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目次

不況は弱蟲經營者が原因 (H20.12.14)


 今囘の不況くらゐ動きの速い不況はない。リーマンの件があつて何日か後にはトヨタが派遣を何千人か切るといふニユースが流れてゐた。その後は連鎖反応の樣に大企業がどんどん人員削減を發表しだした。

 思ふに、最近はどうかすると經營責任を問はれるので、經營者が、兔に角、早め早めに何か手を打つておかうとするのではないか。努力してなんとか切拔けようとするよりも、先に手を上げておいた方が自分の責任を問はれる可能性が低いと讀んでゐるのであらう。

 それが不況の傳染を速めた。

 アメリカ流のコンプライアンスとかが導入された成果として、日本の經營者も骨拔きになり、己の責任を全うするよりも責任逃れのみ考へる樣になつたのか。

アメリカは自由の國か (H21.2.15, 2.22)


 アメリカは自由の國と言はれてゐる。しかし、本當にさうか。理念としてはさうなつてゐるかも知れぬが、實態はどうか。といふのは時々聞くが、ここで問はうとしてゐるのは、理念の上でも本當にさうなのかと云ふことである。
 大統領就任の際に聖書を片手に宣誓するが、これはどう見ても、政治に宗敎を持込んでゐる。アメリカ人はこれを見て當然としてゐる。日本人にも、これは信教の自由に反すると糺彈する人は何故かゐない樣である。

 憲法はどうなつてゐるか。アメリカ大使館のホームページによると、下記の樣な内容である。
 アメリカ合衆國憲法 修正第一条
 連邦議会は、國教を樹立し、あるいは信教上の自由な行爲を禁止する法律、または言論あるいは出版の自由を制限し、または人民が平穏に集會し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない。

 國敎を定めてはならないと云ふことと、あとは、自由を制限する法律を制定してはならないといふだけである。政治に特定の宗敎的儀式を持込んではいけないとは書いてゐない。

 歐米の言ふ自由とは、もともと、さういふものである。つまり、何をしてもいいといふのではなく、あることに關しては、それをしても殺されたりはしないといふだけのものである。
 信仰について言へば、キリスト敎を信仰することは人間として當然のことであることを前提として、なかには他の宗敎を信仰する人がゐても、それを止めさせはしないといふだけである。當然ながら、差別はされるかもしれないが。

 ちなみに、日本國憲法には、信敎の自由だけで一条設けられてをり、下記の樣にかなり具體的な内容である。自由を保障すると謳つてはゐるが、結局、國家の介入を禁止するのが主眼である。羮に懲りて膾を吹く類ひか。

日本國憲法 第二十条
 信敎の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗敎團體も、國から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
 二 何人も、宗敎上の行爲、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
 三 國及びその機関は、宗敎教育その他いかなる宗敎活動もしてはならない。

 歐米のいふ自由とは、上に書いた樣に、正統から外れてゐる人は昔なら彈壓されたのであるが、一應存在だけは許す樣になつたといふことである。正統はあくまでキリスト敎であり、それもアメリではプロテスタントである。他の宗敎を信仰しても命までは取られないが、差別はされる。

 日本人は、何をするのも個人の自由だと思つてゐるが、歐米では社會が優先される。社會あつての個人である。他人は信用できないがゆゑに、信用できる友人との付合いを重んじ、その延長として社會の規範を尊重する。
 但し、社會も、個人の精神にまで立入ることは出來ない。地獄に落ちるか天國に救はれるかは、純粹に個人の問題である。
 ところで、日本人は、他人を基本的に信用してゐるがゆゑに、普段は友人も社會も特に意識はしないで暮してゐる。日本人の暮しは歐米よりも個人主義的である。

 自由の國アメリカはずつとアフリカ人を奴隷としてゐた。彼らは劣等であり、また貧しい暮しをしてゐたのが、自分達のお陰で豐かになつたのだと、むしろ恩着せがましい。歐米人の常であるが。
 アメリカの自由とは選ばれた自分達だけに認められるものであり、その他の劣等人や非キリスト教徒はその恩惠には与りやうがないものでもある。

 アメリカの實體は選民たちの閉鎖社會である。ただ、自分達のやり方に從ふ人間は受入れ、己の社會の強化に役立てようとしてゐるだけである。

貧しさの原因 (H21.5.10)


 物質的には豐かになつたが、とテレビで言つてゐた。よく聞く表現である。しかし、そもそも物質以外に豐かさがあるのか。物質的に間違ひなく昔より豐かになつた筈であるが、滿足できないものがあるので、それは物質以外の問題なのではないか、といふことであらうか。

 食へない、或は食ふや食はずであれば、豐かではない。食へて、かつ、多少の餘裕があれば豐かである。それだけではないのか。
 豐かといふのは、生活していく上でさうであるに越したことはないが、だから滿足といふものではない。誰でも食ふために何とか稼がうとする。それで食へる樣になれば十分である。さらに稼ぐ必要はない。ただ、先々の不安から、もう少し稼ぎたいとか貯金したいとかいふことはあり得るが。

 ところが今は食ふだけで大變なのである。ちよつと氣を拔くと競爭相手に出し拔かれてしまふ。世の中がどんどん變つていくので、何かを身につけておけばそれで一生食へる譯でもなくなつた。常に稼ぐことに專心してゐないと、食つていけなくなる心配がある。いくら稼いでも安心出來ない。全く餘裕がない。それで貧しさを感じるのである。

 なぜさうなつたか。原因は、今や世界がある自動運動に陷つてゐることにある。歐米は、特にアメリカは、この世を理想郷にする爲の一直線の道を進んでゐる。人間は皆そのための齒車に過ぎなくなつた。そして日本人もその一翼を擔はされてゐる。船に乘せられて絶えず櫓を漕がされる奴隷みたいなものである。ただし、本人氣がついてはゐない。知らぬ間に、仕事に追立てられ心休まらぬ生活を送らされる樣になつてしまつてゐる。明治以來、ただ植民地化を恐れて藻掻いてゐたらかうなつてしまつた。

 アメリカでは、自分の救ひは自分で稼がねばならぬ。眞つ當な人間、救はれる人間は現世でも役に立つ筈であり、役に立つかどうかは金を稼げるか否かで判定される。それ以外に客觀的な評價はない。
 金儲けを追求すると、結局、金融に盡きる。アメリカでは金融に皆が群がり、金融がすべてを支配してゐる。
 惡貨は良貨を驅逐するで、アメリカの金儲け至上主義が、全世界を卷込んでゐる。この力には誰も抵抗出來ない。助けあひであつた「保險」も、今やビジネスに成下つた。サブプライムローンの樣な詐欺紛ひも罷り通る。

 貧しさの話から結局プロテスタンティズムに行着いてしまつた。諸惡の根源はここにあるので、どうしてもさうなつてしまふ。これを打破するにはどうしたらいいのか。

ならずもの國家は北朝鮮かアメリカか (H21.6.2)


 北朝鮮が核兵器を開発してゐると非難されてゐる。しかし、核を既に持つてゐる國にそんなことを言ふ資格があるのか。

 アメリカは北鮮を「ならず者國家(rogue state)」と非難した。國際法に從はない國といふことだらうが、ではアメリカの核は國際法で認められてゐるのか。さうではなからう。實力で他國を默らせてゐるだけではないか。支那なども、最初は非難されたが、持つて仕舞へば、既成事實となり、アメリカも非難しなくなつた、といふことであるが、正確には、持つてゐる奴を怒らせたら怖いからアメリカも言へないだけである。
 要するに、核保有國は、他國を脅しで默らせてゐるだけである。すなはち、ならず者以外の何ものでもない。

 日本だつて大きな面は出來ない。アメリカの核で守られてゐるのであるから。勿論、アメリカを非難してゐる人もゐるが、自分自身が傘の下でうたた寢してゐるのを忘れてゐるのか。國としては、勿論それを認めてゐる。それでゐて、北朝鮮を非難するのは、以つてのほかではないか。これでは日本もならず者である。

 國際關係は力のせめぎ合ひである。力を持たぬ者は持つ者の風下に立ちながら何とかやつて行くしかない。こんな世界で、刃向ふ國に、偉さうな顏をして「ならず者」と非難するだけで澄ましてゐるのはをかしい。何故、力で押へつけようとしないのか。さもないと核は無限に擴散していくであらう。
 勿論、アメリカとしては、直接、力に頼らず、自由主義とか民主主義とかの理念の力で制覇したいのであるが。しかし、そんなものはあくまで力の前提があつての話である。

 結局、アメリカもそれだけの力は持つてゐないと云ふことなのか。「力」といつても、核は簡單には使へない。となると、通常兵器での戰ひになる。海上であれば近代兵器で簡單に優位に立てる。船を沈められればおしまひである。しかし、陸上ではなかなかさうはいかない。自分の國土を脅かされれば、窮鼠猫を咬むの必死の抵抗を受ける。
 これにはアメリカの「理念」も吹つ飛ばされる。アメリカは、理念があるから正義であり、神の後ろ盾により必ず勝つと信じてゐる。しかしその神は猫の神樣でしかなく、鼠にとつては惡魔に過ぎない。鼠は、惡魔に支配されまいと、とことん抵抗する。たとへ戰ひに負けても、白旗はあげず、最後まで粘る。

 思ふに、正義を振り囘すからをかしくなるのではないか。外交は、單なる政治の世界に過ぎないのである。そこに理念の押しつけををするから、話がをかしくなる。他國の理念も認め、問題を政治の世界に限定すれば、相手も話を聞きやすくなるし、互いに妥協點も見出しやすからう。勿論、話し合ひの裏には、最後は力づくでもといふ脅しがある。

 アメリカは、自分こそならず者であること自覺し、ならず者に徹するしかない。さもないと世界の平和を守れないであらう。

H21.6.22 追記
 アメリカが、自分は正義で北朝鮮はならず者だと言ふと、言はれた方は自分達を殲滅しようとしてゐるのではないかと恐怖を感じ、益々核を持たうと頑張る樣になる。
 アメリカが、俺の方が強いのだから言ふことをきけと脅せば、北朝鮮もそれなりに損得勘定して妥協もするだらう。お互いにごろつき同士であるが、單に得しようとしてゐるだけであり、皆殺しなどは考へてゐないと思ふだらう。
 アメリカの理念も、立派なものかどうか知らぬが、たとへ立派だとしても、どうせ完全に實現されてはゐないのであるし、北朝鮮に理念があるかどうか知らぬが、そんなことは他人の知つたことではないので、内政には干渉せず、ただ云ふことを聞けばよしとするしかない。

 歐米の理念を押しつけようとするのは、そもそも他國の文化を破壞しようとする行爲である。歐米のやり方が正しいと思ふのは勝手であるが、それのみが正しく、それ以外は間違ひであるといふのはとんでもない思ひ上がりである。まして、それを傳道するのが自分達の使命であると思つてゐるから始末に負へない。
 この樣な行爲は、ヒットラーの民族殲滅と、やり方は多少異なるが、結果は全く同じことになる。命を取るより文化を破壞する方が罪は重いかもしれぬ。

鳩山由紀夫、中國皇帝により日本國王に封ぜられんと欲す (H21.8.16)


 民主党の鳩山由紀夫は、朝日新聞(H21.8.15朝刊)の誤報でなければ、といふのは、こんなことがあり得るとは常識では考へられないから一應斷つておくのであるが、首相になつても靖国神社に參拜しないと、黨代表になつた時に中國政府に伝へてあるといふ。

 日本の首相は中華人民共和國皇帝に封じられてゐるのか。

 冗談はさておき、と言ふべきところであるが、冗談ではなく、吉田茂にしろ、小泉純一郎にしろ、歴代長期政權は皆、米國皇帝に封じられた奸臣ばかりである。奸臣と言つたのは、天皇に對して奸臣といふ意味である。田中角栄だけ、ちよつと刃向はうとしたのか。
 それが最近は、中國にも二重朝貢といふ譯である。

 鳩山といふ人は、政治といふものが全く分つてゐない樣である。この人だけではないが。
 中國は、ジャブを入れてゐるだけなのである。そんなことで相手が怯むとは思はないが、相手から少しでも多くを引出すために、何かの足しになればと、あれやこれやとつついてゐるだけである。それを一々まともに受取つて反省してゐるから、逆に、中國の方が驚いてゐるだらう。
 いや、もうずつと前からこの状態であるから、かうなることは豫測してをり、驚いてはゐないだらう。あまりにも豫想通りなので嗤ひ笑ひが止らぬといつたところか。

 国際關係といふのは、弱肉強食の世界である。歴史を見れば明らかである。どれだけの民族が絶滅させられたことか。
 それでも、今は、正義を貫くべく、世界は變りつつあるといふだらう。しかし、國連にしても、第二次大戰の聯合國側の組織に過ぎない。國際法といふのも、歐米の慣習を押しつけ、自分達の支配を維持しようとしてゐるだけである。國際法が正しいといふ根據はどこにもない。
 正義といふのは、澤山の人間がゐれば、人間の數だけの正義がある。この世に絶對的な正義などあり樣がない。敢ていへば、人間存在自體が惡であり、國家自體が惡である。他人を押しのけることにより辛うじて生きてゐる。正義などどこにもない。

 この相對の世界で、なんとか自分達が生延びられる樣にするのが、政治を擔當するものの責任である。過去の惡がどうのかうのと言ひだしたら、中國でもどこでも山ほど惡を犯してゐる。因縁をつけられたら、つけ返せばいいだけである。それが政治である。勿論、ジャブを入れながらも、あくまで友好的に交渉するのであるが。

まず、政権交代でなく、考へ方 (H21.8.31)


 民主黨のキャッチフレーズは、「まず政権交代」だつた。舐めるにも程がある。
 まず、基本的な考へ方があり、それに基づいた政策が要るのではないか。それがあつてこそ、政權を持たせるべきかの判斷も出來る。
 子供手當てとか、こまごました人氣取り策だけで、政権交代などと、馬鹿なことを言つては困る。

 昨日も今日も、テレビには鳩山代表は出てこず、幹事長などが出てきて、代表ではないからとお茶を濁してゐる。考へがあるのなら、チャンスとばかり、自分が出て來て、責任ある發言をする筈である。何も考へてないから、こそこそ逃げてゐるのであらう。

官僚の無力化 (H21.9.6)


 衆議院選擧で民主黨が勝つたが、どうせ大したことが出來るとは思へない。といふのは、基本的な理念を何も表明してゐないからである。であるから、役人をちやんと支配できないであらう。

 元々、日本人は政治には興味なく、幕府の役人に任せてゐた。明治になつて、ヨーロッパに倣つて議會制を導入したが、形式に過ぎない。相變らず、政治は役人が取仕切つてゐる。
 ところが最近は官僚の腐敗、無能がしきりに言はれる樣になつた。

 幕府の役人は原則世襲である。生活は保證されてゐた。ところが今の役人は生活の保證がない。若い間は、薄給とは言はぬが、高給ではない。年取つてからの收入の確保に目がいつてしまふ。その結果、天下り先の確保に懸命となる。肝腎の仕事が、天下り先を作るための方便となる。
 會社でも、サラリーマン經營者は碌なのがゐない。自分で會社を持つてゐる經營者の方が、責任ある仕事をしてゐる。同族經營は、馴れあひになりよくないかも知れないが、世襲の經營者は基本的には惡くない。

 いい加減でも、國内のことはまだ何とかなる。文句をいふ奴も多少はゐるし。しかし、外國との競爭のことになると、役人連中は殆ど頭にない樣である。その結果、色々なところで日本が劣勢になるといふ現象が起きてゐる。例へば、港も、所謂ハブ港を韓國に取られてゐる。
 國としての戰略を考へるべき役人が、我身の事ばかり考へてゐる。役人の處遇も含めて考へ直す必要がある。

國債は止めて、日銀から借りろ (H22.4.24)


 日本国が多額の国債を発行してゐることが問題になつてゐる。殆ど国内から借りてゐる樣なので、外国から取立てられて破綻することはなからうとも思ふが、やはり氣になる。高度成長期の樣に經濟規模がどんどん擴大して、債務負担が相対的に小さくなればいいのであるが。

 結局、国債として民間から借りるからいけないので、例へば、日本銀行から借りるなどすればいいのではないか。つまり、紙幣を政府のために発行させるのである。今念頭にあるのは、江戸時代の貨幣改鑄である。金が足りないから、貨幣を澤山出した譯で、なんとお手輕なことか。政府であるからそんなことも出來るのであるが、恐らく、經濟が發展してゐたのに貨幣の流通量が足りなかつたとか、そんな事情もあつたかもしれぬ。さういへば、藩札といふのもあつたが、これもさういふ意味もあつたらう。さうでなくて金が多く發行されれば、經濟がをかしくなる筈である。

 日銀から借りれば、政府内の貸借りであるから、そのうち徳政令でちゃらにすればいい。民間から借りてゐると、徳政令は出せない。
 金は、物々交換の代りに、単に、人間の労働量を測る物差しとして使つてゐるだけでであるので、貸借りの當時者同士が合意してちゃらにするのは、何ら問題ない。

 もちろん、政府が日銀から借りる金と、企業が銀行などから借りる金の総和が、日本の生産量以上になつては経済が破綻する。しかし、今は輸出超過で外国に売つてゐる分を国内に囘せばいいのである。
 国内消費が増加すれば、税収も増加し、政府も借りる必要がなくなつて來る。

 国債を止める効果のひとつは、金利を上げられることである。国債の金利が上がつては困るので、今は低金利を続けざるを得なくなつてゐる。
(金利だけは許せないとか言つた人もゐるが、人類始つて以来、金利はあるのではないか。お禮の氣持である。また、金利があるから金を貯め込まないで貸すので、經濟が囘る。金を貯め込むのは、金利を稼ぐより惡いのではないか)

 金利が低いことが、経済停滞の最大の原因ではないかと、前から感じてゐる。昔は、小金があれば、年金と金利で老後は何とかなると思つてゐたのが、この低金利ではさうはいかない。それで國民は皆貯金して金を使はない。金融機関は、國内は低金利なので、外國のファンドなどを買つたりする。
 經濟の目的は、金儲けではなく、生活に必要な物や用役を提供するこで、金融機關は經濟がうまく囘るための潤滑油なのであるが、金さへ儲ければいいと勘違いしてゐる。本來、金はとんとんでいいのである。アメリカ流の金儲け至上主義が入り込んで來た所爲であらうか。

※貿易黒字
 國債を止めて日銀から借りると、民間の金が餘るが、これを企業に貸せばいい。かうなれば、企業は貿易黒字を稼ぐ必要がなくなる。また、稼いだ外貨で海外進出する必要もなくなり、國内で頑張ることになつて、雇傭も増える。

 貿易黒字の原因は、民間の金が國債として政府に流れてしまひ、企業が貸して貰へないことにあるような氣がする。このあたりは、にわとりと卵で、どちらが原因でどちらが結果かはつきりしないところがあるが。相互に影響しながら進展したのかもしれない。
 いづれにせよ、企業は儲けないと投資が出來なくなり、儲けようとするが、国内では足りないので、海外に儲け先を求めて、貿易黒字になる。
 以前は、企業は儲けなくても、とんとんで良かつた。投資は借金でしてゐた。さらに、最近は、アメリカ流が入り込み、儲けないと経営責任を問はれる。
 その結果、外貨が手に入り、それを使ふため、海外に投資する。工場建設、企業買収などである。
 それで、国内生産は伸びず、雇用も減る。驚いたことに、最近は、アメリカのGDPが伸びてゐるのに對して、日本は停滞してゐる。

 派遣やパートの増加で、平均的には賃金も低下してゐる。
 ある會社では、女性社員はずつと採用がなく、派遣ばかりになつてゐる。ただ、この春は何故か少し採用た樣である。派遣の規制を懸念したのか。
 派遣の女性は、以前の正社員よりずつと熱心に働く。以前はさぼつてゐたとは言はないが。嚴しい情勢から、首にされる口實を與へない樣にと思ふのであらうか。

外交音癡・日本人 (H22.7.18-25)


 何かの感覺が鈍いのを何々音癡といふことがあるが、日本の政治を見てゐると、差當り、外交音癡とでも呼びたくなる。

 外交で大事なのは、国益を損ねないことである。大儲けする必要はないが、損をしては困る。歐米なら、共産黨が政権を取つても、これだけは間違ひなく追求する。日本はこんな當前のことが出來ない。

 古くは、安政の不平等條約といふのがあつた。経験がなく、それが何を意味するのか分らずに言ひなりになつたのかも知れぬ。黒船の脅威もあつたかも知れぬ。また、支那の阿片戰爭の話も聞いてゐたらうが、それにしてもお粗末である。
 後智慧の謗りを顧みずこんなことを言つてゐるのは、不平等を押付けられたとよく書かれてゐる樣に思ふからである。外交において、押付けられたなどと嘯いて平然としてゐるのは呑氣すぎないか。失敗は失敗として捉へ、反省すべきを反省しなければ、また同じ失敗を繰返すことになる。實際、日本の外交は、その後もずつと失敗ばかりではないか。

 敗戦の處理もしかりである。ソ連の火事場泥棒に何故抵抗しないのか。アメリカ軍に占領されたのは兎も角として、主權を失つてすべてGHQの言ひなりになつたのはどう云ふことなのか。
 吉田茂は氣骨ある人の樣に取沙汰されてゐるが、講和を急いで極東軍事裁判を認めたのはをかしい。義を主張せず、實利さへ取ればいいといふ考へは、外交の最も拙なるものである。そんなことをしてゐるから、利も取れなくなるのである。

 歐米は大義名分を主張する。正義とか、自由とか、文明の發展とか。それは完全に嘘である譯ではない。しかし、それが自分達の利益になるから主張してゐるだけである。早い話が、文明と言つても、所詮、西歐文明を受入れさせるといふに過ぎない。西歐文明を世界標準であると無理矢理押付けようとしてゐるだけである。

 小泉などは、グローバリゼーションの名の下に、アメリカの要求をすべて受入れようとした。グローバリゼーションを世界標準と文字通りに受取り、これを受入れないと、バスに乗遅れて國益を損なふと心配したのであらう。アメリカはただ自分のやり方に合せろ、さうすれば自分達が樂であると言つて來ただけなのであるが。

 問題は、他人の大義名分を簡單に信じ込んで仕舞ふことである。自分達に大義がないから、何かそれらしきものを出されると、恐れ戰いて仕舞ふ。擧げ句に、胡散臭いものでも、よく分らない儘に絶對視して仕舞ふ。絶對といふ觀念がないから、安易になんでも擬似絶對化して仕舞ふ。
 「議會制民主政治」が唯一絶對と思はれてゐる樣に、「グローバリゼーション」も他に選擇の余地のない、世界の流れと思つてゐる。少くとも、アメリカ人が主張する場合は、單に、アメリカ化に過ぎないのではないかと何故疑はないのか。大義名分が出てきたことに先ず喜び、それが本當に普遍的なものなのかを吟味しない。かつ、それを持出した裏に、單なるエゴイズムが隱れてゐないかと疑ふこともしない。全くのお人好しである。外交は惡と惡の戰ひであることを知らない。
 惡い奴ほど、大義名分で身を固め、あなたの爲ですよと囁くのである。

 大義名分といふのは、抽象的であればあるほどいい。共産主義の傳道といふ大義は、ソ連の崩壊により壊滅した。大東亞共榮圈も日本の敗戦で潰えた。具體的なものは、いつか襤褸が出る。自由とか、平等とか、或は神の國、つまりユートピアの建設とか、具體性の薄いものが好適なのである。傷がつく心配がないからである。
 神を持たず、抽象的な大義名分を考へられぬ日本人はどうすればよいのか。大義など、一切顧みず、實利に專念するしかないのではないか。その結果、世界中から叩かれるかもしれぬ。その時は、ではあなたの大義は何の役に立つのですか、逆襲したらよいのである。詰るところ、ご自分の得になるだけではないのですかと。

 歐米はなぜ大義を持出すか。キリスト敎の布敎といふことが、彼らの世界制覇の大義名分になつてゐる。彼らは神の國を建設するといふ義務を背負つてゐると思つてゐる。制覇、征服に過ぎないのであるが、彼らに言はせると、進んだ文明の傳道といふことになる。進んでゐるといふのも、神の國へと向つてゐるといふ認識から生れる觀念である。少しでも最終目的地に近づいてゐるといふ驕りである。キリスト教徒でない者からすれば、この世に神の國など來る筈はなく、歐米の文明が進んでゐるとも思はない。それぞれ自分のやり方で生きて行けばよいだけである。

ソニーはサムスンに抜かれたか? (H23.2.20)


 「ソニーはなぜサムスンに抜かれたのか」といふ本の題名を見た。ソニーは、抜かれたのではなく、自身が落ちただけである。サムスンが何かを開發した譯ではない。ソニーが開發できなくなっただけである。
 百メートル競走で日本選手はよく後半抜かれるが、相手の速度が上つてゐるのではなく、こちらが落ちてゐるだけである。フォームが惡く、足搔くから落ちるのである。

 ソニーは、昔の社長がゐなくなつて、體質が變つたのであらう。先輩のすることを見て後輩はやり方を體得する。よい先輩がゐなくなると、傳統が崩壊するのは速い。作るのは時間が掛るが。
 學校の運動部などもさうである。戰術を習ふのは簡單だが、基本技術を敎へるのは難しい。口では敎へられぬ。先輩のやつてゐるのを見て本人が體得するしかない。だから、チームが強くなるのには時間が掛る。しかし、弱くなり出したらあつといふ間である。

電力會社を眞人間にするには (H23.3.15)


 震災の影響で東電が計画停電なるものを始めたが、それを始める際の不手際ぶりは目に餘るものがある。
 いちいち数へ上げていくのも愚かであるが、ほんの細かいことをいへば、昨日14日に東電のホームページにやつと接続出來て、「週間計画停止イメージ110314n.pdf」なるファイルを入手して、初めて具體的なやり方が分つた。日替りで停電の時間帶をずらしていくと云ふことの樣である。14日の計画だけを先づ出すものだから何かをかしいのではと思ふばかりであつた。
 それは兔も角、このことをあげたのは、それ自體を言はうとしたのではなく、もつと些細なことで、そのファィルが紙からスキャナーで讀取つたものであることを言ふためであつた。それを作成したソフトから直接pdfにすればもつと小さなファィルになる筈が、紙から讀取つたがために600kBもの容量になつてゐた。ただの1頁の資料がである。そんなことをするから集中したときにアクセス出來なくなるのではないか。少くともインターネットに出すファィルは極力小さくするのは當然の心掛けであらう。それがなぜこの大會社が出來ないのか。

 一事が萬事で、これがあの發表の不手際に繋がつてゐる(しかし、監督してゐる筈の政府の人間が文句を云ふのは天に唾するものである)。さらに原發の不手際にも、と言つたら言ひすぎであらうか。あながち言ひすぎとも言へぬのではないか。

 非常用発電設備が動かなかつたと言つてゐるが、新聞でみたところでは、津波が5mを越えてゐたために、防ぎきれずに水をかぶつたのが原因だといふ。これが本當なら、この設備は、津波を防ぐ5m程の防護壁はあつたが、建屋の中には入つておらず、雨ざらしであつたことになる。こんな大事な設備を雨ざらしにしておくといふのが分らない。いざと云ふときの命綱の樣なものであるのに、そんな粗末なことでいいと思ふ氣持が理解できない。

 大分前になるが、ある發電所に行つたことがある。子供のスポーツ大會が、發電所内の立派な芝生のグランドであつたのである。發電機などを収めてゐるらしき白亞の殿堂があつたが、その外壁に足場を組んでペンキを塗り替へてゐた。ところが、すでに塗つたところと、これから塗るところの違ひが分らなかつた。よく見たら、辛うじて境目が分かつたが。多分、所定の期間がたつたので機械的に塗り替へを決めたのであらう。普通の企業なら、もう暫く延長しようとする所であると思はれる。
 コストが上がつたら、國に頼んで料金を上げて貰へばいいだけなので、まともに努力をしないのである。國營なら、國の監査くらゐはあらう。民營であるから、監査も何もない。官營以上の氣樂な稼業である。
 このやり方を變へない限り、電力は眞つ當な會社にはならない。社員はそれぞれ眞面目なのであらうが、全體としてみたとき、眞つ當な方向を向いてゐない。使命を果してゐない。結局、眞人間ではないのである。金は人を眞人間にする。升田幸三も、借金したお陰で名人が取れた。金に齷齪してゐない人間は遊び人である。

 企業といふのはあきんどであり、あきんどと云ふのは、客に少しでもいいものを少しでも安く賣ることを使命とする。その努力をしないものは、存在理由がない。淘汰されてしかるべきである。
 電力會社は、今のやり方では、努力しなくともやつて行ける。競爭を導入すればよいのであらうが、それがなかなか難しいとなれば、例へば、不成績の會社は給料を下げるなどはどうであらう。

東電に藉りて商ひを論ず (H23.3.19)


 震災のせゐで東京電力は「計画停電」なるものをやつている。asahi.comによると、福島第一原發(6基計469.6万キロワット)と福島第二原發(4基計440万キロワット)がすべて使へず、これは東電が持つ全電源の14%になり、供給力は3350万キロワット程度に落ちるといふ。(http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103170445.html 2011年3月17日19時49分)。
 この記事によると、東電は4月前半までに供給力を4千万キロワット程度に引き上げる計画である。そして、”東電は「4月中にいつたん計画停電を終らせたい。夏場は相当なショート(電力不足)が予想され、再び計画停電をお願ひすることになると思ふ」と話してゐる。”とのことである。

 これが責任ある人のいふ臺詞であらうか。再び計画停電をお願ひすることになるなどと、ぬけぬけと云はれては困る。さうなる可能性が高いのかもしれぬが、その前にやることはないのか。先づは停電を廻避すべく全力を盡すのではないのか。力及ばず結局お願ひすることになるかもしれぬが、それはやつてみなければ分らぬ。現時點でそんなもの言ひをするとは、話にならぬ。
 商ひは、いふまでもなく、世のためである。さういふ自覺がないのではないか。

 何故さうなるのか。考へてみると、東電は商ひをしてゐない。政府のお抱へである。政府のもとで言はれるが儘に事業をやつてゐるだけで、あきんどとして金儲けに精を出してはゐない。儲からなくつたら、政府に頼んで料金を上げて貰へばよい。氣樂な稼業である。
 とはいへ、一應私企業なので、政府から監査を受けるわけでもない。本當に氣樂である。勿論、役人でないので、政府の一員としての自覺がある筈もない。

 金儲けが大事なのである。儲けるには、買ひ手を大事にせねばならぬ。客が喜ぶ樣ないいものを安く賣らねば、儲けられず、潰れる。潰れれば、世のために盡くすことも勿論出來ぬ。ちやんと儲けて、潰れないで商ひを續けられる樣に努力する、それが大事、それで初めて眞人間になる。いい加減にやつてゐても潰れない樣な仕組では、人は墮落する。人はそれ程強くはない。金が人を叩き直す。
 日本人は金儲けに血道を上げてゐると批判する人がゐるが、逆である。商ひが大事だと徹してゐないから、中途半端なをかしなことが起るのである。社會に貢献するとか、偉さうなことを言つて、それでよしとしてゐる。社會に貢献したかどうかは、いかに役に立つものを、いかに安く賣つたかで決る。しかし、自分で勝手にこれがいいものだ、役に立つものだと言つても、本當にさうなのかどうか分らない。結局、買ひ手が買ふか否かしかないのである。
 勿論、絶對的によいものなどない。その時よいと思つたものが、後ではよくなかつたとか、公害をまき散らしたとか言はれる可能性はある。人間がすることは全てさうである。その時點でよいと思ふだけである。間違つたと思つたら軌道修正するだけである。
 工業製品で時々感じることがあるのは、この製品を作つた人は、自分で使つてみたのだらうかといふことである。一見よささうなのであるが、實際に使ふ段になると、どうも使ひ難い。さういふ品物に結構出くはす。獨り善がりではいけないのである。金儲けに徹すれば、この樣なことはない筈である。あきんどとして己を低くし、買ふ人に滿足して貰へる樣にものを作ることが大事である。
 徳川時代は、あきんどは最も下に位置してゐた。自然に己を低く出來た。四民平等になり、みんな偉くなつてしまつた。みんな低くなるべきであつたのであるが。

リンチ國家アメリカ (H23.5.2)


 ビン・ラディンをアメリカが殺したと言ふ。パキスタンの都市に潛んでゐたところをヘリコプターで襲撃して殺したとのことである。これはリンチではないか。容疑者かも知れぬが、裁判にかけずに殺したら、それはリンチである。堂々とやるだけ、テロよりもひどい。
 ヨーロッパ流では、こつそりやる竊盜より、堂々と襲ふ強盜の方が相手に抵抗する餘地を殘してゐるだけ罪が輕いといふ。しかし、この場合、絶對に失敗しない樣に周到に準備して襲つてゐるだらうから、危險を冒してやる強盜ではなく、集團でなぶり殺しにするリンチである。

 テロリストに對してリンチで應じたら、それはテロリスト以下の所業である。裁判にもかけずに堂々と襲ふとは、自らを天とする心であらう(裁判にかけさへすればいいとはいはぬが)。

 キリスト敎は、絶對神を信仰してゐるとしてゐるが、實は、マリア信仰を見ても分る如く、偶像崇拝の域を出てゐない。彼らの神とは、畢竟、彼らの族長ないしは守護神である。であるからこそ、彼らは容易に自分達には神がついてゐると信じる。神の命じるが儘に行動してゐるのだと主張する。
 絶對神が、特定の集團に味方すると云ふことはあり得ないことである。いや、絶對に無いとは言へぬが、あつたとしても、本人には分らぬ筈である。神の考へは人間には絶對に理解できぬ。分らぬからこそ絶對なのである。人間に分かつたら、それは相對の世界でしかない。

お金のはなし (H24.12.8~H25.1.6)


 經濟の發展は、日本が世界で生延びるために必要であらうけれども、いいことだとは必ずしも思つてゐないが、景氣が停滯したままずつと回復しない。地獄の沙汰も金次第といふが、日本人は皆、閻魔大王の前で困つてしまふのではないか。不況の原因は單に金が廻らないことにあると前から思つてゐるが、實は、金の仕組を全く知らないので、「四十の手習ひ」で調べてみた。

【金は民間銀行が創る】
 金は、日本では日本銀行が發行してゐる(硬貨は政府)。しかし、實は、これは實際に流通してゐる金の一割程度でしかない。有效な金の大部分は民間銀行が勝手に創つたものなのである。
 有效な通貨の總量は通貨残高(money stock)または通貨供給量(money supply)などと呼ばれてゐるが、日銀によると、現在約1100兆圓となってゐる。そのうち、現金通貨(日本銀行券と補助貨幣)は80兆圓程度であり、これに民間金融機関の法定準備預金(日銀當座預金)を加えたものをマネタリーベースといふらしいが、それでも130兆圓程度である。
 銀行は預金を集め、それを貸出して金利差で稼いでゐる。例へば、Aが銀行に預金し、銀行がその金をBに貸す。しかし、Bの口座に振込むだけで、現金を動かすわけではない。Bがその金をCに拂ひ、Cがそれを預金すると、銀行はそれをまたDに貸せる。これを繰返すと、實際に集めて保有してゐる金の何倍も貸せるのである。貸出し高は帳簿上の預金残高を超えないのであるが。
 かうして、銀行は無から金を創造する(信用創造, money creation/credit creation)。そして、この金が經濟を囘轉させてゐる。
 元々、金は紙切れでしかないが、實は、大部分は紙でさへなく、銀行の帳簿に記録されてゐるだけである。このシステムを成立たせてゐるのは「信用」である。銀行の「信用」がこの魔術を成立たせてゐる。銀行の信用と言ふが、實は借手の信用であり、借手が滅多には潰れないといふ前提で成立してゐる。

【不景気の原因は銀行の貸澁り】
 景気を左右するのは金の量である。金が十分供給されてゐれば、生産と消費が噛みあひ、景気は順調に推移する。金が足りないと、企業も個人も消費が減り、その結果生産が減り、景気が落込み、それで更に消費が減少する・・・といふ惡循環に陷つて不景気になる。
 金の流通量を支配してゐるのは、日本銀行券の量ではなく、民間銀行の融資量である。景気が惡くなると、借手が借りやすい樣にと金利を下げる。しかし、最近は、金利はとことん下げてゐるが、景気は一向に浮上しない。
 なぜか。銀行が貸さないからである。最近、銀行もグローバリゼーションで利益重視になつたためか、海外の高金利債權に投資して、國内の低金利の貸出しは減らしてゐる。低金利が、逆に、災いしてゐるとも言へる。
 昔は、「窓口指導」と稱して政府・日銀が銀行の貸付を指導してゐたらしいが、昨今はアメリカの指導でそんなことは止めさせられてゐるらしい。そこで、銀行はより有利な投資先を勝手に選んでしまふ。その結果、國内は金が不足し、景気は停滞し續ける。
 昨今は、國内は先行き不透明で借手が見つからず、海外はかつて焦げつかしたのに懲り、農協など、金をもて餘してゐる金融機關もある樣である。正確には、貸澁りではなく、借り澁りなのかもしれない。

【景気浮上には銀行に代つて政府が金を創造すべき】
 國内の金が足りないのが不景気の原因であるから、金の流通量を増やすしかない。民間銀行を指導するのも必要であらうが、先づは、政府・日銀がやるしかない。
 日本銀行券を出せばいいのであるが、それはどうもやりにくい樣である。幕府が小判を出す樣にはいかぬらしい。そもそもお札は金融機関が日本銀行に保有している當座預金を引き出して日本銀行券を受け取ることによって發行されるとされてゐるが、そのからくりがさつぱり分らない。日本銀行が國にお札を渡せばそれでいいのであるが、それでは世間が信用しないのか。また、多額の紙幣を貰つても取扱ひに困るかもしれない。
 となると、國債と云ふことになる。銀行の貨幣創造が足りないので、代りに国債といふ形で金を創造するのである。幕府が小判を作つても誰も怪しまなかつたのは、金といふ金屬そのものに価値があると誤解してゐたからであるが、實は、幕府を、といふより經濟制度を信用してゐただけである。同樣に、經濟が廻つてゐる限り、國債も怪しむべきものではない。
 國債發行は問題であり、子孫につけを囘すといはれてゐるが、國民や銀行から借りるからいけないのである。信用創造にすぎないのであるから、とりあへず日銀にすべて引受けさせればよい。金を創造するのであつて、借りるのではないので、返す必要はない。利息もいらない。形式的に利息を多少付けてもいいが、日本銀行に一旦拂つて、また政府に戻させればよい。
 かういふと、無制限に国債を發行してインフレになるなどと言ふ人がゐるが、戰後のどさくさの失敗を繰り返す樣な馬鹿はゐない。民間銀行に金の創出を任せておいて、しかも指導もしないから景気が変動するのであり、政府がきちんと管理すれば、現状よりは格段にいい筈である。
 問題があるとすれば、國民や金融機關がこれまで国債を買つてゐたのが買へなくなり、代りの投資先を見つけなければならないことである。よく分らぬが、その分、企業などへの投資が増えれば、国債の發行が少くて済むだけかもしれぬ。

 まとめると、通貨の創造を銀行に任せるこれまでのやり方では通貨の總量の制禦が出來ない。政府が責任を持つて通貨を創造する必要がある。通貨といつても、紙幣は個人對象でしかなく、銀行の金を増やさねばならないが、それには今のところ国債の發行しかない樣である。國債發行は、紙幣發行や銀行の貸出しと同じで、信用で通貨を創造する行爲であり、借金ではない。民間からの借金にせず、すべて日銀に引受けさせるべきである。本當は、国債などの形にせず、默つて日銀の政府當座預金残高を増やせばいいのである。その金を政府が使つて通貨量を増やすのである。
 國債は將來世代の負擔になるとよく言はれるが、借金の形にするからさう見えるのである。本質的なのは必要な仕事をすることである。その時代、時代に必要な仕事をやればいいだけの話であり、通貨が負擔にはならない。通貨は銀行の帳簿の數字に過ぎず、何の価値もない。ただ、人に仕事をさせるためのからくりとして使はれてゐるだけである。

【創造した金で公共事業を】
 そして、散々批判されているが、いはゆる公共事業をやるしかないのではないか。ただ金を増やすだけでなく、實際にものを作つたりしないと、循環効果がない。震災復興、下水道、電柱廃止(地中埋設)、道路擴幅(歩道設置)など、やることはいくらでもある。
 以上の樣なことをいふと、それは古い考へ方だと非難するむきが多い。しかし、では新しい考へ方ではどうするのかと訊くと返事がない。

ちなみに
【銀行券のいはれ】
 日本の貨幣は、今は日本銀行券であるが、元々は公儀(幕府)、つまり政府が自身で小判などを發行してゐた。なぜ銀行券になつたか。ヨーロッパがさうなので眞似をしたのであらう。
 ヨーロッパも、元々は王などの支配者が金貨、銀貨を發行してゐたのであらうが、なぜ銀行券になつたのか。17世紀に、英國王チャールズが民間から預つてゐた金塊を取上げる事件があつてから、富豪達は金塊を金細工職人の金庫に預ける樣になつた。その際、金細工職人が預かり證(goldsmith note, noteは預かり證の意)を發行したのが銀行券(bank note)のはじまりらしい。結局、銀行券が通貨として使はれる樣になつて、銀行家が經濟を支配することとなつた。

【アメリカの憂鬱、日本の憂鬱】
 イギリスではイングランド銀行やスコットランド銀行がポンドを発行してゐるが、アメリカの場合、政府の發行する国債を民間銀行が買ふ形で、民間銀行から紙幣が發行されている。
 聯邦準備制度理事会(Federal Reserve Board)の管理のもと、12の聯邦準備銀行(Federal Reserve Bank)がドル紙幣を發行してゐる。一見、いかにも政府の息のかかつた制度の樣に見えるが、聯邦準備銀行は政府とは無關係の民間の銀行であり、株主は、例へば、ロスチャイルド銀行などである。アメリカは、ドル紙幣を出すために、ヨーロッパの財閥に金利を貢がねばならぬといふ譯である。
 ところで、このアメリカ國債が、日本や中國政府の金庫にも貯まつてゐる。中國は元(げん)の相場を維持するための政策かもしれないが、日本の場合はアメリカの強制ではないか。勿論、アメリカを支へるためである。結果として、ドルが大量に出まはるのを助け、ドル安・円高を促進してゐるのではないか。結局、円相場の上昇で、稼いだ金をみなアメリカにお返しし、ひいてはヨーロッパに貢ぐ定めになつてゐるのか。

つけたし
 人は金に支配されてゐると思ふ。必ずしも意識はしてゐないが。若い頃は食ひはぐれない樣にと夢中で稼ぎ、段々老後の金が心配になり、年取ると慾張りぢいさんになる。
   世の中に絶えてお金のなかりせば 人の心はのどけからまし
 インドネシアのどこかに貨幣のない部族がゐて、皆で助けあつてのどかに暮してゐるといふ話を聞いたことがある。ある人類學者は、發生當初にか弱い人類が生延びたのは、部族間でも助け合つたからではないかと言つてゐる。しかし、貨幣が出來ると、私有財産制が始まり、貧富の差が出來、競爭が始まる。分業制で基本的には協力しあつてゐるのであるが、表に出てゐるのは競爭である。金が人間を變へてしまつた。
 イエスは、これを憂へて、『己がために財寶を地に積むな』、『明日のことを思ひ煩ふな』と言つたが、これではしもじもは生きていけないと、カトリック敎會は、危險な聖書は讀ませず、異敎の傳統を保存した。ところが、愚直なルターが、ドイツ人の金をなぜローマに貢ぐのかと怒り、聖書のみの標語のもと、イエスに忠實たらんとした。その末裔たるアメリカ人は、救ひに選ばれてゐることを證明すべく、時は金なりと寸暇を惜しんで金儲けに專心して、地獄落ちの恐怖から逃れようとしてゐる。忠實たらんとした擧句に完全に不忠の弟子となつた。ジョン・レノンが地獄はないと歌つても效き目はない(ロンドン五輪で「イマジン」を歌つてゐたのには驚いた。イギリスも變つたのか、ただだらしなくなっただけなのか)。
 ルターやカルバンは自分が救はれることを確信してゐたが、天國でローマの連中と一緒になつては堪らぬと、豫定説を稱へて地獄に叩き落さうとした。ところが、一般信徒は、自身の救ひの確信を持てず、選ばれてゐることを證明しようと、金の力にすがつた。金は有無を言はせぬ力を持つ。金がからむと、人は眞人間になる。升田幸三や藤澤秀行が名人、棋聖を取れたのも借金したお陰である。東電がだらしないも、金を稼がなくていいからで、原價が上がれば電氣代を上げて貰へばいいのでは、仕事に魂は入らぬ。修繕費を湯水の樣にかけて昨今の停電頻度では、停電の本場インド人もびつくりである。金が人を支配すること神のごとし。神と金と、どちらも人の作つたものでありながら、逆に人に君臨する。信徒達が「金縛り」にあつたのも分らぬではない。しかし、人は神とマモンの兩方に仕へることは出來ない。『富める者の神の國に入るよりは、駱駝の針の孔を通るかた反つて易し』金が彼等の神になつた。
 かくして、金儲けの效率化のため、産業革命がイギリスで始まつた。また、彼等は儲けても蓄財や贅澤は出來ないため、事業に再投資するしかなく、拡大再生産がとどまるところを知らない。ここに技術主義と資本主義が揃ひ、經濟のビッグ・バンが勃發した。今や世界中を卷込んで誰も止められない。行着くところは完全に機械化された世界で、人は神のごとく孤獨に暮すのである。勿論、絶對に到達はしないのであるが、その方向に向つてゐることは間違ひないし、實際、それが正義になつてゐる。誰も目標と意識はしてゐないのであるが。
 「グローバリゼーション」とはこのビッグ・バンの先兵たるアメリカに倣ふことである。その一の子分が日本であり、例へば、小泉の「改革」とはアメリカ化でしかない。ちなみに、戰後日本の「戰犯」は、先づは戰犯を認めた吉田茂で、次が小泉位か。
 日本には江戸時代からのあきんどの傳統があつて、會社はすべて今日いふところのNPOであり、世の中のためにつくし、從業員を食はせさへすれば、利益など要らなかったのであるが、惡貨に驅逐されて、株主配當のための利益が目的と成下がり、擧句に最近は社長が何億円もの年俸を取つたりしてゐる。金の支配を受けるのは仕方がないが、自ら奴隷になることはない。

(H25.1.6)
 以上を書いた後、自民黨が勝つて、景氣を浮揚させると喧傳してゐる。しかし、もつと堂々と金を創造して貰ひたい。国債など發行せず、默つて日銀の政府當座預金残高を増やせばいいのである。當面は国債にするにしても、民間に買はせず、すべて日銀に引受けさせるべきである。通貨は、經濟をうまく廻すために政府が責任を持つて創造し管理すべきものである。

(H25.7.21)
 具體的にいふと、既に書いた樣に、国債を金利をつけて出すから將來に負債を殘すといはれるので、金利をつけるのを止めるべきである。或は、利息をつけない譯にはいかぬのなら、すべて日銀に買はせればいい。国債發行とは紙幣發行と同じなのであるから。

資本主義の末路 (H26.11.16)


 スキデルスキー父子といふ著者が「じゆうぶん豐かで、貧しい社會」といふ本を書いてゐるさうである。
ケインズが1928年に、百年後には經済問題は解決され、生活の必要を滿たすには僅かな労働で済むので、人々は餘暇を生活の樂しみや創造的な活動に使へる樣になると豫想したが、現實にはさうなつてゐない、それは、慾望には限りがなく、常により大きな豐かさを求めて労働に、そして成長に拍車がかかるのが資本主義の本質だからだといふ。それで、經濟學は、「稀少資源の配分問題」を扱ふ科學から脱却し、すでに十分に蓄積された富の下で、いかに善き社會を構築するかを分析する科學に移行すべきだといふ。(朝日新聞讀書欄、H26.11,16)

 「經濟學は科學」とか、「十分に蓄積された富」とか氣になる言葉があるが、それはさておき、資本主義の成長が止まらないのは、より大きな豐かさを求めるからではない。ピューリタニズムが殘した金儲けによる救ひの證明といふ生き方のためである。彼らは常に金を儲けて自分が救はれる人間、一廉の人間であることを證明しなければならぬといふ魔術にかけられてゐる。そのために、アメリカ人は、生活を樂しむことより先づは眞面目に働かねばならぬといふ強迫觀念がある。
 それにもまして重要なのは、金儲けをより効率的にするために、技術開發に投資することである。技術は人類のためではなく、アメリカ人の金儲けを促進するために發達した。もともとはプロテスタント國イギリスに興つたが、ピューリタンの國アメリカで爆発した。かうして、技術が金を儲けさせ、金がさらに開發を加速するといふ自動運動になり、誰も止められなくなつた。
 いくら稼いでも、それで十分とは感じられない。目的は金儲けではなく、地獄に落ちないためであり、救はれるに値する眞面目な人間であることを實證するためであつて、誰もそれで十分とは言つてくれないから、際限もなく働く。豐かさとは縁のない世界である。

 ところで、日本人は何故身を粉にして働くのか。百姓が、生き物に對し親身の世話をし、自然の暴威に對しても出來る限りの備へをすることで、飢ゑ死にの恐怖から逃れて來た、その傳統か。
 逆に、歐米もユダヤ・キリスト敎により、日本人の樣に勤勉になつたのか。さうではなささうである。彼らの場合、競爭である。稼がねば生きられぬとか必要なだけ稼げと云ふのではなく、自分が他人より優れた人間であることを證明するために働く。他人を蹴落としても、己だけは救はれるための孤立した鬪ひである。儲けても、餘分な金は寄附することが必須であるが、金儲けのために稼いだのではないと證明するための義務である。
 日本人が働くのは、食ふためであり、食へればよいのであり、詰まるところは世の中の役に立つためである。根本に助け合ひがある。孤独な鬪ひではない。

國債はお札 (H29.6.14)


 經團聯名誉會長今井敬氏へのインタビューが新聞に載つてゐたが、次の樣な發顯があつた。「國債(國の借金)が膨らむ一方なら、國が潰れてしまふ」
 まだそんなことを考へてゐるのか。さう言へば、安倍首相もなんとなく不安を感じてゐる樣に見える。

 國債はお札を刷るのと同じである。お札の流通量は、實は、限られてゐる。だから、代りに國債を刷るのである。
 世の中に流通してゐる有効な通貨の大部分は銀行が貸してゐるお金であり、それは銀行が僅かの資金を何囘も囘して貸すことにより創造したものである。
 しかし、最近は銀行が貸せない。貸したいのであるが、借りたい人が少い。事業を拡大出來る見通しがないから借りる必要がないのである。その結果、銀行の創造する通貨が少くなり、世の中に金が囘らないのである。それで、景気が今ひとつ上昇しない。だから借りる人が少くなる。その惡循環に陷つてゐる。
 それを断ち切るには、誰かが事業を行つて景気の起爆劑になるしかない。それは政府の役目である。

 政府にその金がなければ、創造すればよい。徳川幕府が改鑄して小判を増やしたのも同じである。經濟の規模に對して流通する通貨が足りなければ、經濟は囘らない。通貨を増やすしかない。今の世では國債しかない。

 國債を民間に買はせるから、國の借金になる。日本銀行に全部受けさせればいいのである。日本銀行は國と同じであるから、借金にならない。利息もつけなくていい。形式的につけてもいい。國と一體であるから問題ない。
 ちなみに、アメリカのドル紙幣は國債として發行され、中央銀行が引受けてゐる。

 通貨を何か實體のあるもので勝手には觸れないものと勘違ひしてゐないか。通貨は、今や單に銀行の帳簿に記録されてゐるだけのものである。人々が、それがいざとなれば價値あるものと交換できるとの約束を信じてゐるから成立つてゐるだけである。國債も同様である。ただし、日本銀行に引受けさせることが必要である。
 國債も含めて、通貨を必要なだけ流通させるのが政府の役目である。