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目次

一夫一妻制の崩壊 (H19.11.3)


 一夫一妻といふのは、哺乳類には少いらしい。手長猿などに見られる程度だといふ。多いのは鳥だといふ。卵の孵化やその後の育兒に雄の助けが必要であるからではないかと言はれてゐる樣である。
 人間が一夫一妻制なのも、育兒に手間がかかるからだらうか。だとすると、昨今の樣に子供を託兒所に預けて女も働く樣な世の中になると、一夫一妻制は崩壊するのではないか。少くとも、その必要はない。亂婚或は一夫多妻、一妻多夫、何でも構はない。

 キリスト教は、倫理的によくないと言ふだらうが、我々日本人には關係ない。

 問題は、隨伴する家族の崩壊である。子供にとつて、親が片方しかゐないといふのは、問題ないだらうか。子供の方は、母親さへゐれば問題ないのかもしれぬ。それより、親の方が問題で、男は家族がなく單獨で暮すことになる。その孤獨に耐へられるか。
 よく、猫の雄は何のために生きてゐるのかと思つた。さかりのついたときに雌を追ひ囘すだけで、後は何をしてゐるのか分らぬ。單獨生活なので日々の獵をしてゐるのであらうか。

 キリスト教に逆らつて、ヨーロッパなどでの方が、先に未婚の母が増えたりして、段々そのやうになつていつてゐる樣にも見える。プロテスタントは、もともと、共同體から切離されてをり、孤獨に耐へる生活を強られてゐる。それゆゑ家族は最後の砦として大事にしてきたやうに見えるが、それもなくなると、本當に孤獨な生活を送ることになる。
 子供は欲しいが、結婚生活に耐へられないといふことなのかもしれぬ。銘々が己の救ひの確保に追はれてをり、他人のことに構つてゐられないといふことか。

日本女性の體の變化 (H20.3.1)


 日本女性の胸は大きくなつた。昔は胸が薄いのは遺傳のせゐで、永遠に變らないものと思つてゐた。ところが氣がついてみたら結構大きくなつてゐる。胴體の骨格が扁平なため、外人の樣に厚いといふ感じはしないが、大きくはなつた。
 食事の變化が原因であらうか。相對的に肉より比率が減つたといふ魚でも、昔に比べて何倍も消費してゐると云ふのであるから、蛋白質の量がいかに増えたかが分るであらう。一汁一菜などといふ言葉は死語になつた。
 しかし、男の方はあまり變つてないのではないか。相變はらず子供の樣な薄い胸のままである。そして年がたつとそのまま脂肪だけ増える。女性の胸もそもそも筋肉ではなく脂肪である。それで女性は變つたのであらうか。とすると、蛋白質ではなく、脂肪の摂取量が増えたのが原因か。いづれにしても榮養がよくなつたのが原因であることは間違ひなからうが。

Loveと愛の違ひ (H20.3.8)


 昔の切支丹は、「愛」と云ふ言葉は性愛を聯想させるので、神の「御大切」と言つた さうである。
ところが、明治以降、「愛」はloveの譯として使はれだしたのだと思はれるが、精神的な意味あひが強くなつてゐる。いつか何かで見たが、若い人に戀愛に關するアンケートを取つたとき、歐米では肉體的な愛を先づ問題にするのに、日本では、精神的なことしか考へてゐない樣な風だつた。かまととかも知れぬが。

 love の語源をみると、慾望の意の語から來てゐる樣である。従つて男女の愛にも勿論使はれる。ただ、辭書に最初に載つてゐるのは、家族や友達などに對する感情の意味である。ひいては神の愛にも使はれ、divine love といふ用例が載つてゐる。神については agape といふ言葉もあるのはあるが。

 男女間でloveと云ふ場合、當然、性愛を意味してゐる。make love は性交を意味する。
 映画 Forrest Gump で Gump が Jenny に 'I love you' と言つた時、Jenny が 'you don't know what love is' と答へる場面があつたが、Jenny の言う love は性愛を意味してゐる。以前 Gump が Jenny の部屋に入り込んだのに何も出來なかつたことがあつたから、かう言つたのである。

 ところが、明治時代に、何を勘違ひしたのか、love は精神的なもののみを意味すると日本人は思ひ込んでしまつた樣である。キリスト敎は受入れなかつたが、精神的な「愛」といふ観念だけ受入れて仕舞つたのである。といつても表面的なものであるが。
 しかしその表面的と云ふことが災ひしたのではないか。精神的な愛などには全く縁がないのに、何かそんなものがなければならぬと思ひ込んで來た。また、離婚はすべきではないといふ観念も出來た。ここにきていくらかメツキが剥げて來たのか、離婚は復活した樣である。しかし、精神的な愛と云ふ観念は相變はらず人氣がある。

 キリスト敎を本格的に受入れてゐれば、こんなことにはならなかつたかもしれない。キリスト敎の素地がなく、抽象的な観念の全く育たぬ不毛の地に、愛といふ言葉だけが一人歩きしてはびこつてゐる。
 尤も、本氣で信じてゐる譯ではない。しかし、意識して被つたのではないだけに、假面が肌に食ひ込んで苦しむ人も少くない。

男と女の違ひ (H20.9.15 - 12.8)


 人間は群れる動物で、集團本能といふべきものがある樣である。男は集團の中での自分の位置づけを自覺することが必要で、それが脅かされると非常に不安になり、ぐれてしまふ。學校の成績が惡くて先生や親に喧しく言はれたりすると、捨鉢な氣持になり、ぐれる。
 本能といふのは便利な言葉である。どういふ機構であるかは知らぬが、とにかく生きるために動物に備はつてゐる特性で、それが滿たされないと非常に落着かなくなる。例へば、腹が減ると、何か食はないではゐられなくなる。集團本能と呼んだのも、それが滿たされないと落着かなくなり、ぐれるからである。

 女は男と同じ樣な集團本能はなささうである。それゆゑに女はぐれない。社會の中での位置づけに無關心と云ふ譯ではなからうし、社會的にうまくいかなければ不味いとか、何とかしようとか思ふであらうが、あくまで頭で考へてさう思ふだけで、ゐてもたつてもゐられない樣な氣持にはならない樣である。

 では、女には集團本能はないのか。女の場合、集團性は、組織においてではなく、身近な人との繋りとして發揮されるのであらう。隣人との井戸端会議とか、家族との繋りとかが必要なのである。それがないと女は不安になる。
 その意味では、家族を作ることが大事で、それには男を得ることが必要である。

 女の場合、「かはいい」といふのが唯一の判斷基準になつてゐる樣に見える。それは、詰るところ、男を得るために必要だからではないか。單に綺麗だとか美しいとか云ふことではない。「かはいい」といふのは「可愛い」といふ漢字を當てるやうに、愛したくなる樣なといふ意味である。
 男に愛されることにより子供も出來し家庭も出來る。それが女にとつては一番大事であることを、女は敎はらなくとも分つてゐる。意識はしてゐないにしても。

 男も、外観を氣にしない譯ではない。見榮はある。しかし、そこに命を懸けることはない。社會的な役割を果すことが一番の關心事である。

女はなぜ働く樣になつたか (H20.12.14)


 男女平等といふのは、元々女性がないがしろにされてきたヨーロッパで出てきたもので、日本の樣にそこそこにやつて來た所では生まれなかつた。スイスなどは今でも女性に參政權がないと習つた。どうやら今は婦人参政権が認められてゐる樣であるが(1993)、ヨーロッパでは一般に女性の地位は低い。

 それは兔も角、男女平等は仕事の世界にも及んで來てゐる。平等とは色々な權利があればいいので、勞働の義務は男だけでもいいのではないかと思ふのであるが。
 女は、子供を産んだり育てたりといふ大事なつとめがあるので、日々の糧を稼ぐといふ低級な仕事は免れてもいいのである。

 なとどといふと、女を産むための道具と考へてゐるなどとお叱りを受けさうである。しかし、男にはそんな藝當は出來ない。授乳も、もちろん、出來ない。女しか出來ないのである。
 そんなお叱りが出るのは、育兒など家庭でやることは價値がなく、外でやる仕事は價値があると勘違ひしてゐるからであらう。外の仕事は金になるが、家の中の仕事は、金にならないからであらうか、低く見てゐる人が多い樣である。
 しかし、金を稼ぐのは生きるために必要ではあるが、それだけの話である。技術が進歩して何でも自動的に出來る樣になれば、働く必要などなくなるのである。
 そんな、價値のないことをやつてゐるからこそ、勳章をやつたり、表彰をしたりして、お互ひに價値があると慰めあひたいのである。

 女が働くことが始まつたのは、プロテスタンティズムのせゐではないかと思ふ。プロテスタントは、自分の救ひは自分で確保せねばならない。救はれるかどうかは金で判定される。救はれる程の人であれば、現世でも役に立つであらうから、金が稼げるはずであり、金を稼ぐことが天國に入れることの證明になる。
 男は金を稼いで證明できるが、女はどうなるのか。夫婦でも、神の前に立つときは個別であらう。或は、夫の金儲けの手助けをしたとして一緒に上げられるのかもしれぬ。しかし、夫が金を稼げなければ、共に地獄落ちになつてしまふ。

 加へて、最近は結婚しない人も増えてゐる。結婚しても離婚も多い。となれば、女も自分の救ひは自分で稼がねばならない。プロテスタントの多い北歐やピューリタンの傳統のある英米は特にさう考へるのではないか。
 さうなると、いやでも仕事をして金を稼がないといけない。決して好き好んで仕事をしてゐる譯ではないのであらうが。

 個人主義も同じで、それがいいと思つてゐる譯ではなく、自分しか頼れぬといふ状態に追ひ込まれてゐるだけである。つまり、自分の救ひを自分で確保しなければならぬ、さもないと地獄に落されるといふ恐怖に戰いてゐるのが、個人主義の實態である。

育兒休暇で何をする (H22.11.7)


 テレビでどこかの知事や市長が育兒休暇を取ると言つてゐることへの贊否を通行人に訊いてゐた。長が取れば部下が取りやすいなどといふ人もゐる樣であつた。
 しかし、そもそも、男が育兒休暇を取つて何をするのか。せいぜい、母親のお手傳ひをするくらゐではないのか。それなら、何も休暇を取るほどのことはあるまい。休日をきちんと取るとか殘業を減らすとかで十分ではないか。

 男も女も同じ人間だから同じことが出來ると勝手に思ひ込んでゐるのであらうが、男に育兒は出來ない。赤ん坊に乳を飮ませるのは、女にしか出來ない。こんな當り前のことがなぜ分らぬのか。

 男女同權はいいが、男と女は完全に同じではない。違ふところが少しあるから、別の名前がついてゐる。そして、いくら頑張つても同じことが出來るとは限らないのである。出來ないことでも一應努力しなければ女に對して申訳ないと、生眞面目に努めてみても、所詮無駄である。否、邪魔になるだけである。それよりも、出來るところで努めるべきである。