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目次

日本人は勤勉か (H20.1.12)

(1)資本主義には勤勉が必要
 マックス・ウェーバーによると、資本主義は訓練されてゐない氣儘な勞働者では成立たないが、當時(1900年頃)でも、ドイツの婦人、わけても未婚婦人は、立遲れた傳統的な勞働形式を示してゐたさうである。しかし、宗敎教育を受けた少女、わけても敬虔派の信仰を持つ地方に育つた少女は趣が異なつてをり、勞働を義務とするひたむきな態度があるといふ(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神、第一章第二節)。

 一方、當時ドイツで、資本主義精神に滿たされた人々は、敎會に反對あるいは無關心な態度を示すのが常であるといふ。そして、彼らが自己の財産を享樂に使はないのにも拘はらず休みなく仕事に奔走するのはなぜかと訊くと、不斷の勞働を伴ふ事業は自分にとつて「生活に不可缺なもの」となつてゐるからと答へるであらうといふ。
 これについて、事業のために人が存在し、その逆ではない、といふ生活態度は、個人の幸福の立場からみると全く非合理的である、と述べてゐる。巨富を擁しながら自分のためには「一物も有たない」、ただよき「使命としての職業の遂行」といふ非合理的な感情を持つてゐる、とも書いてゐる。

 プロテスタンティズム、とりわけカルビニズムの果した役割や、それが次第に形骸化したことはともかく、資本主義が發達するには、職業を使命とする感情が蔓延することが必要だといふことである。ウェーバーか言ふ樣に、必要なのは論理ではなく「感情」である。それも、あへていへば、「非合理的な」感情である。
 ところで、感情は別に合理的である必要はない。むしろ、一見非合理に見える場合の方が強いのではないか。非合理でも、その人の何かが要求してゐるからさう感じるのである。心理の裏が読み解ければ、多分、それなりに因果の説明もつくのであらうが。

(2)日本人はさほど勤勉ではない
 20世紀初頭のドイツでも末端までは滲透してゐなかつた勤勉さが、なぜ日本人にはあるのか。といふのは、日本は歐米の資本主義國家と對等に渡り合つてをり、資本主義が根付いてゐると考へられてゐるので、當然、勤勉さが國民の大部分に根付いてゐる筈であるし、また普通さうだといはれてゐるが、キリスト教を受入れてゐない日本がなぜさうなつたのかが疑問なのである。

 しかし、相對的に、日本人はそれほど勤勉とは思へない。ヨーロッパに行くと、カトリツクの國でもよく働くのに驚く。勿論、時間が來ればさつと引ける。しかし、勤務時間内の仕事の密度は濃い。給仕などでも身を粉にして動きまはる。契約した分は働かないといけないといふ感じである。これに對して日本人は休憩が好きである。勝手に休憩を取りながらぼちぼちやる。本質的に、仕事に對する忠誠はない。

(3)明治以降、次第に變化
 ただ、トヨタなど流れ作業の職場は相當嚴しいといはれてゐる。實際、最近、日本の職場はどんどん嚴しくなつていつてゐる。例へば、バブルが彈けた頃からか、管理職の殘業が長くなつて來たのではないか。最近、コンプライアンスか内部統制か知らぬが、少しこの邊りを氣にし始めてゐるが。
 30年前だと、退社後に麻雀をする人が結構ゐた。今では殆ど見かけない。晝休みでさへ、メールのチェックをしたり忙しさうにしてゐる人が増え、碁や將棋をする人など皆無である。管理職だけでなく、一般社員も、派遣が増えてからはより嚴しくなつてゐるのではないか。
 もう少し遡つて、50年前、高度成長に入る前の昭和30年代初めの頃は、管理職でも殘業はあまりなく、夕方になれば歸つて家族で食事をするのが一般的だつたと思ふ。
 明治時代だと、歐米人から日本人が勤勉だとは言はれてはゐない樣である。江戸時代も、二宮尊徳のやうに勤勉を獎勵した人もゐるが、それが美談になるといふことは、一般の人は決して勤勉でなく、生活を樂しんでゐたといふことであらう。

(4)明治以降の勤勉さの原因
 明治以來、日本人は次第に勤勉になつて來たのであるが、それは歐米に潰されてはいけないといふ恐怖感が原因であらう。従つて、政府や有識者が叫んでゐただけで、國民全體に身に付いたものではない。
 最近、バブルが彈けたあせりからか、労働がより強化されてゐるが、これも恐怖が原因ではないか。
 ひとつは、日本經濟が立ち行かなくなるのではないかといふ恐怖がある。しかし、それよりも、金利が下がり老後の心配が強くなつたのが本當の原因ではないか。それまではある程度の貯金があれば金利と年金でなんとか暮せたのが、バブル後の低金利ではとてもやつていけない。なんとか働けるうちに働いて金を貯めておかないといけないといふ強迫觀念がある。
 ひところ、消費が増えないと言はれたが、これも低金利で老後が心配だからだと思ふ。

(5)日本人の美意識
 日本人は、明治以降、次第に勤勉になつて來たが、見掛けだけであって、資本主義に必要な職業を使命とする感覺はない。歐米の資本主義と競爭はしてゐるが、恐怖から仕事に精を出してゐるだけである。
 一見、使命感がある樣に見える場合もあるのは、美的感覚のせゐではないか。日本人には、仕事をやる以上、みごとに仕上げたいといふ一種職人的な氣持がある。見苦しいことはしたくないといふ氣持がある。契約だから義務でやるのではなく、といつても意識的にはさういふことも考へるだらうが、詰るところ、自分の樂しみにしてゐる。であるから、出來榮えを氣にする。さういふ風にならない仕事であれば長續きせず、轉職してしまふのではないか。初めはさう思へなくても、やつてゐるうちにさうなつて來ると、長續きする。
 この氣持に、將來への恐怖が重なると、長時間勞働も辭さなくなつてしまふ。しかし、仕事を使命と感じてゐる譯では決してない。
 ある外國人が、毎日朝早くから夜遲くまで働いて、週末にやつと家族と食事した日本人に、「何でそんなに働くんですか。仕事は家族よりも大事なんですか。」と訊いたところ、「家族が大事だからこそ、こんなに働くんだ。」と答へたといふ(http://www.nikkei.co.jp/cjsp/sc16.html 2006年)。つまり、そんなに働かないとやつていけないから、或はやつていけないといふ恐怖があるから働いてゐるだけなのである。
 アメリカのビジネスマンの樣に、少しでも多くの金を稼ぐことが人間の使命であり、それで人は評價されるとは考へてゐない。アメリカ人も家族は大事にする。世の中誰も信じられないが、家族だけは信頼出來るからである。しかし、いざとなつたら、家族よりもビジネスを優先する人が多いのではないか。

 もうひとつ、日本人に染みついた米作りの傳統がある。日本の気候では、米は普通年に一囘しか作れない。しかもその地域ごとに決められた期日通りに苗代、田植ゑとやつていかないと收量の低下を招く。そのため、スケジュールを何としてでも守るといふのが日本人に染みついた習慣になつてゐる。

(6)日本はどうなるのか
 日本は形式的には資本主義社會となつてゐるが、資本主義の精神は移植されてゐない。明治以降、西洋化を推進したのが自發的な樣で實は恐怖心から必要に迫られてやつたメツキでしかなかつた樣に、資本主義化もうはべだけの話である。キリスト敎精神が理解されていないところに、そこから出てきた資本主義精神が導入される譯はない。
 とはいへ、グローバリゼーションにより、益々歐米流、正確にはアメリカ流に「改革」されていく。50年前あるいは30年前と比べても生活に餘裕が無くなつて來てゐるが、益々餘裕を無くして行くのであらう。その結果、益々貧しい生活を強ひられていくのである。
 アメリカでは使命感から金儲けに精を出してゐる。使命を果すため、最低限、命を維持するための食事や休息は認められる。日本人は強迫觀念からがむしやらに働いてゐるだけなので、限界を知らない。どこまでも突つ走るだけである。倒れるしか救はれる道はなささうである。
 倒れてはじめて日本人にも精神の才能が現れるのかもしれぬ。苦難を強ひられたユダヤ人がユダヤ敎、キリスト敎を生んだ樣に。それまでは、精神といふ重い鎧に縛られず、無邪氣な生活を續けるのだらう。無邪氣で樂しいのではあるが、丸腰で百戦錬磨の歐米と闘はされるのであるから大變である。

(7)付け足し
 精神と書いたが、精神とは目に見えないものである。しかし、日本人は目に見えるものしか信じない。従つて、精神などといふものとは縁がない。心靈寫眞を信じる人は多いが、自分の永遠の魂、あるいは自然法則を作つた存在などは信じないし、考へたこともない。自然法則は自然に内在するといふ程度にしか思つてゐない。自然に法則が内在してゐれば、八百よろづの神の樣に、銘々勝手なことを始めないか。
 歐米では、形のないものを考へる。例へば、永遠の魂を信じる。肉體は滅んでも魂は殘る。ユダヤ人はあの世での復讐を神に願つた。キリスト敎でも、新約の默示録はまさにあの世でのローマへの復讐の物語である。
 永遠の存在であるから、しかとした存在であり、考へることも可能になり、精神も宿る。現世しかない日本人には思想もなければ精神もない。かりそめの存在は、歐米流では、存在ではない。存在ではない以上、考へることも出來ない。

 この世をよく理解するには、この世を統べる何ものかを考へる必要がある。この世を統べる何ものかを假定しないと、この世界の構造を考へることは出來ない。この世を統べるものを考へるとしたら、この世を越える世界を假定する必要がある。くさぐさのものと同じ次元の存在では、それらを統べることは出來ない。自然に法則があるとしたら、それは自然を越えたものでなければならない。科學が發達した今日では、そのことに氣がつかなくとも、科學の結果だけ、一應の理解は出來よう。しかし、もともとはさういふものを假定したことにより近代科學は誕生した。

 歐米流を讚美してゐるのではない。彼らは、自分だけは地獄に落ちたくないといふ強迫觀念に小突きまはされ苦しんでゐる。そしてこの世を改善し天國にするといふ使命を負つて、そのための齒車になり、ビジネス至上主義の地獄に落ちてゐる。

チンパンジーは人間と違はないか (H20.1.20)


 「チンパンジーの能力が高いといふ科學的な事實によつて、『動物と人間は違ふ』といふ二分法的な考へ方を壞してきました」、と京都大學靈長類研究所長が語つてゐる(朝日新聞, H20.1.19)。ゲノム(全遺傳情報)は、人間とチンパンジーは98.8%同じで、サルでも92%、イネでも40%は同じであり、生物としてサルやイネとも命がつながつてゐる、と續いて言つてゐる。

 「科學的な事實」といふ粗雜な表現が先づ氣になる。よく聞く言ひ方ではあるが。まともに論ふと長くなるから一言だけ言ふと、「科學」は觀測したデータに基づいて自然に關する假説を構築するものであり、「事實」は科學的も非科學的もなく、單に事實でしかない(ついでにいへば、人は勝手に事實と思ひ込んでゐるが、本當に事實かどうかは分らない)。

 それは兔も角、能力が人間竝に高いから、人間と違はないといはれると、能力だけが問題なのですかと訊きたくなる。人間が人間である所以は、單に能力が高いといふことなのであらうか。
 キリスト敎徒ではないから、人間だけが魂をもつ特別の存在である、とは言はないが、もし人間が他の生物と決定的に異なつているとしたら、その理由は單に能力の問題ではないことは間違ひないと思ふ。
 歐米では、牛や豚の肉を食つてゐることを正當化するために、彼らは人間が食ふために造られたもので魂はないとしてゐる。ちなみに、鯨は食ふために造られたのではないから食つてはいけないと狂信的に主張する。動物に魂がないとするのは、己の行動を正當化するといふ觀點から首尾一貫はしてゐる。日本人はその邊りは眞劍に考へたこともないが。一貫はしてゐるが、本當かどうかは別問題である。しかし、魂なんていづれにせよ假説に過ぎぬ。であるから人間のみには永遠の魂があるとしてしまへばそれつきりである。後はそれに矛盾しない樣に、論理を組立てていくだけである。これは結構綱渡りであり、昔から正統だ異端だと爭つてきてゐる。

 サルやイネとも命がつながつてゐるといふのは當然である。地球上の命であるから、その機構が多かれ少なかれ似てゐるのは當り前である。キリスト敎風に言へば、神も種を次々と創造していく時に、結構手拔きをして、さうさう別の機構を造らなかつたといふことになる。環境の異なる星の生物なら、全く異なつた機構で生命を維持してゐるかもしれないが。
 しかし、例へば、遺傳情報のうちたつたひとつの情報が異なつてゐるだけで、全く異なつた生物である可能性はある。そのひとつが決定的な支配力を持つてゐる可能性がないとは言へないではないか。

 さらに言へば、遺傳情報は100%同じであつても、決定的に異なつたものである可能性があることも否定出來ない。ゲノムですべてが決つてゐるといふ證據があれば別であるが。
 遺傳ですべて決るとすると、決定論を認めることになる。といふことは、世界の未來は既にすべて決つてをり、人間に自由意志はないといふことである。これでは生きる價値のない世界になつてしまふ。いやでも自由意志を假定するしかないのである。

カトリックは異敎の世界 (H20.3.2)


 ヨーゼフ・クライナーといふオーストリア人の「江戸・東京のなかのドイツ」といふ本の譯者解説に、原著者が新聞に書いた記事の引用があつた。この人は、若い頃、奄美・沖縄の調査をしたらしいが、その時に神事を司る「ノロ」の語る話を聞いて、「自分の信仰と奄美・沖縄、ひいては日本の人たちの信仰との異質性ではなく、同質性を直觀した」とあつた。
 カトリックと云ふのは、キリスト教とはいつても、實は「異敎」の世界であるといふことなのである。それを殺したのがプロテスタンティズムである。

 勿論、カトリツク敎會はあくまで天國に入ることを問題にしてゐる。しかし、民衆は異敎の世界に生きてゐた。復活祭とかクリスマスとか、キリスト敎の祭はすべて異敎の祭を取込んだものである。祭の當日の前の何日かは正に異敎の祭で大騷ぎになり、敎會は抑へようとしたがなかなか思ふ樣にはいかなかつた樣である。

進化論は思想を破壞するか (H20.1.13, H20.3.22)


Evolution is a good example of that modern intelligence which, if it destroys anything, destroys itself. Evolution is either an innocent scientific description of how certain earthly things came out; or, if it is anything more than this, it is an attack upon thought itself. If evolution destroys anything, it does not destroy religion but rationalism. If evolution simply means that a positive thing called ape turned very slowly into a positive thing called a man, then it is stingless for the most orthodoxy; for a personal God might just as well do things slowly as quickly, especially if, like the Christian God, he were outside time. But if it means anything more, it means that there is no such thing as an ape to change, and no such thing as a man for him to change into. It means that there is no such thing as a thing. At best, there is only one thing, and that is a flux of everything and anything. This is an attack not upon the faith, but upon the mind; you cannot think if there are no things to think about. You cannot think if you are not separate from the subject of thought. Descartes said, 'I think; therefore I am.' The philosophic evolutionist reverses and negatives the epigram. He says, 'I am not; therefore I cannot think.'

'Orthodoxy' by Gilbert. K. Chesterton (1908) より

 進化論は、この手の、もし何かを破壞するとしたらそれ自身を破壞する現代思想の好例である。進化論は地球上の生物がいかにして出現したかについての無邪氣な科學的説明に過ぎないが、もしそれ以上のものであれば、思想そのものへの攻撃である。進化論が何かを破壞するとすれば、それは宗敎ではなく、理性である。進化論が、單に、ある類人猿が非常にゆつくりと人類に變化したといふのなら、キリスト敎正統に對して何の攻撃にもならない。なぜなら、神はものごとを遲くするも速くするも自在であるからである。とりわけ、キリスト敎の神の樣に、時間の外にゐる神であればなほさらである。しかし、進化論が何かそれ以上のことを意味するなら、類人猿も、それが變化していくべき人類も、存在しなかつたことになる。つまり何も存在しなかつたことになる。せいぜい、ひとつのものだけが存在したとは言へる。すなはち全てのものの流轉である。これは信仰への攻撃といふより、精神への攻撃である。考へる對象が存在しなければ考へることは出來ない。考へる對象と自分が別物でなければ考へることは出來ない。デカルトは言つた、「考へる、故に我あり」と。哲學的な進化論者は、この警句を逆轉し、かつ否定して、「我存在せず、故に思考できず」と言ふだらう。
G. K. チェスタトン「正統とはなにか」より

 チェスタトンは、永遠の存在でなければ存在ではないと考へてゐる。これは歐米人に共通した考へ方の樣である。
 ある類人猿が次第に變化して人類になつたのなら問題ないといふ。つまり、類人猿は消滅してゐないからである。しかし、俗によくいふ樣に、猿から色々な類人猿を經由して最後に人類が發生し、中間の類人猿は絶滅したといふことになると、問題であることになる。中間にゐたといふ類人猿が絶滅したのが困るのである。早い話が、人類もそのううち次の新人類に取つて變はられることになる。これでは、人類も存在しないことになってしまふ。

 しかし、化石を見ても、絶滅した生物が存在することは間違ひなささうである。絶滅した生物はその子孫がゐない。その文化を受継ぐものがゐない。といふことは、彼らの存在を記憶し、理解するものがゐないことになる。それが、存在ではないといふ所以か。
 彼らが一旦は存在したといふ事實は事實である。しかし、その事實を覺えているものがゐなくては、事實も、事實上、殘つてゐないに等しいといふのか。それにしても、靈魂が不滅であるといふのなら、死んだ彼らの魂はまだ存在してゐる筈である。しかし、その霊を祭るべき子孫がゐなくなつては、魂も存在し得ないのか。

 子孫の繁榮を願はぬものはゐないが、日本人の場合、自分の死後の祭のために子孫が必要である。キリスト敎ではさうは言はぬが、少くともカトリツクでは同じ樣なことなのではなからうか。思想として明言はしないが、「異敎」の傳統として受継いでゐる。プロテスタンティズムはそれを抹殺したが。
 死後の祭のためと言つたが、死後に祭られようが祭られまいが、本人には分らぬ。死んだらお仕舞ひである。ただ、それを信じて、生きてゐるときに安心出來るといふだけである。魂の永生を假定すると、一方で、子孫は先祖を祀ることになる。死んだ家族を實在する樣に考へると、少くとも祟られぬ樣に祀らなければと思ふ。天神様が全國各地に祀られたのも祟りを畏れてのことである。それもこれも、現世利益の世界である。

科學の事實? (H20.6.28)


 多田富雄といふ人の新聞への連載を見たら、「科學の事實にはひたすら忠實であるべきこと」といふ文章に出くはした(朝日新聞, H20.6.27)。舌足らずの表現はさておき、實驗で事實を明らかにするのが科學であるといふ素朴な思ひ込みが見て取れる。

 この人は醫學者らしいが、醫學を科學と思つてゐる樣である。しかし、醫學は科學ではなく、技術である。技術とは、人間の役に立てようとするものである。醫學も人の役に立つから醫學なのであり、すなはち、技術なのであるる。これに對し、科學は自然の法則を見つけようとするものであり、ある意味では無益のものである。そして、科學はすべて假説である。最新の學説も、いつかは新しい理論に取つて代はられる。醫學も科學を利用はするかも知れぬが、科學ではない。假説では危なくて患者に適用できない。

 科學はデータではない。データをいくら集積しても科學にはならない。データに基づいて構築された假説が科學である。

 敢て「事實」といはず「データ」といつたが、世の中に事實などあるのか。人間が得られるのはある方法で計測されたデータのみである。「事實」のうち計測に引つ掛つた部分が「データ」として得られるのであり、事實のある側面でしかない。しかも計測により歪められてゐる可能性もある。

 この人が特別をかしい譯でもない。少くとも日本人は大抵この樣に考へてゐる。考へてゐるのではなく、漠然とさういふ風に感じてゐるだけであらうが。

惡魔の罠 (H20.6.29)


 キリスト敎が諸惡の根源だと思つてゐる。近代以降の惡はプロテスタンティズムに發する。しかし、カトリックはその大元であり、同罪であることは間違ひない。
 ただ、カトリックは、素朴な「異敎」の世界を保存してゐるだけ、今となつてはやり易いかも知れぬ。しかし、十字軍の虐殺も、南米の虐殺も、カトリックの名の下に行なはれたことを忘れてはいけない。

 キリスト敎の特徴は、いふまでもなく、絶對者に歸依することにある。しかし、それ自體はキリスト敎の專賣ではない。少くとも、イスラム教もさうである。
 違ふのは、絶對者との距離である。正確には、絶對者の次元である。本來、絶對者はこの世とは關はりを持たない。關はらぬからこそ絶對でゐられる。相對の世界と交はつては絶對ではゐられぬ。絶對者は別次元のあの世からこの世を創造し、そこに止まつてをり、人間には全く窺い知ることが出來ない筈である。もし知ることが出來れば、それはもはや絶對ではない。
 イスラム教では絶對者は預言者に言葉を送つたとされる。しかし、ムハンマド(マホメット)が最後の預言者とされ、もはや預言は行なはれない。すなはち、今日では絶對者はこの世に關はらぬことになる。
 キリスト敎になると、預言どころか、絶對者が地上に現はれた。絶對者がこの世に關はつたといふ點では同じことではないかとも云へるが、信者への影響は格段に大きい。
 イエスをキリストすなはち神の子と認めると、一度はこの世に絶對が實現したことになる。技術によりこの世を神の國、すなはち天國にしようと歐米は考へてゐるが、その出所はここにある。
 それだけでなく、神は非常に身近な存在になり、信者の一人一人が内に神を隱し持つ樣になつた。そして折あるごとに神の聲を聞く。それに従つて、絶對の自信を持つて行動する。
 神は彼らに、フランス語ならtu(古い英語ならthou)を使つて話しかける。實際、彼らは自分に對して「お前は」と話しかける。日本人には出來ない藝當である。神から話しかけられる、といふのは己を客觀的に見るといふことと同じである。そんなことはどう頑張つても出來ない筈であるが、彼らは出來ると錯覺している。

 なぜこんなことになつたか。イエスが刑死した後復活したと云ふのがそもそもの發端である。しかし、假死状態で死んだと思はれたのが息を吹き返したといふことも考へられぬことではない。遠藤周作は、當時のユダヤ人は、神と人間を峻別してをり、人を神とする樣なことを最もしない民族であり、それが神であると思つたと云ふことは、よつぽどのことが起つたのであらうと云ふ樣なことを書いてゐた。本當にさうか。彼らにとつて神エホバとは族長程度のものではなかつたのか。彼らはエホバが自分たちユダヤ人の救ひ主を送つて呉れると信じてゐたが、エホバが絶對神なら、一民族をなぜ救ふのか。

 ともかく、この錯誤から、三位一體などといふ奇妙な説明が考案され、イエスはキリストすなはち人類の救世主、神の子とされた。
 論理的にはあり得ない。この相對の世界をよりよく見通すための原理として、その外に絶對を假定するのであるのに、その絶對がこの世界に顏を出して來ては困る。つまり、キリスト敎の神は絶對神ではないといふことである。絶對神ではないなにものか、しひて言へば惡魔である。
 カトリックの間は、一般人に對してはキリスト敎の支配は形式的に過ぎず、生活は「異敎」のままであつた。しかし、プロテスタンティズムになると、キリスト敎に一般人まで支配される樣になる。各人が、直接、神すなはち惡魔と取引することになり、金を餌に、また遠くは全世界支配の幻を見せられて、その軍門に下る。かくしてアメリカ流のビジネス至上主義が世界を席捲することになつた。

 キリスト敎の神は絶對者ではなく、惡魔であると書いた。惡魔と云ふ發想はもともとユダヤ・キリスト敎の發想であるが、神のあるところ、常に惡魔が潛んでゐる樣に見える。
 人間はとかく金に弱い。しかし、一方で、そんなものにこだはらず伸びやかに生きたいと云ふ氣持もある。その時、心のどこかに、金の誘惑に負けてみようとする氣持が起つて來る。これが惡魔である。しかし、人はすぐに色々と理窟をつけて、正當化する。惡魔はいつも表には出ない。

 イエス自身は、勿論、惡魔の誘惑に負けなかつた。生活を思ひ患はず、ただ神を信ずるのみの彼にとつては、惡魔の誘惑など取るに足らぬことであつた。しかし、一般人にとつては、惡魔は拂つても拂つても裏口から忍び込む手強い存在である。それを知つてか知らずか、イエスは惡魔を退けるすべは教へなかつた。神を信じさへすれば、惡魔は退散すると信じた。
 確かに惡魔は退散した。しかし、美事に敎會の裏口から侵入した。信じれば信じるほど、惡魔はたやすく侵入できる樣になる。信仰により自分は守られてゐる、内なる神の聲により自分自身を制禦出來る、と思ひ上がつた人間ほど、惡魔にとつて罠にかけ易いものはない。おまけに、神に選ばれた自分が道を外す筈はないと信じきつてゐるから、途中で反省することもなく、ひたすら地獄に突進して呉れる。
 これが英米流ビジネスマンの正體である。そして、稼いだ後は、地獄に落ちないやうにと慈善事業に精を出す。ゲイツ氏の樣に。

ルネサンスと宗敎改革 (H21.10.1-11.15)


 福田恆存は「近代の宿命」の第三節に次の樣に書いてゐる。「ルネサンスは宗敎改革を包含しえない--が、宗敎改革はルネサンスを利用しうる。イタリアに強力な近代國家が成立しえなかつたといふ事實はたんに唯物史觀によつてのみ説明しえぬであらう。なぜなら、精神の政治學をこころえぬ民族によつて近代國家はつくりえぬ。そして精神の政治學こそは北歐の宗敎改革が中世に反逆しながら中世から受けついだものであつた。イタリア・ルネサンスの中世反逆は宗敎改革のそれにくらべれば微温的なものであり、それゆゑに中世から受けつぐこともすくなかつたのである。」

 「近代の宿命」は引掛かるところの多い文章であるが、この部分も少し引掛つてゐた。「イタリアに強力な近代國家が成立しえなかつた」といふところで、近代國家を肯定的に捉へてゐる樣に見えるが、本心はどうなのか、などと。

 また、「中世に反逆」と書いてゐるけれども、實は反逆することにより受継いでゐると云ふ意味であり、ルネサンスは反逆してゐない分、受継いでゐないと言つてゐるのであるが、本當にさうなのか。宗敎改革が中世を受継いでゐると言ふが、中世の苦勞を臺無しにしてねぢ曲げただけなのではないのか。

【中世の實態】
 中世は敎會が支配してゐたと言はれてゐるが、敎會は、イエスの敎へに忠實だつた譯ではない。庶民に對しては、イエスの弟子たることを要求せず、その儘で救濟するシステムを作つてゐた。つまり、敎會に來れば天國に入れると敎へた。
 人間何が不安かといつて、死ぬこと以上のものはない。死後の世界を保證されれば、安心して現世を樂しめる。さらには、命を懸ける勇氣が出せる。さういふ強さを人間に與へた。
 敎會は、一應、現世を否定した。聖職者には禁慾を命じた。しかし、一般信徒には普通の生活を許してをり、異敎時代と同じ、現世を樂しむ生活が続いてゐた。

【イエスは現世を否定したか】
 ところで、主題から外れるが、イエスは現世を否定したのか。イエスは、ユダヤ敎の戒律に從ひ、例へば、姦淫を誡めた。「色情を懷きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり」とも言つた(マタイ傳 5・27)。これは、戒律を表面的に守ればいいのではないことを言つてゐるのであり、性慾そのものを否定してゐるのではない。
 しかし、續けて、「もし右の目めなんぢを躓かせば、抉り出だして棄てよ、五體の一つ亡びて、全身ゲヘナに投げ入れられぬは益なり」と激しい言葉を吐いてゐる。そして、マタイ傳のこの章は「さらば汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ」と締括られてゐる。かく言はれると、いかに人間が不完全であるかを再認識させられる。しかし、イエスは現世を否定してゐる樣には見えない。ただ、我身の不完全さを自覺して生きよと言つてゐるだけの樣に思へる。天國にしろ地獄にしろ、譬喩として持出されてゐるに過ぎない。この世を天國にせよと言つてゐるのである。

 しかし、人間はなぜ不完全なのか。神の造つた人間が、なぜ不完全なのか。動物もまた完全ではないのか。本能に從ひ過不足なく生きてゐるとき、動物は完全なる存在ではないのか。それにつけても、他の生物を食はねば生きていけないと云ふのは、どういふことなのかと思つてしまふが、神に造られた儘に生きてゐる動物は、少くとも惡ではあるまい。とすれば、人間は本能に從ふだけでなく、知惠を使ふから惡に陷るのか。
 しかし、本能に従つて情欲を感じても惡といはれる場合もある。となると、人間存在自體が惡であるといふことになる。さうではなく、神の造つた人間自體は惡ではないが、人間が集まつて社會を作ると惡を生じるといふことなのであらう。しかし、その社會といふのも、一種の本能である。人間は一人では生きていけない樣に出來てゐる。となると、なぜ神はこんな状態に人間を造つたのか、といふことにやはりなる。
 人間が不完全であることは、いづれにせよ、間違ひない。しかし、繰返しになるが、イエスは現世を否定してゐるとは思へない。神の造つたこの世を決して否定はしてゐない。

【中世異敎世界の發展がルネサンス】
 敎會の體制下にルネサンスが起つたが、これは何か。古代文藝の復活であるといふ。ゲルマン民族においては、もともと、高度の文藝はなかつたので、復活もくそもない。ルネサンスはイタリアで起つた。イタリアにおいては、ローマ時代の文藝が殘存してゐてもいい筈であるが、ローマ帝國が滅亡しゲルマンなど蠻族が侵入した結果、社會が荒廢し廢れてしまつてゐた。
 潰滅に近い状態にあつた文藝を、敎會がなんとか保存し、そして、社會が次第に豐かになるに及んでルネサンスとして盛んになつた。ルネサンスにおいては、例へば繪畫も、殆ど敎會のためのものである。それまでも繪畫の歴史は續いてきてゐたのであらうが、その時期にあらたに大きな敎會が建立されるに及んで、立派な繪畫が必要になつたのである。
 それまでも、小さな敎會などに無名の職人が繪を描いてきたのであらうが、ルネサンス以降、大きな敎會に繪を殘し、ついでに職人が畫家として名前も殘る樣になつた。

 ルネサンスはキリスト敎とは直接の關係はない。キリスト敎とは異なる世界を追求した。しかし、敎會は我身を飾るために、貴族や商人達と同樣に、職人達のパトロンになつた。

 敎會は神に仕へる組織であつたが、信徒には信仰を強要しなかった。イエスの敎へは劇藥であり、とても素人の手に負へるものではない。俗人は異敎の儘の生活を送ればよい。それをそのまま救濟するための施設が敎會である。
 中世は敎會が世の中を支配してゐたが、キリスト敎精神が浸透してゐた譯ではなく、庶民の生活は異敎時代と殆ど變るところがなかつた。ただ、敎會により、世界が統一されてゐた點が違ふだけである。統一といつても、理念の世界においてのみであるが。しかし、これにより、いくら亂れても、分裂しても、平氣でゐられる樣になつた。

 カトリック敎會がルネサンスの科學を彈壓したなどと言はれてゐる。しかし、それは宗敎改革に對抗して、いはゆる反動宗敎改革が起り、カトリック敎會までがをかしくをかしくなつてゐた時の話である。

 要するに、ルネサンスとは中世異敎世界の延長である。ただ、經濟力がつき、文明が復活し發達しただけである。

【宗敎改革はヘブライの復活】
 宗敎改革は、敎會の救濟システムに對する疑問から始まつた。敎會は金を巻上げるだけで、本當に自分を救つてくれるのか、神と直接取引した方が確實なのではないか、とルターは考へた。
 死後のことを眞面目に心配すればさうなるのであらうが、天國といふのは、所詮、安心を得るための譬喩なのである。誰も見た人はゐない。日本人は、死んだらすべてお仕舞ひと諦めてゐる。しかし、ヨーロッパ人はもつと執念がある。民族滅亡など、過酷な運命にあふ人達をさんざん見て來た人間には、あの世がどうしても必要になる。永遠の魂がなければ絶對に納得出來ない。
 さういふ嚴しい思想からすると、カトリック敎會はいかにも生ぬるい。第一、敵さへも天國に送つてしまふ。これは許せない。といふことから、二重予定説も生れたのであるが、これから分る樣に、プロテスタントの發想は、發端からしてイエスの敎へから外れたものである。ヘブライの因果應報の世界の復活である。愛でなく、罰する神の復活である。
 現世では必ず勝てるとは限らないとなると、來世のみ見つめ、現世は徹底的に否定することになる。現世をよりよく生きるための假説であつた來世が、本當に目的とすべきものなり、現世はそのための準備に過ぎなくなつてしまふ。をかしな倒錯の世界になつた。

 倒錯の世界は永續きしなかつた。信仰は希薄化し、現世否定は消えた。しかし、二重予定説は殘つた。すなはち、人間には救ひに予定された選民と地獄に落ちるべき民の二種類があるといふ思想である。人々は自分が選民であると證明しなければ安心出來なくなつた。そのためには、現世でも一廉の人間であることを示さねばならない。それを定量的に評價しようとすると、最後は金になる。選民であれば、現世でも役に立ち、金も儲る筈であり、金を儲けた奴が選民である。
 もともとは、誰が選民であるかは初めから決つてゐた。つまり、敵對するカトリックの連中を確實に地獄に落すために考へ出された思想であるので、如何に囘心しようが善行を積まうが變へられぬ。この世の行ひとは無關係に決つてゐる筈である。
 信仰が衰退しても、選民思想が殘つたのは、アメリカでは貴族がなく、古くからの家柄もないので、その代りに魂による位階が必要だつたと云ふことかもしれぬ。

 この英米流思想が、今日、世界を席捲してゐる。

【科學と技術】
 ルネサンスは、科學も生んだ。科學はギリシャの傳統を受継いだものではあるが、キリスト敎の洗禮を受け、自然を支配する法則を見出さうといふ考へに貫かれる樣になつた。自然は神の被造物である。神は異次元の世界にあり、自然界には住まはぬ。といふことは、神は自然に法則を與へることにより、間接的に支配してゐる筈である。となれば、その法則を探求してみたくなる。
 實驗データに基づくのが近代科学の特徴の樣によく言はれるが、科學の根本は、神の法則についての假説を立てることにある。假説を檢證するために實驗も必要になるのであり、實驗が科學の本質ではない。データを幾ら積重ねても、それだけでは科學にはならない。假説が提案されて初めて科學になる。
 實驗で檢證するのも、神の法則があるといふ信念があるからこそ、さういふ考へも出てくると云ふことである。もし法則がなければ、實驗しても氣紛れな結果しか出ない筈である。ギリシャの科學はその点は曖昧だつた。

 科學は主にカトリック國で發達した。これに對し、プロテスタント達は、技術の開發に勤しんだ。予定説のもとに生れた人々は、自分が天國に行くべく選ばれた人間であることを證明するために、金を儲けなければならなくなつたが、その為には、他人より賣れる商品を作ることが早道であり、技術開發に資本を注ぎ込んだ。これが今日の技術競爭を産んだ。
 彼らは科學をやる氣はない。ただ、技術に利用できる可能性があるから、科學にも興味は持つだけである。

【科學が何故技術の役に立つのか】
 技術は科學を利用してゐる。しかし、科學は、眞理ではなく、假説に過ぎない。假説に過ぎぬものが、なぜ役に立つのか。
 科學は技術と密接に結びついてゐる。ある意味で、技術におんぶされてゐる。即ち、技術により計測されたデータに基づいて構築されてゐる。技術の進歩により、今まで氣づかなかった現象が見出されると、それが科學の進歩を促す。といふより、變化せざるを得なくなる。
 勿論、純粹に思考實驗により新しい假説が提出されることもありうる。しかし、その場合でも、結局、その時點の技術により檢證される。
 科學は、眞理ではないが、その時點の技術で計測できる範囲では矛盾を生じない程度には出來てゐる。從つて、現在の技術に對してはぼろを出さずにすみ、役に立つこともあると云ふことではないか。

 勿論、技術は、生活に役立てるためのものであり、科學を應用するにしても、試してみてうまくいかなければ採用しないだけである。その場合、普通は、技術が未熟と思ふだけであらうが、そこから新しい科學の假説が生れることもありうる。この樣に、技術と科學は互いに關係してゐる。しかし、もともとの目的は全く別である。