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目次

フィレンツェの繪畫は好きですか (H20.12.20)


 テレビでフィレンツェの話をやつてゐた。ルネサンスの巨匠がここで多く輩出したすばらしい街であるといふやうなことであつた。その語りを聞いてゐて、ちよつと引掛かるものがあつた。
 錯覺かもしれぬが、誰もが認める藝術であるといふ「常識」に寄掛つて、眞劍にものを見てゐないやうな印象を受けたのである。

 實をいふと、モナ・リザを見ても格別美しいと思はない。少しひねた女といふ感じがするだけである。西洋の繪の常として細かく描き込んでゐるとは思ふが。

 細かく描くといふのが元々好きではない。さらつと描いたのが好きである。さらつと描いてゐて、感じが出てゐるのがいい。

 勿論、西洋の繪の好きな人もゐるであらう。好きならばそれでいい。
 しかし、世間でいいと言はれてゐるからいいといふのでは困る。他人がどう言はうが、自分が好きならばそれでいい。

テロップはやめろ (H21.4.8)


 テロップとは Television Opaque Projector の略らしいが、いつ頃からか、テレビでやたらと出す樣になつた。最近は NHK まで眞似してゐる。

 いつだつたか、「木緜のハンカチーフ」といふ歌を聽いてゐて、この歌が女と男の掛合ひであつたことに初めて氣がついた。その時、如何に歌詞を認識しないで聽いてゐたかに氣づいて我ながら驚いた。

 しかし、なぜそれに氣がついたかには氣が付かなかつた。今日テレビで歌番組を見てゐてなぜ氣がついたかに氣がついた。それは、テロップが出てゐたからである。
 テロップが出てゐると、ついそちらに目が行つてしまふ。歌ひ手の顏などそつちのけになる。そして歌詞の意味が頭にびつしりと入つてしまふ。それで歌が掛合ひだつたと分つたのである。

 歌詞を知らなかつたのではない。昔よく聽いた歌で、歌詞は結構頭に入つたゐた。完全に覺えてゐる譯ではないが、ちよつと聽けば思ひ出す。しかし、しかと意味を考へたりはしない。なんとなく感じてゐるだけである。それでよいのである。
 それが、テロップをみて仕舞ふと、恐らく漢字の力によつて、その意味が、イメージが、頭に定着される。その結果、言葉の力に支配され、歌どころではなくなる。

 芝居でもさうである。知つてゐる芝居なら、役者の臺詞は初めから分つてゐる筈である。しかし、實際には役者の所作を見てゐて、次の臺詞など考へたりはしない。臺詞はそこで登場人物が初めて喋つたものとして耳に入つて來る。
 初めから分つてゐてはいけない。あくまでその時突然起つたことなのである。それが芝居である。歌もさうではないか。何囘聽いても、初めて聽くのと同じなのである。

 旋律に乘つて出てくる歌を耳で捉へるが歌を聽くことである。文字を見てその像で理解するのは、何か別のことである。しかも、歌手が歌ふ前から文字を見てゐる。
 さう言へば、映画を字幕で見るのもよろしくない。役者が喋る前に文字で分つてしまつてゐる。

裸の王様・小林秀雄 (H21.7.23)


 小林秀雄は文芸評論家の王樣である。今でも結構讀まれてゐる樣である。かつてはこの人の批判をする人は先づゐなかつたのではないか。皆、分つても分らなくても、分つた樣な顏をしてゐる。正に、裸の王様である。
 ところが、最近は、彼の畢生の大作「本居宣長」について、何を言ひたいのか分らぬといふ人が出てきた樣である。しかし、元々、「本居宣長」は何か言ひたいことがあつて書いたものではないのではないか。

 小林自身、「私の書くものは隨筆で」、文字通り筆に隨ふまでの事で、書出してみないと何處に行着くか分らない樣なことを、何かに書いてゐた。批評家とか評論家とか呼ばれてゐるが、評論を書いてゐるのではないのである。つまり、何か言ひたいことを主張してゐるのではない。偶々興味を持つたことについて、氣の向くままに書いてゐるだけである。何か言ひたいことがあるのではない。ただ、書く過程を樂しんでゐるだけなのである。

 最初に彼の書いたものを讀んだのは、高校の時であつた。國語の敎科書に「無常といふこと」が載つてゐた。およそ何を言ひたいのか分らないと思つた。こんな仕方のないものを、何故敎科書に載せたのか、編集者の考へを訝つた。
 何がいいのか分らないが、皆がいいと言つてゐるのだからいい文章なのだらうと、安易に考へて載せただけであらう。權威のある評論家であるから、他人から、なぜあんなものをと批判されることはあるまいと、安心出來たのだらう。こんな馬鹿がなぜ通るのか。をかしな世界である。

 それは兔も角、生きてゐる人間は、何を爲出來すか分らない、動物みたいなので、それに引換へ、死んだ人間ははつきりしてゐる、人間の顏をしてゐる、といふ樣な文章があり、本人も氣に入つてゐる樣であつたが、そこだけは面白いと思つた。といつても、小林は、それでどうかう議論してゐる譯ではないのである。ただ、そんなことを思ひついたと書いてあるだけである。
 そして、最後は、思はせぶりな捨て臺詞で終る。言ひたいのなら、はつきり言へばいいではないか。何故そんな言ひ方をするのか。と思つたのであるが、結局、言ひたいことは何もないのである。ただ、書いた文章を一編の作品とする爲に、その最後を、何か氣の利いた文句で締括らうとしてゐるだけなのである。
 何れにしても、この人の書くものは、隨筆として讀んで、面白ければお慰みといふところである。

曲藝建築 (H23.5.4)


 大阪中之島に建築中のビルの新聞廣告の見出しに、「無柱空間の上に、11萬トンを載せられる理由」とあつた。大きなトラスを作る樣であるが、その鎔接には細心の注意が必要で、試験をして合格した鎔接工だけで工事してゐるといふ。
 苦心の設計なのであらうが、なぜそんな馬鹿なものを作るのか。部材の強度に頼つてゐるから、鎔接の品質も當然氣になるであらう。高張力鋼を使つてゐるので、鎔接も一段と難しいといふ。その高張力鋼であるが、確かに強いのであるが、それがずつと續く保證はあるのか。五十年、百年とたつたとき、同じ強度が保たれるのか。また、僅かの缺陷も無いといふ保證もないのではないか。勿論、安全係数は掛けてゐるのであるが。

 實は、毎日勤務してゐる事務所も、ほぼ50メートル角の建物であるが、柱が外壁部にしかない。お陰で、朝のラジオ體操で人が跳んだだけで床が搖れる。床下にはぶ厚い鐵骨の梁が入つてゐるさうであるが。
 この建物など、内部の柱を無くす必要は全く無いのである。設計者の恣意でさうしたのであらう。計算の能力を誇示したいとでも思つたのか。

 計算上は全く問題ないのであらうが、部材の缺陷、施工の失敗、経年変化、想定以上の災害など、懸念すべきことはいくらでもある。ヨーロッパはアーチが好きであるが、これは煉瓦或は石が圧縮で潰れない限り壊れない構造である。日本人は、引張強度や曲げ強度で持たせられると簡單に考へるが、それは計算上の話で、計算外の事態が起るとお手上げである。
 私などは、格好よりも安全第一で、何が起つても壞れない樣なものを作つて欲しいのであるが。また、部材の曲げ強度などに頼らず、何があつても破壞し難い樣な構造にして欲しい。少くとも、曲藝の樣な建物は止めて欲しいと思ふ。