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宦官の都 (H21.7.7)


 誰かが、日本には宦官だけはゐなかつたのは誇りに思つてゐると云ふ樣なことを書いてゐるのを讀んだことがある。

 しかし今は日本も街も宦官が溢れてゐる。と云つても、犬や猫の話であるが。雄は去勢され、雌も避妊手術を施される。まともなのは「ブリーダー」と云はれる人達に繁殖用に飼はれてゐるものたちだけである。

 動物を虐待してはいけないとかまびすしいが、斷種手術は虐待ではないのか。斷種されて飽食の暮しを送るより、ちまたで野垂死する方がましではないか。
 難しいことを言ふ必要はない。自分の問題として考へてみたらどうか。自分が斷種を強制された時のことを。

 歐米で犬や猫を斷種してゐるかどうか知らぬが、家畜をずつと飼つて來た民族にとつては去勢はごく當り前のことなのかもしれぬ。しかし、日本人だけは素朴な感覺を失つて欲しくない。
 ところで、彼らが行つてきたのは、牧畜業として牛や羊などを飼ふために必要な場合のことであらう。犬や猫に對してずつと行つて來た譯ではなからう。

 歐米には「戒律」がある。少くともカトリックの場合、昔から禁止されてゐることは絶對に認めない。何にでも理窟はつく。例へば、殺人でも、ラスコーリニコフの樣に、殺してもよいといふ理窟は、つければいくらでもつけられる。しかし、歐米では戒律により禁止されてゐる。

 日本には戒律はない。ただ、見苦しいことはしたくないといふだけである。
 この感覺も、「世間」といふものがなきに等しい状態では、働きやうがない。互いに見られてゐるといふ自覺がなく、道で會つても全くの他人でしかなければ、見苦しいと思ひやうがない。

 他人の目を通して自分を見るといふことが無くなつたら、日本人はどうやつて生きていけばよいのか。もつとも、「他人の目」は全くない譯ではない。しかし、仕事や學校や趣味などの仲間だけになつて仕舞つてゐる。世間といふ感覺は死滅したかの樣である。それとも、からうじてまだ殘つてゐるのであらうか、心の片隅には。

最終更新:2015年08月11日 22:28