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目次

グローバル化による壁


 グローバル化で新しい壁が出來ているといふ。例へば、ロサンゼルスでは、樣々な人が自由に集う公共空間はなくなり、人々は一定の人にしか入場を許さない閉鎖的な空間で、同じやうな人としか會はないやうになつてゐるといふ(スラヴォイ・ジジェク,朝日新聞,平成18.1.1)。

 グローバル化といふのは、アメリカ流のビジネス至上主義がすべての良貨を驅逐して蔓延することであるとすれば、かうなるのは必然である。
 ビジネスの競爭を、世界中同じ条件でやらうといふのがすなわちグローバル化である。日本では日本人が有利な条件で戰つてゐるやうでは不公平だといふことである。公平とコンプライアンス、すなわち拔け驅けを許さないことが、グローバル化の大義名分である。

 ビジネス至上主義が、單に金儲けしていい暮しをしたいといふのならどうといふこともなからうが、その裏には侘しい選民思想が隱れてゐる。選民思想といふのは、實は、賤民思想であり、不當に虐げられたといふ被害妄想から、他人を押しのけてでも自分だけは這ひ上がりたいといふさもしい根性である。這ひ上がつた仲間だけでつき合ひ、選ばれてない民は相手にしないやうになつても、何も驚くことはない。

 イエスも、ユダヤ人に染みついた賤民思想は取除けなかつた。新約の末尾を飾る默示録は、全篇これ賤民の復讎である。そして、默示録はイングランドのピューリタン(ノンコンフォーミスト)たちの好んで愛誦した一卷である。

H18.1.2

戰爭を起したのは誰か


 大東亞戰爭は戦犯たちが起したので、日本國民も被害者だということになってゐる。しかし、ある日本在住の支那人が、樂しそうに軍歌を歌ってゐる元兵隊たちを見て、このことに疑問を抱いたと書いてゐた。
 その通りで、日本国民も一丸となつて戦つたのである。勿論、一部の軍が獨走して泥沼にはまつたといふことはあるが、それは戰略の拙劣といふことでしかなく、それが國民の戰意をそぐことはなかつた。

 戰爭を日本の責任にしようとしたのはアメリカである。さうすることで、歐米のアジア侵掠から目をそらさせ、誤魔化さうとした。
 もともと歐米がアジアを植民地化し侵掠してゐたのであるが、そこに日本が割込んできた。といふより、まごまごしてゐると植民地化されるから、先手を打つて朝鮮を併合した。そして支那にも出て行かうとした。それが氣に食はぬから、歐米、ことにアメリカが嫌がらせをし、日本を戰爭に追ひ込んだのである。

 日本國民はこぞつて「聖戰」に参加した。これは疑ひようのない事實である。福田恆在が書いてゐたが、彼の學友の共産党員でさへ、聖戰に感激してゐたといふ。
 こんな史實は、歐米としては認められない。ひとつには、歐米の感覺では、戰爭は支配者が起すもので、國民は常に被害者である。日本のやうなことが起る筈はなく、彼らの常識では、軍部の強制が強力であつただけだといふことになる。
 しかし、彼らの狙ひは、日本をスケープゴートにすることで、自分たちの罪からアジアの目を逸らせることにある。そしてアメリカの作戰はまんまと成功した。

 日本をスケープゴートにと書いたが、具體的には戰犯を造つてそれをスケープゴートにした。もし、日本そのもの、或は日本國民を非難したら、もつと抵抗を生じただらう。さうなれば、ことのついでに、歐米の舊惡も明るみに出される恐れがある。だから戰犯を造るに如くはないのである。
 占領のどさくさに紛れて「國際法」違反の軍事裁判を行い、處刑してしまつた。そして軍事力を背景に無理矢理日本に押付けた。今や阿呆な日本人はこれを既成事実として何の疑ひもなく認めてゐる。押付けられたなどとこれつぽつちも疑つてゐない。

 軍隊を持たないと嘗められる。或は、現在のやうに持つてゐても、刀は拔かぬと分つてゐれば、やはり嘗められる。しかし、本當に問題なのは、嘗められてゐると氣がついてもゐないことである。さらに滑稽なのは、嘗められてゐるのに、嘗めている奴と一緒になつて「正義」だと喜んでゐることである。

 靖國神社に參るのが怪しからぬと中國や韓國の政府がジャブを出してゐるが、そんなのは大した問題ではない。これは、歐米との鬪ひなのである。

H18.4.15

金儲けゲーム


 アメリカでは金儲けはゲームである。金を儲ければ、選ばれた人間であることが證明され、天國に入れる。儲けられぬ輩は地獄落ちである。命懸けのゲームではある、それも、永遠の命を懸けた。ちなみに、それ故、ルールは嚴密に守らねばならず、公正かつ公平であることが必須であつて、そこからコンプライアンス、グローバリゼーションなる言葉も出てきたし、そのお先棒をかつぐ小泉も出てきた。
 金儲けはあくまでゲームである。救はれるものを選ぶためのゲームである。従つて、儲けることは究極の目的ではなく、勝つための手段に過ぎない。儲けた金は次の投資に廻すとか慈善事業に使ふとかすべきで、蓄財してはならぬ。金持が天國に入るよりは駱駝が針の穴を通る方が樂だとイエスは言つた。
 キリスト敎の神は人格を失ひ抽象化され、「眞理」とか「法則」とかになり、敎會に通ふ人はゐなくなつた。しかし、「眞理」に忠實に生きなければならぬといふ義務感は、相變はらずアメリカ人の心を壓迫している。

 マネーゲームを眞似する者が日本にも出てきた。しかし、アメリカ人のやうな「倫理」は日本人にはなく、金儲けそのものを惡として捉へていない。そもそも日本には惡もなければ、惡人もゐない。
 村上某にしても、全く子供の顏をしてゐる。惡いことをしたとは思つてゐないので、ただ、ちよつとやり方が下手だつた、見つかつたのは失敗だつたと思つてゐるだけである。

 村上某のことを笑ふ資格は誰にもない。日本人は歐米の眞似をして兎角かうなる。日本人には形しかないから、形だけ眞似る。それで同じだと思ふが、歐米の場合、實は冰山のやうに、永い歴史を背景に出てきた行動である。彼らに取つては歴史的必然であるが、決して普遍的なものではなく、日本人には眞似る必然性は何もない。
 ただ、眞似をしないと、歐米にやられるから、せざるを得ないとあせつてゐるだけである。その結果、技術は發達したが、何の爲の技術なのかもとんと分つてをらぬ。ただひたすら便利さに向けて盲目的に突進してゐる。

H18.6.6

惡意のこもつた日本國憲法


 改憲の動きに對して、護憲論が賑やかになつてゐるが、一體、肝心の憲法をちやんと讀んでゐるのか。本氣で讀んでゐたら、あれを子孫に殘さうなどとは思はないはずである。眞面目に讀んでゐて、かつ、あれがいいといふ人がゐたら、少しをかしい人であらう。あれはとても讀める文章ではない。

 前文の書出し「日本國民は、正當に選擧された國会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸國民との協和による成果と、わが國全土にわたつて自由のもたらす惠澤を確保し、政府の行爲によつて再び戰爭の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」

 一見して、まともな文章ではない。
 全體として、何を言ひたいのかはつきりしない。結局、「この憲法を確定する」と言つてゐるのだが、その前の「・・・行動し、・・・確保し、・・・決意し、・・・宣言し」との關係がさつぱり分らぬ。また、行動、確保、決意、宣言の相互のつながりも分らぬ。
 英文原稿を見て初めて言ひたいことがおぼろげながら分る。

 「諸國民との協和による成果」、「自由のもたらす惠澤」などとあるが、何のことかよく分らぬ。
 「正當に選擧」、「惠澤を確保」、「憲法を確定」などといふをかしな言ひまはしが出てくる。「われらとわれらの子孫」、「政府の行爲によつて再び戰爭の惨禍が起る」、「起ることのないやうにする」などといふのも長たらしく締らぬ。

 ひよつとしたら、飜譯者は、わざとをかしな文章にして、日本國民からすぐに罵聲を浴びようとしたのではあるまいか。急いでゐたとしても、この飜譯のいい加減さは尋常ではない。こんな憲法は一刻も早く破棄して貰いたいといふ惡意のこもつた文章としか思へぬ。

 殘念ながらこの必死の願ひに呼應する人はゐない樣である。戰後の國語力低下教育の成果大いにありといふべきか。

H18.10.9

日本國憲法から


 日本國憲法前文の第二、第三文「そもそも國政は、國民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は國民に由来し、その権力は國民の代表者がこれを行使し、その福利は國民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。」
 議會制民主主義のやり方を述べ、それを「人類普遍の原理」と稱してゐる。
 民主政治はヨーロッパに生れたひとつの政治體制に過ぎぬ。人類共通ものだとどうして言へるのか。最高の政治體制だといふうぬぼれからこのやうな言ひ方が出てきたのだらう。
 しかし、果して最高か。最高級に效率の惡いやり方であることは間違ひなからう。民主主義では、政治などといふ詰らぬ仕事に、猫も杓子もやたらと精力を注ぐことを要求される。少しでも損をしてはいけないと、互いに不斷に監視しあふやうになり、生活を樂しむ餘裕などなくなる。
 現に、今の日本がさうなつてゐる。

 いずれにせよ、ヨーロッパの傳統に過ぎないものを、なにもかも、普遍だとか理想だとかいつてありがたがるのはいい加減に止めないといけない。

H18.10.11

政治と理想


 民主主義が理想的だとか、非武裝中立が理想だとかいふ。しかし、政治の世界に理想などない。政治は現實を處理するものである。他の國、民族、地域などに對して、現實に損をしないやうにうまく立ちまはらうとするだけである。
 政治は永遠に理想とは相いれぬ。理想の世界は、政治のいらぬ世界である。理想に達し得ないからこそ、政治が必要なのである。

H18.10.20

差別用語(politically correct) (H18.11.23)

 これは公園の植込みで拾つたノートにあつた走書きを寫したものです。

 chairmanはpc (politically correct)でないといふので、chairpersonといふ樣になつた(ballboyやballgirlがballpersonになつたのは子供に失礼だからか?)。
 しかし、他の動物を差別しているといふことからか、單にchairといふ樣になつた。そのうちに、deskに失禮だからと、chairとも言へなくなつた...

 到頭人は言葉を發することが出來なくなつとしまつた。字を書くことも出來なくなつた。
 そして、聲帶が退化し、また、耳も退化してしまつた。
 つひには人類は絶滅した。

憲法は數の論理で勝手に變へていいか (H19.5.4)


 新聞を見ていたら、或る人が「重要な法案などが數の論理で簡單に決つて行く世の中に疑問を持つ樣になつた」といふ記事があつた。
 政治體制として民主政を採用してゐる以上、多數決に文句は言へぬ筈である。民主主義といつても、政治は、要は、多數者、強い者の言ひ分を通すしかない。まさか、多數意見は破棄して少數意見を採用すべしといふ譯にはいかないだらう。

 ただ、ことが憲法となると、數がたまたま多いといふだけで、勝手に變へていいのかと思ふ。憲法といふのは、国の根本的なあり方を決めるものであり、ちよつとした状況の變化ですぐに變へるべきものではあるまい。
 例へば、イギリスは特に憲法として法典化されたものは持たない。昔からの慣習なども憲法を構成してをり、その意味では勝手に變へられない。逆に、一般の法律と同じ手續で憲法に相當する法律を作ることが出來るなどと言つてゐる人もゐるやうである。しかし、やはり、慣習を勝手には變へられぬといふ方が當つてゐるのではなからうか。

 日本國憲法についていへば、占領中に勝手にいぢられたものであり、無效であるとしか言ひ樣がない。

ニート (NEET: Not in Education, Employment or Training) (H19.1.4)

 新聞によると、ニートは、平成17年現在で64万人、そのうち、25から34歳が39万人とのことである(平成19.1.3, 朝日新聞)。大變な數である。
 ニートには入つてゐないが、好んでゐないのにフリーターなどの不安定な仕事を續けてゐる人を加へると、ずつと多くの人が無職あるいは不安定職業といふ状態にあるのだらう。
 ある會社では、失はれた10年間に採用しなかつたつけで人員構成がいびつになつたため中途採用を募集したところ、いはゆるブルーカラーであるにも拘はらず、國立大學卒の應募もあつたといふ。それくらゐ、安定した職場ならどこでもといふ、切羽つまつたものがあるのだらう。
 かうなつてしまつた以上、中途採用の増加しか對策はないのだらうか。

多數決に文句を言ふ輩 (H19.5.6)


 多數決に文句はない筈と書いたが(H19.5.4)、これは基本的な考へ方が一致してゐる場合の話である。例へば、アメリカやイギリスなどの場合である。イギリスの場合、勞働黨でも王制に反對してゐる譯ではなからう。アメリカにも共産主義者がゐないことはないかもしれぬが、表立つた活動は出來てゐないのではないか。
 フランスにしても、ミッテランなどでも、國益を優先することは當然である。社會主義インターナショナルなどと浮れてゐたりはしない。

 ところが日本になると、共産黨の樣に現在の國家體制を顛覆しよういふ者まで合法的に議會活動をしてゐる。どうやら表向きは體制顛覆は謳つてはゐない樣であるが、今は勢力が弱いから隱してゐるだけで、共産主義を信奉してゐるのなら、天皇制など認められる筈がない。
 といへば、社會黨も似たやうなものではないか。共産黨と本質的にどこが違ふのかの分らぬ。

 富の分配を公平にしなければいけない、搾取をなくさなければならない、さうすることによつてみんなが幸福になれると考へてゐる點では、共産黨も社會黨も根本的に同じ穴の貉である。
 要するに、金さへ与へれば人民は幸福になり、善人になると、漠然と思つてゐる。それ以外に何かあるとは考へてゐない。本人は意識してゐないが、全て金で片が着くといふ思想に陷つてゐる。

 かういふ連中が、今、何のために政治に關はるかといふと、ただ自分たちの勢力を伸して天下を取るための手段としてゐるだけである。實際の政治に興味があるわけではない。潛在的に正しい筈の自分たちが天下を取れば全てうまくいく筈であるから、それまでは兎に角政府を追ひ込んで顛覆させればいいと思つてゐるだけで、今現在の政治を何とかしようとか、外交で外國にやられない樣にしようとか、そんなことは頭の片隅にもない。

 であるから、議論を盡くして相手を自分たちの主張に少しでも近付けさせようとか、妥協させようとか、そんなことは全く考へない。本來、多數意見に従ふのが民主主義であり、多數に對して數の暴力などと文句を言ふのはをかしい。少しづつでも多數を變化させようといふのが少數意見のとる道である筈である。

 今現在の政治、外交をよりよくしたいといふ共通の使命感を持つてゐない連中であるから、建設的な發言はなく、ただ體制に反對するのみである。全く對話にならない。議論をボイコットするから、あとは多數決で決めるしか、やることはない。さうすると、數の暴力と言ふ。兎に角、體制攻撃のネタを作ることしか考へてゐないのである。

貧困をつくつたのは誰か (H19.6.24)


 テレビで貧困をなくすために活動してゐる人の話をちらつと聞いた。歐米の人だつたか。

 アフリカなどに貧困があるといふのだらうが、そもそもアフリカは貧困だつたのか。もともと、ヨーロッパが侵略するまでは、アフリカは自足してゐたはずである。侵略によりヨーロッパ文明が持込まれた結果、ヨーロツパの觀點からすると「遲れて」ゐることになつた。
 そして、何とか持上げてやらうといふ。餘計なお世話ではないか。持上げてやると、人のための樣なことを言つてゐるが、實は、自分たちの文明を押しつけてゐるだけである。おまけに、金にもなるのである。一旦自分たちの世界に連れ込んでしまへば、援助した金の何倍、何萬倍、何億倍もの金が自動的に轉がり込む樣になるのである。

 彼らの場合、分業體制が出來てゐる。援助したり傳道したりする善玉役と、金を巻上げる惡玉とがはつきり分れてゐたりする。昔の宣教師と海賊のやうに。しかし、どこかでちやんとつながつてゐるのである。

民主主義は人類普遍の原理か (H19.6.10)


 先ず、言葉から吟味せねばならぬ。「民主主義」といふが、英語でいへば democracy であり、民主制、あるいは民主政治といふことにすぎない。これに對するものは、貴族制、君主制などである。民主制の場合のみ、なぜ「主義」をつけるのか。「普遍の原理」などと言ふときに、單なる制度では釣合はぬと思つたのであらうか。

 すなはち、「民主主義」といふけれども、政治體制のことをいつてゐるのである。民主制とは政治を人民あるいはその代表者が行ふといふことであり、それ以上の意味はない。なぜかそれを人間の生き方全般に敷衍しようとしてゐる。敎育、企業、家族など、政治と關係のないところまで「民主的」でないといけないなどといはれてゐる。どうかしてゐないか。

 「人類普遍」といふとき、單に共通といふだけでなく、最高の、唯一の、あるいは理想のといふ意味が込められてゐる。しかし、政治に關して理想といふことはあり得ない。政治といふものは、社會が軋轢なく動くやうに對處する體制であり、もともと理想などとは縁のないものである。
 民主制もいいかも知れぬが、理想は政治のいらぬ世界である。政治が必要だといふことは、未だ理想にはほど遠いといふことである。

ヨーロッパ人の人種隔離政策 (H19.8.11)


 インドではドラビダ系が住んでゐるところをアーリヤ系が侵略して支配者となつた。アーリヤ系は混血を防ぐためにカーストを作つたといはれてゐる。しかし實際にはアーリヤ系にはドラビタの血が入つてゐるやうに見える。
 ところが、ドラビダ系にはアーリヤの血が入つてゐるやうには見えない。インドに行つた時、初めてドラビダ系の人を見たが、アーリヤ系とは全然違つてゐた。といふことは、何らかの事情から混血兒が生れた場合、アーリヤ系の集團に組込まれたといふことになる。全員ではないかもしれぬが、一部はさうだつたといふことである。
 そして、その血が永年の間にアーリヤ系のなかに擴散していったといふことである。アーリヤ系は體格などは昔のまま?であるが、肌の色は恐らく元々より少し濃くなつてゐるのだらうと思はれる。

 アメリカはアフリカ人を拉致して奴隷にした。日系人の扱ひに謝罪したことがあつたが、アフリカ人に關して謝罪したことはあつたのだらうか。
 それは兔も角、ヨーロッパ系の主人がアフリカ系の奴隷に産ませた子供は奴隷が育てるので、アフリカ系には白人の血が入つていつた。しかし、ヨーロッパ系にはアフリカ系の血は入つてゐない樣である。ヨーロッパ系とアフリカ系の混血ができても結局「カラード」とかいふことになつてヨーロッパ系にはならないといふことなのだらう。
 とすると、カラードといふのは、インドのカースト以上に有效な人種隔離制度といふことになる。

 ブラジルもアフリカ人が入つてゐるが、ある百科事典によると、現在、ヨーロッパ系が54%、ムラート(アフリカ系とヨーロッパ系の混血)とメスティソ(ヨーロッパ系と先住民の混血)が39%、アフリカ系と先住民の混血6%、アジア系1%であり、純粋な先住民族は0.2%にすぎない、とある。ここでも、カラードに似たやうな言葉があり、ヨーロッパ系とその他を隔離してゐる。
 不思議なことに、ヨーロッパ系は54%もゐるのに、先住民は純粹のものは0.2%しかゐない。先住民は殆どが混血になつてゐる。ヨーロッパ系との混血はこの事典の記事でははつきり分らないが、アフリカ系との混血は6%もゐる。つまり、先住民の血は守られず他の民族と融合したが、ヨーロッパ系の血は守られてゐるといふことである。
 あるときスペイン人と食事をしてゐたら、自分たちの血は強いと言つて、南米でどうのかうのいふ奴がゐた。酒の席なので追求せず聞流したが、なぜか覺えてゐる。別に強い譯ではなく、ヨーロッパの血を隔離して守つてゐるといふことなのである。

 日本では、繩文人と彌生人が融合した。融合せずに殘つたのがアイヌ人だと最近は言はれてゐる。

 融合と隔離とふたつの道がある。放つておけば融合するのだらう。何かの意志が働かなければ隔離は出來ない。いずれにせよヨーロッパ人は世界中で隔離政策を續けてゐる。

自由と平等 (H20.1.6)


 自由と平等は兩立するかなどといふ議論があるが、そもそも兩者を同じ次元で云々するのが間違つてゐる。自由は社會的、政治的な概念であるのに對して、平等は宗敎的な概念で、社會的不平等はあつても、根本的には人間はみな同じだといふことである。兩立もへちまもない。何れも歐米の歴史のなかで生れた概念であり、その背景を拔きにして言葉の文字通りの意味を事物全般に適用することは出來ない。

 自由とは、信敎の自由や政治活動の自由を意味する。ヨーロッパでは、國により宗敎がカトリツクならカトリツクと決つてゐたのが、他の宗敎でも一應信じるのは許すことになつたとか、体制に反對する政治活動家も存在だけは許される樣になつたとかいふことである。

 本質的に人間が自由かといふと、人は皆おのおのの個人的制約あるいは社會的制約のもとに生れてきてをり、勝手氣儘に振る舞へる譯ではない。その中でも、一番ままならぬのは自分自身である。自分を制禦すること、これが最も難しい。
 ある意味では、いろいろな制約がその人を形作つてゐるとも言へる。もし、さういふものが無くなつたら、個性といふものも雲散霧消してしまふのではないか。どんな制約があるか、あるいは制約のへの對處の仕方により個人の差が發生する。

 制約のへの對處の仕方には、個人の自由意志を發揮する餘地がある。カトリツクは自由意志を認めるが、プロテスタントは認めない。論理的には、絶對神を認めれば、すべては決められてゐることになり、プロテスタントの言ふ樣に、自由意志の入り込む餘地はない。しかし、それでは人間の生きる意味がなくなる。プロテスタントの樣に、人間は地上に神の榮光を増すための齒車として生きてゐるとしか言へなくなる。さういふ役割でも、何も意味を與へられぬよりはましといふのかもしれぬ。しかし、結果が分つてゐる仕事を與へられて頑張れといはれても、茶番に過ぎぬではないか。どうしても、自由意志を假定しなければ人間は生きていけない。これが本質的な意味の自由である。しかし、普通に「自由」といふときはこの樣な意味ではなく、政治的な自由のことを言つてゐる。

 現實の社會においては、不平等がいろいろと存在する。しかし、神の前に立つとき、人間は不完全であり等しく罪人である。また、等しく自由意志を與へられてもゐる。この樣な意味で人は皆平等である。人種や階級が違つても、魂を持つてゐることは變らない。
 こんなことは當り前である。しかし、歐米では當り前でないことがずつと行なはれてきたので、少しづつ改められてきた。しかしまだ殘つてゐる。例へば、階級は儼然としてある。
 しかし、歐米人は當然と思つてゐるかのやうにも見える。特に上の階級に上がりたいとも思はない樣である。勞働階級でも自分なりの生き方で生きていけばいいと考へてゐる樣に見える。
 江戸時代、日本にも士農工商といふのがあつた。しかし町人が武士を羨んでゐたかといふと、さうでもなささうである。面倒な政治向きの話は侍に任せて、太平を謳歌してゐた。

自由貿易は何のためか (H20.1.20)


 放送大學で、水田は日本の景觀美のひとつであり、それを守るために米の自由化は出來ないと、日本が主張したことがあるが、その國にしか通用しない論理を主張したのはよろしくないと批判してゐた。
 貿易だらうが何だらうが、国際関係は基本的に國家がエゴイズムを主張するものであり、エゴを通さうとして何が惡いのか。自分の文化を守らずして、自由貿易を達成して何になるのか。自由化は絶對なのか。

 貿易自由化も、何らかの利益があるからやるだけである。例へば、生産の國際分擔による合理化である。しかも、それが世界全體は勿論、自國にも利益があるからやるのである。自國の不利益を我慢して世界の利益に與する理由はどこにもない。少くとも現在の世界では。世界が完全にひとつになつた曉にはどうかしらぬが。

 今の話とは別の話であるが、ちよつと氣になるのは、ものを世界中運搬しまくつてゐるが、そのためのエネルギーも含めて、本當に合理的と言へるのかといふことである。金で評價した結果では、國際分擔が成立してゐるのではあるが。

男女平等-育兒や家事は些末な仕事か (H20.1.24)


 放送大學をちよつと聞いたら、歐米の男女平等は一朝一夕になつたものではない、と言つてゐた。また、歐米の男女平等の例として、女性が働いてゐる率が高いことを舉げてゐた。歐米は果して男女平等なのか。そして、女性が働くのは平等の證なのか。

 平等かどうかをいふのなら、例へば、勞働條件などが平等であればいいのではないか。實際に働いてゐる女性が多いか少いかは、平等とは關係のないことである。女性の勞働條件がいいから働く人も多くなると言ひたいのを略して言つたのか。

 さういふ譯ではなく、どうも、女性を家事労働の束縛から解放して、男性と同じ樣に家庭の外での勞働をさせないと、男女平等の社會とは言へないと考へてゐる樣である。平等といふ言葉は、機会、權利などが、皆に等しく與へられることと理解してゐるが、この定義を無意識のうちに變へて、男女平等とは男女が同じことをしてゐる状態と思ひ込んでゐる樣に見える。

 男と女の「性役割」がどうも氣に入らない樣である。性役割は社會が無理に押しつけたもので、それから解放しないと男女平等とは言へないと感じてゐるらしい。女だけでなく、男が外で働くといふのも、押しつけられた性役割で、男もこの束縛から解放しないといけないと言つてゐる人もゐる樣である。

 性役割は押しつけられたものなのか。だとすれば、誰が押しつけたのか。誰が押しつけたのでもなく、人間の本性に根ざしてゐると思ふ。
 男には社會本能といふべきものがある。社會の中で仕事をしてそれなりの位置を占めたいといふ慾望がある。或は、社會を少しでもよくしていきたいといふ衝動がある。それが滿たされないと、男は氣持が安定せず、ぐれる。女も、勿論、社會性がないわけではない。しかし、女の場合は、本能ではなく、頭で考へて社會と協調しなければいけないなどと思つてゐるだけなので、うまくいかなくとも、いらいらしてぐれたりすることはない。
 女には母性本能がある。これがなければ赤ん坊が産れても育たない。しかし、社會がさう仕向けてゐるのではないかといふ議論もよく聞く。例へば、女の子には親が人形を買つてやるとか。證據は特にないが、さういふ風には思へない。生れつき女の子は人形が好きな樣にしか見えない。
 男も子供の世話が出來ないことはないが、本能ではなささうである。決定的なことは、男は母乳を飮ませられないことである。

 しかし、勿論、外で働きたい女もゐても構はないし、家事をしたい男がゐても構はない。しかし、皆がさうなる必要はない。

 男と女が違ふと言つたが、あくまで平均的な話であり、最も男性的な女性は少し女性的な男性よりも、或は平均的な男性よりも、男性的かもしれないし、逆もまたありうる。

 どうも、男が外でする仕事の方が、女が家でする仕事より價値があると思つてゐる樣である。外の仕事といふのは、金を稼ぐふために必要なことではあるが、それ自體價値はない。何とかして價値があると思ひたがるのであるが。これに對して、女が子供を育てることは間違ひなく價値がある。そして、心をこめた家事は金には變へられない。
 金を稼ぐといふ必要惡は男に押しつけ、女はもつと大事なことをするといふのが、人類共通のやり方である。

 眞の男女平等社會とは、それぞれが自分の本性に従つて生きられるやうな社會であると思ふ。

アメリカは神に選ばれし國 (H20.1.28)


 新聞に川上孝司といふ人へのインタビュー記事が載つてゐた(朝日新聞, H20.2.28)。いはく、アメリカは神の國で、神に選ばれし國といふ選民意識がある。政敎分離とはいふが、大統領の就任式では聖書に手を置いて宣誓する。とともに、ダブルスタンダードであり、世俗の國でもあつて、宗敎は宗敎、カネはカネで、「片手に聖書、片手に劍」の國である。

 その通りであると思ふ。しかも、宗敎とカネ、あるいは聖書と劍が、別物ではなく、密接に繋がつてゐるのである。宗敎に熱心であるからこそ、カネにも熱心なのである。それぞれを担つてゐる人は別々である場合もあるが。
 宗敎とカネが結びつくのは、神に選ばれた人間として、この世を神の意志に沿ふ樣に合理化する義務を負つてゐると考へてゐるが、その義務を果してゐるかどうかが稼いだカネで判定されるから、時は金なりと寸暇を惜しんで金儲けに精を出すのである。

仕合せは物質の問題か (H20.2.20)


 放送大學を聞いてゐたら、最近は、仕合せ學みたいなものがあるさうである。正確には何と言つたか忘れたが。學術雜誌も出てゐるとのことである。
 それはともかく、高度成長を達成して所得は増えたが、仕合せと感じてゐる人の割合は變つてゐないと言つてゐた。何のために頑張つたのか分らないと嘆き、何故なのかを問題にしてゐたが、その理由として、他人との比較が問題だからと云ふことと、便利さなどにもすぐ慣れるからといふことの二つを舉げてゐた。まだ他にも舉げたのかも知れぬが、そこで車を降りたので聞いてゐない。

 いずれも尤もさうな理由ではある。しかし、何かをかしくないか。仕合せといふのは心の問題であり、物質の問題ではない。勿論、食つていけなければ仕合はせと感じないかもしれぬ。とはいへ、ものが、或は、金が増えたから仕合せと感じるだらうと云ふのは發想がそもそも間違つてゐる。
 ものは必要なだけあればいい。それ以上にあつても仕方がない。

 所得が増えたといふが、その金を何に使つてゐるか。要らざるものを買つてゐるだけではないのか。便利な商品を次々と開發して賣りまくる。便利だからと皆が金の許す限り買ふ。上がつた效率を利用してまた便利な商品を競爭して開發する。惡魔の惡循環に陷つてゐる。
 早い話が、家事の效率を改善して、女性まで勞働に驅り出してゐる。折角出來た暇をすべて勞働に捧げてしまふ。昔よりも勞働に精を出してゐる。つまりは、より貧しくなつたと云ふことではないか。

 仕合せと思ふ率は女の方が男より多いとも放送で言つてゐた。しかし、その差は縮まつて來てゐるといふ。男性の女性化と云ふことか。
 三島由紀夫だつたか、仕合せを願ふのは女で、男はそんなことは考えないと言つてゐた。その代りに何を考へると言つてゐたのかは忘れた。男はある状態に安住するのでなく、常に行動するといふことだつたか。

日銀總裁は要らないか (H20.3.20)


 日銀總裁の後任が決らない樣だ。もともと死に體の人がやつてゐたので、ゐなくなつてもどうと云ふこともないのか。
 前の總裁は村上ファンドに投資してゐたといふことで非難されたが、結局最後まで居直つてしまつた。金儲けを非難されたやうに記憶してゐるが、そんなこてはどうでもいい。村上がペテンだと云ふことが見拔けないことが問題ではないか。あんな人間に騙される樣な人に總裁などやらしてゐていいのか。逆に云へば、その程度の人で務まるのなら、總裁など要らないといふことにならう。

 總裁は要らないが、日銀は要るのか。少くとも日銀券を發行しないといけない。しかし、それ以外につとめがあるのか。金融政策が仕事か。しかしこれは政府がやるのではないのか。敢て日銀もやらねばならぬ理由があるのか。そのまへに、政府と日銀の分擔はどうなつてゐるのか。

 日銀のホームページをみると、「日本銀行はわが國の中央銀行として、物価の安定のために、金融政策の決定と実行に當つてゐます」とある。また、「中央銀行の金融政策にはインフレ的な経済運営を求める壓力がかかりやすい」ので、「金融政策運営を、政府から獨立した中央銀行という組識の中立的・専門的な判断に任せることが適當である」とある。壓力が掛りやすい中央銀行に任せるのは適當ではないのではないか、と野次がとびさうであるが、兔に角、政府の一方的な政策を阻止してインフレにならぬように努めるといふことの樣である。

 ひとりでやつてゐると、獨り善がりになり間違へる可能性があるから、複數の機關で互ひに牽制しながらやつた方がいいといふことであらうか。
 しかし、昨今は、景気浮揚に政府、日銀とも努力してゐる。さうなると、日銀の出番はあまりないのか。それで誰でもいいと云ふことなのか。

猿とオバマ (H20.8.12)


 猿がアメリカのオバマの文句を眞似して演説するテレビCMが、日本在住アフリカ系外國人グループから不快だと抗議があつたため、放映中止になつたといふ(朝日新聞、H20.8.12朝刊)。アフリカ系や非白人を猿に譬へるのは、歐米では人種差別ととられるといふ。

 ロバート・キャンベルといふ在日アメリカ人らしき人が言ふには、「普段から本や新聞を讀んでゐれば差別と分るはず。嚴しく言へば、教養が足りない」

 そもそも、歐米でアフリカ系や非白人を猿に譬へて差別するのなら、非白人たる日本人も差別される側ではないか。實際、日本人も歐米で猿と呼ばれて馬鹿にされてゐた。それは日本人なら誰でも知つてゐる。歐米人は最早忘れたのかも知れぬが。
 それとも、日本人は既に名譽白人になつてゐるから、白人側に立つた配慮が必要とたしなめてゐるのか。

 歐米人が過去の惡行から氣にしてゐるのを知つてゐれば、こんなCMは作らない筈だと言ひたいのかも知れないが、欧米人に日本人がそんなに義理立てせねばならぬ理由がどこにあるのか。自分達の感情が絶對だとする歐米人の思ひ上がりに過ぎない。それこそ、「教養がない」

 教養とは、詰るところ、他人を尊重する行動を取れることをいふ。他人を理解は出來ないとしても、同じ人間であるから言ふことにも當然一理はあらうと一應認めた上で話をするのがまともな人間である。

 自分たちが神聖視する鯨を食らふのは怪しからんといふのと同じで、魂のない猿と人間を同一視するかの樣な映像はもつてのほかといふ氣持もあるのかもしれぬ。しかし、日本人にとつては猿と人間に絶對的な違ひはない。
 歐米は、自分たちの路線の世界制覇を押し進めようとしてゐる。彼らはいつも獨善的であり、その路線が唯一正しいと思ひ込んでゐる。

 實際、世界はその方向に進んでゐるのであるが、それが正しいかどうかは神のみぞ知るである。
 といふと、日本人は、誰にも分らぬと解釋する。しかし、歐米人は、神が知るのなら自分にも分ると思ふ。これが思ひ上がりでなくして何であらうか。

「カラード」は差別語 (H20.11.21)


 アメリカは理念としては差別はないといふかも知れぬが、現實には差別がある。さらに、理念としてはないと云つても、白人文化に從ふ限りは、とい但書がつく。黒人とかアジア人とかの風俗に拘つてゐる樣では仲間には入れない。

 仲間に入つたとしても、あくまで名譽白人といふことでしかない。カラードであることはそのままである。

 この「カラード」といふ言葉こそ差別語である。
 言葉はすべて、あるものを他のものと區別するために出來る。逆にいへば、區別する必要があるから言葉が出來る。英語では、cow, bull, calf, heifer, ox と色々な言葉があるが、日本語では牛としか言はない。要するに、イギリス人はそれらを區別する必要があつたといふことである。
 「カラード」といふ言葉は、一方に「白人」があつて、それ以外を白人と區別されるものとして認識してゐる。つまり、白人は仲間であるが、それ以外は仲間ではないといふことであらう。

 黒人や黄色人種といふ言葉は肌の色を言つてゐるだけであり、差別語ではない。支那や朝鮮も、ある地域に對して付けられた、永い歴史を持つ言葉であり、差別語ではない。しかし、「カラード」は明らかに差別意識から使はれ始めた言葉ではないか。

 調べてみたら、person of color (複數は people of color) といふ言ひ方もあるやうである。いづれにしても、白人と區別する言葉であり、カラードと同じことである。「めくら」を「目の不自由な人」と言ひかへても、そこに蔑視の氣持があれば差別である(逆にいへば、「めくら」と言つても、そんな氣持がなければ差別ではない)。

 次期大統領のオバマは黒人だといふが、母親は白人ではないか。なぜそれが仲間に入らないのか。要はカラードだといふことなのであらう。そこには、白人の血を守らねばならぬといふ追詰められた白豪主義があるのではないか。

リベラル貫くのは怠慢 (H20.12.6)


 ある評論家の訃報の記事に「リベラル貫く」とあつた。死者に鞭打つ氣はないが、リベラルを貫くくらゐ氣樂な稼業はあるまい。
 と云ふのは、「リベラル」は日本では絶對的に正しいと見做されてゐるので、それを「貫いて」ゐる限り、全く安全なのである。ひよつとしたら右翼に狙はれるかもしれないが、「知識人」の世界では絶對に叩かれたり貶されたりする心配はない。
 高みから、地上で蠢いてゐる人々を叱咤してゐればよいので、自分は絶對に傷付く心配はない。何も考へず、何も行動してゐないに等しい。知的怠慢である。

 思想と云ふのは、ヨーロッパでは鬪ひのための武器である。相對的なものであり、決して絶對的な眞理ではない。政治的自由といふ思想も、當時の壓政を倒すために生れた。
 日本には元々壓政と云ふものがない。江戸時代でも、庶民は政治といふ詰らないことは武士に任せて太平を謳歌してゐたのであり、壓政に苦しんでゐた譯ではない。また武士がそれ程勝手氣儘にやつてゐた譯でもない。そんなところに自由などといふ思想は要らない。

 ヨーロッパの思想が、日本にはあちらで實證された有難いお經の樣なものとして輸入された。これは支那や朝鮮から佛敎や儒敎を輸入したのと同じである。輸入業者は、自分に必要でなく、また、中味を理解してもゐないが、兔に角有難いものである筈であるからと他人に受け賣りして、それで己は先生と奉られ、金も稼げる。こんな甘い商賣はない。
 思想と自分とが無關係なのである。思想とは、先に書いた樣に、自分が戰ふための假説である。戰つて實證していくものである。もしかしたら全く間違つてゐるかも知れぬ。しかし、自分の責任で主張する。さういふ責任が全くなく、ただ有難い「眞理」としてむにやむにやむにやと唱へられてゐる。

 ところで、「リベラル」とは何を言つてゐるのか。別に魂の自由を言つてゐるのではなく、社會的、政治的自由を言つてゐるのであらう。

 社會的自由といふ意味では、新聞などが敵對してゐる自民黨でも「自由民主」黨であり、世の中すべて自由を標榜してゐる。自由そのものに敵對してゐる人はゐない。ただ、自民黨の利益と新聞屋の利益が多少異なるだけである。
 例へば、新聞屋は、自分達はリベラルを標榜してゐると思ひ、憲法を變へてはいけないと思つてゐるが、憲法を變へたがる連中はリベラルでないと云ふことにはならない。單に憲法に關する考へが異なるだけである。それを「リベラル」といふ譯の分らぬ「御旗」で成敗しようとするのはをかしい。

 元々、日本人は政治に關心がなく、政治的自由も民主政治も興味がない。興味があるのは日々樂しく暮すことである。おいしいものを食べたり、面白い讀物を讀んだりすることである。
 それを維持するために、政治は必要である。しかし、なにも國民が皆政治にうつつを拔かす必要はない。何人かの政治家がやつて呉れればいい。
 民主政はヨーロッパ、特にイギリスの伝統に過ぎず、これが絶對ではないし、最高でもない。信用ならぬ王がゐたからさうなつた丈である。出來れば、政治は政治屋に任せて、もつと大事なことに手間暇掛けた方がどれだけ樂しいか分らぬ。

 しかし、裁判員制度が出來てしまつた樣に、アメリカの壓力とそれに追從する人氣取り政治屋のせゐで、日本人も益々政治的にさせられて行く樣である。