※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。



キリスト敎の欺瞞 (H20.7.27)


 カトリックは異敎の傳統的生活を取込み守つたといふ。例へば、カトリックの祭は皆異敎の起源を持つてゐる。ただキリスト敎の意味づけが一應なされてゐるだけである。
 しかし、カトリックが保存したのはそれだけなのか。そんなうまい話はなからう。ローマやゲルマンの野蠻をすべて保存したのである。野蠻といつて惡ければ文化といつてもいいが、カトリックのしてきたことを顧みれば、野蠻といふ言葉の方が似合ふ。
 例へば、十字軍とか、南米などの侵略、掠奪を見ても、カトリックの野蠻さは分るであらう。これに似たものといへば、蒙古くらゐしか思ひつかない。
 ヒットラーの蠻行も、彼の獨創による突然の事件ではなく、北方十字軍など、この手の傳統の上に起つたものである。

 カトリックは何を行つたのか。すべてに尤もらしい理窟をつけることである。十字軍は、異敎徒を地獄落ちから救つてやるための彼らキリスト教徒の聖なる務めである。祭は勿論イエスの生誕や復活を祝ふための行事である。

 すべては神のためといふ衣裝を着せられる。人間の考へに過ぎないものが、神の意志だといふことにされる。つまり、自分の考へすなはち神の考へだといふ。主張する以上、一旦は信じる必要はあらう。しかし、絶對に間違ひないと、何が起らうが改めようとしないのは困る。改めるのは無責任だといふ。逆に、責任をもたうとすれば、その都度舵を切り直すのは當然ではないか。

 この性癖はプロテスタントも勿論引繼いでゐる。引継いでゐる所か、益々その傾向を強めてゐる。

キリスト敎の誤謬 (H20.11.30)


 イエスは心の持方次第でこの世は即天國になると言つただけである。
 ところで、ユダヤ敎に天國とといふ観念が元々あつたのか。それとも、イエスが造つたのか。
 それは兔も角、弟子達、或はその後繼者達は、イエスの言葉を文字通りに受取つた。天國に上げられるために如何にすべきか、眞面目に考へた。

 その結果が三位一體といふ奇妙奇天烈な説である。イエスは神と人間の兩方の屬性を持つといふ。あり得ないことであるが、であるからこそ、有限の存在である筈の人間が神の國に行けることになるのであるといふ。
 マリアは神の母であるといふ。人間イエスを産んだのであるが、そのイエスが神でもあるのであるから、當然、神の母であるとになる。
 殘る聖靈は分らぬ。例へば、マリアは聖靈に感じてイエスを孕んだとふ。いづれにしても、イエス同樣、神と人を繫ぐ存在である。神とイエスだけでは息が詰るからもう一つ欲しいといふことなのであらうか。

 イエスは、信ずるものは皆救はれると言つた。カトリックは、死ぬ時に囘心すればそれで十分と考へた。
 チェスタトンはカトリックは斷崖の島の周圍を守る壁の樣なものだと言つた(正統とは何か)。壁が出來ることで子供達は崖から落ちる心配がなくなり、安心して遊べる樣になつたといふ。しかし、何が心配なのか。諸々の邪惡な宗敎か。それとも、死後のことか。
 日本人たる私は死後の世界など考へぬ。死んだらお仕舞ひである。生きてゐる間が花で、その後どうならうと知つたことではない。

 死後に天國があると考へることで、人は強くなるといふ。失敗しても天國に行けると考へれば、他人が何と言はうと己の信ずるところを實行する強さが得られる。確かにヨーロッパ人は言ひだしたらきかない。しかし、それは、強さといふより、圖々しさに見える。利己主義に過ぎないものを、神の命であるかの如く主張して已まぬのは、厚かましいとしか言ひ樣がない。

 ユダヤ敎が元々さうである。ヨシュア記といふのはユダヤ人がカナンの地を侵略した記録である。しかしユダヤ人は神の約束でさうなつたとして正當化してゐる。
 神の聲を聞くといふのは、要するに、利己主義を正當化しようとすることでしかない。自分の得になることを、神から命じられたとして圖々しく主張してゐる。人間、自分の得になることが好きなのは当り前である。しかし、他人もさうであることを認めないといけない。自分の得になることのみを正當化して呉れるとしたら、それは少くとも神ではない。惡魔みたいなものであらう。

 出だしのユダヤ教から惡魔に取憑かれてゐる。イエスもその傳統から逃れられず、ずつとその状態が續いてゐる。

あの世といふ嘘 (H22.1.17-2.7, 2.11追記)


 キリスト敎では、信じるものは死後に天國に入れるとと宣傳してゐる。ことに、プロテスタントは二重豫定説を唱へ、以後、地獄に落ちるといふ恐怖が世界を動かしてゐる。
 しかし、イエスはそんなことは言つてゐない。ただ、心の持ち方次第でこの世は即天國になると言つただけである。「求めよ、さらば與へられん」である。
 福田恆在が「近代の宿命」に、イエスの考へを説明して「もしユートピアが存在するとすれば、ただ囘心によつて、各個人の心がまへによつて、たちどころに出現するであらう」と書いてゐるのを讀んでさう思ひ始めた。福音書を讀めば、「神の國は既に汝らに到れるなり」(マタイ傳12:28)の樣な表現があちこちに見られる。

 勝手にさう思つてゐたが、高山勝といふ神學者と思はれる人がその樣なことを書いてゐるの偶々を見つけた(マリアナ諸島の先住民チャモロに対するスペインによる初期カトリック宣教, 基督教研究, 第64巻, 第2号, 75頁, 2002年)。それには、次の樣な文章があつた:「永遠の生命」は神学的意味において「イエスの死と復活にあづかる者には“來世”ではなく、“今”与えられるもの」である。
 この論文は、スペインの宣教を批判したものであるが、「來世的な救濟に偏重」した結果、永遠の生命を得られれば、宣教者の殉教や被宣教者の肉体的な死は厭はなかつたと述べてゐる。
 「神学的意味において」とこの著者は書いてゐるが、この樣な考へ方がヨーロッパの正統的神學の世界で認められてゐるのであらうか。それとも、單に、自分が獨自に神學的に考へてさういふ結論に到達したことを言つてゐるのであらうか。

 現世を否定し、永遠の命を手に入れようといふ思想は、まさに歐米が支配する現代世界の諸惡の根源である。このような思想がどこから出て來たかについて、高山氏は、ファンダメンタリズムといふことを擧げてゐる。ファンダメンタリズムとは、聖書を字義通りに理解することである。天國とか地獄とか、イエスはすべて譬喩として語つてゐるのである。當時のユダヤ人にはその樣な表現が分り易かつたのであらう。
 戒律は、本來、言ひ訳を許さない。字義通りの實行を要求される。髭を剃れなかつたのも、自ら傷付けてはいけないといふ戒律を守るためであり、電気剃刀が出來たお陰で剃れる樣になつた。この樣に糞眞面目な人達であるから、譬喩といふものを解さないのであらうか。

 しかし、イエスは、布敎を始める時に既に、「時は滿てり、神の國は近づけり、汝ら悔改めて福音を信ぜよ」と言つてゐる(マルコ傳1章14-15節)。字義通りに解しても、神の國はすぐそこにあるといふことで、死んだ後のこととは思へない。悔改めれば、心の持ち方を變へれば、この世が神の國になる。すなはち、集團性にこだはらず、純粹な個人としての修養に努めれば、思ひ惱むことは何もない。
 なほ、マタイ傳のみは、神の國と言はずに天國と言つてゐる(英語では、それぞれ、the kingdom of Godとthe kingdom of heaven)。天國といふのも、神は天にゐるから天の國といつてゐるだけで、要は神の支配する國といふことであらう。

 ロレンスは、自分の身近にゐたイギリスのプロテスタント達について、彼らにとつて聖書とは默示録であり、福音書などは決して讀まないと書いてゐた。カトリックは一般信徒が聖書を讀むのは危險であるとしたのに對して、ルターは聖書のみと主張したが、結局は、憎きローマを地獄に落さうといふ默示録のみ愛讀されてゐるといふ次第なのである。
 彼らが讀むのは、むしろ、舊約である。舊約の裁く神、妬む神が彼らの神なのである。

ヨブの喜劇とイエスの悲劇 (H23.12.11-17)


 舊約聖書ヨブ記の主人公ヨブは義人であつたが、義人と云ふのは常に神を信じたといふ意味であるが、財産や子供を奪はれ、皮膚病にもなつた。當時、皮膚病になることは社會的に死を宣告されることであつたらしい。それでもヨブは神を信じたといふ。
 當り前のことの樣に思へる。しかし、ユダヤ人にすれば、義人にはそれなりのご襃美がある筈なのであらう。或は、ご襃美が貰へない人は義人ではないことになる。この因果應報の希望を、ヨブは、自らが不仕合せになることにより打破らざるを得なくなつた。
 ヨブは、神の前に正しい者はゐないことは認めてゐる。しかし、世間的な意味で自分に落度があつたから神の怒りを買つたとは認めない。さうすることは、神の心を忖度することになる。それこそ不遜ではないか。ヨブに至つて初めて現世利益の世界を脱出した。

 ところが、最後にはヨブは仕合せになる。作者は因果應報を否定できず、どうしても喜劇で終りたかつたのであらう。結局、現世利益の世界が續くことになつた。

 因果應報と現世利益の否定は、イエスに俟たねばならなかつた。イエスは、罪は犯さなかつたが、捕へられて死刑になつた。このことにより、身をもつて因果應報を否定した。この世の仕合せ、不仕合せは、神のみぞ知ることであり、罪の有無により決るのではない。なぜなら、無垢の人イエスが罪人として死刑になつたではないか。
 イエスは、しかし、死後に救はれたのか。それは神のみぞ知る。ただ、地上において、イエスは自分が不仕合せだとは思つてゐなかつた。これが己の運命だと諦念してゐた。人間はさうして生きていくしかない。

イエスはなぜ十字架にかかつたか (H24.3.20~4.3)


【イエスは神か】
 イエスといふ人がゐたが、實は神だつたといふ。どんな人なのかと、イエスの事を知らうとすると、福音書しか讀むものがない。しかし、この書はイエスが神であつたとする人達の書いたものであり、どこまで信じていいのか分らぬ。マリアの懷胎、病者の瘉しや死者の復活、磔の後の復活など、いろいろ書かれてゐるが、普通にはあり得ないことである。合理的な解釋をしてゐる人もゐるらしいが、餘計に胡散臭く感じる。
 イエスは人として生まれたが神であるなど、そんなことはあり得ないと決めて掛つてゐる。絶對神がこの世に關はつては困る。それでは絶對と言へなくなる。もしかしたら、イエスは本當に神だつたのかもしれぬが、といふのは絶對神が何をするかは人間には分らぬのであるからそういふことが絶對に起らぬとは言へぬからであるが、しかしそれが人間に分つてはいけない。
 さう考へると、福音書はまともな書とは思へない。奇蹟物語は、イエスを神と信じさせるための針小棒大の作り話としか思へない。少くとも、そこにかかずらつてゐても埒があかないので、イエスが何を言つたかだけを讀むことにする。それにしても、すべてそのまま書かれてゐるといふ保證はないのであるが。

 ユダヤ敎では、ヤハウェを唯一の神として祀つてゐるが、ヤハウェはずつと人間と關はつて來てゐる。ユダヤ民族の守護神みたいなものであらう。唯一の神と言つても、ユダヤ民族は他の神を信じないといふことに過ぎず、絶對神ではない。
 從つて、イエスを弟子たちがヤハウェの子と言つても不思議はない。ユダヤ人が待望した、ユダヤを救ふメシア(救世主、ギリシャ語ではキリスト)であり、かつ、ヤハウェの分身であると思つたのである。ヤハウェは八百萬の神の一つに過ぎぬ。
 ところが、いつの間にか、彼らの神が絶對神であると言ひだしたものだから、をかしくなつた。キリスト敎が、ユダヤ人以外の異邦人に廣まつていく過程で、ユダヤ人のみの神ヤハウェでは困るので、絶對神にされたのであらうか。

【明日のことを思ひ煩ふな】
 イエス自身は、自分は「人の子」であると言つてゐる。「人の子」とは何なのかさつぱり分らぬが、黒崎幸吉著「註解新約聖書」(http://stonepillow.dee.cc/)によると、メシアのことをいふらしい。つまり、イエスは自分がメシアであると思つてゐたのである。
 と云つても、ユダヤ人たちが待望してゐた樣に、ユダヤを政治的な屈辱から解放するのではなく、精神的に救ふのである。
 「明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり。」(マタイ傳6章34)とイエスは言つてゐる。明日を思ひ煩ふから地獄に落ちるのであり、今日に集中すればこの世は即神の國ではないか。あらぬ期待をもつたりせず、ありのままの生活を樂しめばよいのである。この世は神の造つた國であり、地獄ではない。
 イエスは「神の國は近付けり」と言つたと、日本語譯福音書には書いてある。しかし、原文は完了形であり、正しくは、神の國は來たといふ意味であるといはれてゐる。文脈からしてもさうであると思ふ。すなはち、心の持ち方ひとつでこの世は神の國になる。といつても、勿論、明日死ぬのかもしれぬのであるが。
 世の中何が起るか、人には分らぬ。いいこと許りではない。早い話が、人は皆死ぬ。早いか遅いかの違ひはあつても、何れは死ぬ。永遠の生命は貰へないどころか、何百年生きる譯にもいかぬ。舊約によれば、アダムは百三十歳で子セツを得、九百三十歳まで生きたといふが。人はすべて、神の決めた通りに動かされるだけである。
 ここで舊約のヨブを思ひ出す。ヨブの運命は神に飜弄された。ヨブ記では、しかし、最後に救はれることになってゐる。これは後で付加へられたのではないかと疑はれてゐるが、しかし、ユダヤ人がこれでは堪らぬ、必ず信心のご利益がある筈と思つたといふことである。イエスはこれを打ち破らうとした。ユダヤ教の現世利益、因果應報の世界を覆さうとした。信仰により、ユダヤ人に都合のよい世界がもたらされるなどと甘い考へを抱いてゐても何にもならぬ、目を覺ませと言つたのである。
 イエスは絶對神の思想に近づいてゐる。しかし、あくまでユダヤ教の傳統に生きてゐたイエスは、そんなことは考へてゐなかつたかもしれぬ。考へてはゐたが、絶對神は信仰の對象にはならぬと捨ててゐたのかもしれぬ。

【十字架にかかつたのは現世利益の否定のため】
 それにしても、なぜイエスは十字架にかかつたのか。人類の罪を贖うためなどと言はれてゐるが、何のことやら分らぬ。イエス自身も、「人の子の來れるも、事へらるる爲にあらず、反つて事ふることをなし、又おほくの人の贖償として己が生命を與へん爲なり」(マルコ傳 10章45)などと言つたりしてはゐるが。
 イエスは、ユダヤ人の現世利益待望を打ち碎くためには、義人でも不幸に陷ることもあることを身をもつて示さねばならぬと思ふ樣になつたのではないか。イエスの死が意味を持つとしたら、それ以外にない。
 絶對神の考へることは人間には分らぬ。冷たい仕打ちと見えることもある。しかし、それが神の定めたことであり、人はひたすら努力し續けるしかないのである。

 イエスは、自分の受難について、「かくの如くなるは、みな預言者たちの書の成就せん爲なり」(マタイ傳 26章56)などと言つて、神の決めたことである樣に言つてゐる。いささかこじつけがましいが、一種の譬喩であり、以前から同じ樣な考へがあつて、その流れの末に自分が現れたと言つてゐるのであらう。さう言ふことにより、受難に對する決意を固めてゐる樣にも見える。
 しかし、神の定めたことであるなどと、人間の分際で分るはずがない。ある思想を持つて生きて行くうちに、段々とその氣になつたのであるが、受難を避けようとすれば避けられたかもしれぬのである。避けようとしても避けられなかつたのであれば、運命と言へる。しかし、避けようとせず、自ら破局に向つて突進むとすれば、それは運命と言へるのか。
 イエスは、受難をいづれ避けられぬと觀念したのであらう。また、言ふべきことは言つたので、ここで幕を引くことにより、より感銘を與へるとの思ひもあつたかもしれぬ。生き長らへるよりも衝撃が大きくなると思つたかもしれぬ。
 などと考へても、やはり、運命とは、自ら選び取るものではないのではないかといふ思ひが消えない。しかし、逃れようとして捕まるのも運命なら、自ら掴み取るのも、さうなつて仕舞へばやはり運命なのか。自ら選び取らうと思ふ樣になるのが、一種の運命なのか。

 ここで思ひ出すは、ドン・キホーテである。ドン・キホーテは自分が騎士だと思ひ込んで遍歴の旅に出る。ついでだが、芭蕉も、遍歴の歌人たち氣取つて歌枕を巡る風狂の旅に出る。イエスも、世に理解されぬ預言者の列に連なる者であると信じて、宣敎の旅に出る。
 ドン・キホーテは人々に笑ひを提供する。芭蕉を笑ふ人は、昔はゐたかもしれぬが、今は笑ふどころか俳聖と崇められてゐるし、イエスに至つては、神と崇められてゐる。
 ドン・キホーテと一緒くたにしてはと怒られるかもしれぬが、自分が何ものかであることを固く信じてゐる點は似てゐる。ドン・キホーテは風車に突進するが、イエスは十字架に向つて突進む。弟子たちにも理解されぬ以上、默つて十字架につくしかなかつたのか。理解させようと死ぬまで努力する氣はないのか。
 それよりも、死後に統べることに期待したのであらうか。であるとすれば、イエスの、この世が神の國といふ敎へに反する。可能性は低くとも、理解されるべく努力して、力盡きれば倒れればいいのである。
 その氣はあつても、弟子たちさへ全く理解しないのを見て、身をもつて眞實を示すしかないと觀念したのであらうか。弟子たちは、相變らず神のご利益に期待して、メシアによるユダヤ解放を夢見てゐた。その夢を打破るには、自分が慘めな死に方をして見せるしかないと。

【イエスの敎へはどうなつたか】
 イエスはユダヤ敎の改革者であつた。現世利益、因果應報を否定し、絶對神の嚴しさを説くとともに、日々の暮しの充實を敎へた。

 しかし、弟子たちにより八百萬の神のひとつに祭りあげられてしまつた。擧句の果てに、キリスト敎の異邦人への滲透に伴つて、絶對神にまで成上つた。
 しかし、キリスト敎はあくまで異敎のまま、すなはち多神教のままである。ジャンヌダルクに現れる神もゐれば、イギリス軍の守護神もゐる。革嚢は新しくなつたが、中味は古い酒のままである。ある意味では、新しい革嚢により、古い異敎の酒を守つて來た。
 しかし、プロテスタント達が現れ、異敎世界を殲滅せんとした。守護神を失つて、人々は天国行きの切符を我先にと求めて爭ひ始めた。天路歴程のクリスチャンは家族も捨てて「天の都」を目指す旅に出る。これが今日の世界である。

(さういへば、イエスも、「我がため、福音のために、或は兄弟、あるひは姉妹、或は父、或は母、或は子、或は田畑をすつる者は、誰にても今、今の時に百倍を受けぬはなし。」(マルコ傳10章26)などと言つてゐる。しかしこれは譬喩にすぎぬ。明日のための蓄へなどのしがらみを捨てろといふのみである)

 絶對神の思想に近づいてゐたといつても、イエスはユダヤ敎の傳統の中にゐた。異邦人の女の願ひをきくまいとしたこともあつた(マルコ傳7章25~)。ユダヤの神をより純化しようとしただけであつた。ユダヤの神は、もともと、あまたの神のひとつであるが、ユダヤ人はその神に選ばれて契約したと思つてゐた。なぜ選ばれたと思ふ樣になつたのか。嚴しい民族間のの抗爭に敗れて自信をなくし、神頼みに走つたといふところであらうか。いづれにしても、劣等意識の裏返しであり、失敗すればするほど、神頼みに依存する樣になる。神や律法に對する絶對服從が叫ばれる。
 しかし、この神も律法も、絶對神とは異なる。ユダヤ人の契約した神であり、その契約が律法である。

 絶對神は、觀念としては存在してゐるが、信仰の對象にはならない。信仰するまでもなく、有無を言はさず、我々を支配してゐる。ただその事實を知るのみで十分である。
 それでは信仰とは何か。自分の祖先なり、屬する共同體なりと一致融合を確認するものである。人間、絶對神や無限の自然あるいは宇宙などと一體化することは出來ない。もつと身近な共同體が必要である。
 信仰は、いづれ、現世利益と結び付く。そんなことを願つても無駄であると分つてゐても、さうしないではゐられないのが人間である。願ひは叶ふとは限らぬものであることは皆分つてゐる。禱りにより安心が得られればそれで十分である。

 プロテスタンティズムは異敎世界を破壞せんとしたのであるが、代りに現れたのはやはり神々の世界である。すなはち、守護神の代りに、自分を神としてゐる。
 マックス・ウェーバーはプロテスタンティズムを「魔術からの解放」と言つたが、解放されたつもりで別の魔術にはまつてゐるだけである。病膏肓に入るである。魔術から無理に逃れようとするよりも、適當にかけられておく方がよいのである。
 人間は、己より大きな何ものかに對する素朴な信仰を持つてゐないと、自己を神とする不遜に陷る。何ものかとして、絶對神を無理矢理もつて來ると、そんなものは具體的に見えないから、己を絶對神と錯覺する愚に落込む。實際、彼らは自分に向つて「お前は」と話しかける。あたかも神が話しかける樣に。

 イエスは、目の前に集中し、明日を思ひ煩ふなと敎へた。これは理想であり、現實にはあり得ない。この生き方が出來るのなら、「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。」(マタイ傳5章39)も出來る。
 未だ貨幣のない部族では、互いに助け合つて生きてゐるといふ。獲物を得ても獨り占めにしたりせず、皆で分けあふ。もともとは皆さういふ暮しをしてゐたのかもしれぬが、貨幣の發明により、私有財産が發生し、競爭が生まれた。貨幣は、一方、分業を可能にし、その結果、技術が格段に進んだのであるが。貨幣のない世界に戻れば、イエスの理想に近付けるのかもしれない。
 「富める者の神の國に入るよりは、駱駝の針の孔を通るかた反つて易し」(マルコ傳10章25)とイエスは言つてゐるが、その前に、戒律を守つてゐるといふ人に「なんぢ尚ほ一つを缺く、往きて汝の有てる物をことごとく賣りて、貧しき者に施せ」と言つた。共同體が強固な強制力をもつてゐた先史時代をイエスは理想郷として思ひ描いてゐるのか。それとも、人間の本能を言つてゐるのであらうか。人間は、本能的に、助け合つて生きる樣に出來てゐると思ふ。自分だけ、あるいはユダヤ人だけ、よくなつても嬉しくはない。しかし、人間は本能のままに生きられなくなつて仕舞つてゐる。その結果、思ひ煩ふ。

 明日を思ひ煩ふ人間には、やはり、八百萬の神が必要なのではないか。人間は絶對神との機械的なつき合ひだけの孤獨に耐へられるほど強いものではなく、仕へるべき具體的な存在との有機的な繫がりが要るのである。その上に絶對神がゐるのは間違ひないが。

ルネサンスと宗敎改革 (H25.5.11)


 ルネサンスと宗敎改革は一聯の動きとして捉へられてゐる。そして、宗敎改革精神の補完がなかつたイタリアのルネサンスの花は萎んだが、北の宗敎改革はルネサンスの成果を取込めたなどと云はれてゐる。
 しかし、どう見ても、兩者は異なつてゐる。一方は明るく、他方は暗い。ただ、ローマ敎會に反撥したと云ふところに共通點があるといふ。

 ルネサンスは敎會に反撥してゐるのか。美術、建築、文藝、自然科学などが復興したのであるが、敎會がこれらを抑壓してゐたのか。繪などは敎會によく描かれてゐるし、建築にも敎會は多い。抑壓してゐたのではなく、單にそれだけの力がヨーロッパになかつたのではないか。
 ローマ時代の末期から、いはゆる「蠻族」の侵入が繰返され、帝國は荒れた。文明も經濟も崩壊した。蠻族達の一部は定住し、混血していつたのであらうが、崩壊から立直るのに何百年か掛つたと云ふことではないか。

 キリスト敎會は、ローマ時代に國敎になりヨーロッパを確かに支配してゐた。また、地獄落ちの脅しで信者を支配しようととしてゐた。しかし、支配は形式的なもので、キリスト敎の信仰がどれだけ滲透してゐたか怪しい。もともと、カトリックは敎會といふ制度で人々を救ふといふもので、信者個人の信仰を問題にしない。であるからこそ普及した。
 カトリックが、ローマ時代の宗敎と違つて來世指向であることは、美術や文藝の復興が遲れることに影響したかも知れない。しかし、ルネサンスが敎會に反撥して興つたとも言へぬのではないか。もともと、それ程敎會に支配されてゐなかつたのである。

 人々がキリスト敎に支配される樣になつたのは、宗敎改革からである。カトリック敎會に從つてゐては、自分の救ひが心許ないと言ひだしたのが宗敎改革である。この時になって初めて個人がキリスト敎を眞劍に信仰するようになつた。それまでは、日本の檀那寺の樣に、敎會に屬してはゐたが、信仰はなかつた。地獄落ちと脅されても氣にしてゐなかつた。この時から、地獄落ちを眞劍に心配し始めた。
 恐らく、ローマ敎會の支配を脱するために、免罪符で本當に救はれるのかなどと反撥したのであらうが、言つてゐるうちに段々と後へ引けなくなり、個人の救ひを眞面目に考へるようになつてしまつた。もともと、神も天國も假説にすぎなかったものを、現實と混同して行き、人生唯一の關心事となつてしまつたのである。

 ルネサンスがしぼみ、イタリアが衰退したのは、單純にイタリア戦争で疲弊したのと、大航海時代になり、より野蠻なスペインやポルトガルに貿易の主導權を奪はれたためである。精神性の缺如のためとは思へぬ。その後の、イギリスなどのプロテスタント國の興隆と資本主義の發達は、宗敎改革の生眞面目さが影響してゐることは確かであるが。
 なお、イギリスに近代國家ができたのは、宗敎改革精神のためといふより、イタリアと違つて、絶對王制が發達してゐたからにすぎないと思へる。フランスはカトリック國であるが、革命が起り共和國になつたが、これも絶對王政のせゐであらう。

魔術からの解放?-キリスト敎世界は未だ魔術に囚はれてゐる (H25.10.12~14)


 マックス・ウェーバーはピューリタンにより世界の魔術からの解放が完結したと言ふ(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神)。世界の解放と言つてゐるが、具體的には宗敎における救濟の手段の話である。カトリックが行つてゐる樣な救ひのための儀式などが排除されたといふことであり、生活全般においてといふ意味ではない。彼にとつては、「救ひ」がすべてであり、その他の魔術はとるに足らぬものであつたのであらうか。

 かうして、世界は魔術から解放されたのか。救ひの手段から魔術は排除されたかも知れぬが、キリスト敎そのものはどうなのか。キリスト敎は、昔から、最後の審判で義人は天國にあげられるが、不義とされたものは地獄に落ちると脅してゐるが、これこそ迷信、つまり魔術でなくして何なのか。

 地獄落ちの恐怖は人々を脅し続けてきてゐる。ルターが「プロテスト」を始めたのも、己の地獄落ちの恐怖がもともとの原因であり、カトリック敎會に任せてゐては救ひが確保できぬと思つたのである。ルターは修道士として他人から非難される心配のない生活をしてゐると思つてはゐたが、神の前に立つたとき赦しを得られる自信がなく、神に向つて憤り、惱み苦しんだと書いてゐる(ラテン文著作集 第一巻)。
 現代でも、ジョン・レノンの「イマジン」は、天國などないと、足の下に地獄はなく頭の上には空があるだけと想像してみろ、と歌つてゐる。つまり、彼等は生まれてからずつと地獄落ちの恐怖を叩き込まれて育つたのである。日本人にはなかなか理解できないが。
 キリスト敎の神は、イエスの説いた愛の神ではなく、舊約の裁く神なのである。

 あるアメリカ人は、「一般的なアメリカ人-神樣の存在なんてばかばかしいと思ふアメリカ人も含めて-は、大文字で書くTruth(眞)といふ絶對的なものがどこかにあると思つてゐる。そして、それは自分といふ人間の外に存在するものである。人間は、眞面目に良心的に考へれば、Truthfulな生き方が分かり、それに忠實に生きたい、あるいは、もつと嚴密に言へば、人間には、自分の分つてゐる範囲で忠實に生きる義務がある、といふ妙な思想である。これは、アメリカ人一般の暗默の前提であると考へてよいであらう。」と書いてゐる(マーク・ピーターセン、續日本人の英語、岩波新書)。
 現代では、キリスト敎の神が人格を失ひ、眞理や自然法則にまで純粹化されつつあるが、それでも、それに對して忠實に生きる義務があるといふ強迫觀念を持つところは昔と變らないのである。絶對者への信仰は變らぬし、地獄落ちの恐怖もずつと續いてゐるのではないか。形は少し變つてゐるが。
 引用した文章はアメリカの小説の主人公が自殺するに至つた原因を説明したものである。その主人公は戰爭に驅り出されて精神的にをかしくなつて戻つて來るが、妻に、Truthに忠實でない生き方をしてゐるといふ意味の皮肉を言ふ。そのせりふを日本人學生に説明したが、その痛烈さを理解させられなかつたといふ。
 アメリカ人は、Truthに忠實な生き方をしないことは罪であると思つてゐるのであらうが、それだけではなく、罪には當然罰が想定されてゐると思ふ。地獄落ちの不安に苛まれてゐるのか、あるいは、地獄とは言はぬ何か漠たる恐怖なのか分らぬが。さういふ恐怖がなければ惱むことはあるまい。神を信じない人でも、アメリカで育てば、子供の時から地獄落ちの脅しを何度も耳にしてゐるであらうから、潜在意識にさういふ恐怖が染みついてゐても不思議はない。
 ちなみにこの小説の作者はサリンジャーで、ユダヤ敎徒らしいが、それでもアメリカ文化で育てば一般のキリスト教徒のアメリカ人と同じ樣に、Truthfulな生き方をせねばならぬといふ壓力を感じる樣になるのであらうか。最後の審判はユダヤ敎も共通であるからなのか。母親は、結婚後に改宗してゐるが、ユダヤ系ではなくケルト系カトリックだつたらしいので、そのせゐかもしれぬが。

 日本人はこの樣な義務感はない。お天道様に恥づかしくない樣に生きねばならぬと思つてゐるが、それは義務とか、罰とか云ふ樣なものではない。省みて見苦しいことはしたくないといふだけである。あくまで自律的なものである。
 キリスト敎は、詰るところ、地獄落ちの裁きの恐怖に縛られてゐる。死後の罰を逃れるためになんとかこの世で點を稼がねばと必死に藻掻いてゐる。それが昂じたのがアメリカの金儲け至上主義である。自由意志など全くない。自律ではなく他律である。迷信に囚はれた狂亂の世界は、糸の切れた凧の樣に吹飛ばされた擧句に、地獄にでも落ちて行くのであらうか。

隠れキリシタンはキリスト敎徒ではないのか (H26.7.16)


 新聞に、「隱れキリシタンは表面的にはキリスト敎に由来する部分もあるが、中身は完全に日本的である」との記事があつた(H26.7.14, 朝日、夕刊)。出所はある大學敎授である。「デウスに出臼、サンタマリアに三太丸屋といふ文字が当てられてゐたことも」、「キリストやマリアは、オラショの中に名前が出てくるだけで、どんな神なのかは理解されてゐるとは言ひ難い」、「キリスト敎の敎義とは相當かけ離れてゐる樣だ」などとあリ、キリスト教とはかけ離れてゐるといふ。
 では、本當のキリスト敎とはどんなものだと言ふのか。少なくとも、カトリックはこんなものではないのか。「異敎」にキリスト敎の衣をまとはせただけのものであリ、信者が敎義を追究したりすることは御法度で、すべて敎會が取りはからふ。

 現世利益を求めることが日本の宗教だと最後にあり、それはその通りだと思ふが。

イエスはなぜ十字架にかかつたか 2囘目(H26.10.13~11.15)


 イエスは人類の罪を贖ふために十字架にかかつたとされてゐる。イエス自身、「人の子の來れるも事へらるる爲にあらず、反つて事ふることをなし、又おほくの人の贖償として己が生命を與へん爲なり」と言つたことになつてゐる(マタイ傳20.28)。
 譯の分らぬ話である。人類に罪があるとしても、イエス一人が死ねば贖へるのか。イエスが神にとりなすとでもいふのか。
 イエスはユダヤ人を諌めるために死んだのである。ユダヤ人は、バビロン虜囚の苦難から帰還した後もペルシャやローマの支配を受け、政治的に不本意な情況が続いてゐたが、これを現實的に解決せんと努力するよりも、エホバを信仰してゐれば、いつか、自分たちを逆境から救つてくれると固く信じて現實から目を逸らせてゐた。そんなご利益はないことを、凝り固まつた彼らに分らせるためには、身をもつて示すしかないとイエスは思ふ樣になつた。ご利益などない、イエスの樣な人間でも、どんな運命が待つてゐるか分らぬのだと。磔刑といふ惨めな死を甘受することにより、民の選民意識を打ち砕かうとした。

 ユダヤ人は、エホバに選ばれた民であるとの優越感を持つてゐた。優越感とは、劣等感の裏返しである。例へば、喧嘩に負けて、口で仕返しをして威張つてみるのと似てゐる。自分の姿に不滿を感じた者が、何かで他人に優れりと思ふことで穴埋めせんとする。ユダヤ人は度重なる苦難から劣等感に苛まれ、逆襲して妙な優越感を持つに至つた。その擧句に、エホバも他の神に優越すると思ひこんだ。
 エホバはユダヤの守護神である。彼らにとつては唯一の神であるが、絶對ではない。信心したとて、現實に何かご利益がある筈はない。ただ、困難に立向かふ時、神に禱ることにより心が落著き、勇氣を得られる。それがご利益である。
 しかし、ユダヤの神は少し違ふ樣である。もともと、神と契約したりしてゐる。してみると、族長としてエホバを選んだと云ふ事から始まつたのか。その後、指導者たちが初代族長の名を利用して民族を纏めてきたのであらう。
 そのエホバに現實のご利益を期待するとはどういふことか。努力しないで一攫千金を夢見てゐるだけではないか。相対的な存在であるエホバを絶對化し、ひいては己を絶對化し、世界を無視して孤立している。この樣な怠惰な状態から民を救ふために、イエスは命を懸けねばならぬと思ひ詰めたのであらう。

 イエスは、孤立せず、助け合つて生きよと教へた。
「汝ら神と富とに兼ね事ふること能はず。」(マタイ傳 6.24)
「下衣を取らんとする者には、上衣をも取らせよ。」(マタイ傳 5.40)
「人に與へよ、さらば汝らも與へられん。」(ルカ傳 6.38)

助け合へば樂しく暮せる。明日の命を誰か知る。人に出來るのは今日を精一杯生きることだけである。
「さらば何を食ひ、何を飮み、何を著んとて思ひ煩ふな。
汝らの天の父は、凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。
まづ神の國と神の義とを求めよ、さらば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。
この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり。」(マタイ傳 6.31~6.34)

 イエスは天とか神の國とか言つてゐる。また、報ひを天で得よとも言つてゐる。ユダヤ人にはさう言はねば分らぬのか、イエスもユダヤ敎徒だつたからさう言つたのか。何れにしても、譬へに過ぎぬ。文字通りのユートピア、無何有郷である。日本人が淨土とか地獄とか言つてゐたのと變りない。なほ、地獄は出て來ない。ゲヘナの火で焼かれると云ふ表現は出てくるが、これはごみ燒き場だと云ふ。
 しかし、天の國と違つてこの世は苦しいのか。神の造つたこの世がそんな惡いところなのか。そんなことはない。金の亡者になつて、いがみ合ふから苦しいのである。互ひに助け合つて生きれば、この世は樂園ではないか。それを「神の國」と呼んだ。何のことはない、この世のことを言つてゐるのである。
 イエスは、人間がまつすぐに生きてゐる状態を神の國と言つた。これは、ユートピアではなく、實在する。實は、人間は、恐らく、もともとはその樣に暮らしてゐたのである。貨幣や私有財産がなかつた頃は、人は皆助け合つて暮らしてゐた。これは力弱い人間の本能なのであらう。今でも、未開の地にさういふ部族がゐるさうである。
 しかし、なまじ文明が進むと、助け合ひの本能を押し殺さないと生きていけなくなつて仕舞ふ。分業體制で協力してゐるのであるが、業種の中では競爭してゐる。社會に役立てるための競爭なのであるが、當人はそのことが必ずしも分らない。助け合つてゐるとは感じられず、孤立感に苛まれ苦しむ。
 それを断ち切れとイエスは言つた。現實には競爭は止められない。しかし、まつすぐな心、助け合ひの心を持てば樂しく暮らせる。それだけのことである。

 イエスの教へは通じたか。民衆はやはりご利益に固執した。
 あらゆる宗敎は現世利益が基本である。日本人などは、お宮に行つても、健康や金儲けを御願ひするだけである。信仰心などは毛頭ない。「苦しい時の神頼み」と言ふ。普段は何も信心しないが、苦境に陷つた時、神や佛に禱りたくなる。禱ればご利益で願ひが叶ふと信じてゐる譯ではないが、禱ることで苦難に立向かふ勇気が湧く。にはか信心は、やはり、本物の信心ではなく、ご利益のためである。
 ユダヤ人がご利益を期待すること自體は當り前のことである。しかし、禱るだけで行動しなくともご利益が得られると期待するなら、それはをかしい。禱りは行動のためでなければならぬ。座つてゐてもご利益があると思ふのは、エホバから選ばれた民であるといふ優越感からであらうか。ユダヤ人の優越感と並行してエホバも他の神を超えて絶對の力を持たされることになつた。

 イエスの教へはどうなつたか。弟子達に受継がれ、キリスト敎が生れた。これが今日の諸惡の根源である。
 天國は譬へに過ぎなかつたのであるが、弟子達は文字通りに受取つた。もともと、ユダヤ人達はエホバに絶對の力を持たせようとしてゐた。イエスはそれを否定したのであるが、イエスの思ひは通じず、エホバがユダヤの守護神から絶對神に格上げされた。

 そもそも、絶對神を信仰することなどあり得ない。絶對神はこの世を創つたものである。すべてが絶對神に支配されてゐる。信仰するもしないもない。それこそ、名を唱へることすら憚られる。そもそも、名前などないので唱へ樣がない。絶對を信仰することは、結局、相對的存在を絶對化することに終る。
 人間の分際で絶對を語らうとしてはならぬ。眩しさに目が潰れる。絶對神はこの世にはをらぬ。この世を創造した神が、自分の創造したものの中にゐてはをかしからう。神はゐるとしても、この世の外にゐる。人智の及ぶところではない。
 絶對神は、つきつめれば、自然法則に還元される樣なものであり、我々を存在せしめてゐるなにものかである。人間を愛しもしなければ、憎みもしない。その樣な人格を持たぬ。或は、人格の樣なものも持つかもしれぬが、我々に理解できる樣なものではなからう。
 イエスは神の愛とも言つたが、譬へに過ぎない。他人に対して「神」の樣な広い心で讓り合ひ、助け合つて暮らせと敎へたのである。實際、初期の人類は、皆が助け合つてゐたからこそ生き延びられたのであらう。
 イエスが天の國などと法螺を吹いたのを真に受けたのが發端となり、世界中を絶對神といふ大嘘が覆つてしまつた。中味はユダヤ敎、異敎のままなのであるが、絶對や永遠といふ衣を着せられてゐる。この衣が惡さをする。人にとり憑いて、お前は永遠だ、絶對だと吹込む。それに煽られて、カトリック敎徒は世界中に遠征して持前の兇暴性を十二分に發揮したが、プロテスタントはより巧妙になり、紳士面して惡事を働いてゐる。

 キリスト敎の神は守護神のままである。今でも、「God Save the Queen」とか、「God Bless America」などと歌はれて、國の守護神にされてゐる。
 民族の守護神は守護神でいいのである。それを無理やり普遍化し、絶對化したのが間違ひである。絶對神と言つてゐるが、彼らの言ふ「異敎」の神そのままである。詰るところは、自分を神として、利己主義を正當化してゐる。そのことに、全く氣がつきもせずに。子供と同じである。

 日本人は、死んだらお仕舞ひだと云ふ事をなんとなく知つてゐる。もちろん、死者の供養はするが、それは生者の心に故人が生きてゐるからである。神話に黄泉の國は出てくるが、伊邪那岐命が黄泉比良坂を石で塞いでからは、互ひに行き來できぬことになつてゐる。そんなことは當り前のことであるが、キリスト敎世界に育つと、天國や地獄はお伽話ではなく、父なる神も身近にゐると叩き込まれる。相對世界に絶對がゐるとなれば、行き着くところは自己の絶對化しかない。父なる神の子は當然神になり、孤高の世界に君臨する。一人だけで。

キリスト敎が魔術−−魔術からの解放 2囘目 (H27.9.23, H27.12.14)


 キリスト敎は、神から「啓示」により與へられた唯一正統な宗敎であり、神に選ばれた信者は「天國」に入るが、選ばれぬ者は「地獄」に落ちるとしてゐる。しかし、「啓示」も、「天國」と「地獄」も、根據のない迷信であり、魔術に掛つてゐるとしか言ひ樣がない。我々「異敎」の徒も、多くの迷信を抱へてゐるが、表向き信じたふりをしてゐるだけである。キリスト教徒は大眞面目に信じてゐる。
 「地獄」の脅しは、元をたどれば、ユダヤ人の劣等感に行き着く。この世で駄目なら、あの世で敵を地獄に落し、自分はいい目を見ると夢想してゐたのが、巡り巡つて己が子孫たちに祟つてゐる。
 キリスト敎徒も劣等感に苛まれてゐる。劣等感とは、己のあるがままの姿に滿足出來ず、自信が持てぬことである。理想像である神と比べたとき、人間は不完全かつ罪の汚辱にまみれてゐる。そんな考へを自ら発明した譯ではないが、生まれてこの方、事ある毎に吹き込まれると、そのうち、骨の髄までそんな氣持になる。
 キリスト敎の心髓は、今述べたことに盡きてゐる。
  (1)神の啓示を根據とする、キリスト敎の唯一絶對性の主張
   啓示は、父と子と聖靈の三位一體の神が、子たるイエスを通じて行なつたとする。
  (2)神による人間の否定
  (3)神の裁きによる地獄落ちの脅し
イエスは、ユダヤ敎を改革せんと神の愛を説いたと言はれてゐるが、キリスト敎はイエスの敎へとは似ても似つかぬものとなつてしまつてゐる。ユダヤの妬む神、裁く神のままである。絶對神では絶對にない。

 神による否定と地獄落ちの恐怖により、歐米人は歪められてしまつた。神の恐怖から何とか逃れたいと、唯物論も出てきた。神の代りに、もの言はぬ物質を祭り上げようといふ譯である。しかし、物質とそれを支配する法則を作つたのは何かといふ問ひに答へられぬとすれば、目論見は外れてゐる。分らぬところをすべてを絶對神に預けておく方が餘程筋が通つてゐる。安心が得られるどころか、混迷が深まるばかりである。
 當然である。絶對神の啓示と裁きといふ魔術に掛つたまま藻掻いてゐるだけであるから。絶對神は限定不能である。それを、掴んだとしてゐるのが、キリスト敎の錯覺であり、思ひ上がりである。錯覺はそのままに、人格神を物質に變へてみたところで、事態は何も變らない。地獄落ちの恐怖も變らず續く。

 唯物論だけではない。ユニテリアンも神の縛りから逃れようとする藻掻きであらう。正統は三位一體を信じてゐるが、これが神の啓示の根據になつてゐる。イエスの神性をなくすことで、事態を改善せんとする譯である。
 アメリカにはユニテリアン教會があるが、その動きは、マサチューセッツなどの會衆派で始まり、ハーバード大學ではユニテリアンが支配的になつたといふ(wikipedia, Unitarian Universalism)。會衆派の人々が、神の裁きについての豫定説の嚴しさに耐へられなくなり、これを否定すべくユニテリアンに轉身したのか。
 會衆派は、長老派と違ひ、神の「豫定」が人間に分るとしてゐた。メイフラワー号の信者達は、「saints」と呼ばれてゐたといふ。「saints」とは天國に豫定されてゐる者といふ程の意味である。さう信じて疑はぬ人たちもゐたのであるが、子孫たちは必ずしもそれ程強くなれなかつた。先祖たちにしても、救ひを確信してゐるとはいふものの、内心は大いに心配であつたであらう。心配であるから開き直つて公言するのでもあらう。それ故にこそ、選ばれてゐることを證明すべく、身を粉にして働いたのである。
 ルターやカルバンは、敵對するローマの連中と天國で顔を合せてはかなはぬと、豫定説を主張して、彼らを確實に地獄に叩き落とさうとした。初期キリスト敎徒と同じ心理である。そして、同様に、これが後輩たちを苦しめることになつた。主張した本人は自分の救ひに疑ひを持つてをらず、敵を叩きのめすことだけを考へてゐたのであるが、この樣なよこしまな考へを持つこと自體がまともではない。初期キリスト教徒の呪ひに祟られてゐるのであらうか。
 アメリカは、「saints」たちが建國したとされるが、その會衆派は減少し、今は上流階級は聖公會が多いさうである。ピューリタンが忌嫌つた、形式的プロテスタントである。そして、ユニテリアンやAtheist(無神論者)、Agnostic(不可知論者)、Deist(理神論者)など色々ゐるが、社會全體としては、キリスト敎、特にピューリタンの傳統が生きてゐる。勤勉に働いて金を儲けてひとかどの人間であることを證明しなければならないが、しかし贅沢は禁物で、餘つた金は寄付しなさい、といふ生き方が人々に染み付いてゐる。世の中全體が魔法に掛かつてをり、その中に生きてゐると、頭でいくら考へても、魔法の外に抜け出すことは不可能である。
 これは、勿論、日本人とて同じである。日本人はかんながらの道といふ世界で生きてをり、その枠の中で藻掻いてゐる。ただ、それが絶對ではないことは知つてゐる。

 マーク・ピーターセンといふアメリカ人人が、次の樣なことを書いている。すなはち、一般的なアメリカ人−−「神樣」の存在なんてばかばかしいと思ふ人も含めて−−は、大文字で書くTruth(眞)といふ絶對的なものがどこかにあり、人間には、自分の分つてゐる範囲で、Truthに忠實に生きる義務があると思つてゐる、と(續 日本人の英語、岩波新書、1990)。
 このことが出てゐるのは、アメリカのある小説に關する部分であるが、その小説の主人公は、この義務感に悩んで結局自殺する。それ位、アメリカ人にとつては深刻な問題である。また、主人公の妻は、ミーハーな女とされてゐるが、そんな人でもTruthへの義務があるかと聞かれたら、「もちろんある」と答へるであらうと著者は書いてゐる。
 「Truthに對する義務」は、日本人なら、お天道樣に恥づかしくない樣に、などといふところであらう。ただし、あくまで自分の氣持の問題であり、自律的である。恥づかしいことをしたら、お天道樣に罰せられるなどといふことではない。アメリカ人の場合、「義務」があると感じるといふのは、果たさない場合の罰を恐れる氣持の表れであらう。

 ピーターセンは、さらに、spiritualの意味について書いてゐる。emotional condition(精神状態)とspirirtual condition(魂のあり樣?)は違ひ、前者は個人の「内」の状態であるが、後者は個人とTruthとの「間」の状態を指してゐるといふ。確かに、OALDでspiritualをみると、一番のconnected with the human spirit, rather than the body or physical thingsの後に、二番目としてconnected with religionとあり、例として、a spiritual leaderが出てゐる。
 spiritといふ言葉は、日本人は日本語の「精神」に近い樣に思つてゐるが、英米では、どうしてもキリスト敎に結びつかざるを得ないのである。逆に、日本語の「精神」は、宗敎的な意味合ひは全くないので、むしろemotionの方に近いのであらう。spiritの語原は息の意とされ、肉體に對するたましひといふ樣な意味と思はれるが、神との關係を抜きにしては考へられぬ樣になつてしまつてゐるのである。神は、もともとはキリスト敎の神であるが、人によつては、より抽象化されたTruthなどになつてゐる。

 日本人には、歐米でいふ樣な「精神」の才能はないと思つて來た。spiritなどの譯語として、精神といふ言葉はあるが、その中味は個人的な「思ひ」に過ぎぬ。對象は具體的なものに限られる。抽象的なことは想像すら出來ない。例へば、善や惡にしても、詰るところ、自分自身省みて見苦しいことはしたくない、よろしくない、といふことである。一般的に、何が惡か、といはれると、そんなものはない。惡といふ言葉は支那から輸入して用ゐてゐるが、實體は何もない。實際、日本には惡はない。その時その時に、都合の悪いもの、嫌ひなものがあるだけである。時が経てば、また、立場が變れば、惡も善に變りうる。
 歐米では、絶對神やTruthから、それは惡であると絶對的に決めつけられる。例へば、性は惡であると。或は、人間存在自體が惡であると。それに對する反應が、歐米の言ふ「精神」活動である。
 性については、必ずしも惡とは言つてゐないかもしれぬが、結婚による以外は惡であるとされてをり、結婚により辛うじて許されてゐるので、性そのものを惡としてゐるに等しい印象を受ける。確かに、十戒にいふ如く、姦淫はよいことではない。しかし、性そのものが惡なのか。性を惡とするのは、食べることを惡とするに等しいではないか。實際、ピューリタンなどは、食事も生きるための必要惡とみなしてゐた樣である。
 例へば神父は獨身を義務付けられてゐる。これは何故か。教會は、神が人を救ふための施設として作つたものであるといふ。その根據は、イエスがペテロに語つた言葉によるとされてゐる。ただし、「汝はペテロなり、我この磐の上に我が教會を建てん」とあるのは、マタイ傳(16.18)だけであり、マルコ傳とルカ傳は、ペテロがイエスを救ひ主と呼んだことのみで、教會のことは書かれてない。マタイの創作の可能性もある。何れにしても、神の「啓示」により教會が建てられ、神の命を受けて神父が信者を救ふので、そのためには、神父は獨身でなければならぬといふのであるが、そんな必要があるのか。
 イエスでさへ、獨身であつたとは書かれてゐない。もともと大工であつたことは、「此の人は木匠にして、マリヤの子、またヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ならずや」とあるので間違ひないが(マルコ傳6.3)、大工であつた時、妻がゐたとしてもをかしくない。マグダラのマリアがさうではないかとの説もある樣である。尚、マタイ傳には、「これ木匠の子にあらずや」とあり、イエス自身も大工だつたとは書いてゐない(マタイ傳13.55)。
 また、イエスは、姦淫は否定してゐるが、性を否定する樣な言葉はみられない。人間そのもそのを惡とする樣な発言もみられない。
 やはり、ユダヤ人の劣等感が原因なのであらうか。世の中を見渡して、敵は途轍もなく惡い人間で到底かなはぬと感じ、人間存在そのものを惡とせざるを得なかつた。そして、自分たちは、神に選ばれて救はれる。その筋書きの中で、性も惡とされた。食べる楽しみも惡とされるには、ピューリタンに俟たねばならなかつたが。

 かうして、全てが神の目により判定されたとされる。もちろん、實際は人間が言つてゐるのであるが。人間自體が、神の榮光を増すための道具としての意味しか持たぬものとなる。これは、カトリックが認めてゐた自由意志をルターが否定したことに始まつてゐる。本來、人間存在は何の意味も持たぬもの、少なくともその意味は人間には分からぬものであるが、今や明確な役目をになはされてゐる。そして、責任を果たせぬ時の罰に怯えながら暮してゐるのである。
 これが、魔法に掛ってゐる所爲だとは誰も気づかぬ。人格神がほとんど死に體になり、「Truth」や法則が代りに出て來た結果、魔法はより完璧になつた。父なる神も、悪魔も、怪しげな魔法使ひも最早ゐない。魔法が機械じかけになり、人々は自動的に地獄に搬送される。詰まるところ、この世が即、地獄になつてゐる。
 その擧句、人類が滅亡しても大繁榮しても構はぬが、日本人もこの流れに卷込まれ、saintたちの奴隸とされてゐるのが困るのである。
 誰もそれに氣づかず流されて行き、氣がついたら、似ても似つかぬ民族になつてゐたといふことになるのではないか。それも一興、日本人に守るべき傳統など何もない、そんなことを氣にせず氣樂に生きるのが日本流なのか。
 それにしても、魔法を打ち破る手立ては何かないのか。