが、意味は全くない。勿論、本人も分つてゐない。言葉に踊らされてゐるだけである。それゆゑ、しばらくたつて情況が變ると、舊式の電気器具を見せられた樣に、古臭く思つてしまふ。

 「科學が進歩し、かつては謎の塊だつた死にかかはる脳の働きや意識について科學の言葉に翻譯できる樣になつた。死に接近する過程をやみくもに怖がる時代とは、相異なる過ごし方が出来るようになつてゐます 。」同上
 死ぬときの、といつても實際には臨死體驗の樣であるが、脳の動きのデータを取つたりしてゐることを言つてゐるのであらう。それは科學ではなく技術の世界であるが、それはともかく、新しいデータが得られたと、新しもの好きが喜んでゐるだけで、だからどうだと言ふのか。データが取れても、それだけでは技術でも何でもない。死に對する思ひがどう變ると言ふのか。九十になつたら、「チヤンチヤラをかしい」笑ふのではないか。

 人間、眞面目に考へたら、分ることは、分らないといふことだけである。どこが分からないかさへはつきり分らない。それを追及するのが考へるといふことである。
 分るといふのは、分ることと分らないことを分けることである。考へれば考へるほど、分かれば分るほど、分からないといふことが分つてくる。分らないことがどんどん出て來る。考へないと、分らないことすら分らない。

特殊な國、日本 H28.8.14

 「殘念なことに、第二次世界大戰にかかはつた國の中で、日本は今も侵略や虐殺の事實を認めようとしない人々が國の中樞部に多くゐる『特殊な國』である」(赤川次郎、朝日新聞、H28.8.14朝刊)
 この人は、他の國はみな、侵略を認めて反省してゐると思つてゐるのであらう。日本のお陰で植民地が目を覺まし、獨立されてしまつたので、今更植民地は無理だと諦めてはゐるが、別の形で支配しようとしてゐることには氣がつかない。或は、先進國がそんなことを考へる筈がないと、安心してゐるのであらうか。

 氣がつかない、といふと單なる注意力の低さと聞えるが、根本的に、世界の歴史を見てゐないからである。支那に味噌つかす扱ひされたお陰で、太平をむさぼつてきた日本人は、人間の歴史が虐殺や戰爭の歴史であることを知らない。知識としては少しは知つてゐるが、自分には無關係のことと眞劍に考へないから、路傍の虫の死骸を見た時ほどにも感じないのである。
 そこが、日本は「特殊」なのである。人間は本質的には善人であるが、民族同士は食ふか食はれるかの凄惨な爭ひを繰返して來て、今もそれは續いてゐることが分つてゐない。爭ひを繰返して來たと、言葉では一應分つてゐるとしても、それはもう終つたと思つてゐる。

 或は終らせねばならぬ、と思つてゐるつもりである。終らせられればそれにに越したことはないが、實際には續いてゐる。それでも終らせねばならぬ、日本が率先してさうせねば、といふのであるが、それはつまり終つたと思つてゐるのと同じである。續いてゐると本當に分つてゐれば、先づは自分の身を守つて、それから終らせる爲の闘ひをするであらう。身を守る必要を感じないといふことは、野蛮の時代は終つたと勝手に思ひ込んでゐるからである
(ところで、何を根據に野蛮は終つたと思つてゐるのか。日本だけが野蠻を働いたから、それを止めればいいといふことか。しかし、歐米の野蛮はどうなるのか。歐米の野蠻が分つてゐないのである)。

 確かに、日本は「特殊」である。自分の頭で考へるといふことが全く行なはれず、單なる「合言葉」だけで話をしてゐる。これも、仲間内で太平の世を樂しんできたためである。「つうかあ」の世界である。自由、平和、民主などの翻譯語が飛び交つてゐるが、誰もその實體は知らない。考へたこともない。ずつと昔に支那文明を輸入した時からの傳統である。表面的には導入したが、中味は全く理解してゐない。