目次


科學は假説である


 次期經團連会長曰く、「……納得のいく科學的論據がなければならない。」
 科學的といふ言葉が呪文の樣に稱へられてゐるが、本來、科學は假説であり、信じるに足るものかどうかは保證されてないのである。ところが今日、科學は眞理と思はれてをり、「科學的眞理」などといふ言葉が平氣で使はれてゐる。
 信じるに足るものは、技術である。技術は經驗に基づいて確かな判斷をする。勿論、神ならぬ身、100%確かではないが。

 科學に對する盲目的信仰は日本だけの現象なのか。さうでもなささうである。程度の差はあれ、歐米でもその傾向はありさうに見える。

 原因のひとつとして、技術と科學の混同がある。技術が科學を應用して華々しい成果を上げてきたが、これが科學の直接の成果と勘違いされた。科學は自然の見方についてある假説を提供するだけであるが、技術はそれを特定の事物に適用して新しいものを造り出す。これを見て、人々は科學の勝利と思ふ。しかし、勝利したのは技術である。科學の提供した假説は、これによつて證明されたわけではない。この範圍においてはボロを出さなかつただけである。
 AならばBであるといふ假説を證明するには、AならばすべてBである事とともに、BになるのはAしかない事も證明しなければならない。技術の勝利は、この前段の證明にはなるかも知れぬが、後段については何も語らない。一般に、科學において、この兩方の證明がなされた例を知らない。つまり、科學は、いつも、證明拔きで突進んできた。
 數學において、古代の數學は嚴密な證明を好んだが、近代數學は直觀的な記述で進んできた。そして發展した後から嚴密な證明を考へ始めた。科學はまだその段階に至ってないのか、相變はらず、證明拔きで突つ走つてゐる。
 また、技術の勝利は、前段の證明になるかも知れぬと書いたが、あくまで現段階においてといふことであり、技術の進歩は、それが近似にすぎなかつたことを暴露することになるかも知れないのである。ニュートン力学が相對論により近似の地位を與へられた樣に。

 技術と科學は互いに刺戟し合ひながら發展したきた。しかし、あくまで別のものである。前者は人間の生活を改善しようといふものであり、後者は神の造つた自然を理解したいといふ慾望である。

H17.11.27

公正


 コンプライアンスなどといふ怪しげな言葉がはやつてゐる。飜譯家でも最初は何を意味してゐるのか分らなかつたりした樣だ。
 獨占禁止法などもより嚴しく改正されたりしてゐる樣で、講習會があつたりした。世の中競爭だが、公平な条件での競争でなければならぬといふ譯だ。

 すべてアメリカの影響である。金儲けで選ばれた人間かどうかが判定されるが、その競爭は、少くとも原理的には、公平な條件下で行はれねばならぬ。現實には不公正なことは日本より多いかも知れぬと思ふが、理念の上ではあくまで公正でなければならぬし、それを追求しようと思へば追求出来る體制でなければならぬ。これがアメリカの考へ方である。
 それで世の中がうまくまはるとかまはらないとか、そんなことはどうでもいい。金儲けのルールをきちんとしておかねばならぬといふだけである。それで地獄に落ちるかどうかが決るのだから。

 惡貨は良貨を驅逐するで、世界中で公正といふことが金科玉條になつてきてゐるが、それはけ落すかけ落されるかの競爭を公正にやらうといふだけのことなのである。
 不公正な世の中でも生活を味はつて暮した方がおもしろいと思ふが。

H17.11.16

牧野富太郎


 高知で時間があつたので、結構広いよと勸められた牧野植物園に行つた。広さはともかく、單なる植物園ではなく、牧野富太郎記念館といふ一風變つた建物があつた。牧野富太郎といふと、植物の分類なんてと輕く見てゐたのだが、記念館の寫眞の柔和な顔と蝶ネクタイに惹かれて、三時間見て廻つてゐた。そして分類學者なんかではない姿が分つてきた。

 牧野富太郎は、子供の頃から植物が好きで、ただただ日本の植物をすべて明らかにしたいと思つたのだ。その志を遂げるため、土佐を出て、仕事ができる環境の整つた東大に通つただけなのだ。元々は土佐の佐川といふ町の造酒屋の當主で、家業は番頭に任せて道樂に專念してゐたのだが、身の程を辧へぬ散財で破産してしまひ、東大に助手として奉職することになつてしまふ。しかし、沒落しても、年中採集旅行は續けるし、好きな本はいくらでも購入するしで、終には借金が當時の金で三萬圓にもなつてしまふ樣な滅茶苦茶な男なのだ。ちなみに、藏書は五万冊以上で、記念館の立派な圖書室に納められてゐる。

 東京に出て行つた時、東大に學生として入學することも恐らく出來たのであらうが、自分の仕事にはそんな必要はない、自分は既にその水準は超えてゐると思つたのだらう。金もあつたから、學歴を得て官吏になる必要もなかつた。

 東大では學歴がないため講師以上にはなれなかつたのだが、そのお陰で、教授たちのやうに定年がなかつたといふことで、七十八まで大學で仕事を続けられた。また、教授のやうに雜事に追はれることなく仕事に専念できたのではないか。

 そして長壽と健康も彼に味方した。「牧野日本植物図鑑」なんぞは七十近くなつてから編輯を始め、七十九歳で刊行に漕ぎつけてゐる。味方したといふより、執念といふべきか。

H17.4.29

「親類からセレブになつた皇室」


「サザエさんをさがして」親類からセレブになつた皇室
http://www.be.asahi.com/20050108/W24/0009.html

 横浜市立大学の古川隆久助教授(42)がいふには、「逆説的ですが、民間人出身の皇太子妃が誕生したことで、国民は皇室との距離を実感してしまったのではないか」
 記事に曰く、「民間人とはいえ、正田家は当時としてはかなり豊かだった。ミッチーブームの背景には、国民の豊かな生活へのあこがれがあったといわれる。いま風にいえば、「セレブ」にあこがれるようなものだ。それ以前はというと、皇室に敬意を払いながらも、親類の延長とみなすような身近な感覚があったという。」
 古川隆久助教授曰く「戦前でも、昭和天皇が皇太子だったころの記事は、仰々しさはなく、親類の子の成長を見守るような視点で書かれていました。皇室に関するニュースが興味本位の芸能ゴシップと並ぶ扱いになったのは、美智子妃にスポットライトが集中するようになってからです。」


 日本人が皇室に對して素朴な親近感を抱いてゐたといふのは分る樣な気がする。サザエさんの漫畫にもときどき取上げられてゐたが、昭和35年の漫畫に出た以降は磯野家で皇室が話題になることは少なくなつたといふ。例へば、マスオが皇太子の「結婚の相性」を占師に見て貰つたとかいふ漫畫があつたといふ。これなど確かにいかにも家族か親戚かといふ感じだ。

H17.1.9

碁における思考


 碁では上手な人は一目見ただけで次の進行が「見える」。次の進行を考へるのは、見えたイメージを確認する作業であるから、「手を讀む」と言つて、考へるとは言はない。「下手の考へ休むに似たり」といふが、實際、考へても手は見えては來ず、見える人には初めから見えてゐる。
 碁には同じ碁は二度とないが、どんな碁でも、部分部分は過去に研究されている形で、それらが組あはさつて複雜な形になつてゐる。上手な人は、頭の中に澤山のイメージが記憶されてゐて、それらが瞬時に繋ぎ合はされて、何手か進行した後の図が浮んでくるのだらう。勿論、一種類ではなく、何種類もである。
 かく言ふ私でも、瞬時にいくつかの手は見える。ただ、その數が少いのと、あまり先まで見えないだけである。あまり先まではといふより、一手だけの場合が多いが。大事なことは、だからと言つて、考へても全く效果がないといふことである。最初に見えた手以上の手を思ひつくことはまずない。
 詰碁などでごく狹い範圍であつても、考へて解けることはまれである。一生懸命考へて解けるのは、少くとも、最初に何個所かの急所は氣がついてゐた場合である。急所に氣がつかなければどうしようもない。また、急所に行つた後の變化を丹念に考へて分るとしても、かういふ形ならこんな手段があるのではないかと、豫め分つてゐないと、なかなか解けるものではない。
 要するに、形とその變化が頭の中にいかに記憶されてゐるかで碁の強さが決る。そして手は瞬時に見えるのだが、プロの碁打ちが長時間考へたりするのは、先の先まで讀むとか、またその結果いくつかの手のうちでどれがよいかと迷つたりとかしてゐるのであらう。時には、尋常な手では形勢が良くならないので何か起死囘生の妙手はないかと苦吟することもあらうが。
 「かたち」が頭の中にたたき込まれてゐて、そして状況に應じてそれらが自在に組みあはされて頭に浮んでこなければならない。さういふ囘路が腦に出來るためには、例へば五歳とかそんな頃から碁に親しんでゐる必要がある樣である。專門家になる人は、十歳の時にはもう相當の打ち手になってゐる、といふか、早い人は十歳過ぎで入段している(將棋にはなぜか十歳を過ぎてから覺えたといふ人がゐた樣な気がするが、勘違ひか)。

 人間が考えると言ふのはすべて碁の場合と同じではないか。生れて以來頭の中に蓄積されている記憶の中からその場その場にふさはしいことを思ひ出してきて繋ぎ合はしてゐるだけである。その聯想や組合せからこれまでにない樣なものが出てくることもあらうが、その元は記憶である。
 そして、その記憶を操つてゐるのは、無意識である。人間は意識的に考へようとするが、結局、意識に出來るのは、無意識が考へたことを整理することだけではないか。

H17.1.3


肩胛骨、それから胴體


 肩胛骨を骨折したといふ人がゐた。ひびがはいつただけだつたので、特にギブスで固めることもなかつたといふ話だ。しかし、手や足の骨なら、ひびでも固定すると思ふ。あまり動かないところだからいいのだらうか。

 ところで、なんであんなところにあんな大きな骨があるのか。動物にもあるやうだ。家の猫を觸つてみたら、やはり肩のあたりそれらしきものがある。しかし、胴體が丸つこく、肩も狹いので、肩胛骨は、どちらかといふと、背中ではなく體側にあつて、前足と胴体の接續部といふ感じだ。一應機能があるやうな氣がする。人間の場合、腕を動かすのにさほど重要でもなささうな氣がする。勿論、全く役に立つてないわけでもなからうが。

 體が丸いといへば、アフリカ系は胴體も脚も丸い。ヨーロッパ系は中間で、アジア系が一番平板である。アジア人は、脚も扁平で、前から見ると細いが、横から見ると太い。胴體は勿論扁平で、胸が薄い。
 四つ足動物から二足歩行の人間を造るとき、基本的に同じ構造で造つたものだから、いろいろ無理が生じてゐるやうな氣がする。それはともかく、動物の胴體は丸いが、人間の胴體も、やはりもともとはアフリカ系のやうに丸かつたのが、段々扁平になつたのだらうか。だとすると、アジア系が進化の末端といふことになるのか。

H18.7.29

猫の不妊手術 (H18.10.26)


 子猫を譲ってくれるサイトを探したら、「里親」という言葉を使つてゐるサイトがみつかつた。里親で検索すると、ぞろぞろ出てきた。里親といふ言葉がはやつてゐるのかと思つたが、この手のサイトは、不妊・去勢手術を施すことと、「完全室内飼ひ」をうたつてゐるものが多く、さういふ考へのところが「里親」といふ奇妙な言ひ方をしてゐる樣だ。
 「完全室内飼ひ」といふことで、家族の一員の樣になるので、「里親」などと言ひたくなるのだらうか。

 室内飼ひの原因は、ひとつには、アパート暮しの人が多いといふことがある。アパートでは外で飼ふことは難しいだらう。一階だつたらなんとか可能かもしれぬが。

 そして、完全室内飼ひのためには、さかりがつくと困るので、不妊・去勢が必須になるのだらう。さかりがつくと、鳴いたり、マーキングしたりと大變である。

 外で飼へば、子供を産んでも大したことはない。子供の一部は獨立して野良猫になつたりもする。しかし、室内飼ひだと、どんど増えたら困る。とは言へ、外に出さないのだつたら、不妊・去勢は必要ないはずなのだが、鳴き聲やマーキングで飼ひ主が困るといふ譯だ。

 犬猫がどんどん子供を産むので、日本で毎年數十万匹の犬猫が處分されてをり、それを防ぐために、不妊・去勢が必要だと書いてあるページが多い。しかし、それは大義名分にすぎず、本當の理由は「完全室内飼ひ」にあるのではないか。
 室内飼ひの理由として、外には危險が一杯と書いてある。危險といふのは、猫取りに取られる、エイズなどの病気に感染する、交通事故にあふ、迷子になる、などだらうか。確かに、外は猫にとつて危險が一杯だ。とはいへ、猫を全く外に出さないといふのはやり過ぎではないだらうか。

 室内飼ひでさかりがつくと困るから不妊、去勢が必要なのだが、かうして、人工的な、片端な生物と寄添つて暮すといふのは氣持悪くないだらうか。
 おまけに、野良猫にまで不妊・去勢手術を施したりする人も多い樣だ。いらぬお節介である。猫を減らして自分の猫を高く賣りつけようといふ魂膽でもあるまいに。

 室内飼ひで子猫は産ませず、死んだら野良猫の子供を取上げてまた飼ふ。或は、完全室内飼ひでない人の捨てた子猫かもしれぬ。或は業者やセミプロの「ブリーダー」の育てた「血統書」つきの猫を買ふ人もゐよう。しかし、大部分は野良猫や捨猫だらう。自分のところは室内飼ひで不妊・去勢手術をし、新しい命の供給は、外の猫に頼るといふ奇妙なことになつてゐる。

 好んでさうなつた譯ではなからう。一番の原因は、アパート暮しかとも思ふが、さうでない場合も、猫取りの恐怖がある。猫取りが横行するから、室内飼ひでない安心できない。なんとも困つたことである。

途上國援助 (H19.10.6)


 援助をやつてゐる日本のある NGO の代表がいふには、「我々の仕事は囘答を與へることではなく、それに導くこと」ださうである。そのため、住民の發言を促し話を整理する役ファシリテーター(facilitator)が重要になるとのこと(朝日新聞, H19.10.6)。
 押しつけではなく、援助される側が自ら欲するやうに仕向けるといふことの樣である。まさに、「仕向ける」といふ感じがする。つまりは、巧妙な押しつけなのではないか。

 「傳統的な漁法をしてゐる漁師を見ると、生産性が低い、遲れてゐるとすぐ考へてしまふ」が、それはよくないといふ。その通りである。放つておけばよいのである。
 「話を聞くことによつて、その人の喜びも悲しみも見えてきます。そこに寄添ふのが本當の支援なのではないでせうか。」そこでなぜ「支援」が出てくるのか。をこがましいとは思はないのか。

 傳統的な暮しをしてゐる人たちを、なぜ敢て近代的な生活に引き摺り込まないといけないのか。
 自分たちの市場にしようとしてゐるだけではないか、と言はれたらどう答へるのだらうか。

英國のジャンパー (H19.11.18)


 先日、知合ひがジャンパーを着てゐるのを見た時、咄嗟にイギリスのものではないかといふ考へが頭をよぎつた。臆せず聞いてみるとやはりさうであつた。
 そのジャンパーはベージュ色であつたが、デザインが地味で垢拔けのしないものであつたので、イギリスといふ名前が頭の中に浮んだ。そして、その人は少し前にイギリスに住んでゐたことを思ひ出したので、その考へは泡と消えずに確固たるものに成長したのであつた。

 イギリスは食事が不味いといふ。ビールもあまり冷して飲むといふことをしない。要するに、ピューリタンの傳統で、現世の快樂を貪る樣な人間は地獄に落ちると脅されてゐるのである。食事は命をつなぐために必要であるから、食べることは勿論許されるが、それを樂しむ樣ではいけないのである。
 こんな調子であるから、衣服も、當然、寒ささへしのげればよいといふことになる。

 それでは、英国紳士の高級背廣はどうなのかといふことになる。高級紳士服を着るのは上流階級であり、ごく一部の人たちである。彼らは英國國敎會に屬すであらうが、熱心なプロテスタントではない。熱心なプロテスタントは非國敎徒で、中流や下流に多い。この連中の篤い信仰は、結構最近まで續いてゐる。1885年生れのD. H. ロレンスでも、非國教派の支配のなかで育つてゐる。最近は宗敎の支配はどうなつてゐるのか知らぬが、少くともその影響は殘つてゐると思はれる。それが英國人の生活のつつましさの原因である。

「千」の風とは何か (H20.4.12)


 千の風とは何か。魂が風になるのはいいが、それなら一つの風であらう。なぜ複數の風になるのか。さつぱり分らぬ。

 元の英語はどうなつてゐるか。I am a thousand winds that blow とある。あるいは、I am in a thousand winds that blow ともある。a thousand winds の a は a thousand で一千の意味であり、winds に掛つてゐるのではないのだらう。つまり、風はあくまで複數なのだらう。

 日本人たる私は單數でも複數でも氣にしないのであるが、あへて「千の」と言はれると、引つ掛つてしまふ。ひとつの魂がどうやつていくつものものになるのか。想像できない。

人間と猫の生き方 (H20.4.26)


 人間は社會を作つて生きてゐる。神が人間を造つた時、社會的存在として造つた。従つて、純粹に個人としては生きていけない。それ以外にあり得ないと思つてゐた。
 しかし、猫は單獨で生きてゐる。猫だけでなく、狐や豹などもさうである。むしろその方が普通であり、群を作つて生活してゐる動物の方が少い。人間が單獨行動する樣に出來てゐたらどうなつたのだらう。

 人から見ると、猫は全く我儘で氣儘である。人が何か言つた叱つたりしても氣にする樣子はない。但し、人が自分の縄張の中にゐても、猫ではないから咎めはしない。人はただ餌をくれればいい。時々人に觸りに來たりするが、人から觸られるのは嫌ひである。
 ちやぶ台に上るなと叱つても、他人から指示されるといふことがまず理解できない。自分の行動は自分で決めるしかないと思つてゐる。人が自分の行動に註文をつけてゐるとは思はない。それに、そもそもなぜいけないのかが分らない。自分にとつては何の問題もない。人にとつては良くないのだが、それが分らない。人がどう考へるかなどに興味がないから分らない。
 元々群を作らないから、誰かに従ふといふことはない。犬は群を作るから家族の中で自分より上位の人の言ふことは聞く。單獨行動の猫は自分ですべて判斷する。

 群を作る人間は、自分で判斷してゐる積りでも、本當は他人の指示に動かされてゐることが多いのだらう。少くとも、他人の言ふことを參考にしてゐる。もし人間が猫の樣にすべて自分で判斷してゐたら、もつと完全な存在になり、神に近付けたかもしれぬ。

 確かに、釋迦のやうに俗塵を離れて修行三昧の生活を送れば、勿論、衣食住が保證されてゐての話であるが、悟りも開けよう。といふより、俗塵を離れればそれだけで煩惱はなくなる。生活が保證され、他人と接觸せずに暮せるのであれば、思ひ惱むことは何もない。

 しかし、さうはいかないのが人間である。人は獨りでは生きていけない。他人との關係がなくなれば自分といふものが無くなつてしまふ。自分といふものは永い間の他人との關はりの蓄積でしかない。
 キリスト敎は、神でさへ獨りではいけないと、三位一體などと譯の分らぬことを言つてゐる。單なる絶對神でなく、人間に自由意志を恩寵として與へる神は、人間味がなくてはならぬといふことなのか。

 猫の樣に孤獨に耐へて暮す力は人間にはない。といつても、猫も夜中に集會を開いてゐるといふ話もあり、どこまで孤獨を愛してゐるのかは分らぬが。それはともかく、釋迦にしても、修行は獨りで行なつたかも知れぬが、後には弟子を作り、教團を作つた。獨り悟つてゐるだけでは安心できなかつた。イエスにしても、神を獨り信じてゐるだけでは濟ませず、弟子を取り、人類を救はうとした。
 猫の樣に生きたらどうなつたかと、ふと思つたのであるが、そんなことは想像さへ出來ない樣である。

升田と大山 (H20.6.15)


 河口俊彦著「大山康晴の晩節」(新潮文庫、平成18年、初版平成15年飛鳥新社)は大山の葬儀のことで終つてゐる。その時、著者は升田夫人に五、六年振りに会ふ。未亡人は「もうかういふときにしかお會ひできなくなりましたね」と言つた。そして「人は升田が大山を呼んだのだと言つた」との文が續く。

 大山は平成四年七月二十六日に亡くなつてゐるが、升田が亡くなつたのは、調べてみると、平成三年四月五日で、その前年である。僅か一年違ひなのでさういふ言葉が出てきたのであらう。

 この言葉が引つ掛つてゐた。なぜか切ない樣な氣持になつた。葬儀に參列すると、死者もどこかで見守つてゐるといふ氣になる。それがかう云ふ言葉になつたのであらうが、それを讀んで心が動いたのはなぜか。
 死んだらお仕舞ひで何も殘らぬと思つてゐるが、ひよつとしたら死んでもまだどこかにゐるのではないかといふ氣がしたのか。

 小林秀雄が、國語の敎科書に載つてゐた文章の中に、「生きてゐる人間は何をするか分らぬが、死んだ人間は確かだ」と云ふ樣なことを書いてゐた(「無常といふこと」)。これは確かである。小林秀雄はいい加減な奴であるが。死んだ人は、既にゐないのであるから、もう何も出來ない。變なことを爲出來して驚かされる心配はない。だから安心なのである。それがまだどこかにゐるとなると、安心できなくなる。

 近くを徘徊してゐたら、お堂があり、墓地があつた。そこに石碑があり、讀んでみると、支那事變で動員され戰病死した人の碑で、その兄が建てたものであつた。水産學校を卒業して東京の會社で活躍し、傍ら夜間大學に通つて卒業したが、支那事變が起つた爲兵隊に取られ支那に渡るが、病を得て歸國し、療養するもむなしく三十數歳で他界したとある。淡々と事實を誌し餘計なことは何もない。全く知らぬ人であるが、なぜか懷かしい氣持がした。

職業と趣味 (H21.3.20、6.21)


 子供の頃、小説家は人生如何に生きるかを追求するのだと聞いて、矛盾を感じたものである。生き方の探求を仕事とする人の人生とは何なのか。どの樣に生きようかと考へながらその人は生きてゐる、その人生とは何なのか。ただ考へてゐるだけで、何もしてゐないに等しいのではないか。と言ひながら、考へることも一種の行動なのかもしれぬとも思ふ。さらに言へば、行動することが人間の目的なのか、行動しないからどうだといふのか、といふことにもなる。

 この疑問に答は出ないまま時間は過ぎた。時々思ひ出したりしてゐたが。

 二つ書くことがある。ひとつは簡單で、小説は人間の生き方を追求するものではないといふことである。小説は娯樂である。この言ひ方は氣に食はぬといふなら、趣味と言つてもいい。
 いづれにせよ、小説家は通常の職業の一種であり、生き方の追求などの特別な使命を帶びてゐる譯ではないと云ふことである。

 ところで、生き方については、もし考へるのなら、生れる前に考へておかねばならぬ。生れた時にはもう生きてゐる。考へてゐる暇はない。
 それゆゑ、考へなくても生きて行ける樣に人間は出來てゐる。いはゆる本能である。人間の行動の九分九厘は本能に従つて起されてゐるのではないか。無意識といふ言葉があるが、これも詰るところ本能である。
 その上に、社會の規範がある。最近は社會が混亂してをりそんなものはないといふ人もゐよう。しかし、日本社會には昔からの人の道といふものがある。それが日本人には染みついてゐる。グローパル化で痛めつけられてはゐるが。また、もともと、社會は混亂してゐない時はなかつた。

 書くことのもうひとつは、職業とは何かといふことである。職業とは、詰るところ、生きるために必要なだけである。もともとは、生きるために狩をしたり作物を作つたりしてゐたが、段々と分業化されて樣々な職業が出來た。
 狩であれ、何であれ、やる以上、人間は少しでもうまくならうとする。福田恆在は、「自動車の運轉手は運轉といふ仕事に自己表現を賭けようとはしない、彼の人間性は家庭の中で、妻子の前で發揮される。」と書いてゐるが[「自己は何處かに隱さねばならぬ」、昭和45年(福田恆在全集第六巻)]、そんなことはないのではないか。もつとも、「自己表現」といふ言葉の意味を曲解してゐるかもしれぬが。それは兔も角、人にもよらうが、自分なりの運轉を心掛け、そこに自己を表現する運轉手もゐるのではないか。でなければ毎日單調な繰返しになり仕事が苦しみになる。仕事を趣味にしてこそ樂しんでやれる。
 ところで、家事もさうである。現代は家事を倦むべき雜用となしてしまつた。機械化し、なるべく簡單に片付けようとする。しかし、人のする仕事の中で、家事や育兒以上に樂しい、そして意味のある仕事が他にあらうか。
 仕事はあくまで仕事であり、たつきを求めるすべでしかないのではあるが、それ以外に何があるのか。結局のところ、仕事を以つて自分の使命とするしかないのではないか。少くとも男は。すなはち、仕事はすべて聖職である。
 趣味に生きるといふのも時折聞くことである。仕事は遊びにして、趣味を眞劍にといふことである。眞劍にといふのは、詰るところ、そこで自尊心の滿足を得ようとするといふことである。仕事で得られない滿足をそこで得る譯である。

【自尊心】
 自尊心といふのは拔きがたいものである。人は、仕事か趣味か、兔に角何かで自尊心を滿足させたい。さうしなければ生きていけない。
 自尊心を失つた時は、活力を失つた時なのではないか。例へば鬱病といふのは、自尊心を失つた状態の樣に見える。自尊心は、一種本能的なものであり、生きていくのに欠くべからざるものの樣である。これを失ふことは生命力を失ふに等しい。或は、自尊心は元氣に生きてゐることの證なのであらう。

 自尊心は、結局、優越感になる。自分が一廉の人間であるとの自信が自尊心であるが、他人との關係なしに絶對的に自分の能力を信じることはなかなか出來ない。普通は、他人と比較することにより自分の力を認識する。例へば、ただ走れるから自分は素晴らしいと思へる人はなかなかゐない(ゐてもいいと思ふが)。大抵は、人より速いとか、人竝くらゐには走れるとか、比較することにより自信を持つ。
 これは、人間が集團で暮す動物であることと關係がありさうである。例へば、猫なら、唯我獨尊で暮していけるかも知れない。人間も、本當は、ただ生きてゐることに滿足してもいい筈である。それが出來ないのは、他人を意識するからである。
 飼犬は家族の中での自分の順位を決めてゐるといふ。小さな子や年寄より自分の方が上だと思つてゐたりするらしい。人間も社會における自分の位置を測つてゐる。上でも下でもいいが、兎に角、何らかの位置を占めてゐないと安心できない。そして、自分なりにその位置で自尊心を持つて暮してゐる。

【猫の生き方】
 猫の樣に、生きられないか。生きてゐることに滿足し、他人を顧みない。何か不都合があるだらうか。
 不都合はともかく、やはり人間には出來ない。人間は、喜びも悲しみも、すべて家族にもとをおいてゐる。生れて此の方、家族の中で育ち、巣立ち、そして新しい家族を作る。人は、他人の爲にしか生きられぬ。
 しかし、猫の樣に、つまり神の樣に、他人に頼らぬ絶對的な生き方もあるのだと憧れてみることも、たまには必要なのかもしれぬ。

怪談千葉動勞 (H21.8.28)


 千葉動勞とはなんぞや。死んだ筈だよ、動勞さん。生きたゐたとは、お釋迦様でも知らぬ佛か。

 旧國鐵の動勞から分れて出來たらしいが、今でもストライキをやつて、春を騷がせてゐる。と云つても、内房、外房などのローカル線だけで、影響は比較的小さい。それで社會問題にならないし、會社もあまり氣にしない。

 聞けば、ローカル線にのみ配屬されてゐるとのこと。總武などの幹線には乘せて貰へないらしい。ローカル線に甘んじてしがみついてゐる樣では、單にごね得を狙つてゐるだけと誹られてもしかたあるまい。やる氣があるのなら、幹線にも配屬しろと鬪爭したらどうか。

失敗しないと成功できない (H23.2.20)


 失敗は成功の母といふが、實際、失敗が必要なのである。
 失敗とは、目標に到達してゐないと云ふことである。失敗と認識するには、まず、目標をはつきり定めてゐなければならない。目標がなく漫然とやつてゐては、失敗も成功もない。
 同時に、目標に對して一歩は踏出してゐないと、失敗したと感付くことが出來ない。眞劍に取組んでをり、かつ、ある程度の力がついてゐるからこそ、失敗に氣づくのである。情況を理解する能力がなければ、失敗と判斷できない。失敗するにもそれなりの能力がいると云ふことである。
 つまり、目標をきちんと設定し、かつ、ある程度進んでゐるからこそ、失敗を失敗と認識できるのである。失敗できるといふことは、成功への道程を幾らかは進んでゐるといふことなのである。逆に云へば、努力してゐない人は失敗もしないのである。

 試験でも何でも、終つた時に出來た出來たと言つてゐる人は、あまり出來てゐないことがよくある。自分がやり損なつたことに氣づいてゐないのである。失敗したと言つてゐる人の方が、自分がよく出來なかつた所があつたことに氣がついてゐるだけ、ましなのである。

 失敗したと云ふことは、成功への道を進んでゐると云ふことを意味してゐる。失敗は問題點を認識するきつかけになる。失敗しないと、問題も出て來ない。そもそも、何が問題なのかが分らないから苦勞してゐるのである。問題點が分れば、實は、殆ど解決した樣なものである。

 今いつたのは、技術的な話である。人間の根本的な話ではない。人生にそのものには目標もなにもない。成功も失敗もない。

たんぽぽの逆襲 (H23.4.13、H23.5.16追記)


 この春はたんぽぽの黄色い花をよく見る。もともと、たまには見かけたが、今年の樣に澤山見ることはなかつた。今日、去年はここに何が生えてゐたかと考へたら、クローバーだつた。もしかしたら、クローバーはこの冬の寒さでやられたのであらうか。この邊りでは、三月になつても毎日の樣に霜が降りた。
 それにしても、そこに何故たんぽぽがはびこつたのであらうか。風で澤山の種をまき散らしておいた効果がここで出たのか。

その後(H23.5.16)
 先週、クローバーが少し出始めてゐるのに氣がついた。葉はまだ小さいが。三枚組みの一枚の大きさが10ミリもない位である。今日見たら、小さいながら花も咲いてゐた。
 暖かくなつて漸く芽を出したのか。今頃でてくるとは、よつぽど寒さが嫌いなのか。それとも、一度霜でやられてまた復活したのか。

貿易黒字は必要か (H26.8.26)


 岡崎哲二といふ人が「圓安でも黒字生まぬ貿易構造」といふ記事を書いてゐた(朝日新聞、H26.8.26朝刊)。特に結論はなささうであるが、黒字を期待してゐる人に對して警鐘を鳴らしたのであらうか、圓高が収まつても黒字になるとは限らぬからくりを説明してゐる樣である。その要因として、輸入の大きな部分を占めるエネルギーは、圓安で値上がりしても減らせないことと、製造據點の海外移転により輸出價格が變化しにくいことを擧げてゐる。

 ところで、貿易黒字は必要なのか。稼ぐのはいいが、必要以上に貯めこんで何をするといふのか。稼いだ分、使へばいいのである。金とは帳簿上の数字に過ぎぬ。紙屑でさへない。さんざん貯めた擧句に、不良債権やバブル不動産に注ぎ込んですつて仕舞ふのである。どんどん現物に替へた方が勝である。
 と云ふより、金は使ふしかないのである。生活に必要な金を稼げばいいので、必要以上に稼いでも無駄である。他人のために、或は他國のために、奴隸のやうに働いてやる必要はない。

 國民は老後が不安で使へなければ、企業や政府が使ふしかない。

昭和殉難者法務死追悼碑 (H26.8.27)


 安倍首相が昭和殉難者法務死追悼碑の法要に哀悼文を送つてゐたといふ(朝日新聞、H26.8.27朝刊)。その記事には、追悼碑は戰犯裁判は聯合軍の報復とみなして建立されたとある。
 「昭和殉難者法務死追悼碑を守る會」のホームページ(http://www.syowajyunnansya.jp/)を見ると、「序)終戰とその後」に確かにその樣に書いてある。
 「A級裁判は事件発生後に制定した法律で裁いた裁判であるから一般の法概念では成立しない(事後法)。依っていまでは戦勝国が戦敗国を法の名で裁いた報復裁判であると定説化している。即ちA級戦犯は日本敗戦の犠牲となったのである。」
 「之を要するにBC級裁判は日本及び日本人に対する怨恨の報復だったのである。これ以外に何物でもない。」

 ついでであるが、この文に次の樣な記述があつた。「こうして連合軍は降伏したドイツ、日本に対し戦争裁判を実施することになったが、日本に対しては降伏の最終条例を明らかにした「ポツダム宣言第一〇項の中で戦争犯罪人を処刑することを明らかにした。
 第一〇項「吾等ハ日本人ヲ民族トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルニ非ザルモ、吾等ノ俘虜ヲ虐待セルモノヲ含ムイツサイノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ」」
 「日本人ヲ民族トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルニ非ザルモ」などと、わざわざ斷るのは何故か。その意圖を隠し持つてゐる、少なくとも直前までは持つてゐたことを、つい漏らして仕舞つたといふことであらう。
 ヨーロッパ人による民族殲滅は過去に何度もあり、彼らはその末裔で全く變はつてをらず、國際法とかなんとか言つてゐても、少なくとも非キリスト敎徒に對しては、何でもする。鯨は神聖であるが、非キリスト敎徒は人間ではないのである。
 ヒットラーの蠻行は、突然変異的に出て來たのではなく、永い傳統を持つてをり、殆どの歐米人の願望を實行しただけであることを認識しておく必要がある。永い傳統と言つたが、アメリカ大陸における亂暴狼藉、北方十字軍など、ヨーロッパ人の虐殺、破壊は枚擧にいとまがない。

 本題に戻ると、極東軍事裁判は、報復であるのは間違ひ無からうが、目的はそこにはない。米軍の日本人虐殺を正當化せんとしてこの裁判を行つたのである。
 これについては、例へば、上記の文にも、「又衆知の事では、米軍の日本都市の無差別爆撃・原子爆弾の投下、ソ連の条約違反・不法抑留は完全な戦争犯罪である。」とある。
 しかし勘違ひしてはならない。戰爭犯罪ではなく、民族虐殺である。戰爭のどさくさに紛れて行つた虐殺である。ヒットラーの虐殺も、戰爭とは無關係であり、純粹の虐殺である。ただ、戰爭中に行つただけであり、戰爭犯罪ではない。
 アメリカは、A級戰犯をヒットラーと同じ惡魔とし、その惡魔から日本國民を救ふためには蠻行も已むを得なかつたとして、日本人虐殺を正當化せんとしてゐるのである。
 A級戰犯の名譽回復を図るなら、アメリカとの對決を辭さぬ決意が要る。このことが分らずに、ただ心情的に行動してゐては、惡魔の子分になつたと言はれるだけである。

 ドイツ人は、すべて惡魔に強制されてやつたことで自分たちに責任はない、しかし氣の毒だからお金は少しあげませう、と言つてゐる。確かにヒットラーは惡魔の樣であつたが、本當は國民も熱狂してゐた。

 ヨーロッパは支那を侵略してゐた。アメリカも遅ればせながら入り込まうとしてゐた。そこに、なんとか植民地化を逃れんとしてゐた日本が、逆に、攻撃は最大の防御と、支那を侵略したので、アメリカが怒つて、日本を戰爭に誘導して叩き潰した。これが大東亞戰爭の眞相である。
 そのどさくとさ紛れに、ヒットラーの親戚たるアメリカが虐殺を行つた。その仕上げがA級戰犯である。

最終更新:2014年08月28日 16:10