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目次

形勢判斷 (H18.11.5)


 碁の第三十一期名人戰挑戰手合の第六局が十一月三日に終り、高尾紳路本因坊が名人位を奪取した。敗れた張栩名人の感想は、「形勢判斷に甘いところがあつた」といふものであつた。普通、通り一遍のことをいふのみで、こんなに具體的にいふことは少いのではないか。

 それにしても、形勢判斷云々は少し奇異な印象を受けた。しかし、考へてみると、碁は、棋士といへども完全に讀みきることは出來ないので、常に形勢判斷しながら打つてゐる。形勢がいいと思へば自重するし、惡いと思へば多少無理でも頑張る。
 「貪り勝ちを得ず」といふ。ほんの少し勝てばいいので、大勝ちしようと貪ると、相手も必死になるし、なにより自分の石に隙を生じて危ふくなる。しかし、形勢が悪ければ、座して死を待つても仕方がないので、打つて出るしかない。


コミについての疑問-コミはなぜ増え続けるか (H19.7.1)


 今の碁は殆どコミ碁である。コミは最初の四目半から五目半を經て最近は六目半となつてゐる。しかしそれでもまだ先手が有利ではないかとの聲もあるやうである。なぜそんなにコミを大きくしないといけなくなつたのか。

 むかし、藤澤朋齋が白番でマネ碁を打つてゐたことがある。勝率は高いと聞いた。しかし、征(シチョウ)を利用したマネ碁破りが開發されてやめてしまつたらしい。
 朋齋が名人戰のリーグ戰でマネ碁を打つたのが新聞の圍碁欄に載つたとき、「コミ碁の批判」としてやつてゐると紹介されてゐたのを覺えてゐる。しかし、なぜマネ碁がコミ碁の批判になるのか分らなかつた。
 今考へると、「コミ碁の批判」ではなく、「コミの批判」だつたのではあるまいか。すなはち、コミが四目半も五目半もあるのなら、後手はマネ碁でも勝てますよ、といふ主張ではないのか。

 碁は先手が有利なのは間違ひないが、その原因は何か。地を囲ふといふ點では大したことはないのではないか。碁盤は對稱形なので大抵の箇所が「見合ひ」になつてゐる。隅は四箇所あり、邊の大場も四箇所ある。いずれも偶數なので、基本的には、先手も後手も同じ數だけ打てる理窟である。偶數個ないのは天元だけである。従つて、地を囲ふといふ點では先手の有利さは大した大きさではないのではないか。
 先手の有利さの原因としてもうひとつ考へられるのは、先に打つてゐること自體にある。つまり、石の數がひとつ多いといふことから、相手を威壓して戰ひを有利に進めることが出來る。

 マネ碁といふのは、相手と對稱形に打つだけで全く藝はいらない。しかし、後手の序盤作戰としては、理に適つてゐるのではないか。後手は先手より石の數がひとつ少い状態で着手しなければならない。特に序盤はその影響が大きい。したがつて、序盤は相手の石に近寄らず、碁を「広く」することに心掛けるのがよいとされてきた。マネ語は広い碁にする手段になってゐるのではないかと思ふ。

 広い碁にすることで、戰ひの面での先手の有利さを極力小さく出來れば、あとは地を囲ふ面での有利さだけとなる。さうなると、コミは四目半も五目半もいらないのではないか。これが藤澤朋齋の主張だつたのではないか。
 そもそも、マネ碁がコミ碁そのものの批判になるといふ理由があるだらうか。ただ、拗ねてまともに碁を打つてないといふくらゐしか思ひつかぬ。プロの碁打ちがそんなことをしたとは到底思へない。

 しかし、現實に五目半のコミでは先手の方が勝率が高いといふ。なぜか。今の碁を見てゐると、序盤から激しく切り結んでゐることが多い。碁を広くするなどといふ言葉はついぞ聞いたことがない。これでは先手が有利になつてもしかたがない。
 定石を打つてゐるのだから互角だ、といふかもしれない。しかし、定石といふのは、大抵、一方が先に打つてゐた所だからそれを考慮すれば互角などといふ場合が大部分である。「本當に互角」なのではなく、地が多い、或は勢力が強いといふことで本當は一方が有利なのであるが、先手だつた方が多少有利になつて當然といふことから、その有利さがまずまずかといふ意味で「互角」といつてゐる。
 定石を打つてゐるから、序盤から激しく戰つてゐても互角だと思つてゐるが、本當は先手が有利になってゐる。だから、コミが六目半になつてもまだ足りないとなるのではないか。

 どなたかこの疑問に答へて下さる方はゐませんか。

坂田榮男メモ (H20.1.18)


 日本棋院退役棋士坂田榮男は大正9年2月15日生れで、昭和10年入段、平成12年2月に引退してゐる。

 十五歳で入段は特別早くはない。先輩に意地惡されて遲れたといふ話を聞いたことがある。なんでも、やたらと長考してしびれを切らせられとのことである。
 終戰のときに二十五歳であり、伸び盛りの二十代を戰中、戰後のどさくさに過し、損をした世代かもしれない。

 昭和二十六年、第一期最高段者トーナメントに優勝してゐる。これが初のタイトルである。
 昭和二十六年には、本因坊戰の挑戰者にもなつた。三十一歳、七段であつた。時の本因坊は日本棋院から飛出して關西棋院を立ち上げた橋本宇太郎で、日本棋院の本因坊奪囘の期待を背負つての挑戰であつた。坂田ならやれるのではないかと皆が思ひ、實際、三勝一敗と橋本を角番に追ひ込んだ。しかし、その後三連敗して負けてしまふ。
 翌年は高川格が挑戰者になつた。「非力の高川」ではどうかなとあまり期待されなかつた樣であるが、あつさり勝つてしまふ。その後高川は本因坊九連覇を達成する。その間、坂田は挑戰者にもなつてゐない。

 昭和三十六年、高川の十連覇を阻んだのが坂田であつた。この時、坂田はもう四十一歳であつた。その前は、昭和三十年に第二期日本棋院選手権を取つてゐる。このタイトルは七連覇してゐる。また、昭和三十四年には日本最強決定戦に優勝してゐる。よく知らぬが、昭和三十年代になつて、つまり坂田三十五歳すぎから勝ちだしたのではないかと思はれる。
 昭和三十九年には、七タイトルを制覇してゐる。名人、本因坊、日本棋院選手権、プロ十傑、王座、日本棋院第一位、NHK杯である。この年には二十九連勝も記録してゐる。この記録は未だに破られてゐない樣である。連勝といへば、本因坊戰挑戰手合で十七連勝の記録がある(昭和三十八年の十八期第五局から二十二期第三局まで)。

 全盛期の坂田は、序盤少し惡くても、そのうち逆轉するだらうと皆が思つた樣である。その勝負強さは、「泣きが入つてゐる」と言はれた。これは「燒きを入れる」をもぢつた言葉である。逆に言へば、それ以前は結構逆轉されて泣いたのかもしれない。それで「泣きが入つた」結果、無類の勝負強さを發揮する樣になつたのであらう。
 勝負強いといつても、坂田の場合、相手が轉ぶのを待つとか、或は轉びやすい樣にし向けるとかいふのではなく、自分から積極的に勝ちに行く。中盤や終盤で鋭い手を放つて一目ニ目をかすめ取り、勝勢を確實にする。或は逆轉する。大逆轉を狙ふのではなく、ちよつとしたところで稼ぐ。それも、プロ棋士でもなかなか氣づかない樣な鋭い手筋を放つて。「鬼手」とよく言はれた。この藝風から「カミソリ坂田」と呼ばれた。

 ところが、昭和四十年に第四期名人戰で弱冠二十三歳の林海峯挑戰者に二勝四敗で敗れるといふことがあつた。坂田は林を少し見縊つてゐたのかもしれない。激戰の挑戰者決定リーグを勝つて出て來たのであるから、それ相應の力はあると見るべきであらう。ただ、當時の坂田なら勝てないことはなかつたのではないかと思はれる。はつきり覺えてゐないが、ニ局目だつたか、序盤で坂田が早々とポイントを舉げ、勝つた樣な氣分になつたのだが、林に持前の「二枚腰」で粘られ、いらいらした坂田に疑問手が出て逆轉負けしたと聞いた。それから坂田はをかしくなつて、林に名を成さしめた。
 その後、翌昭和四十一年、さらに四十二年と連續して挑戰者になつてゐるが、ともに一勝しか出來ずに林海峯に敗けている。
 本因坊戰は七連覇するが、昭和四十三年に林海峯に八連覇を阻まれ、以降は、昭和四十四年、四十六年と挑戰者にはなつてゐるものの、林海峯に敗けている。名人、本因坊とことごとく林に負けてゐる。
 その後、昭和五十年には石田本因坊に、昭和五十四年には大竹名人に挑戰してゐるが敗けてゐる。つまり、名人と本因坊は、林海峯に取られた後は、復位出來てゐない。他の棋戰では結構勝つてゐるのであるが。

 坂田と林の對局でこんなことがあつた。坂田が少し勝つてゐたのであるが、ダメ詰めの時に、坂田が林にそこは手入れぢやないかと言つたら、林が「いらないと思ひます」と言つたので、「ぢやあ行きますよ」と林の地の中に打つていつたら手になつて、坂田は中押し勝ちだと言つたといふ。手になつたのはともかく、中押しだとまで普通言ふだらうか。林に負けたのが相當頭にきていたのだと感じた。坂田にとつてはとにかく林が鬼門であつた。
 「泣きが入つた」と言はれた坂田であるが、林に當つてからは、「メツキが剥げた」のか。本當に泣きが入つたのではなく、ただカミソリの切れ味がさらに増した、或は集中力が増したといふ樣なことであつたのかもしれない。

 その後、昭和五十年には石田本因坊に、昭和五十四年には大竹名人に挑戰してゐるが敗けてゐる。つまり、名人と本因坊は、林海峯に取られた後は、復位出來てゐない。

 とはいへ、その後も結構タイトルは取つてゐる。
 昭和五十八年に六十三歳で第ニ期NECカップに優勝し、通算タイトル獲得数を六十四にのばした。この記録は、趙治勲に抜かれたが、今のところ歴代二位である。昔はタイトルが少なかつたことを考へれば未だに二位といふのは凄いと思ふ。
 二日制の棋戰は體力の問題で難しいが、早碁は大丈夫なのか。石田芳夫は、早碁に勝つ奴が一番強いと、自分が早碁に勝つた時に、半分冗談だらうが、言つたさうであるが、少くとも早碁だからといつて價値が低いことはない。賞金は安いが。

 さういへば、坂田の連覇を阻んだ林海峯は、今通算千三百勝を越え棋界最高であるが、タイトル數は三十五と思つた程には多くない。同年の好敵手大竹英雄の方が四十八と多いので、大竹には失禮ながら、驚いた。早碁の神樣と呼ばれた位であるから早碁のタイトルが多いのかもしれない。

 少し前、テレビで、藤澤朋斎と呉清源の十番碁の話が出てきて、藤澤が敗れたことについて坂田のインタビューがあつたが、「熱くなつちや碁はいけないと思ふんですよ」と言つてゐた。これを聞いたとき、藤澤のことを言つてゐるのだが、自分のことも思ひ出してゐるのではないかと思つたものである。

 あまりに勝ちたい勝ちたいと勝つことにこだはり過ぎては、却つて勝てないとしたものなのかもしれない。いい碁を打つことだけに集中し、結果として勝ちもついて來るのが理想である。NHK杯で解説をしてゐた武宮正樹が、小林光一が相手の利かしに對して辛抱してゐるのを見て、そんなに勝ちたいのかな、とつい漏したことがあつた。彼らしい發言であるが、小林が、勝ちたいから辛抱したのか、棋風の違ひで單にそれが最善と判斷してのことなのかは分らぬとも感じた。
 勝ちたいと思ふのは當り前であり、勝ちたい氣持がなければ碁の手段を工夫することもなからう。上手くなる原動力は、負けて悔しい、次は勝ちたいといふ氣持である。しかし、打つときにはさういふ氣持に煩はされず、目の前の碁盤に集中することが肝要なのであらう。これは何の勝負でも同じである。

趙の壁攻めと依田の碁 (H20.2.25)


 昨日、碁のNHK杯をテレビで見た。見ると長いのであまり見ないのだが、趙治勲と依田紀基に、解説は林海峯といふ豪華な顏觸れに引かれて見てしまつた。
 例によつて趙は地を取り、相手の模樣に毆り込んで行く。白番の依田は、林の解説によると、意外に、取りかけにいく樣な手を打つ。簡單に活かしてはいけないので一應目を取つただけとも見えたが。堪らず、かどうか知らぬが、趙は右邊の白との振替りに出る。振替りの直後、依田は右邊の取られた所に一手利かさうとするが、趙は聞かず、中央の荒しに出る。依田聞かない譯にはいかず、先手で稼がれ、右邊も打たれる。中央上部で取つた筈の黑のうち何目かを先手で助けられ、その上、それが利いて、後で中央下部の數目も助け出される。大損害である。コミを引いても十目以上の大差かと思つたが、下邊の収束で鋭い手筋を放つて稼いだこともあり、終つてみたら黑ニ目半勝ちであつた。とすると、あの失着が無ければ勝負は分らなかつたのかもしれぬ。

 趙はヘボだと思つてゐたが、藤澤秀行もさう言つたとインターネツトの記事で見た。であるのになぜ錚々たる棋士が負けるのか。

 依田は平成十一年に第二十五期名人戰の挑戰者となり、趙名人に勝つて名人になつた。この時の依田の戰ひ方はあまり襃められない。何戰目であつたか、局後に振返つて、中盤で自分の方がいいとは思はなかつたが、「趙先生も打ちやすいとは思つてゐなかつたのではないか」と言つたと新聞の觀戰記にあつた。
 この時、依田は趙のお株を奪ふ打ち方をした。すなはち、無理やり地を取り、趙に仕方無く模樣を張らせ、そこに無茶苦茶に打込んで行つた。趙は凌ぎには強いが、攻めに廻ると自力が十分出せないことを知つての作戰である。これが美事功を奏してストレートで趙を下した。

 續く第二十六期は林海峯を四對ニで退け、第二十七期にまた趙と對戰する。この時の依田は素晴らしかつたと思ふ。趙にやりたい樣にやらせて四對一で勝つた。趙が依田の模樣に打込んできても、慌てず騷がず、壁の補強をして澄ましてゐた。根こそぎ荒さうと壁に近づいてくれればそれだけで得なので、何もすることはない。ただ、壁を攻められない樣に補強すればいい。壁が強ければ何もしなくても多少の地はつく。壁に弱點があるとそこにつけ込まれて簡單に生きられる。弱點を無くしておけば、相手は生きるのに苦勞することになる。相手が藻掻いてくれれば、勞せずして相手の地を侵略できるし、放つておいてもこぼれ地がつく。焦つて攻めようとすると、趙の「壁攻め」を食らふことになる。

 何と言はれやうが、自分なりの信念を持つて戰ふのはいいことである。とにかく勝つた方が強いとしか言ひやうがない。私としては趙を軽くいなして勝つ樣な碁打ちが輩出して欲しいと思つてゐるが。

名人に香車を引いた男 (H20.5.11)


 「名人に香車を引いた男」とは、升田幸三自傳の題名である。自傳といつても、本人は喋つただけで、文章にしたのは田村龍騎兵とある。龍騎兵は慥か碁の觀戰記者だつたが、將棋も擔當してゐたのか。圍碁欄しか見ないので知らぬが。あるいは隣の業界だからつき合ひがあつたのか。

 升田は、引退したとき、記者に「長い棋士生活の中で、なにが一番思ひ出に残るか」と聞かれたとき、「名人に香車を引いて勝つたこと。少年時代の夢を実現させたんですから」と即座に答へたといふ。そしてそれを自傳の題名にも使つてゐる。

 をかしな話で、江戸時代ならともかく、今は實力名人制であり、名人を取ればいいのである。なぜ「名人に香車を引く」などと囘りくどいことを言ふのか。それが不思議でこの本を讀んだ。
 結局、「少年時代の夢」と升田の辧にあるやうに、子供の頃に、在野の存在で名人になれなかつた天野宗歩の話を聞いたりしてさういふ風に思ひ込んだらしい。また、その頃はまだ關根永世名人がゐたのも事實ではある。といつても、そんな將棋界の仕組はとんと知らなかつた樣であるが。

 それにしても、升田が大山の樣に名人を何囘も取つてゐたら、このことを看板にはしなかつたかも知れない。升田は、結局、名人は連續二期しか務めてゐない。その前は不運もあつて取れず、その後は體調不振で活躍出來てゐない。挑戰者にはなつてゐるが。取つた時も十分な健康状態ではなかつた。
 それでも二期は取つたのであるし、その時は初の三冠にもなつたのであるから、それを自慢してもいいのである。短いとはいへ、絶頂期には凄かつたと。

 それを言はずに、「名人に香車を引いて勝つた」と言ふのは、負惜しみに聞える。それで不思議に思つたのである。讀んでみると、やはり負惜しみだとは思ふが、嫌みはない。二期とはいへ、名人も取つてゐるからでもあらうか。單純に、俺は大名人などよりも格段に強かつたんだよと法螺を吹いてゐるだけである。

【勝負に勝つには借金が一番】
 絶頂の時に升田は名人は取れなかつた。挑戰者になつた時にもう名人を取つた樣な氣になつてゐたと、心のおごりを升田は反省してゐる。
 それが、病氣で一年間休場したお陰で心境が變化したといふ。體調は相變はらず萬全ではないので、勝たう勝たうと思はず、無心になつたといふ。せめて慘敗だけはすまいなどと思つたりしたといふ。

 それとともに、「一番大きな變化は、忍耐するすべを知つたこと、そして勝負にがめつくなつたこと」であると言つてゐる。休場あけの時、對局の度に病身をおして上京するのは大變だからと、借金をして東京に家を買つた。その金を返す爲には是が非でも勝たねばならぬ。それまでは、「新手一生」を旗印に勝つことよりも新しい將棋の創造に意欲を燃やしてゐたのが、それからは勝負を大切にする樣になつたといふ。
 具體的には、直觀で指し手がひらめいても、その手のすばらしさに溺れず、確實な讀みの裏付けを求める樣にした。それでポカが減つたといふ。

 この話を聞いて思ひ出すのは、碁の藤澤秀行である。この人は、博奕で借金をつくつてから、歳にもめげず、タイトルを取つた樣な氣がする。若い頃は、碁は強いがポカが多かつたのであるが。

【讀みと記憶】
 升田の若い頃の想ひ出で、碁の話がある。碁を覺えた頃、先輩達と公開早碁を見に行き、歸つてから竝べようとしたら、自分よりずつと碁の強い先輩達が三十手邊りでもう迷つてゐる。弱い自分の方が終局までしつかり頭に入つてゐたといふ。

 入門したもののなかなか入段出來なかつたが、ある時、お使ひに行つて豆腐を落してしまつて奧さんに叱られて、「何をするにも集中心を持て」と覺つたといふ。
 それで、掃除や洗濯にも集中した結果、仕事が早く終り、時間の余裕が出來た。それどころか、心を集中する習慣がつくと、いつぺんに二つの仕事ができる樣になつた。例へば、洗濯をちやんとやりながら、將棋も考へてゐるとか。その結果、入段を果すことが出來、勝ちまくつたといふ。

 早碁を記憶してゐたのも、精神を集中する習慣が身に付いてゐたせゐだと書いてゐる。確かにさうなのであるが、それだけきちんと記憶できるといふのが、ひとつの才能なのではなからうか。

 碁の石田芳夫九段が「一目千手」と豪語してゐた。專門家はある局面を見た瞬間にいろんな展開が頭に浮ぶが、その手數をもし數へれば輕く千手は超すといふ意味である。
 その後の展開が頭に浮ぶのは、要するに、いろいろな形が頭に入つてゐて、それが出てくるのである。必ずしも記憶がそのままではなく、多少組合はされたりもするかも知れぬが。

 すなはち、手は考へるものではなく、讀むものである。讀むとは、頭に浮んだ像を確認する作業のことを言つてゐる。

 碁が強くなるためには、多分、將棋も同じであらうが、いろんな形を記憶してゐて即座にそれが出てくる樣にならないといけない。早い話が、全く形が分らなければ碁は打てない。打てるといふことは、最低限の形が頭にあるから打てるのであり、もし何も記憶してゐなければ、初手からどこに打つたらいいか分らない。

 獨創的といはれる樣な手も、結局は、記憶してゐる形の組合せから出てくるのではなからうか。

河口俊彦著「大山康晴の晩節」 (H20.5.18)


 河口俊彦著「大山康晴の晩節」(新潮文庫、平成18年、初版平成15年)を讀んだ。通讀した譯ではなく、あつちを讀んだりこつちを讀んだりしたのであるが、不思議な感じがしてゐる。
 「私はこれから、大山將棋がいかに強かつたか、を書いて行かうと思つてゐる」(17頁)とあり、「そして話は、大山の晩節から始めよう。偉大さは、全盛時より、棋力、體力の落ちた晩年の頑張りにあらはれてゐると思ふからである。」(22頁)と序章を締め括つてゐる樣に、大山の「偉大さ」を書かうとしてゐる。

 ところが、のつけから次の樣な記述がでてくる。「餘談になるが、この年私も大山名人と對戰する幸運に惠まれた。(中略)何が何だか夢見心地のうちに負かされてしまつた。(中略)緊張してアガつてゐたといふことはなく、序盤はかねて考へてゐた理想形が實現し、うまく行つた、と思つたとたん、手が見えなくなつた。(中略)そして我に返つたのはとどめの一手を指されたときで、ひどい寄せを食らつた、とあきれたのを憶えてゐる。」「森雞ニはよく『大山名人は催眠術を使つて勝つてゐる』と言つた。彼はさう確信してゐて、大山と對戰して、中終盤の勝負所にさしかかると、一手指して大山の前から離れ、控室のモニターテレビを見つめて、大山の指すのを待つてゐた。私も森ほどではないが、半分は催眠術みたいなものを使つてゐたと思つてゐる。」(11頁)
 何といふことか。大山は棋士ではなく催眠術士だとでもいふのか。

 その後、「人間的な威壓感」と銘打つた節があつて(17頁)、「升田だけでなく、二上達也、加藤(一)その他、二番手に付けた者を徹底的に叩いた。盤上で勝つだけでなく、盤外でも屈服させた。日常のありとあらゆるきつかけを、コンプレツクスを植ゑつけるために利用した。大山に、盤上、盤外で苦しめられ馬鹿にされて口惜し涙にくれた棋士がどれほどゐたことか。」となる(21頁)。

 このすぐ後に、先の「偉大さ」を書くといふ、序章の締め括りになるのである。
 著者は、將棋といふものを、さういふことも含めた全人的な鬪ひであると感じてゐるのであらうか。はつきり主張してはゐないが。威壓感の節はさういふ背景がなければ出て來やうがないと思はれる。催眠術の「餘談」も、けなしてゐるのではなく、偉大さの一部として披露してゐるのであらうか。

 しかし、「できることなら、將棋を知らない方を考へて、指し手拔きで語りたかつた。しかし、なにより大山は將棋の天才であり、指し手が人間をあらはしてゐる。だから、省くことはでなかつた」(350頁)とあとがきにあるやうに、大山の將棋を認めてゐるのが基本にある。

【ボカを誘發】
 大山は「ポカを誘發する樣な手を使つてゐた」といふ。例へば、山田道美との王座戰決勝第二局で、劣勢になり、金を打つて守りを固めて勝負を長引かせる位しか手がないと考へられたとき、わざと相手の金を取つたといふ。さう指すと、持駒が増えて相手玉の詰みの可能性が少し上るので脅しになる。しかし、實は、さう指すと自玉に詰みがあつた。しかも初級者でも分る易しい詰みだといふ。ところが山田はそれに氣がつかず、詰まし損なひ、結局負けてしまつた。

 この話で思ひ出したのは、碁の「投げ場を求める」打ち方である。碁では、形勢不利と見たとき、小差なら、じつと我慢するとか一杯に頑張るとかして粘るが、大差の場合や小差でもどう打つても勝てないと観念したら、專門棋士は投げ場を作ることがよくある。死にが殘つてゐるのに手を入れずに頑張るとか、正確に対応されれば打つた石が全部死ぬ樣な亂暴をやつたりして、駄目とはつきりしたところで潔く投了する。
 大山の指し方はこれに似てゐる。相手が的確に対応すれば、大山の玉は詰むので、投了するしかなくなる。大山はそれを覺悟した上で指したのか。
 投げるつもりでも、勿論、相手が間違へて勝つてしまふこともたまにある。碁の名人戰リーグ戰で、依田が投げ場をつくらうとしたら、相手の山下が間違へて勝つたしまったことがある。大山もこんな感じで勝ちを拾ったのか。

 河口は、「自玉に詰みがあるのを知つてゐながら、平然とその局面に進めたとは……。そこで詰みを逃すかも知れない、と考へたとすれば、恐ろしいほどの蔑視ではないか。それがあらはになつてゐるといふ意味で、これは大山の知られざる名局である。」と書いてゐる(163頁)。つまり、大山は、投げようとしたのではなく、あくまで、勝たうとしてそんな手を指したと、著者は確信してゐる。
 將棋では、もしかしたら、投げ場を求める樣な風習がないのであらうかと思つたりしたが、ある觀戰記に、投げ場を求めた、といふ表現が見つかつたので、決してそんなことはない樣である。
 また、投げ場を求めたのであれば、感想戰などでそんな風なことを言つたりもしよう。河口がかう斷言してゐるといふことは、そんな情報はなかつたのであらう。

 似た樣な話がまだある。同じく山田が大山王將に挑戰した七番勝負の最終局でのことある。「大山は、先手三四歩と打たれる順があるのを知つてゐながら、あへてその局面に誘導した。(中略)つまり、山田は定跡を知つてゐない、萬一知つてゐても、先手三四歩から先手三三角なんていふ順は指しつこない、と見切つたのだ。正しく指されたらわるくなる、と知りつつ指せるのは大山以外にゐない。まして負ければお終ひの勝負將棋でやつたのだ。恐ろしいくらゐ人がわるい。」(204頁)
 山田は、やはり、三四歩に氣がつかず、二三角と打つたのだが、それについて、山田の感想が引用されてゐる。「私は二三角とした。そのあと、大山王將は三五歩と飛車の頭に歩を打つてきたのだが、そのとき、大山さんの手がブルブル震へて、ピシツと駒がきまらなかつた。こんなことは初めて見ることである。」(204頁)その後、別のエピソードも紹介して、これらから次のように河口は結論してゐる。「竝みの棋士は、大きな賭に出る前に恐がる。大山は、賭けに出て勝つた後にふるへるのである。」
 賭けに出る前に震へてゐては覺られる。成功するまではじつと我慢する。しかし、成功してしまふと、氣が緩んでつい震へが出てしまつた、といふことなのか

 大山のやり方は、言ひ方を變へれば、「填め手(はめて)」ではないか。填め手といふのは、正しく對應されれば自分に不利になることが分つてゐるのに、相手が間違へるだらうと高を括つて繰出す手段のことである。この定義が正しければ、大山のやり方は明らかに填め手である。
 專門棋士は填め手は打たないとされてゐる。おつとこれは碁の言ひ方で、將棋では、指さない。しかし、將棋では填め手が罷り通つてゐたとは。全く信じられない。

 「升田もこんな風に負かされたことがが何度もあつた。棋士やファンはそれを見て、升田のポカと言つた。(中略)當時の人々は、大山が、そのポカを誘發する樣な手を使つてゐた、とは氣がつかなかったのである。」(163頁)
 かう書いた後、河口はまた催眠術の話を持出す。森雞ニの他に、田中寅彦の名前も出す。そして、その魔力で山田が「魅せられた樣に、いや、あやつられた樣に」詰みを逃した姿が目に浮ぶといふ(164頁)。

 さう言へば、「信用」の話もある。「ここでの信用とは強いと思はれること。これについては大山の名言がある。『勝負は周圍を信用させることが第一だ。信用されなくなつたら勝てない。あの人は強い、とか、指し手の中に間違ひがない、あるいは、あの人が優勢になつたら頑張つても、もう勝てない、と思はれるのが信用で、いろんな信用をつくると、相手の戰ふ意慾が半減し、こちらの勝ちにつながる。』」(28頁)ある意味當り前のことを述べてゐるとも言へるのであるが、この中で、「指し手の中に間違ひがない」といふのは、つい漏したのかも知れぬが、意味深長である。填め手を通すためにはこれが大事といふ風にも取れるからである。

 少し前、新聞の將棋欄で似たやうな話を讀んだことがある。A級順位戰で、一方が間違へて、詰みがあつたのであるが、相手が氣がつかず、結局、間違へた方が勝つた。氣がつかなかったのは佐藤康光二冠であつたかもしれない。この場合、間違へたといはれてゐた。しかし、惡く取れば、填めようとしたと言へぬこともない。

 碁ではかういふ話は聞かない。しかし、先日こんなことがあつた。終盤になつて、盤端で一目當てたら劫に彈いて來たが、自分の方が劫材が多いと思つて劫を取つた。ところが仕掛けた方にいい劫材があつて、劫に負けてしまひ、碁にも負けてしまつた。負けた方は感想戰もやらずに歸つたといふ。觀戰記によると、仕掛けられた方は劫を爭はずにだまつてついでも半目勝ちと分つてゐたとのことであるが、仕掛けた方がそれが分つてゐたのかどうかは書いてなかつた。分つてゐて仕掛けたのなら、填め手みたいなものではないか。それくらゐ碁の世界も嚴しくなつて來たのか。

【將棋と碁の違ひ】
 碁は石の效率の勝負であると思ふ。序盤で効率のいい手を打つて優勢になれば、その後惡手を打たない限り、それは續く。優勢とは、具體的には、地が多いとか、厚みが優つてゐるとかである。例へば、厚みの活用を誤つて逆轉されることもあるが、正しく打てばその優位は最後は地に轉化され、勝ちに繋がつて行く。
 そして、打つ範囲は次第に狭くなつて行く。すなはち、ほぼ打ち終つた部分が次第に増えていき、終盤に至る。つまり、碁では、終盤は、基本的には、間違へなければいいので、大事なのは序盤、中盤である。また、終盤になれば、考へるべき範圍が狹くなつていき、間違へる可能性も減つて來る。

 將棋は、序盤は、勿論大事ではあるが、あくまで勝ち易い状況をつくるだけである。いかに優勢であつても、それを現實に相手玉の詰みに繋げていかなければ勝ちにはならない。従つて、中盤、終盤が重要である。また、終盤になつても、常に盤全體を考へないといけないので、時間がなくてもいいといふ譯にはいかない。持時間のある近代將棋では終盤は難しい。時間を餘してゐても、相手に粘られて手數が増えると、時間はどんどん減つて行く。
 従つて、將棋では、專門棋士でも、勝ち將棋を勝ち切るのがなかなか難しい。といふことは、逆に、負け將棋でも粘つてゐれば勝ちが轉がり込む可能性が結構ある。
 その邊りが、大山の樣な指し方が出て來るゆゑんなのであらうか。

將棋の強さ (H20.5.11)


 河口俊彦著「大山康晴の晩節」に山田道美九段の「將棋精華」といふ本からの引用がある。曰く、「ボクが痛切に感じたのは、大山名人の腰の重さ、勝負のかけひきのうまさである。中終盤の力の強さは、ボクなどはるかに及ばないと思ふ。大山、升田といふ強豪の強さは、すべてこの中終盤の強さによるものだと知つた。大山名人が身上とする、あの超人的な『ねばり』も、升田九段のすぐれた『序盤感覺』も、すべてこの中終盤の力が基底となつてゐるのである」(河口俊彦著「大山康晴の晩節」206頁、新潮文庫、平成18年、初版平成15年)
 しかし、河口氏によると、實際の對戰を見ると、山田九段が大山名人に對して序盤で優位になつた例は意外に少く、中終盤で盛り返したり、逆轉したりする例の方が多く、山田が思つてゐたほど中終盤の力に差はなかつたとのことである(前掲書、207頁)。

 河口氏は、將棋は、序盤においては知識が物もの言ひ、中終盤は才能がそのままあらはれるといふ。そして實戰經驗は知識を得るのに役立つといふ。
 ここで、知識とは、いはゆる定跡などを指してゐるのかと思つた。序盤は過去の定跡をある程度知らないと、思はぬ失敗をするとか、餘計な時間を消費したりとかすることになる。しかし、山田九段について、グループを作つたりはしたが、棋譜を調べたり、定跡を調べたりとかで、練習將棋を指したりはしなかつたとある。つまり、「知識」とは、單に定跡を研究してゐるとか云ふことではなく、實戰經驗そのものを言つてゐる樣である。確かに、いくら定跡を勉強しても畳の上の水練でしかなく、經驗なしに實戰は指せない。或は、特定の定跡を研究するといふことでなく、廣く色々な指方を知つてゐるといふ意味かも知れぬが。

 これに對して中終盤の力とは、序盤で築いた優勢を、現實の「詰み」に繋げていく力であり、直觀と構想力が要求される。中盤以降は、當然、一番一番異なつたものであり、知識は役に立たない。才能のみである。

 升田幸三自傳を讀むと、子供の頃、詰將棋をよく解いてゐた樣である。これにより、直觀力や讀みの力が養はれたのであらうか。升田は、若い頃から定跡に従はず自分なりに戰法を工夫して鬪つたといふが、それで勝てたのも、ひとつには中盤以降の強さがもともとあつたからなので、それがなければ、いかに優勢になつても勝ちは得られない。

 中終盤は才能と言つてしまへばそれまでであるが、その才能とは何か。少くとも、天賦の才能が有つても、磨かなければ伸びないので、どうやれば磨かれるのかといふことはある筈である。
 それは、ひとつは、詰將棋を懸命に解くことではなからうか。碁で云へば、詰碁である。詰將棋や詰碁により、いはゆる手筋を覺えることが出來る。しかし、詰將棋の場合は、將棋の最後の段階を煎じ詰めた形で體驗させるので、單に手筋を勉強するといふだけでなく、將棋の勝ち方を覺えることにもなるのではないか。さういふ意味では、碁における詰碁よりも、重く位置づけられるのかも知れない。

將棋の攻めと受け (H20.5.18)


 升田は、後年には攻めの將棋といはれてゐるが、若い頃は受けの將棋であつたといふ。それが、「五段に昇つたころから、將棋は攻めて勝つものだ、と考へるやうにになつた」といふ。「ただし危險を承知で、最短距離の直線的な勝ちをめざすやうになつたのは、病氣をした戰後からのことでしてね。たらたら持久戰をやつとつたんでは體がもたんから、やむを得ずさうしたんで、當時(昭和十年代、引用者注)はごく普通の攻め將棋だつた」(升田幸三、名人に香車を引いた男 升田幸三自傳、162頁、中公文庫、平成15年、初版昭和55年)。
 若い頃は、序盤の工夫がまだ足りなかつたので、なかなか優位に立てず、まずは受けに囘るしかなかつたといふことなのかもしれない。序盤で優位に立てればこそ攻めも出來よう。將棋を知らないので、棋譜を調べもせずに、全くの憶測で言つてゐるのであるが。

 いずれにせよ、相手の玉を詰めなければ勝てないのであるから、最後は攻めなければいけない。攻めの將棋、受けの將棋と言つても、ただ攻めに廻る時期が多少早いか遅いかの違ひでしかない、とも言へるのではないか。

 升田は、自傳の中で、昭和三十三年の名人戰七番勝負第七局を生涯の最高傑作と言つてゐる。升田の四十六手目が「名手」で、この一手で相手からの攻め味は一切消え、手の打ちやうがなくなつてゐるといふ。そして、「將棋の最高の勝ち方は、相手がどう指しても不利になる、さういふ局面に導くことなんだ。將棋ではパスは禁じられとるから、自分の手番になればなにか一手指さにやならん。ところがどう指しても、形勢が不利になる。さういふ状態に相手を追ひ込むのが、勝ち方の理想とされる。」(前掲書346頁)
 さうなれば、攻めも受けもないのではないか。

瀬川さん快擧 (H21.5.16)


 昨日(平成21年5月15日)將棋の瀬川四段がフリークラスからC2級への昇級を決めたとのこと。棋聖戦一次予選で中座真七段に勝つて、直近35局で23勝12敗(勝率6割5分7厘)となり、「良い所取りで、30局以上の勝率が6割5分以上」といふ昇級規定を滿たしたといふ。

 平成20年1月23日の勝星からの通算の樣である。この日から同年3月12日にかけて八連勝したのが利いてゐる。この間、2月27日には、NHK杯豫選の一囘戰、二囘戰、決勝と一日に勝星を三つ稼いでゐる。もつとも、豫選では一日に何局か指すのは、他の棋戰でも普通のことの樣である。

 瀬川さんは平成十七年に編入試験で棋士となつたが、フリークラスといふことで、最初からの約束だつたのかもしれぬが、これでは本當に棋士にしてやつた譯ではないではないかと思つてゐた。
 フリークラスは何時ごろ出來たのか知らぬが、一旦ここに落ちてからC2級に上つた人は二人しかゐないと誰かが書いてゐた。昇級規定は、「年間成績で「参加棋戦数+8」勝以上の成績を挙げ、なおかつ勝率6割以上」、先の「良い所取りで、30局以上の勝率が6割5分以上」、「年間対局数が「(参加棋戦+1)×3」局以上」、「全棋士参加棋戦優勝またはタイトル戦挑戦」と四種類あるが、何れも相當嚴しい。しかも、十年以内にC2に昇級出來ないと、引退となる。すなはち、首である。瀬川さんも何とか棋士にはなつたものの、十年間の期間限定かと思つてゐたが、昇級を決めるとは思ひもよらぬ快擧である。

 いつだつたか、三段リーグからの昇段で次點が二囘續き、四段への昇段、すなはち棋士になる權利が得られたのに、辭退した人がゐた。それだと、棋士にはなつてもC2級に入れず、フリークラスだからである。つまり、フリークラスからC2級に昇級するのは、三段リーグで二位以内となつて普通に昇段してC2級に入るよりも確率が低いと判斷したのである。それ位、フリークラスからの昇級は至難の業なのである。