目次

天皇および長嶋天皇竝びに圍碁將棋名人に關する非社會學的考察 (H23.5.22-7.10)


【長嶋天皇】
 野球界に長嶋選手がゐる。時々、變つたお言葉を吐いたりしてゐたが、誰も咎めたりはしない。長嶋はプロ野球の天皇であり、をこがましく批判などしてはならない。

 天皇とは何か。「日本國憲法」では、天皇は日本國の象徴とされてゐる樣である。國の體制を定める憲法に於いて象徴とは恐れ入る。全く人を食つてゐる。國家に於いて、權力を持たぬだけでなく、元首とさへ明記されてゐない。「外国の大使及び公使を接受すること」といふ程度しか記載されてゐない。象徴といふ得體の知れぬ、實體のない存在である。いや、存在とは言へないのではないか。
 こんな出鱈目をしても済んでゐるのは、誰も憲法など讀みもしないし、氣にもかけないからではあるが、詰るところ、實際に天皇が續いてゐるから何も心配しないでゐられるのである。明治政府も、天皇を擔ぎ出したから、官軍として日本を支配し、纏められた。

 長嶋天皇と呼んだが、なにゆゑか。何かしら特別の扱ひを受けてゐるといふ感じがする。マスコミでもさうだし、プロ野球界でもさうなのではないか。調べてみたら、彼は選手を引退した後、すぐに監督になつてゐる。普通は、コーチなどをして多少は勉強してから監督になるものである。彼には平のコーチなどやらせられなかつたのか。

【第一人者】
 日本には、いろんなところに「第一人者」と呼ばれる人がゐる。呼ばれてゐなくとも、何かの時にさう紹介したりする。便利な言葉なのである。かういふ人がゐると、その人を楯にして自分達の言ひ分を主張し易い。責任を負はせることが出來るし、この樣な立派な人が言つてゐるのであるからと、説得もし易い。いや、説得される方が納得し易いのである。
 また、さういふ人を立てることにより、その分野全體の存在を主張してゐることにもなる。これは、外國にも見られると思ふ。例へば、色々な團體が表彰をするが、これもさうである。お手盛りで、表彰される人だけでなく、自分達をも權威づけようとしてゐる。

【名人】
 碁と將棋には、名人がゐた。江戸時代に幕府の管理のもとに出來た制度で、名人は圍碁界あるいは將棋界を牛耳つてゐた。明治になつても名人は續いてゐたが、昭和になつて、圍碁、將棋ともにこの制度は廃止された。その時、將棋は、實力名人制と稱し、新聞棋戰「名人戰」を創設し、「名人」の名前は續いた。當初は二年期限、今は一年期限であるが、棋戰の勝者が「名人」を名乘る。ところが、碁の方は、同樣に新聞棋戰を始めたのであるが、何故か、名前が「本因坊戰」であり、勝者は「本因坊」を名乘ることになつた。本因坊とは、いくつかあつた碁の家元の一つに過ぎない。從つて、名人の樣な權威は望むべくもない。

 この違いは大きかつた。將棋界は、日本將棋連盟にまとまり、一應の統制がとれてゐる。棋士数も150人程度に絞られてをり、何年か前に聞いた年間對局料總額9億圓が正しいとすると、一人平均6百萬圓となるので、成りたての人でも何とか對局料で食へると思はれる。その代り、嚴しい制度で、成績が惡いと、「フリークラス」に落ち、さらには強制的に引退となる。
 人數に關しては、元々は初段から棋士だつたのを、いつか知らぬが、三段以下を切つて四段からにしてゐる。これなど、相當抵抗もあつたらうが、名人の權威があつたからこそ押し切れたのであらう。

 これに對し、圍碁界は、日本棋院と關西棋院に分裂したまま統合されず、兩者の勢力爭ひのなせるわざか、棋士数も450人程と將棋の3倍もある。互いに勢力を伸したいので、棋士數を、増やすまではしないにしても、減らす方向にはなかなかならない。その結果、對局料は平均年間2百萬圓にしかならない。これでは、下の方の人は、素人の稽古で食ふしかあるまい。これでは、若い人が修行に精を出せないのではないか。勿論、稽古ばかりで明け暮れしてゐる譯ではあるまいが。しかし、稽古で食つてゐると、いつしか、それが本業の樣になつて仕舞はないか。
 最近、日本の棋士は國際棋戰で全く勝てなくなつてゐるが、このことも影響してゐないとは云へまい。入段の壁も比較的低く、また、一旦棋士になれば負けてばかりでも首にはならず、稽古で飯は食へるとなれば、修行に熱も入らなくもならう。
 また、をかしな昇段制度がずつと續いたので、本來名人一人のみのだつた筈の九段が一番多いといふ、「段位インフレ」を生じてしまつた。そのため、將棋連盟もやむなく九段を作らざるを得なくなつてしまつた。昇段制度は最近やつと改められたが、もつと早い時期にやらねばならなかつた。

 關西棋院は、戰後間もない頃に關西の棋士の金錢的な不滿がもとで、日本棋院から分裂したらしいが、統合される氣配はない。將棋では、最後の關根名人の時、八段を澤山作つたので、坂田も同じ八段では釣合ひが取れないと、関西の後援者達が怒つて坂田名人を擁立したことがあつたが、關西の棋士は結局ついて來ず、東京の名人に從つたので、坂田は孤立してしまつた。これも「名人」の名前のなせるわざであらうか。

【圍碁名人戰】
 圍碁界では奇妙な事件があつたらしい。昭和27年に朝日新聞が名人戰を企劃したが、結局潰れてしまつたのである。木谷實が、名人は作るものではなく自然に生まれるものなどと言つたりしたらしいが、反対する人が多く、棋士全員による投票となり、一票差で可決となつたものの、担当理事の高川格がこれ程の反對があるのなら無理押しは出來ないと斷念したとのことである。
 將棋で實力名人制が既に十何年も續いてゐたときに、何を心配したのかと思ふ。もつとも、將棋の關根名人が實力名人制を始めるとき、將棋の傳統に取返しのつかぬ傷をつけて仕舞ふのではないかと思ひ惱んだといふ。それくらゐ名人の名前は重みがあつたのであらう。
 木谷などは、最後の名人本因坊秀哉に直接接してゐるから、名人の權威への郷愁みたいなものがあつたのか。名人がゐないことによる混亂に散々苦しめられて來てゐる筈であるが。それだけに、絶對的な權威をもつ名人でなければ、中途半端なものならいらぬと思つたのか。

 しかし、お隣の將棋界では何とかうまくいつてゐる樣に見えるのであるが。新聞屋の營業政策で、名人より上といふ設定の龍王戰も出來てゐるが、やはり名人を取らないと本物ではないといふ意識が、將棋界にはある樣である。
 古い話であるが、名人の權威にけちをつけようと、毎日新聞が、王將戰を三番手直りとしたことがあつた。實際、大山名人が升田に半香に差込まれたこともあつた。これも、逆に云へば、實力名人制の名人でも、それなりの權威があつたと云ふことであらうか。

 ところで、毎日はかういふ話が多い樣な氣がする。根本的に、將棋指しや碁打ちを、自分達大學卒より下に見てゐないか。といふ意味では、毎日に限らないが。龍王戰を作つた讀賣も勿論さうであるし、その他も似たやうなものであらう。
 昔は、觀戰記者に文句をつける棋士が、時々、ゐたらしいが、記者の方はちやんと書いてゐる積りで、何故けちをつけられたのか分らない場合が多かつた樣である。多分、意識的にはちやんと敬意を拂つて書いてゐるのであるが、心のどこかで舐めてゐるのであらう。

 昭和36年になつて漸く碁でも名人戰が始まつたが、將棋ほどの權威はない樣に見える。いくつかある棋戰のひとつでしかない。將棋の場合は、順位戰といふ各段ごとのリーグ戰があり、それをひとつづつ上つて行つて、一番上のA級順位戰で優勝して初めて名人に挑戰出來るといふ制度も影響してゐるのであらう。讀賣の龍王戰の方も、類似の仕組を作つて對抗はしてゐるが。

【權威づけ】
 天皇は權威づけに使はれる。權威とは何かといふと、英語のauthorityの譯語なのであらうか、他人を服從させる力である。他人を支配するには、最終的には自分の力による所もあるのであらうが、他人の力を利用する方が利口なのである。自分の力に頼つてゐては、そのうちぼろも出るし、何よりも、必ず下剋上を狙はれる。自分だけでなく、對象とする相手も凌駕する權威を使へば、相手も文句が言へない。
 權威づけには、ヨーロッパでは、神が利用される。神のゐない日本では、天皇が必要である。ただし、ヨーロッパの神も、普通考へられてゐる樣な絶對神ではない。自分あるいは自分達を守つてくれる守護神に過ぎない。ただ、各自が自分の守護神は絶對であると思ひ込んでゐるだけである。本當に絶對神であれば、この世に關はりはしない。とりわけ、特定の人間を守つたりする筈がない。とはいへ、生身の人間でないだけ、ぼろは出ない。架空の存在であるから、如何様にでも言へる。
 その点、天皇は人間であるから、ぼろが出る可能性はある。しかし、その時は見えぬふりをするだけである。長嶋天皇監督がをかしな采配を振つても、皆で補へばよいのである。最もよいのは、しかし、總監督に祭りあげて、実際の指揮は別の人にやらせることである。

 名人は生れるもの、と木谷九段が言つたといふが、これは當つてゐる。長嶋天皇も、本人が希望した譯ではない。知らぬ間にに祭りあげられてゐるのである。天皇陛下も、本人の希望とは無關係に、皆から祭りあげられるのである。イギリスなどの國王も、元々は違ふが、今は多少似てゐるのかもしれぬ。要するに、しもじもから利用されるものなのである。

【利己主義の抑制】
 天皇制の缺點は、國家のエゴイズムを否定できぬことであると福田恆在は言つた。確かに、原理的にはさうかも知れぬ。しかし、日本人は見苦しいことを嫌ふから、とことんエゴイズムを追求することはないのである。
 むしろ、福田がさらに述べてゐる樣に、エゴイズムの追求が弱いことが缺點なのである。ヨーロッパ人は、エゴイズムに過ぎぬことを、神のため、世界のためであるかの樣に主張する。本人も、エゴイズムとは全く思つてゐないかの樣である。日本人にはこんな厚かましいことは出來ない。

 もともとのキリスト敎の求めたものは死後の勝利であつた。もつとも、イエスは現世での心の持ち方を敎へただけなのであるが。とはいへ、イエスの譬へのなかにも、すでに、天國でどうのかうのといふ言葉がある。弟子達は文字通りに受止めただけなのかも知れぬ。
 兔に角、現世は諦めた筈のキリスト敎であるが、庶民はやはり現世しか頭にない。日本の宗敎が、詰るところ、現世利益への期待で成立つてゐるのと、同列には論じられぬかも知れぬが、似てゐるのは確かである。庶民は死後の報獎だけでは騙されぬ。
 庶民にとつて神とは自分の守護神でしかない。それがキリスト敎の衣をまとい、オールマイティとして現れるだけである。神といふより惡魔といふべきであらう。敎會の力は弱くなつたが、神の代りに、世界とか、人類とか、正義とかが祭りあげられ、彼らを守る惡鬼となつてゐる。惡鬼と呼んだのは、つまり、素直でないからである。倒錯した慾望を持て餘してゐるからである。
 もともと、キリスト敎では、神の前には人間の利益など何の意味もない。ところが、この世に神の國が建設できるといふ錯覺がいつの頃からか生じた。俄然、この物質世界は意味のあるものになつた。世界をよくする、神の國の確立に向けて改良していくといふことが、人類の務めとなつた。倒錯と云ふほかない。なぜこの世はこのままではいけないのか。自然はそのままで美しくないのか。この世は、すなはち、神の造つた國ではないのか。

【日本のいきかた】
 アメリカ流の金儲け至上主義は、既に潰れ掛つてゐる。金儲けとなれば、金融で儲けるのが手取り早いのはいふまでもない。アメリカは段々その方向に動いてゐる樣に見える。さうなれば、もはや自滅しか殘つてゐない。金融で勝誇つてみても、その足元が崩れる。

 問題は、この樣な人達と如何に付合つていくかである。日本は完全にキリスト敎文明に取込まれ、彼らの世界制覇の先兵となつてゐる。そんな自覺は毛頭ない樣であるが。そして、何の理念もなく、金儲けを專らの關心事としてゐるが、儲けても儲けても、氣がついたら歐米に吸上げられ、いつも貧乏してゐる。
 金儲けには本當は關心がないことをもつと言ふべきではないか。歐米の資本主義經濟に取込まれ、金儲けに血道をあげてゐることになつてゐるが、日本人はそんなことには全く興味がないことを、はつきりと宣言することが必要ではないか。例へば、會社にしても、日本の會社は金儲けのためにあるのではないのである。會社は、世の中に必要なものを提供するためにある。社員に給料を拂ひ、潰れず事業を続けていければよいので、金儲けは要らぬ。さういふことを自覺しないと、この先、日本人自身、分らなくなって仕舞ひさうである。

 既に、社長の報酬をやたら高くする風潮が廣がつてゐる樣である。外資に乘取られた企業ならいざ知らず、れつきとした日本の會社までさうなつてゐる。さうしないと、他社に引き拔かれるとでも云ふのか。それに應じる樣な人は、勝手に引き拔かせればいいのである。

社會主義の呪縛 (H23.10.2)


 坂野(ばんの)潤治といふ人へのインタビューが新聞に載つてゐた(H23.10.1, 朝日)。
 「……ソ連體制が終りに近づいてゐたことはわかる。さうすると左翼も終る。その後に自民黨だけが殘るのは、いくらなんでも不愉快だ。だからソ連型のスターリン主義的社會主義でもなく、日本やアメリカのやうな資本主義でもなく、西ヨーロッパ的な社會民主主義といふ中道左派で踏みとどまらうといふ研究を始めたのです。」
 粗雜な言葉遣ひ、つまり、出鱈目な短絡論理は兎も角、社會主義或は共産主義が絶對に正しいといふ思ひ込みが窺へる(その割にソ連が終つただけで自分たちも終ると感じてゐる。つまり外国を絶對的権威として頼つてゐるだけなのである)。社會主義は、多くの日本人を呪縛してゐる。資産を持つ人間が持たざる人間を搾取してゐる、富の分配が不公平である、などと言はれると、反論できないのである。

 共産主義について言へば、人間はもともと所有慾があるので、そんなことは空論でしかない。原始共産制などといふが、勝手な想像でしかない。人は自分のものを持つことを喜ぶし、自分の持物に愛着を感じる。これをひつくり返すことは出來ない。
 社會主義は生産手段を共有とし、生産物の分配を公平にしようといふ。しかし、公平を問題にしだしたらきりがない。いかに公平を期しても何らかの不公平は殘る。

 ヨーロッパで近代工業化が始まつた時、急速な變化により弊害があつたのは事實であらう。しかし、弊害は時間が解決する。共産主義思想や社會主義思想あいるは社會民主主義思想が起つたからこそ少しづつでも改善されて來たのだといふかもしれぬが。
 もつとも、ヨーロッパは昔から奴隷制度でやつてきたところであり、勞働者は奴隷同然にみなされてゐるのかもしれぬ。さういふ意味では、ヨーロッパでは階級鬪爭は必要なのかも知れぬ。階級とはつまり人種の違ひに等しい。人種とは、血の問題もあらうが、それより文化と經濟の問題である。
 ところで、社會主義あいるは社會民主主義とは何なのか。資本主義と何が違ふのか。社會主義は生産手段の共有を主張してゐるが、工業化社會そのものを否定してゐるのではない。或は、工業化を乘越えた新しい考へ方を提案してゐる譯でもない。單に、富の分配の見直しを主張してゐるのみである。それに何かの価値があるのか。單に、人種間(階級間)の爭ひに過ぎぬ。それをいふなら、ヨーロッパがアジアやアフリカから搾取し續けてゐることの方がよほど問題ではないか。
 それは兎も角、ものが澤山あれば人間は幸福であると考へてゐる點では、資本主義も社會主義も違ひはない。社會主義は、物の分配を改善すれば、仕合せな人間が増えるといふのが違ふだけである。すなはち、最大多数の幸福のために、資本主義をいくらか徹底したものであるとも言へる。
 ものがあれば、人は仕合せなのか。ものはいくら持つてもきりがない。他人よりも少し多く持つてゐるといふことで、人は優越を感じる。持たざるものは不滿を感じる。それだけのことである。今の貧乏人の方が、昔の金持よりも物を多く持つてゐるが、決して滿足はせず、今の隣人より貧乏であることに怒る。社會主義で本當に平等になつたら、滿足は決して感じず、自分より貧乏なものがゐないことに不滿を感じるであらう。

 そのくせ、社會主義信奉者は金儲けを馬鹿にしてゐる。先生方は、敎師は金儲けではないと思ひ、自分達は汚い金に手を汚さずに生きてゐると勘違ひしてゐるのであらう、その高みから財界人などを馬鹿にしてゐる。どんな仕事も、聖職であると同時に金儲けでもある。儲けなければ食つていけない。
 實業界とは、學問から遠ざけられ、金といふ汚辱にまみれた生活を送りながら、そのことに氣づきもせず無反省に生きてゐるごろつきのやうな連中だと思つてゐる。そのくせ、金の力で人は幸福になれると無意識のうちに信じてゐるのであるが。
 金がない人は、高等敎育を受けられず、學問の恩惠に浴せないので金儲けに走ると思はれてゐる。事實は、日本の財界などは結構高學歴の人が多いのであるが、學者先生の影響か、高学歴の人ほど、金儲けは生きるために不本意ながらやつてゐる積りの人が多い。
 學者先生も財界人も、内心は金に憧れてゐるのである。それは自然なことで、後ろめたく思ふことはない。しかし、學問にかぶれて金儲けは賤業だと思ひ込み、一部の狡い者は手を汚さなくて済む學者になり、大部分はそれも出來ず、仕方なく實業界に身を落したのである。身をやつしたが、これは本來の姿ではないと、文藝などに精をだして心の平衡を保つてゐる人が多い。そんなことだから失敗しても言ひ譯して濟ますサラリーマン經營者も多い。

 問題は、金すなはち物質にしか興味がないのに、素直に認めぬことである。支那の學問も西洋の學問も、すべて物や金を低くみてゐるので、その眞似をしてゐるのである。しかし、日本人は形あるもの、目に見える物しか信じられない。逆に、目に見えるものは心靈寫眞も簡單に信じる。ではあるが、死んだらすべてお仕舞ひと感じてゐる。ただ、故人のことを思ひ出す人がゐる限り、人は生き續ける。
 大抵の日本人は、舶來の學問の受賣りで物以外の何かを信じてゐるかの樣に錯覺してゐる。實際は、さういふ言葉が、支那語または飜譯語としてあるだけで、言葉の姿、實體は見えていない。最近のやうに、飜譯もせず、カタカナ語を多用するに至つては、病膏肓に入るである。言葉に振り囘されてゐるだけで何も考へてゐない。そもそも、自分と関係のないことにのみ興味を示し、自分にとつて大事なことは考へない。關係のないことを考へたふりをしてゐれば樂だからである。先づ、自分にとつて必要なことを、自分の頭で考へねばならぬ。


坂野氏へのインタビューから、安保關係の發言をいくつか
「……価値中立的で實證的な歴史分析に徹した本でした。それは僕が60年安保に挫折し轉向したといふ負ひ目を持つてゐたからです。そのやうな人間は、歴史上の人物についても、批判し、裁く資格はないと思つてゐました。」
「しかしこの本が出る頃には、社會主義は滅んで、みんな轉向してゐた。……一人で轉向者意識を抱へて物を言はない義理はもうない。」
「僕らは安保で、社會主義のために體を張つたんだから。」

 いい氣なものである。社會主義ごつこといふ呑氣な遊びである。
 轉向したら何故批判出來ぬのか。もともと眞劍に社會主義を信じゐたのではなく、仲間と一緒に遊んでゐただけだつたが、流行らなくなつたので、友をおいてさつさと輪から外れてしまつた。それが後ろめたいのであらう。社會主義を信じてゐたが、考へを改めたのなら、何ら後ろめたいことはない筈である。改める樣な考へは何もなく、ただ遊びから拔けたのが氣になるのである。
 「社會主義は滅んで」などと言つてゐるが、その前から日本に社會主義の實體は何もなかつた。社會主義者を氣取る連中がゐただけである。
 「義理はもうない」となると、やくざの世界である。轉向がよくないと本當に思ふのなら、他人と關係なく反省してゐる筈で、もともと全く反省してゐないのである。轉向さへしてゐない。轉向したと言へるほど、眞劍に考へてはゐなかったし、今も考へてゐない。ただ、指を詰めろと言はれるのを恐れてゐたが、今なら、お前も裏切つたと反論出來るといふのである。
 それにしても、「體を張つた」には恐れ入る。警官隊に守られて坊ちやん方が遠吠してゐただけではないか。デモで亡くなつた人がゐたが、デモ隊に潰されたといはれてゐる。或は警察にも多少落度があつたのかも知れぬが、基本的に警察はデモ隊に怪我をさせぬ樣に恐る恐るやつてゐたのである。

心學批判の批判 (H24.2.4)


【正直】
 石田梅岩の心學は正直を獎勵した。正直は、しかし、本心への正直であり、他人に對してはときに嘘をつくこともあるといふ。例へば、父が羊を盜んだのを知つても、子は隱すのが當然であるといふ。
 これを批判して、だから日本では組織内の犯罪が隱されてしまふといふ人がゐる。組織の存續が優先され、眞の目的が忘れられると批判されてゐる。確かに、日本の組織は、大抵、擬似家族制でもつてをり、何か起つてもなるべく穩便に濟ませようとする傾向があるかもしれない。
 これは、しかし、間違つてゐる。心學の敎へをねぢ曲げてゐる。組織を家族的に運營するのはいいが、所詮、本當の家族ではない。親子は自然發生であり、血の繫がりは絶對に切れないが、組織は、必要により集まつてゐるだけである。惡いことは惡いとはつきりさせなければ、組織は崩壊する。
 江戸時代もさうだつたのであらうか。さうは思へないが。

【政治】
 もうひとつ、梅岩は、政治は武士に任せておいて、その體制のなかでいかに生きるかしか考へてゐないと批判される。それが昂じて、今でも、國際社會でアメリカに頼つて、自ら責任ある行動を取らないといふ。確かにさうなつてゐるのであるが、それは梅岩の責任ではなく、もともと、日本では、庶民は政治には關心がなく、まつりごとは武士に任せてゐた。外國に侵略され支配されたことが一度ももないといふ有難い境遇にあつて、政治に關心の持ちやうもなかつた。それでも、武士は政治に責任を持つてゐたので、その武士の傳統がなくなつてしまつたことに日本の政治、外交の昏迷の原因がありさうである。
 といふと、侍を買ひ被りすぎてゐるかもしれないが、少くとも、幕末には今よりも格段にましな舵取りが行はれてゐた。やはり、侍に生れた責任を感じてゐる人達がゐたのである。今はそんな氣概を持ち樣がない。政治家になるのも、官僚になるのも、世渡りのたつきとしてゐるだけである。本人が責任感を持たうと思つても、如何ともしがたい。社會全體にさういふ慣習がないのである。

 ところで、侍といふ階級がなくなつたのは、明治である。四民平等などといつて、歐米の眞似をした。歐米には、實際は、階級といふ思想が殘つてゐるのが分らなかつたのである。
 名目上は、華族と士族が平民以外にあつたが、華族は兎も角、士族は名前だけに過ぎなかつた。世襲の役職も特權も何もなかつた。

 それでは外國はどうなのか。日本と事情は變らないのではないか。確かにさうであらうが、ひとつ違ふのは、階級である。アメリカも、實はヨーロッパと同じ階級社會であり、その樣な社會では、政治家になるといふことは、責任ある階級の人間になることである。從つて、自然に責任感が生れるのである。その點で、日本よりは少しましな政治家が出てくる可能性があるのではないか。

【民主制の政治家】
 政治は世襲でやらないと駄目である。生まれた時から、よくても惡くても政治にたずさはるといふ宿命を背負つてゐないと、責任ある政治家にはなれない。民主制では、自ら志して政治家になる。それはそれで立派なことかもしれぬ。しかし、自分は立派な人間だから政治家をしてゐると思ひ上つてゐる人ばかりなのではないか。政治は、所詮は、庶民が樂しく暮せるための縁の下の力持でしかないといふ感覺を持つてゐる人がどれ位ゐるであらうか。
 民主制で困るのは、政治家は常に選擧のことを氣にしてゐないといけないことである。先生と呼ばれて威張つてゐても、一旦落選すれば只の人に落込んでしまふ。從つて、好むと好まざるに關はらず、マスコミや大衆を氣にしてゐないとやつて行けない。小人に迎合して、人氣を維持する必要がある。やるべきことを信念を持つてやるといふことがなかなか出來ない。何の信念もなくとも、選擧にさへ勝てば、これでいいのだと思つてしまふ。衆愚政治に陷るしかないのである。

 また、政權を取るには、對抗勢力に勝つことが大事になる。そのために、往々にして、相手を攻撃するために手段を選ばなくなる。戰前、統帥權干犯といふ言葉で軍部が政府を攻撃して困つたことがあつたが、これを言ひだしたのは、なんと、政黨政治家の犬養毅であるといふ。ロンドン海軍軍縮条約調印の時に濱口雄幸内閣を攻撃するために言ひだしたとされてゐる。軍部に入れ知恵されたのではないかとも言はれてゐるが。何れにしても、自分で自分の首を絞める樣な行爲である。

 斯樣に、民主制においては、政治家に責任ある行動を期待することは、本質的に難しい。實際には、親子何代か政治家をやつてをり、世襲に近い場合もある樣である。しかし、本當に世襲ではないので、本人は實力でなつたと思つてゐるし、實際、選擧で勝ち續けるには、マスコミなどに迎合するしかない。何をしても政治家を續けられるといふ保證はない。人氣取りに走るしかないのである。

【マスコミの專制政治】
 マスコミに迎合と言つたが、政治家が操作されるのは、マスコミによつてである。別に、マスコミが意識的に操作してゐるのではない。マスコミが、「公器」として「中立」かつ「公正」に報道する結果に、大衆が操作され、政治家も操作される。公正な報道などあり得ないので、どういふ見方での報道なのか、自分の立場を鮮明にすべきなのであるが。報道者の立場と内容を勘案して初めて眞相を推察することが可能になる。
 マスコミは、意識的に輿論を誘導しようとしてゐるのではない。マスコミが、自分達の考へが絶對に正しいと信じて報道する内容を、大衆が無批判に受容するので、結果的に輿論がマスコミの考へ通りに形成されるのである。
 マスコミは、何故、自分達は絶對的に正しいと自信があるのか。彼らが信じてゐるのは、民主主義、自由、平等など、すべて、舶來の思想である。ヨーロッパで、近代になってから使はれてゐるものではあるが、今の世に通用してゐるだけで、絶對的に正しいものではない。それらは、近代以前の歴史を引きずつてをり、表に出てゐるのは氷山の一角に過ぎない。ヨーロッパは字義通りに信じてゐるわけでもないし、實際は水面下の傳統が生きてゐるので何とかもつてゐる。それを日本人は、表面だけを字義通りに信じ、かつ、永遠に正しいと盲信してゐる。なんといつても、憧れのヨーロッパで檢證されたものであるから。實は、檢證などされてをらず、ひとつの假説として提案されてゐるだけなのであるが。
 民主制がいいとなると、とにかく絶對と信じるから、なんでもかでも民主になる。民主制とは政治體制の話なのであるが、敎育でも經營でもすべて「民主的」でなければならないとなる。すべてがこの調子で、いい加減な言葉使ひにより、實體のない議論が際限もなく續けられる。すべてが夢の中である。

【政治の立て直し】
 民主制がよくないのである。ヨーロッパでは、民主制と云つても、中世以來の傳統の上にたつてゐる。日本では、何の素地もないところに、むりやり接木をしてゐるから、機能する筈がない。
 ではどうしたらいいのか。接いだ木を取り拂ふしかあるまい。或は、鍍金をはがす。最近は、離婚が増えている樣である。明治以來のキリスト敎思想の鍍金が剥げて來たのではないか。離婚を獎勵する譯ではないが、鍍金の假面に窒息して苦しむよりは、あつさり地金を出した方が樂であらう。離婚が少なかつたのは、日本古來の、見苦しさを嫌ふがゆゑのことではなく、付け焼刃の道徳律を氣にしてのことであつたとすれば、その樣な風習は無意味である。
 明治以來、自由、平等、民主、博愛等々、飜譯語が氾濫してゐる。一旦日本語になると、その意味するところは分り切つてゐると皆おもふ。しかし、もともとその樣な概念は日本にはなく、飜譯者が言葉を作つただけである。實體は何もなく、ただ言葉だけが一人歩きしてゐる。最近に至つては、もはや飜譯する力さへなく、カタカナのまま使つてゐる。本人は意味を分つてゐる積りなのであるが、本當は、氣分だけで何も分つてゐない。政治家など、騙すためにわざとカタカナ語を使つてゐる樣にも見えるが、實は、本人も騙されてゐる。

 意味の分らぬ言葉に振り囘されるのではなく、自分の頭で考へることである。そこから始めるしかない。

中國の不滿は日本が謝るから (H24.9.17)


 尖閣諸島問題から中國で反日デモが流行つてゐる。共産黨政權への不滿の捌け口になつてゐるのであらう。單に反政府運動であれば叩かれるが、反日を旗印としてゐるから政府も叩きにくい。或は、政府が焚きつけてゐるのかもしれぬが。しかし、實は、政府の弱腰も非難されてゐるのではないか。

 中國で反日感情がいつまでも續くのは、政府がさういふ敎育をしてゐるのが大きな原因であらうが、大本をたどれば、日本の態度がよくない。日本が謝るから、相手は収らないのである。
 日本人は、惡かつたと謝れば相手は許してくれると思つてゐるが、それは日本といふ、外國と食ふか食はれるかの嚴しいつき合ひをしたことのない特異な國での話で、外國では謝つたらとことん搾り取られる。謝るといふことは、眞面目にやってゐなかつたと認めることである。他人に對して、そんなことは口が裂けても言つてはならない。少くとも、眞面目にやったことは強調しないといけない。相手から見たら不滿足な結果があつても、自分達は眞面目にやつたと先づはいひ、さはさりながら場合によつては補償交渉などにも應じる位でないといけない。

 歐米は、アジアやアフリカを植民地化して惡の限りを尽してきたが、近代化してやつただけだと、非を認めるどころか、自畫自贊してゐる。
 ドイツなど、ユダヤ人やポーランド人などを散々虐殺してゐながら、あれはヒットラーのやつたことで自分達は無關係だとうそぶいてゐる。ただ、お氣の毒だからと金だけはいくらか出した樣であるが。

 これは例がよくなかつた。ヒットラーと日本を一緒くたにしてゐる樣な印象を與へる。ヒットラーは明らかに民族殲滅を狙つてゐた惡魔である。それも、ドイツ國民の氣持を代表してやつたことである。日本は、支那や朝鮮が列強に植民地化されたら次は日本だから、それを止めるために列強と競爭して進出しようとしただけである。日本を責めるなら、植民地化の元祖である歐米列強を先づ責めるべきである。
 それをせず、日本だけを責めるのは片手落ちである。ただ、問題なのは、歐米はアジアを近代化したのだと恩着せがましく言つてゐるのに對し、日本は侵略してごめんなさいと謝つてゐることである。謝られれば、謝られた方は、そんなに惡いことをしたと云ふのなら、とことん取り返すのが義務であるとなるのは當然である。中國は賠償はいらないと言つたらしいが、それは一旦貰つたらそれで終つて仕舞ふからことはつただけで、後でとことん取れるといふ讀みがあつてのことであらう。

 謝れば許して貰へるなどといふ甘い考へは國際社會では通用しないことを膽に銘じねばならぬ。

 ところで、歐米は自畫自贊してゐると言つたが、これは全くの出鱈目といふのではない。さういふ見方も出來ない譯ではないし、さういふ考への人も實際にゐたのである。現實には搾取してゐただけであるが、理念としてはさういふ大義名分があつたと云ふことである。ちなみに、日本にも大義名分は一應あつたので、たとへ矮小に見えようと、それを主張するしかないのである。
 今でも、歐米は彼らの理念のもとに、自分達の天下を維持擴大しようとしてゐる。日本も、自覺のないままに、その理念の手下になつてゐるのである。その理念とは、近代化を推し進めると云ふことであるが、詰るところは世界を完全に機械化するといふことになる。ただし、現實は常にその途上にあり、先頭に立つ歐米人が師であつて、その他の人々は子分として奉仕するのみなのである。

戰犯を認めるな、吉田茂こそ戰犯 (H25.8.11)


 吉田茂は極東軍事裁判と戰犯を認めてサンフランシスコ講和條約を結んだ。講和のためにやむなしとしたのかも知れぬが、これが諸惡の根源である。吉田こそが大戰後日本の「戰犯」である。

 アメリカから見ると、ドイツの惡魔ヒットラーが惡の限りを尽したが、それと組んだ日本も當然惡魔に導かれてゐた筈であり、それを求めたのがA級戰犯なのである。
 ドイツ人自身も、ヒットラーを惡魔とし、自分達とは何の關係もなく、從つて自分達には責任はないとしてゐる。ただ、命令されて手伝はされてゐただけだといふ。つまり、責任逃れのために、惡魔を作つてゐる。もつとも、ヨーロッパでは、ヒットラーの樣な惡魔は、突然出てきた譯ではなく、似たやうなことは過去に何度もやつてゐる。

 A級戰犯とは、アメリカが自身を正義とし、日本を惡とするために持ちだしたもので、日本は絶對に認めてはならない。日本の戰爭は、歐米が植民地支配を推進してゐる中で、窮鼠猫を咬むの思ひでやつたことであり、ヒットラーの民族殲滅活動と一緒くたにしては絶對にいけない。ヒットラーのやつたことは、戰爭ではなく、明らかに周邊の民族を殲滅しようとしての行動である。日本は、歐米との植民地爭奪戰に先手を打つただけであり、普通の戰爭である。戰爭は互ひにやむにやまれずやることであり、どちらがいいとか惡いとか言へるものではない。
 アメリカは、ハワイを取り、フィリピンを取り、虎視眈々とアジアを狙つてゐたが、中國には出遲れてゐた。それが日本の戰爭のお陰で情況が一變して各地で獨立運動が起り、進出の機会を失つてしまつたので、善人面をしてゐるだけである。

 戰犯を認めることは、日本の戰爭がヒットラーと同じく完全に侵略であつたと認めることである。侵略でなかつたとは言はないし、やり方が下手糞であつたことも間違ひないが、歐米の植民地支配のなかで生殘るためにやむなくやつたことであり、少くとも、歐米から惡魔よばはりされる筋合ひはない。歐米は植民地支配も近代化のためと正當化してゐる。
 また、結果から言へば、日本の行爲により歐米の植民地支配が崩壊したのである。日本人の氣迫が植民地の眠りを覺ましたのではないか。

知の巨人加藤 (H27.2.17)


 新聞に「知の巨人」と稱して加藤周一の記事があつた。曰く、『憲法九條をなぜ守るかと訊かれて「時代の先取りだから守つた方がいい」、「日本の國として國際的に通用するものが他にない。日本が國際社會で特に意味があるといふ個性は第九條にかかつてゐる」と明快な言葉で答へた』(朝日新聞H27.2.17夕刊)。
 本當にさう言つたのかどうかは兔も角、加藤が言つたといふ言葉も出鱈目であるが、記者の「明快な言葉で答へた」といふ言葉の方が酷い。加藤の言葉のどこが明快なのか。言葉としての表面的な意味は「明快」かもしれぬが、内容は何もない。冥界から漏れた屁の樣なものである。

 通用するものがないなら、通用させてはいけない。通用するものを作るべく努力するしかない。

 ただ、この言葉で、護憲派と云はれる人たちも、本當は大した物とは思つてゐないことが、はしなくもあらはれた、とはいへる。

日本人の好み (H27.1.2-3.7)


以下を書いての結論
抽象的概念は、具體的なことから出て來たものであり、抽象語も實は具體的な事物をも指してゐる。
日本は抽象的概念を西洋から輸入したが、對應する具體的事物がないのに、言葉のみ取入れて抽象概念專用語として使つてゐる。従つて、抽象語を使つても話し手は具體的な心象を全く持たないので、自分の問題として眞劍に捉へてをらず、無責任な空論を展開するだけに終る。その結果、世の中に荒廃をもたらすのみである。
日本人が抽象概念なしでも暮らせるのは、貨幣經済になつて抑壓され死んだ筈の、助け合つて生きるといふ本能がまだ殘つてゐるからである。それは、人間への信頼といふことであるが、こののち何うなつていくのであらうか。


 日本人は世界中から色々なものを取入れてきたが、なんでもかんでも受入れた譯ではない。例へばキリスト敎は殆ど廣まつてゐない。好みに合はぬものには素知らぬ顔をしてゐる。
 一方で、宗敎以外の思想や学問となると、殆ど無批判に受入れてゐる樣に見える。古くは支那から、明治以降は西洋からどんどん輸入して、有難く頂戴してゐる。しかし、實際に役に立ててゐるかといふと怪しい。床の間に飾つてゐるだけである。それでしかし學者稼業は成立つてゐるから不思議である。飾りとしての役目を果してくれてゐると云ふことか。

 土臺、抽象的な思考は苦手なのでどうでもいいのである。抽象的なことを考へぬのではないが、さういふ言葉が昔は殆ど無かつた。考へてはゐる筈であるが、意識的ではなかつた。漢字が輸入され、さう云ふ思考が意識化されてゐるのに気づいた時、和語を新しく工夫するよりは漢字、漢語をそのまま使つた。すぐカタカナ語を使ふ昨今の風潮と同じである。尤も、抽象的な言葉が和語には殆ど無かつたから、新しく言葉を作る必要があつたらう。それよりも漢字をそのまま使ふ方が容易であつた。また、漢字は本来一音節で、大和言葉よりずつと簡潔である。その結果、漢字は日本語に入り込んで完全にその一員となり、造語成分になつた。
 (ところで、日本語は一音節の語は少ないが、支那の単語(漢字)はなぜ一音節なのか。音節の種類が多いし、さらに区別するために四聲があるから、約千五百掛ける四で六千くらゐあるので、日常會話には十分の語數なのかもしれぬ。それでも限りがあるし、また、一音節では短かすぎて聞き取りにくいのか、不安定なのか、結局、道路、樹木などと熟語を作つてゐる。漢字の發生過程では、あるいは、一音節ごとに發音記號的に漢字を當てた結果、逆に語として認識される樣になつたのか。また、言語として十分發達してない段階で漢字が出來、その後、複雑なことを表現するために熟語を作つていつたのか)

 ともかく、漢語を使つて抽象的な思考を一應するのであるが、どこまで身についてゐるのであらうか。カタカナ語ほどではあるまいが、言葉に使はれてゐるのではあるまいか。古くから使はれてゐる漢語でも、具體的なものの名前などはいいが、抽象的な言葉になると、どこまで意味を理解してゐるのであらうか。
 と書いてきて、古くからの抽象的な言葉の例を探すがなかなか見つからない。今使はれてゐる抽象的な漢語は大部分明治以降の西洋文明輸入に際しての造語あるいは借用なのではないか。辭書を見ていたら、經營も世話を焼くという意味での用例が源氏物語にあるさうである。生活も生存するといふやうな意味で孟子に出てゐる樣であるが、日本では專ら暮しといふ程度の意味で使はれてゐる。暮しといふのも抽象的な言葉ではあるが、日常的な水準である。尤も、孟子の意味も本當はそんなに違はぬのかもしれぬが。いづれにせよ、具體的なことから遠く離れた、高度に抽象的な意味の言葉は日本では殆ど使はれてゐなかつたのではないか。使はれてゐたとしても、例へば「義理」の樣に、元々の意味から離れて日本獨自の具體的な意味でもつぱら使はれてゐた。

 抽象的といへば、日本人も數學や暦など、嫌ひではなかつた。しかし、政治、經濟となるとあまり興味がない樣である。外國に敗けて痛い目にあつたことがなかつた所爲なのか、また、太平の世に慣れた爲もあるのか、政治などはお上に任せておけばいいと、輕く見る習慣が染み付いてゐる。自分たちは、仕事や遊びに精を出せばいいと思つてゐる。その方がもつと大事なのである。
 世界では滅亡の危機を乗り越えた民族だけが生殘つてゐるが、日本人は日本海といふ天然の要害で守られたのか、或は支那からみそつかすと見捨てられてゐたのか、太平の世を謳歌してきた。侵略されて酷い目にあへばこそ、政治も倫理も必要になる。必要ならば眞劍になる。仲間同士の和氣藹々、つうかあの世界では、政治は重要にはならない。

 であるから、所謂理科系は眞面目にやるが、文科系になると、眞劍味が見えない。必要がなく、眞底からの興味なしにやつてゐるからである。政治にも經濟にも興味がないのに、そこに政治學、經濟學、社會學、倫理學等々が輸入されたから飯の種としてゐるだけである。文學系もさうである。文藝は趣味であり樂しめばいいのであるが、その氣はないのに、西洋の眞似をして文學部を作り、學問はいいものだと自畫自贊してゐる。
 そんないい加減なことをやつてゐても、文科系では實地に檢證されぬから、百年經つてもそのまま續いてゐる。變だといひ出す価値もないと默つてゐるが、誰も信用はしてゐない。一種の裸の王様である。

 思想や學問を受け入れたと書いたが、あくまで表面的にといふことであり、根付いてゐる譯ではない。歐米から輸入・飜譯して飾つてゐる押し花に過ぎぬ。枝葉を伸ばし花を咲かせてゐるのではない。昨今は飜譯すら出來ず、カタカナ語で誤魔化してゐる。病膏肓に入るである。

 表面的にせよ、何故受け入れるのか。要は征服されたといふことか。壓倒的な勢力の前に降參してゐる。歐米の言ふことは、何もかも、絶對的に正しいと信じてゐる。自由だ、平等だ、個人だといつても、それぞれ歴史の産物であり、現時點で主流になつてゐるだけで、絶對的なものではない。主張する者はあたかも絶對の樣に言ふであらうが。一應それでやつてゐるかもしれぬが、實は反対の意見もいくらでもある。彼らは命を懸けて闘つてゐる。或は、鬪ふための武器として思想を主張してゐる。
 また、個人主義などを、薔薇色の思想の樣に日本人は勘違ひしてゐるが、彼らは決していいと思つてはゐない。今はそれでしかやれないといふだけである。地獄に落ちるかどうかといふ時に、頼れるのは自分だけで、家族でも救つてはやれぬといふ、悲しい現實に過ぎない。

 日本人は、政治も思想も興味はないので、眞劍に考へもせず、すべて眞に受けて、有難いお經と床の間に飾つて、それでお終ひである。一般庶民ではなく、學者先生達がさうなのである。庶民は全く受入れてはゐない。日本人がなぜ思想だけは何でも受け入れるのか、不思議だと思つたが、考へてみたら、何も受入れてはゐないといふことである。ただ、最近は一億高學歴化で、學校で絶對的に正しいと敎へられたので、さう言つておけば無難だと思ふ裸の王樣が益々増えてゐる。それは大した事ではないかもしれぬが、結果として、歐米の大義名分に壓倒されて抵抗出來ず、ほしいままに掠奪されてゐる。
 一番拙いのは日本の傳統がどんどん破壊されていくことである。それも、自分から好んで協力してゐるから、彼らも不思議であらう。明治以來、それがかれこれ百五十年續いてゐるが、そろそろ貯金も無くならないか。それとも、日本人の魂は不死身なのか。

 高度に抽象的な意味の言葉は日本では殆ど使はれてゐなかつたのではないかと書いたが、今でも相變はらずさうなのである。ヨーロッパの概念に漢語を當てはめて使つてゐるが、中味は理解してゐない。形の無いものが存在するとは思つてゐないから、理解どころか想像すら出來ない。幽靈も心霊寫眞も、目で見たと思ふから信じてゐるだけである。昔は井の中の蛙で勝手に獨自の意味で使つてゐたが、今はそれすら出來ない。
 ヨーロッパは、形而上學があり、神や眞理について考へてをり、抽象的な思考が出來る。少くともさう思つてゐる。しかし、本當にどこまで出來てゐるのか。生れた時から神だ、眞理だと言はれてゐるから馴染みは深いから氣輕に話題にしてゐるが、どこまで理解してゐるのか。もしかしたら、日本人の生活に佛教用語が入り込んでゐるのと徑庭ないのではないか。Godと云つても、父親の延長あるいは敎會のイエス像のイメージなどで捉へてゐるだけなのではないか。
 最高の水準では高度に抽象的な概念なのかもしれぬが、それが現實に生きてゐるのは具體的な心象としてであらう。でなければ、どういふ風にして人間に影響を及ぼせるのか。その心象を抽象化し言葉にしたのが抽象概念であり、それを操つて議論してゐるが、機械的、形式的に論理を展開しているだけではないのか。論理は論理として裏付け程度にはならうが、最終的な判断は心象によつてゐるのではないのか。或は、日本人は理解出來ぬからこんなをかしな揚げ足取りを考へるのであらうか。

 Godにしても、もともとは族長の延長であり、人格を持つてゐたが、次第に純化され、自然法則に還元されてきた。法則ではあまりに露骨であるからか、アメリカ人には眞理と表現する人もゐる。しかし、曲りなりにもキリスト敎信仰が續いてゐるとすれば、法則や眞理がその對象になつてゐるとは思へない。眞理と口では言つても、心中には何かの心象があるのではないか。
 しかし、そんなことはおくびにも出さないので、日本人は簡單に騙され、眞理を愛さねばならぬなどと眞顔で言ひだす。眞理など想像したこともないのに。眞顏でといふのは、本人は本氣のつもりであるが本氣とはとてもいへぬからさう言つたのである。自分のこととして考へてはをらず、ただ言葉をもてあそんでゐるだけである。

 抽象的な思考の話とは少し違ふかもしれぬが、いくらか関係ありさうな氣がするのは、彼らは、言葉だけで考へられると思つてゐることである。技術の世界でも、日本人は、図や表にしないとなかなか理解出來ないが、彼らは本當に言葉だけで理解してゐるのか。日頃から話してゐる内容であればこそ理解もできようが、耳新しいことになつた時、本當に理解出來るのか。
 また、言葉は音が本質だと思つてゐる。確かに發生は音であるが、文字が一旦出來れば話が違ふ。文字が言語の一大要素になる。少なくとも日本人は聲を聞いたとき、漢字の像が心中に浮かび、それで理解してゐる。
 認めたがらないが、ヨーロッパ人も、本當はさうであらう。發音が變化してゐても綴りを變へられぬのはその證據である。しかし、純粹音楽の樣に音だけで抽象的に理解してゐると思ひたいのである。
 ヨーロッパ人はどうも視覺を輕く見る傾向がある樣である。なぜか、聽覺は深いと思つてゐる。音は言葉の要素であるが、像は言葉にならぬから深みがないといふのか。

 それはともかく、少くとも日本人は具體的な事物を大事にして生きていくしかない。背伸びして抽象的なことを考へ樣としても祿なことはない。そんな能力は土臺ない。

 明治以降、例へば、愛といふ言葉が、英語のloveなどの譯語として使はれてゐるが、もつぱら精神的な意味であり、肉體的なことは含まれてゐない。もとのloveはといふと、當然ながら、性的な意味を含んでいる。それが原義であらう。勿論、神の愛にまで通じてゐるのであるが。しかし、男女が例へば I love you と言へば、感情だけでなく性的關心を當然含んでゐる。日本人は、愛といふ言葉に囚はれて、そんな興味は全く無いかのやうな、齒の浮く樣な會話を續けてゐる。
 映画「フォレスト・ガンプ」で、主人公が恋人と結ばれさうになりながら何もしなかつたが、後にあなたはloveを知らないとか言はれた樣なことがあつたと思ふ。このloveは愛と譯したら間違ひである。日本語の愛と違つて肉體的な意味を含んでゐる。
 抽象的な言葉でも、必ず元になつた具體的な内容と繋がつてゐる。ところが、日本に入つて來ると、具體的な内容は無視されて、抽象的な意味だけと捉へられる。裸の王樣ならぬ、かかしの王樣で、肉體がなく衣裝だけが一人歩きしてゐる。すなはち、實體は導入せず、概念だけ頂戴してゐる。
 頂戴してゐるとはいふが、譯語を決めて、それを使つて形式的に議論してゐるだけである。實體のない言葉であるから、何も言つてゐないに等しい。本人は眞面目なつもりなのかもしれぬが、我が身に關係のないことを氣樂に喋つてゐるだけである。自分に必要だから考へ、主張するのではなく、何が主流かを決めようとしてゐる。歐米で主流の思想が眞理である筈であるから、それは何かを氣にしてゐるだけである。眞理など掴めるはずがなく、今日の主流も明日は倒されることが分つてゐない。

 なぜさうなるのか。日本人は昔から抽象的なことは考へずに生きてきた。「道あるが故に道てふ言なく、道てふことなけれど道ありしなりけり」と本居宣長がいふ樣に、殊更あげつらはなくとも何とか世の中が治まつて來た。單一言語、單一民族のお蔭であらう。
 「道ありし」の道とは人間の本能的な生き方で、助け合つて生きるといふことであらう。貨幣經済になつて、その樣な素朴な生き方は絶滅した筈であるが、日本のやうな島國にはまだ殘つてゐるのである。それは、他人への信頼といふことである。
 信頼があれば、政治にしても、根本的な理念を掲げる必要はない。細かい具體的な規則は必要であらうが。理念が必要となれば、抽象的に考へねばならぬ。しかし、あくまで具體的な事柄を踏まへて抽象するのであり、机上の空論ではない。日本人は、この樣な作業を経験してゐない。抽象的な思考は先づ支那から輸入され、しかも、飜譯すらせず、現代においてカタカナ語を何となく分つたやうな振りをして使つてゐるのと同じ樣に、そのまま使用した。それらは漢語として定着したが、大抵は日本獨自の意味合ひで使はれてゐる。もとの抽象的な意味は、もともと分つてゐなかつたし、またさういふ議論をする必要もなかつたので、定着すべくもなく、專ら日本社會の中でのある具體的な事象を表すことになつた。
 明治以降、西洋文明の受容に伴ひ輸入された抽象的な言葉は、漢語を當てられた。新しい造語もあれば、古い熟語を利用したものもある。これらは實際に抽象的な意味で今も使はれてゐる。しかし、新語であるため、歴史を引きずつてをらず、當てられたその意味しか持たない。例へば、「眞理」と言へば、今では普遍的な眞理の意味でしかない。これに対して、英語で對應する「truth」は、日本語の眞理の意味もあるが、本當のこと、事實に基づいたことといふ意味がもともとある。日本語では、その意味では「眞實」などの別の言葉を使ふ。つまり、日本語では抽象語は大抵その意味だけで、具體的な意味で使はれることはないのである。従つて、日本人は、抽象語については、心象を全く持つてゐない。それ故、それを使つて考へても、具體的に何の心象もないので、上滑りの議論しか出來ないのである。

 ethick(s)も具體的な行動規範の意味で使はれてゐる。用例として、professional/business/medical ethicsなどが載つてゐる。さういへば、日本語でも、最近、職業倫理などと言はぬことはない。コンプライアンス騷ぎの餘波であらうか。また、一部の會社で倫理綱領などどいふ言葉も聞くが、具體性がなく、社是と混同される程度ものの樣である。倫理とはやはり遠い存在なのである。

 民主主義はどうであらうか。對應する英語はdemocracyであらう。しかしdemocracyは民主制と譯すべきと思はれるが、なぜ「主義」がつくのか。いくつかの辭書を見たが、OED(2nd edition)が一番明解であつた。第一義として、先づ、「Government by the people」とあつた。そして、二三行程の説明の後、「現代の用法では、しばしば、漠然と、階級や特權で差別せず全員が等しい権利を持つ樣な社會状態を意味する」とあつた。二番目にcommon people (平民)とあり、三番目は「Democratisme. rare.」とのみあつた。democratismを見ると、Democracy as a principle or sysem とのみあり、用例も二つしかない。OED 2nd editionは1989年の刊行であるが、少なくともこの時点で稀な用法だつたのであらう。
 意味としてdemocratismが載つてゐる辭書は他には見當たらず、他の辭書は皆、OEDの第一義の最後に付け足してあつた、全員が等しい権利を持つ状態といふ樣な意味が第三義位に載つてゐた(等しい権利を持つことを最終的に意味してはゐるが、階級などによらぬといふことが元にあつてその樣な意味になつたのであらう)。
 恐らく、日本語の民主主義の元はdemocratismではなく、democracyを日本人が勝手にさう譯したのであらう。OEDの第一義の付け足しの樣な風潮を先取りしたとでもいふところか。
 「民主主義」は、本來の譯語「民主制」を差し置いて普及、定着してゐる。なぜか、日本人は何々主義といふ言葉が好きである。自由主義、平和主義、はたまた人権主義など、いくらでもある。
 民主制と民主主義の違ひは何か。民主制は政治制度の一つに過ぎぬが、民主主義は、単に政治だけでなく、あらゆる物に適用出來るかの樣に普遍化してゐる。さらに、絶對的に正しいと信じてゐる。まさに人類普遍の原理である。そんなものが世の中にあると信じて疑はぬ。當世流行りのものをそれなりに尊重するのはいいとして、絶對化してはいけない。絶對神のゐない日本では、何でもすぐに絶對化される。そして、肉體を失ひ精神のみになる。民主主義も、政治制度としては形だけで、定着してゐるとはとても言へぬが、理念としては普及してゐる。と云つても、言葉として皆が知つてゐるだけで、實體は何もない。一部の人が己の利益を引き出すのに利用してゐる程度である。何々主義と呼ばれてゐるものは、皆この樣なものである。
 ヨーロッパの言葉を飜譯、導入するときに、具體的な事物はないのに概念だけが言葉として使はれる樣になる。その時に、何々主義いふ譯語が好まれ、定着するのであらう。元々は對應する事物があり、その延長として抽象的な概念も成立してゐるのであるが、日本では、中味は何もないのに、空虚な概念のみが一人歩きしてゐる。抽象概念が好きなのは、中味がないから何を言つても傷はつかぬと、安心して勝手なことを言へるからである。しかし、實はその空論のお陰で世の中は腐敗してゐるのである。

 例へば、昨今は男女同權の聲がかまびすしい。それは結構であるが、その結果どうなつてゐるか。女性に政治や金儲けなど、やくざなことを強ひてゐるのである。昔は、女に働かせる程落ちぶれてはゐないなどと言つてゐたのであるが。政治も經濟も生きるために必要ではあるが、それ自體に価値はない。本當に価値のあるなにものかのために必要だからやらねばならぬが。
 なぜ男女同權が出てきたか。歐米で、金儲けでの不平等をなくさうといふことが發端である。金で救ひが決まる世界では必須のことであらうが。日本人には縁のない話である。
 勿論、働きたい人は働いていいのである。昔からさういふ女性はゐる。しかし、今は女性も仕事をしなければ食つていけぬ樣な風潮になつて來てゐる。女性も手に職をつけておかないと將來不安な世の中になつてゐる。女性に權利をと言ひながら、實は餘計な義務を強ひてゐるのに氣付いてゐない。
 この言葉の原語は、feminismであらう。和英辭典には、equality of men and womenとか樣々な表現が載つてゐるが、日本語から逆に譯したのではないかと思はれる樣なものばかりである。しかし、どう考へてもfeminismが元であり、本來なら、女權(擴張)主義とでも譯すところを、大好きな何々主義を避けて、だいぶ違つた表現を使つてゐる。これは、そのまま女權云々と譯すと、具體的すぎて有難味が感じられないので、ぼかして男女同權などとしたのであらう。日本では、純粹に抽象的な言葉でなければ、抽象語とみなされない。具體的な意味が分つては絶對的眞理としては失格だと云ふことである。

 日本ではかうして抽象語はすぐに絶對化されるが、絶對神のゐる世界はどうかといふと、事象はさすがに絶對化されないが、神を己の味方にし、結局、己を絶對にしてゐる。己は救はれる方で、敵は地獄落ちといふ譯であるが、そもそもこの二元論が絶對神とは相容れぬ。絶對神は誰も救ひも罰しもしない。

常識が法律の根本 (H27.4.18)


 もう十日ばかり經つであらうか、學校から飛び出して來たボールを避けようとしてオートバイが轉倒して骨折し、それがもとで寢たきりになり亡くなつた、當時八十五歳の人の家族が子供の親に賠償を請求した裁判で、最高裁が一二審の判決を破棄して請求を退けたとの報道があつた。

 これを聞いて氣になつたのは、一二審で賠償請求を認める判決が出てゐたと云ふことである。亡くなつたのは氣の毒であるが、この樣なことで賠償を認めてゐては、子供は育てられなくならないか。
 一二審の裁判官は常識がないとしか言ひ樣がない。裁判とは條文の解釋ではない。最終的には解釋も必要であるが、先づは法律の精神に照らしてどうかを判断する必要がある。民法に賠償の規定があつても、それはいかなる精神でさう決められてゐるのかを考へねばならぬ。その精神とは、詰るところ、世間の常識である。根據はそれしかない。
 法律が制定されたのは、その時點での常識に照らしてそれが眞つ當だと考へたと云ふことである。條文にはその思想は一々書かれてはゐないかもしれぬが、司法に携はる者は、制定の精神をまづ考へ、その上で條文の解釋に進まねばならぬ。

 イギリスなどは、いはゆる憲法はない。他國の憲法に相當する樣な内容が一部、法律として制定されてゐるとはいふが、大綱は慣習でやつてゐる。すなはち、常識を根本としている。
 フランスの樣に革命を起こした國は憲法がいる。常識を覆したからである。また、アメリカも侵略により國を造つたので、憲法が必要である。俺達が常識だと宣言するためである。

 日本も明治維新のとき、憲法を制定したが、本来、必要なかつた。天皇の体制に變化はなく、實權が徳川から薩長に移つただけである。革命ではないのであるから、それまでの慣習を繼げばよいのである。細かい體制などは普通の法律でよい。
 にも拘らず憲法を制定したが、天皇について、舌足らずな表現で規定したのがよくなかつた。徳川を駆逐するために天皇を利用したのであるが、一旦落ち着けば天皇はそれまで通りでゐて頂けばよいのである。さう規定したのであらうが、文章に書くと、一見、天皇が實權を持つかの樣に見えてしまふ。
 しかし、ちやんと読めば、國務大臣が輔弼するとあり、實際は内閣がすべて決めるのである。輔弼とは助けるとか進言するとか、辭書には書いてあるが、天皇に對して進言するとは、すなはち、形式的に裁可して頂くといふことである(この憲法には國務大臣とあり、内閣といふ言葉がない。内閣は憲法發布に十箇月遅れて明治二十二年十二月に制定された、内閣官制により出來た)。
 天皇が軍も統帥するとなつてゐるが、あくまで内閣の輔弼により統帥するのである。犬養毅などがこれを故意に曲解して、統帥權干犯などと政敵攻撃に利用したので、をかしくなつてしまつた。これを抑へきれなかつた政府や學者も問題であるが。いづれにしても、法の精神を無視して、條文を勝手に解釋してはならないのである。

バランスとは何ぞや (H27.3.30)


 バランスといふ言葉を他の漢語や大和言葉に置換へようと思つても、なかなか見つからない。英語のbalanceは、元々、天秤のことであり、そこから釣合ひを意味する樣になつたと思はれる。實際、balanceは釣合ひと譯されてゐる。ところが、日本語の「バランス」といふ言葉は、「釣合ひ」とは少し違ふ感じがする。
 「釣合ひ」といふと、それこそ天秤の釣合ひとか、少し抽象的でもせいぜい力の釣合ひとか、具體的な心象を伴つてゐる。ところが、「バランス」といふと、殆ど心象を伴はず、ぼんやりしてゐる。大和言葉にはなにがしかの心象が附隨するが、一部のカタカナ語にはそれがない。
 ところで、漢語はどうか。釣合ひに相當する漢語は「均衡」であらう。あるいは、「平衡」も似た樣な意味にも使はれるかもしれぬが。「均衡」の場合、やはり、心象は持てぬと思ふが、漢字の形で意味が大體分る樣な氣がする。
 それはともかく、バランスは、例へば、バランス人事などと使はれるが、釣合ひといふより、「等量」ないしは適当な量に分配することを意味してゐる樣な氣がする。さう思つて辭書を見ると、OALD(Oxford Advanced Learner's Dictionary)には眞先に、equal amounts といふ見出しがあり、その次にこんな記述があつた。
a situation in which different things exist in equal, correct or good amounts
しかし、ある英和辭典を見たところ、その樣な意味は出てゐなかつた。
 とはいへ、日本人は、もしかしたら、英語でその樣な意味で使はれてゐるのを見て、「バランス」といふ言葉を使ひ始めたのであらうか。單なる偶然の一致かもしれぬが。日本語でも言へるのであるが、少し異つた、限定された内容を意味する言葉としてカタカナ語が使はれてゐる。

 と書いてきたが、「等量」などと思つたのも大分考へて分つたので、普段はそんなことを意識してはゐなかつた。その樣なことも、もしかしたらあるかもしれぬが、本當の理由は、意味がぼけることである。もし、均衡人事などと言つたら、内部の派閥爭ひがすぐに連想される。しかし、バランス人事なら、さらつと聞き流して仕舞ふ。何か見苦しいものがあるなどと感じたりしない。これが、カタカナ語が好んで使はれる理由であらう。
 意識的にぼかさうとすることの他に、もう一つ、本人自身が理解できてゐないので、日本語に置き換へることができず、外國語をそのままカタカナにして誤魔化して仕舞ふのもある。近頃は、映画の題名まで、原題のままカタカナで書かれてゐる。

 この樣なカタカナ語がやたらと多い。セキュリティ、メンテナンスなどもさうである。セキュリティは安全、安全管理あるいは安全保障とも言へるが、意味がはつきりしてをり、責任を感じる。メンテナンスは維持、管理、あるいは保守などの言葉もあるが、やはり意味がはつきりして仕舞ふので使ひたくないのであらう。
 それなら新しい言葉を作つてもいいのであるが、そんな藝當はないのである。また、カタカナ語の方が良い印象を与へられるとも思ふのであらう。新しいものが好きな日本人であるから。自分自身もその方が上等だと錯覺するのもあらう。
 リスクといふ言葉もある。リスク・アセスなどと使はれる。危険評價などといへば十分だと思ふが、カタカナの方が體裁がよいと思ふのであらう。しかし、リスクと云はれても、何の心象も持てず、輕い氣持で上面だけの検討に終るのではないか。危険、と日本語で言はれれば、實感がわき、眞面目に考へるかもしれぬが。

 たまたまボリュームと云ふ言葉を思ひ付いたが、元々はラジオの音量調整つまみの意味で使はれてゐたと思ふ。ラジオに、日本語でなく、英語でvolumeなどと書かれてゐたのが原因であらうか。せつかくの近代機器に日本語を使ふと安物に見えるといふ譯である。しかしそのうち、音量そのものも指す樣になり、今では料理の量にも使はれてゐる。料理以外でも、量が多いこと、ただし、どちらかと云ふと嵩が多い場合に、どうかすると使はれる樣な氣がする。これなど、限定された意味から少しは對象が廣がつた珍しい例かもしれぬ。日本人は皆英語を習ふので、volume位の単語は大抵知つてゐるからかうなつたのであらうか。とはいつても、依然、限定された意味での使用には違ひないのである。
 この場合も、量が多いなどと言ふと意味がはつきりするが、ボリュームと言ふとぼけるので、肯定的に言ふにしろ、否定的に言ふにしろ、波風が立たないのであらう。

 競馬の世界は日本語が好きである。パドックなどのカタカナも一部使はれてはゐるが。これも本当は下見所といふ言葉もある樣である。タイムのことを時計といふ。タイムが良くないのは、時計が掛かるなどといふ。明治以來の傳統であらう。
 それに比べて一般社會はなぜかうもカタカナ語が好きなのか。何もかもぼかして濟ましてゐると、そのうち意思疎通が全く出來なくなりはしないか。といふより、意思そのものが次第に消滅していくのではないか。元々、つうかあの世界であるから、さうなつても何の問題もないのかもしれぬが。

最終更新:2015年07月24日 18:59