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科學といふ呪文 (H21.4.29-6.6)


 科學といふ言葉が呪文の樣に唱へられてゐるといつか書いたが、「の樣に」ではなく文字通り呪文である。

 テレビで、昔、陰陽師がゐて、日ごとに何をしては良くない、かにをしては危ないとか言つてゐたといふ話をしてゐた。しかし、馬鹿にしてはいけない、今でも色々な習俗に殘つてゐるのだからと例を舉げてゐた。

 なるほどとも思つたが、昔の迷信が殘つてゐるだけではない、新たな迷信の發生と云ふ點でも、現代は古代に決して負けてゐない。それどころか、古代以上である。
 古代の人々は、迷信を本當に信じてゐたかと云ふと、あながちさうは言へぬところがある。一應、顏を立ててはゐるが、半分以上は冗談と思つてゐた節がある。例へば、都合が悪いときに、今日は日が惡いからと逃げるのに利用したりしてゐた。また、日が惡いのを逆用して戰に勝つた武將もゐる。日が惡いからと安心して休んでゐた敵を攻めたのである。
 ところが、現代の迷信は本氣である。「科學」といふ呪文を唱へると、すべて眞理と思ひ込んでしまふ。眞理として崇め奉つておいて、陰で舌を出してゐる樣ならいいのであるが、そんな不逞の輩は見當らない。

 科學とは假説である。この世界の法則を見出さうとして立てた假説である。證明は全くされてゐない。ただ、現時點の技術で觀測したデータと矛盾しない樣に組立てられてゐるだけである。技術が進歩して新たなデータが得られれば、修正を餘儀なくされる代物である。科學は假説であるから、氣樂に新説を提出していい。矛盾する觀測結果が出て來たら修正するだけの話である。

 修正しながらも、科學は少しづつ眞理に近づいてゐるのか。キリスト敎徒はさう確信してゐる。なぜなら、一度はこの世にイエスといふ眞理が出現したのであるから。しかし、キリスト敎徒たらざる身としては、にはかに信じる譯にはいかない。
 ミルトンは、イエスの再臨までは、我々は眞理の斷片しか掴めぬが、他人の掴んだ斷片も繋ぎ合せて、眞理の全體に迫らねばならぬと考へた。しかし、眞理の斷片とは言葉の矛盾ではないか。斷片は斷片でしかなく、眞理とは別物である。これを幾ら繫ぎ合せてみても、眞理に到達は出來ない。部分の和は全體より小なりである。眞理に限りなく近づいたと思つてゐても、一夜あけたらひつくり返つてしまつたといふこともあり得る。ひつくり返らぬとは誰も言へない。

 これに對して、近代技術は華々しい成果を擧げて來た。この技術は、科學技術であって、昔の技術とは質が異なる。すなはち、科學に裏打されてゐる。科學と一體となり、科學の見出した法則に基づいて築き上げられたものである。と、普通言はれてゐる。
 しかし、技術はものが出來なくては困るから、やつて見て駄目なものは採用しない。科學に義理立てはしない。逆に、必要なことが出來るなら、理論は不明確でも採用することもある。
 とはいへ、電子工學の進歩などは、科學なしにはあり得ないのではないか。例へば、量子トンネル効果を利用したエサキダイオードの開発は、量子力學なくしてはあり得ないであらう。また、原子爆彈も、アインシュタインの理論からの發想である。その通りかもしれぬ。
 しかし、科學を應用して技術が出來たとしても、それが本當に科學の理論に則つて動いてゐるといふ保證はないし、證明されてもゐない。從つて、これによつて、科學の理論が證明されたといふことにはならない。言へることは、原爆がちやんと爆發したと云ふこととだけである。そして、物理學に關しては、間違つてゐるといふ證明はなされなかつたと云ふのみである。まことから嘘は出ないが、嘘からでも當りが出ることはあり得る。

 その科學を人々は何故信じるのか。多くの人は、科學と技術を區別できてゐない樣である。技術といふべきところを、何でもかでも科學と言ふ。技術の發展を、すべて科學の發展と勘違ひしてゐる。ロケットが飛ぶのも、計算機が發達したのも、すべて科學だと。科學といふ言葉は知つてゐるが、それが何を意味するのか考へたことはないのであらう。それはつまり、呪文に過ぎないと云ふことである。

 ただ、科學は、技術と結びつくことによつて人間に大きな影響を及してゐる。科學の假説からある現象が豫測される。それを利用してある技術が開發される。かくして多くの技術が開發され、その結果、新たな觀測、或はより精密な觀測が行はれる。それがまた科學の新しい進展をもたらす。いはば自動運動である。
 この樣な自動運動が、人類に何かよいことをもたらすのか。生活が改善されるのかもしれぬ。確かに變るかもしれぬが、それが善と言へるのか。必要なことなのか。古代の生活に比べてよいと誰が言へるのか。冷房すれば能率は上がるかもしれぬが、夕涼みの風の一瞬の涼しさや早起きのひんやりした感觸は消えてしまつたではないか。
 もしよいことであるとしても、そのために、人間をこの自動運動の爲の齒車にすぎぬ存在に貶しめてしまつては、本末顛倒ではないか。

生物學の昏迷 (H22.8.14-15)


 分子生物學者福岡伸一といふ人のインタビュー記事を見たが、生命とは何かと訊かれて、自己複製と動的平衡と答へてゐる。動的平衡とは、新陳代謝などで中味は變化してゐながら、見たところ變らないことを指す(朝日新聞、H22.8.11)。
 改めていふまでもないことではないか。生命の特徴として當り障りのないところを言つてみただけなのかも知れぬが、こんなことしか言へないで平氣でゐるといふのには驚いた。

 複製といふが、ただの複製なのか、それともそれぞれ何か違ふのか。細胞は日々變つてゐるが、一貫して變らぬものはあるのか。あるとしたら、それはどこから來るのか。そこに踏込まないと何も考へたことにならぬ。

 ただ、腦が體や心を支配してゐるといふのは間違ひであると斷言してゐるのは、當り前のことではあるが、せめてもの救ひであつた。論據は主に體の支配にある樣ではあつたが。
 腦は、記憶したり思考したりする機能をもつてゐるが、故にそこに心があると速斷は出來ない。心とは思考のみではないからである。心とは、頭で考へること以上の、もつと深い得體の知れないものである。

 心はどこにあるのか。特定の器官なり組織なりにそれを負はせることは難しさうである。
 もしさうしようとすれば、ロレンスのいふ樣に、太陽神經叢に心はあることになる。ロレンスによると、受精の瞬間に魂が宿るが、そのとき出來た核は、太陽神經叢に含まれる。(ちなみに、その後の最初の分裂で出來た二番目の核は、腰椎神経節に含まれるといふ)。
 最初の核がどこに含まれるかは、分裂して出來るものが等價で區別出來ないものであるとすれば、決められない筈である。ロレンスは、すべての核に最初の核の魂は引継がれるとも言つてゐる。それは分る。しかし、その中でも、太陽神經叢には、最初の核そのものが含まれると主張してゐるのであるが、これは理解出來ない。
 もしかしたら、受精卵に於いて太陽神經叢の原型が早い段階で出來るといふことで、受精卵に生じた魂は、續いて太陽神經叢に受継がれるとロレンスは考へたのか。發生学を知らないので分らないが。
 とはいへ、腦よりも、神經叢や神經節が人間の「無意識」に關係してゐるといふのは恐らく當つてゐるのであらう。少くとも、腦は「意識」には關與してゐるが、「無意識」にはあまり關係してゐない樣に思へる。少くとも、支配はしてゐないのではないか。
 臍下丹田と昔からいふ樣に、腹が何かを支配してゐるのは間違ひない。

 それは兔も角、すべての細胞に魂が引継がれるといふのが、一番もつともらしい。最初のひとつの核が出來た時に魂が宿るとすれば、それが分裂して出來る細胞すべてに魂が宿つても不思議はない。逆に、特定の部分にだけ引継がれるといふ論理はなかなか見つからない。

 ところで、最初の核が出來た時に魂が宿らなければ、他に魂が宿る時を特定することが出來るであらうか。たまたま新聞に先の福岡氏の談が又載つてゐたが、曰く、「腦が始まつた時點がヒトの出發點なら、それ以前の胚は單なる細胞の塊とみなされ」云々と「腦始問題」なるものを解説してゐた(朝日新聞、H22.8.15、廣告面)。腦がなければ人に非ずといふのは根據がないが、それは措いても、腦が出來た時を明示出來るのか。腦の原型はずつと早い段階からあるのではないか。とすれば、いつから腦になつたと論理的に判断出來るのか。出來ないとすれば、魂は最初に宿るしかない。

 かくして、魂は全身に宿つてゐることになる。とはいへ、成長に從ひ、細胞はそれぞれ特定の役割を擔ふやうになるので、中でもある組織が、例へば太陽神經叢などが、より深い關係を魂に對して持つてゐることはあり得るのかもしれない。

科學は假説 (H23.1.1)


 新聞に素人向けの科學解説本の廣告があつたが、科學が進歩して宇宙の構造だか何だかの解明まであと一歩に迫つてゐるといふやうなことが書いてあつた。廣告であるから、誇大な言ひ方は常套手段であらうが、氣になる表現であつた。

 科學は假説であることを全く忘れてゐる。といふより、全くさう思つてゐないのであらう。眞理を探求してゐるものだと信じてゐる。
 さらに、科學は眞理に着實に近づいて行つてゐると思つてゐる。しかし、眞理は、あと一歩と思つたらするりと逃げてしまふ逃水の樣なものである。人間は絶對的眞理には決して到達出來ない。人間は、絶對とか永遠とか無限とかいふものを掴むことは出來ない。

 早い話が、宇宙が膨脹してゐるとか收縮してゐるとかいふ議論があるが、その膨脹なら膨脹してゐる宇宙の外側はどうなつてゐるのか。人間が到達することは勿論、觀察することも出來ないから、人間にとつては意味がないので無視してよいといふことかもしれぬが、それでは眞理とは言へないのではないか。觀察できる範囲だけで宇宙を議論してこと足れりとしてゐるとしたら、初めからをかしい。

 ミルトンは、人間は神の創造に成るものであり、眞理の斷片は掴めると考へた。そして、斷片を集めればいつか眞理の全體に到達できると考へた。確かに、人間の認識することが全くの誤りばかりだとは言へぬかも知れぬ。しかし、斷片はいくら集めても斷片でしかない。眞理は有限のものではない。有限の斷片から眞理を得ることは所詮不可能である。眞理に限りなく近づいたと思つてゐても、一夜明けたらひつくり返つてゐたといふことは十分起り得る。天動説が地動説にとつて代はられた樣に。

 ところで、科學は、證明拔きにどんどん先へ進んでゐる。それはそれで構はないが、そのことをちやんと辨へておかねばならぬ。例へば、相對論は光速が最高と假定してゐる。しかし、人間がそれしか知らないといふだけで、他にもつと速いものがないといふ保證はない。勿論、現時點でそんなものは見出されてゐないが。

日本人の「道」と資本主義の精神 (H22.12.1~H23.2.6~H23.2.6)


【資本主義の精神】
 資本主義の精神は何かと言へば、勞働の義務化と金儲けの正當化である。

 ヨーロッパでは、昔は、生活できるなら働く必要はなかつた。生活を樂しめばよかつた。資本主義になると、レーニン(?)ではないが、働かざる者食ふべからずとなる。金はあつても、世のため人のために働くのが人としての勤めである。でなければ、神の國の建設に貢献できない。最近は人格神への素朴な信仰は薄れたが、より抽象化された、「眞理」あるいは「義」に對して誠實に生きないといけない。さもないと地獄落ちである。
 つまり、勞働は自發的ではない。脅されて仕方なくこなしてゐる。

 働けば金が儲る。そのはずである。金が儲らない樣では、眞面目に働いてゐるとは云へない。金を得ることは真摯な勞働の證しであり、恥ぢるべきことではない。
 ただし、金をわたくししてはいけない。金は働いた證しにすぎないのである。儲けられることを示せばそれで役目は終つてゐる。自分のものとして貯め込んではならないし、また、その金で贅澤な暮しをしてもいけない。
 では儲けた金はどうするのか。捨てるのである。寄付するのである。あるいは、事業の發展に使ふのである。投下した資本はさらに利益を生み、資産は膨らむ。しかし、豪邸や財寶を求めて蓄財するのとは違ひ、あくまで、神の國の建設に役立ててゐるといふのである。

【經濟の自動發展】
 金を儲けても、贅澤は出來ず、事業の發展に投資してさらに儲ける。その結果、資産はどんどん膨らむ。しかし贅澤はせず、さらに投資を続ける。
 ところで、金を投資に囘すというのはどういうことなのか。作つたものをすべては消費せず、一部は擴大再生産のために用ゐるといふことである。投資家は、自分の金だけでなく、庶民の金も集めて投資する。庶民も、稼いだ金で美服とか自動車とかを買ふだけでなく、一部は投資に囘すことに協力してゐるのである。
 金はものではない。ものに替へるられるといふ證文にすぎない。庶民も、ものの消費を抑へて餘つた證文を貯め込む形で、拡大再生産に協力してゐるのである。これは、社會の安定した枠組がなくなり、先行きの不安が大きいため、金を貯めておかざるを得なくなつたといふことであらう。

 この拡大再生産が經濟の自動發展をもたらした。この動きは、一旦始まると、周邊をどんどん征服していく。最初は小さなつむじ風だつたかも知れぬが、擴大を續け、巨大な臺風となり、つひには全世界を蔽つてしまふ。
 近代資本主義の特徴は、擴大再生産による自動發展にある。ピューリタンはいくら儲けても足ることを知らない。休むことなく働いて儲けを増やしていかないと、落着いてゐられない。かう云ふ企業が現れると、他の連中はすべて驅逐されてしまふ。驅逐されないためには、彼ら以上に擴大を圖つていく必要がある。惡貨は良貨を驅逐する。結局、世の中惡貨ばかりになってしまふ。

【日本人の道】
 「道あるが故に道てふ言なく、道てふ言なけれど道ありしなりけり」とは本居宣長の『直毘霊』にある言葉であるが、日本には確かに人の道と云ふ樣なものがある。お天道樣に顏向け出來ない樣なことはしたくないといふ氣持を誰もが持つてゐる。

 さういふ意味で、勤勉は日本人に染みついてゐる。「のうくれ者の盆働き」といふ俚諺が長州辯にあるが、 怠け者に限つて、人が休む盆に働くといふ意味で、逆に言へば、働かなければいけないといふ意識は、怠け者でもあるといふことである。

 同じ氣持から、儉約精神も出てくる。贅澤をせず、ものを大事にする。實際、贅澤をしだしたら、きりがなくなる。命をつないでいければよしとするしかない。といふのは、そんなものが人間にとつて大事なこととは思へないからである。贅澤とは相對的なものであり、その時代において他の人より少し高いものを持つと贅澤だと感じるだけである。昔の贅澤は今の貧乏だつたりするし、逆に昔の貧乏が今は稀少で贅澤になつてゐることもある。
 日本では、資本主義の樣に金儲けは完全には正當化されてゐない。金を儲けて贅澤をすることは非難される。事業を起して世のために貢献し、それにより生きるための食ひぶちを得ることは正當であるが。ただし、己は儉約して、買ひ手に不當な代價を負擔させぬ樣にすることが必要である。そして、儉約は、ものの餘裕をもたらし、經濟發展の原動力になる。

 かうして、日本では昔から資本主義に似たものがあつた。兩替商といふのは銀行の樣なものであるし、問屋制家内工業もあつた。しかし、歐米の資本主義と決定的に違ふのは、金儲けが基本的には否定されてゐることである。金は生活に必要なだけは儲けなければならぬが、それ以上に儲けることは御法度である。實際には際限なく儲ける者もゐたが、理念としてはこの考へが生きてゐた。

 お天道樣といふと、いかにも八百萬の神の樣であるが、實は、絶對につながるものである。「お天道樣に恥づかしくない樣に」といふのは、いくら誤魔化さうとしも誤魔化せない自分のまごころみたいなものを言つてゐる。すべての人間が本能の樣に持つてゐるものであり、言ひ方を變へれば、神が人間に植ゑつけたものである。何か判斷するとしたら、すべてこれを基準にするしかない。
 ユダヤ人は神から與へられたといふ戒律を持つてゐるが、これは實は人間の考へたものである。すなはち相對的なものである。惡を防ぐために人間を縛らうといふ人間の知惠である。日本人は、自然に任せるだけである。本來の自分を見失ひさへしなければいい。本來の自分とは、全人類に共通のものである。
 歐米人は神の聲を聞くと云ふが、この神は、己の我儘を絶對化してゐるに過ぎない。從つて、己のための金儲けを禁じる倫理が消滅して仕舞ふと、個人のほしいままの金錢慾を律するものは何もなくなってしまふ。神を通じて己の姿を見てゐる積りなのであるが、自分がその神になつて仕舞つてゐては、錯覺の正し樣もない。これがアメリカ流の際限のない經濟擴大の根源である。
 これに對し、日本人は自律性がある。お天道樣にいつも見守られて暮してゐるからである。別に神の樣なものに命令されてゐる譯ではない。お天道樣は天から人を脅すのではない。自分の中にある。自分そのものである。自分の本性であり、自分を動かしてゐる見えざる手かも知れない。

【歐米の錯亂】
 歐米に自律性がなくなつたのは、頼りにしてゐた神を見失つたと云ふことである。昔は、傳道者と植民地經營者に分れながら、世界支配を目論んで來た。ところが、ピューリタンは、一人で兩方こなさうとした。聖人でありながら、世俗内禁慾と稱し社會に出て仕事をした。
 キリスト敎は、絶對神を前提としてをり一元論かもしれぬが、西欧世界は理想と現實といふ二元論でやつてきてゐた。それをくつがへして聖徒による世界征服をたくらんだ。その結果、自己を神として、神との對決がなくなり、糸の切れた凧の樣に無限の闇をさまよひ始めた。

 もつとも、これはキリスト敎に元々含まれてゐたことなのであらう。イエスを絶對神と考へるといふことは、己を神とする錯亂に繋がつてゐる。キリスト敎の敎義に忠實たらんとすれば、かうなるしかない。カトリックは、それを恐れてイエスの敎へを曲げて仕舞つたのであるが。

 日本人としてなすべきことは、本來の自分に歸ることである。例へば、儉約である。はなはだ平凡であるが。今やアメリカ流の際限のない經濟擴大が世界を席卷してゐるが、日本人は本來の儉約のこころに忠實に生きるべきであると思ふ。大量生産・大量消費の原則に反するのであるが。
 それとも、もはや日本人は儉約の心も無くしてしまつたのであらうか。日本企業の社長も最近は何億圓といふ報酬を貰つてゐるといふ話を聞くとそんな氣もして來る。

役に立つことを馬鹿にするアホ (H23.6.13)


 馬鹿とアホは違ふのかどうか知らぬが、同音反復で「馬鹿にする馬鹿」とすべきところを、馬鹿では足りぬ樣な気がして「アホ」としてしまつた。
 恐らく、何か考へてゐる譯ではなく、ただ、かつこをつけてゐるだけなのであらうが、今テレビに出てきた、人型ロボットを開発してゐるといふ大学敎授が、「役に立つことは考へてゐない、新しいことをやりたい」などとのたまはつてゐた。まつたく話にならない。人型ロボットなど、何も新しいことはない。強ひていへば、その開發のなかで、目新しい發想を出したいといふ氣持なのかも知れない。それは當然であらう。しかし、役に立たなくていいといふのはをかしい。ロボットなど、役に立てるため以外に何か目的があるのか。

 そもそも、技術開發といふのは、役に立てるためのものである。科學とは違ふ。だからこそ、評價も嚴しく、その嚴しさが開發の驅動力にもなつてゐる、と思ふ。それはどうでもいいが、役に立てようとするからこそ、開發者も知惠を絞るのである。それが開發の原動力になつてゐる。勿論、何が役に立つのかどうかは、結構、微妙である。その見極めが、先づは、勝負なのである。開發においは、何が必要なのか、その見極めが、實は、最重要課題なのである。それが分つたら、殆ど開發できた樣なものである。何が必要なのか、何が分らないのか、それが分らないから困つてゐるのである。
 役に立たないことをいくら開發しても誰も襃めてくれぬ。襃めて貰へぬだけでなく、實際、意味がないのである。勿論、本人が役に立つと思へば、それなりに意味はあらう。しかし、本人自身も役に立たぬと思ふのなら、それは無意味である。つまり、無駄である。
 もしかしたら、技術の世界では意味がないが、科學の世界で役に立つと言ひたいのか。それは全くの勘違ひである。技術と科學は、根本的には、全く無關係である。技術が科學に關はるとすれば、計測技術の進展により、自然に關する新しいデータを科學に供給するときだけである。
 科學とは何なのか、ここで註釋しておけば、神が自然を如何に造つたのか、そのきまり、すなはち法則を見出さうと、假説を構築する營みが科學である。これは、しかし、あくまで假説であり、常に、新しい假説により覆されるものであつて、絶對に眞理などではない。

 勿論、ロボット開發の名目で金を貰つて、自分の本當にやりたいことをやるといいふのなら、それはそれで構はない。さういふ人はどんどん出てきて欲しい。