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目次

にせ科學 (H18.9.30)

 平成18年9月20日の朝日新聞より(菊池誠氏筆)。「『ニセ科學』が蔓延してゐる。代表的な例として血液型性格判斷やマイナスイオンを擧げれば、なるほどその手の話かと合点がいくかたも多いのではないだらうか。念のために述べておくと、前者は心理學の調査によりとつくに否定されており、また、マイナスイオンが体によいといふ科學的根據はほぼ皆無といつてよい。」
 血液型性格判斷やマイナスイオンは科學的に否定されてゐるといふが、果してこれらは科學で扱ふものなのか。科學が追求するのは、自然の法則である。これらは、勿論、自然現象と關係してはゐるが、その法則を追求してゐる譯ではない。ただ、生活に有用な何かを追求してゐるものであり、いふならば、技術の領域に屬する。
 技術が、いかにして「科學的に」否定されるのか。技術は、役に立てばいいのである。そのためには、科學の成果も活用はする。しかし、科學によつて肯定されたり否定されたりするやうな代物ではない。

 「寫眞があまりにも印象的なためか、これを『科學的事實』と信じ込んでしまふ人は意外に多いらしい。」
 科學的事實なるものがあるのか。科學は假説である。自然の法則がかうなつてゐるといふ假説を提案するだけである。假説はそのうち新しい假説にとつて代はられる。ニュートン力學が相對論にかはつたやうに。
 假説は「事實」に基づいて構築される。また、實驗事實により檢證される。しかし、事實といふのも、その時點の技術の限界内で事實と思つてゐるだけである。測定技術の發達により、事實そのものが否定され、新しい事實が發見されてていく。

 「科學の結果だけが求められ、その本質である合理的思考のプロセスは求められてゐない。」
 くどいやうだが、科學の本質は、自然法則の假説を提示することにある。そのために、合理的思考も必要であらう。しかし、そこに科學の本質があるわけではない。
 また、合理的思考は科學の專賣ではない。技術においても、政治の世界でも、いや、すべての人間の營みにおいて、合理的思考は必要である。
 もしかすると、昔の日本人とか、原始人とかは、合理的思考はしてゐなかつたと思つてゐないか。そんなことはない、人間は常に合理的思考をしようとするし、それしか出來ない。

 昔の人は合理的でないものを信じてゐたと思へるかもしれぬ。しかし、例へばビッグバンなど、最先端の物理も、ひよつとしたら、何十年後、何百年後には、全く根據のないことをよくもまあと言はれるかもしれぬ。勿論、ずつと生き殘る可能性もあるが。

世界の機械化 (H18.10.22)

 今の世の中、「科學的」といふ呪文を稱へると、すべて眞實だと信じ込まれる。本來、科學は假説である筈である。その科學の息をちよつとかけると、直ちになにもかも眞理と化してしまふ。なぜこんなことになつたか。
 どうも日本だけではなささうである。歐米人も科學的といふ言葉をよく使つてゐる樣である。日本ほどひどくはないのかもしれぬが。

 理想もさうである。民主主義は理想、民主主義の理想などと、大安売りされてゐる。今にも實現されさう、といふより、地上のどこかでは既に實現されてゐる樣な口吻である。

 キリスト敎は、もともと、イエスが神だつたとしてゐる。といふことは、一度はこの世に理想が出現したといふことになる。こんな馬鹿なことを言つたのは、イエスの弟子達がユダヤ人であつたからだらう。ユダヤ人にとつて、神とは族長程度のものでしかなかつたのではないか。しかし、その族長が唯一絶對の神となつたものだから、をかしなことになつた。
 しかし、カトリックはこのことに蓋をした。カトリックは、そもそも、イエスの教へを無視して、敎會といふ聖俗を統一した救濟の施設に所屬しさへすれば皆天國に行けるとした。教へを忠實に實行することは不可能と知つての聖俗一致であつた。

 プロテスタントは、愚直にイエスに從はうとした。その結果、イエスの神性にもまともにぶつかつた。そして、神が自分の似姿に人間を造つたからには、自分たちにも神性が一部あるはずであり、神の眞理の斷片は掴めると考へた。本當は、自分たちが神を人間の似姿に造つてゐるのであるが。
 斷片は掴めたとしても、それをいくら繋ぎ合はせても全體には到達できない筈である。しかし、彼らは、イエスが一旦はこの世に現れた以上、眞理もこの世に現れ得ると考へた。
 汚い陶器のかけらを掘出しても、それが立派な美術品の一部かもしれぬと思はねば、それ以上の斷片を探さうとはしないだらう。しかし、それが眞理への道だと思へば、斷片探しに熱が入る。かくして、近代科学が始まつた。

 それでも、初期の科學者は謙虚だつた。科學に裏打された技術がそれなりの成果を収める樣になると、次第に科學が假説であることが忘れ去られる樣になつた。

 今の世は、すべてが世界の完全なる機械化に向けられてゐる。世界の機械化といふのは、人間が自分の意志を實現するのに、全く人の手を必要とせず、機械がすべてを行つてくれる樣になるといふことである。かうなれば、人間は完全に獨立した個人として存在出來る。他人と爭ふ必要もなくなる。これは、神の國をこの世にうち立てることである。神の國といつて惡ければ、理想郷の實現である。ユートピアといふのは、そもそも、どこにもない場所のことだつた筈だが。

 神の國は、勿論、未だ實現してはゐない。しかし、いずれ到達できると信じられてゐる。といふことは、心理的には、既に實現しているのである。我々は、いまや神の國に住んでゐるのである。
 未知の場所に向つてゐるとき、道に迷ふと不安である。もしジャングルの中などであつたら、永遠に脱出出來ないのではないかと思つたりする。しかし、たまたま平地に出て、目的地への高い目印を見つけたりしたら、安心して、もう着いたかの樣に感じるだらう。

 科學と技術により理想郷が實現できると信じた途端、心理的には我々は理想郷にゐるのである。そして、すべては理想郷の改善に向けられる。さうしなければならないといふ強迫觀念を生じ、人間はそのための機械になつてしまふ。機械化された世界のひとつの機械と化してしまふのである。

ジョン・レノンのイマジン (H18.11.12)

 ジョン・レノンのイマジンを聞くと、英米人の生き方がよく分る。
   Imagine there's no heaven
   It's easy if you try
   No hell below us
   Above us only sky
   Imagine all the people
   Living for today...
この歌の裏を返せば、人々は地獄に落ちたくないと必死になつてゐるといふことである。今日のためでなく、のちの世で苦しまないで濟むようにと禱つてゐる。

 ジョン・レノンがどこまで本氣だつたのかは分らぬ。小野洋子に目が眩んで書いたものかもしれぬ。しかし、夢としてこんなことを考へてみたくなるといふのは、僞りのないところだらう。

 實際、のちの世のために生きるといふことを改めねば、世界は生きた屍状態から再生出來ぬ。

(H18.11.17追記)
 この歌の樣ではいけないとずつと思つてゐた。實は後の方しか記憶になかつた。
   Imagine no possession
   I wonder if you can
   No need for greed or hunger
   A brotherhood of man
   Imagine all the people
   Sharing all the world...
そんなことを言ふのなら、まず己が財産をすべて擲つてみせればいいのである。人は、生きていく限り、必ず他人と衝突する。餘裕があれば道を譲ることも出來よう。しかし、生きるか死ぬかのぎりぎりの時になつても譲れるか。イエスは讓るかもしれぬが。
 逆に、みんながみんなさうなつたら、世の中崩壊してしまはないか。生きようとい本能を殺して、あの世での安逸を願ふのみ。これは死の世界である。
 冒頭の句は、かういふ死の世界への反撥だつた筈である。ところがすぐその次からをかしくなる。no heavenとの語呂合せかもしれぬが、no countriesときたものだからをかしくなつた。
 既成の權威と思はれるものに反撥したらかうなつたといふだけかもしれぬ。しかし、heavenとcountriesとでは宗敎と政治、或は理想と現實であり、同類ではない。
 しかし、出だしにheavenやhellが出てきたといふことは、それだけ、hellの重壓を感じてゐるといふことなのではないか。

カルヴァンの二重豫定説の目的 (H18.12.2)


-カルヴァンは、なぜ、ある者は永遠の地獄に落ちると豫定されてをり神もこれを變へられぬという敎説を主張したのか-

 豫定説とは、すべてがこの世の始りにおいて決つてゐるといふ決定論のことであり、絶對神を假定すれば、論理的には必然である。すなはち、法則が決り、初期条件が與へられれば、その後の現象はすべて決つてしまふ。
 しかし、それでは人生生きるに値しなくなるので、カトリツクは、神の恩寵により人間には自由意志が與へられてゐるとした。
 ところが、宗敎改革者ルターは豫定説を主張した。これは自分の救ひが自由意志により不確實になつては困るといふ、まことに身勝手な思ひに發してゐた。ただ、ルターの場合は、豫定説は敎義のなかで重要な位置を占めてはゐない。
 これに對して、カルヴァンの場合は、その二重豫定説は敎義において非常に重要なものとなつていつた。二重豫定といふのは、ある者は天國の救ひに、ある者は地獄で永遠の責苦に豫定されてゐるといふものであり、信者たちを地獄落ちの恐怖に戰かせたのである。
 ウェーバーによると、カルヴィニズムが有害であるとして政府から攻撃を受けた點は、何よりもまずこの敎説であつた。ピューリタンであつた筈のミルトンが、「地獄に堕とされようとも、このやうな神を尊敬することは出來ない」と言つたという話があるさうだが、確かに、ある者は初めから地獄落ちに決つてゐて、いくら頑張つても變へようがないといふのは、あまりに悲慘である。
 この敎義は、カルヴィニズムの信者達の行動樣式に大いに影響した。しかし、二十世紀初頭においても、ウェーバーによれば、敎養ある人でも誰でもがこの敎説を知つてゐる譯ではない状況であつた。

 イスラム敎も決定論であるが、決定されてゐるのはあくまで現世のみであり、あの世のことまでは云々してゐない樣である。
 確かに、神はこの世を創造した時に、被造物はある法則に従つて動く樣に定めたかもしれぬが、あの世のことは、法則があるのかどうかさへ分らぬといふべきであらう。被造物が神の意志に反して勝手なことをしては困らうが、神自身は法則に縛られることもあるまい。もし縛られるとすれば、神を越える法則があることになり、それこそが本當の神であることになる。

 カルヴァンの二重豫定説が變つてゐるのは、あの世のことまで決定されてゐるといふことと、神に見放され地獄に落ちる人間がゐるといふことである。これはユダヤ人の考へたことと同じである。ユダヤ人は政治的に辛酸を嘗めたが、不思議なことに、何とか打開しようと現實に努力をするよりも、選民たる自分たちに神が救ひ主を送込んでくれるといふ幻想に賭けてゐた樣である。その夢が破れると、この世で駄目ならあの世で復讐しようと、默示文學が書かれるやうになる。新約の默示録も、ローマ人への復讐の大活劇である。
 この世では駄目だから、あの世では確實に這ひ上がらうといふ魂膽である。その時、自分が救はれればいいので、どさくさに紛れて他人を地獄に落す必要は本當はない。しかし、憎い敵も一緒に天國に行くのでは面白くない。だからどうしても地獄がいる。天國に入つても、地獄に落ちるやつがゐなければ、いいところに來れたといふ實感がわかない。劣等感を持つた人間は、その裏返しで妙な優越感を持つてゐるが、そのためには見下す相手がどうしてもいる。ユダヤの選民思想もしかり、カルヴィニズムもしかりである。

 カルヴィニズムの場合、敎義上の論敵との論爭が進むとともに、二重豫定説の重要性が増していつた。カルヴァンは自分が救はれること自體は確信してゐるので、問題はただ敵を地獄にたたき落すことであり、二重豫定でなければならなかつた。彼には、誰が救はれ誰が地獄に落ちるかは、はつきり分つてゐるのである。默示録の作者がさうであつたやうに。そして、敵を確實にたたき落すために、神の豫定は絶對で變更できないといふ豫定説を主張したまでである。
 すなはち、二重豫定説は、カルヴァンの信仰から出て來たものでもなければ、神學的な論考から出てきたものでもなく、政治的な觀點から採用されたものに過ぎない。カルヴァンのみでなく、彼の信者たちも同じ樣にこれを恃んで戦つたのだらう。
 ところが、のちの信者たちはこれをまともな神學と受止めた。己の救ひを確信出來てゐない信者にとつては、二重豫定説は恐怖であつた。この誤解から、カルヴィニズムは、資本主義を、そしてアメリカのビジネス至上主義を産むことになる。

 (H18.12.16 追記) 宗派と敎義が確立したとき、信者には地獄に落すべき憎い敵はゐなかつた。敵がいれば、相對的に己は救はれると確信できるが、敵を持たない信者は、救ひを絶對的に證明する必要があったのである。

心は腦にあるか (平成19.1.3)

 香山リカといふ精神科醫が新聞に書いてゐた(平成19.1.1, 朝日新聞)。昔は謎の病とされてゐた精神の疾患も、最近は治療可能な腦の病氣とされるやうになつた。しかし、「藥だけぢやなく、もつと私の話を聞いてください」と訴へる患者さんを見るたび、「心とは脳の機能の一部ではなくて、腦を越えた何かなのだな」と感じずにはゐられない、と。一方、醫學の徒として、心が腦とは別に實體としてどこかに存在するものだと主張するつもりはないといふ註釋をつけてゐるが。

 ところで、心が腦にあると誰か證明した人がゐるのだらうか。「心は脳の中にあることを疑う人はもういないと思います。」とあるウェブサイトに書いてあつたが(http://www.toukoukyohi.com/trauma/nounokouzoutokokoro.htm)。
 心と腦の作用との關係がいろいろ調べられてゐるのは確かだが、それは心の機能の一部を脳がいかに受けもつてゐるかを解明してゐるだけであらう。心が脳にあるかどうかとは全く關係のないことである。すなはち、心の實體としては脳以外のものがあり、それが脳を制禦してゐるといふ可能性は誰も否定してゐない。逆に、心の實體が脳にあるとは誰も證明してゐないのではないか。

 心の機能の多くが頭にあることは、現代醫學に俟つまでもなく、自明であり、昔の人もさう思つてゐたのではないか。日常のもろもろの思考が頭で行はれてゐるのは紛れもない事實だと思ふ。例へば、數の計算は頭でやつてゐるし、また、自分といふ意識が頭の作用であることは、誰しも感じられると思ふ。
 それにも拘はらず、昔の人は、心の實體は腹にあるやうに考へてゐたのではないかと思はれる。といふのは、腹に心があるかのやうな言ひまはしが數多くあるからである。例へば、腹を割る、腹を決める、腹を括る、腹を立てる、腹が黒い、腹に一物、腹に据えかねる、腹を探る、腹が据わる、腹が太いなど、數へあげればきりがない。
 英語にはそれらしき言ひ方はあまりなく、むしろheartを使つた言ひ方が多い樣な氣がしてゐたが、考へてみると、gutといふ言葉がある。ガッツは日本語になり、勇氣あるいは根性といふ意味あひでよく使はれるが、調べてみると、本能あるいは感情のやうな意味にも使はれてゐるやうだ。
OED 2nd editionより
gut 2.h. fig. Used, chiefly attrib., of an issue, question, etc.: basic, fundamental; also, of a reaction: instinctive and emotional rather than rational.
(用例から) 1969 Daily Tel. 14 Nov. 5/2 When we [sc. the Americans] first went into space, we had no idea how much it was going to benefit the economy. We went in as a gut reaction to the Soviet challenge.

 ところで、日本語には胸を使つた表現も多い。胸が騷ぐ、胸が熱くなる、胸が張り裂ける、胸が痛むなど。しかし、これは、心の動揺が心臟などの動きに影響する結果として、このやうに感じられるといふことではないか。心そのもののことを言つてゐるのではないと思はれる。
 これに比べて、腹に關する表現は、明らかに腹そのものに心があるかのやうな表現ばかりである。意識を越えた本當の自分、すなはち今日いふところの無意識なるものが、腹に宿つてゐるかのやうな感じを受ける。
 ロレンスは、受胎のとき、すなはち、卵子と精子の核が融合したとき、自分は自分であるといふ「根源的意識」が生じると考へた。そしてそれはすべての細胞核に存在するが、最初の核がなほ中心であり、根源であつて、それは太陽神經叢に含まれてゐるといふ。すなはち、受胎により出來た核は太陽神經叢になり、最初の分裂により生じる第二の核は腰椎神經節になるといつてゐる。といふことから、ロレンスは、「根源的意識」は太陽神經叢に宿ると考へてゐる。
 太陽神經叢が「根源的意識」すなはち「無意識」あるいは心または魂のありかであるか否かはともかく、心が頭など一部の器官にのみ存在してゐるとはなかなか言へぬやうに思へる。すなはち、受胎の瞬間に魂が宿るといふのが正しいとすれば、魂はひとつの細胞に宿つてゐることになり、特定の器官を必要としないことは明らかである。むしろ、全細胞に、あるいは全體としての人間に宿つてゐると考へる方が自然である。もし、心が脳にあるとすれば、他の器官なり細胞なりにはなぜ心がないのかを證明する必要がある。また、脳が出來るまでの間は、心はどうなつてゐるのかを説明する必要がある。

神になる幻想 (H19.5.23)


 支那にも科學があつたと支那の博物館に色々展示があつた。しかし、それは科學ではなく技術であらう。要するに生活の役に立つことである。近代の科学はキリスト敎から生れたもので、神の創つた自然を理解したいといふだけのものであり、役に立つなどといふことは眼中にない。

 原文を読んだことはないが、ニュートンは盛んに神を讚美してゐるさうである。讚美するといふのは、心のどこかにその樣になりたいといふ願望があるといふことである。本人は意識していないかもしれぬが。さらにいへば、いずれはその樣になれるといふ見込みがあるといふことである。
 惡魔のまいたゑさに食ひついて仕舞つたのである。人間が神になるなどといふことはあり得ないことである。しかし、キリスト敎は人びとにその樣な錯覺を与へた。イエスが神であったといふことは、この世に神が現はれたといふことになる。

 カトリック國では科學は細々と續けられたが、プロテスタント國では技術と結合して近代技術として發展した。金儲けのための技術を開発するうへで科學が有用であることが分つたのである。技術の發達による計測の進歩がさらに新しい技術の發達の種を産む。無限の自動循環運動に陷つた。

 アメリカでは科學をやつてゐるか。やられてゐるのはあくまで技術である。科學思想に裏打された近代技術である。技術の進歩により、より精緻な觀測が出來る樣になる結果、科學の枝葉も伸びてはゐよう。しかし、科學の根幹は何も變へてゐない。そもそも科學の假説を構築しようといふ氣持はない。科學の根幹を擔當して來たのはヨーロッパである。

 そもそも、技術は科學のやうな假説に頼つてはゐられない。確實にものを造るためには、基本的に頼れるのは經驗だけである。科學の假説などを信じてゐるいとまはない。勿論、論理的な思考は大事であるが、それは科學のやうな假説を構築するのとは違ひ、經驗的事實、實驗結果から何らかの歸結を見いださうとするだけである。

個人の確立 (H19.7.14)


 ヨーロッパでは個人が確立されてゐるが、日本では個人の輪廓が曖昧で互ひにもたれ掛つてゐるといふ。
 これに對して、安部公房は、日本人はもともとはじかれて生きてをり、はじかれるのが怖いから義理人情を重視するやうになつたと言つたといふ。
 はじかれてゐるといふのがどういふことなのかよく分らぬが、確かに日本人は助け合つて生きてゐる譯ではない。身内でなければ自分と全く関係ないと思つてゐる。身内は勿論助けあはねばならぬと思つてゐるが、よく考へてみると、助けあふといふより、目下の者を助けるといふだけで、相互にもたれあつてゐる譯ではないやうである。

 人間一旦親の腹から出てきたら、自分で生きていくしかない。勿論、赤ん坊のうちは母親の助けなしには生きていけないが。とはいへ、親は助けるだけで、たとへ赤ん坊でも自分で生きてゐる。
 どんな人間でも個體である以上個人としてしか生きられない。人の痛みはわからぬし、いざとなれば頼れるのは自分だけであり、死ぬときはひとりである。しかし一方、人は一人では生きられず、群れをなして生きる動物であることも確かである。そして、大事なことは、個人よりも群れの存續が優先されることである。個人はいつか倒れるが、社會は存續する。それを信じなければ人間は生きていけぬし、死んでもいけぬ。個人は全體の一員と位置づけられて初めて生を意味あるものとなし得る。これこそ人類普遍の原理であらう。

 日本においては、全體は單純である。昔、江戸時代は國つまり藩が全體であり、今は國すなはち日本が全體である。ヨーロッパにおいては、部族とか、都市とかのいろいろのものがあり、事情は複雜である。しかしそれを全て束ねてゐたのが教會である。
 都市、民族、國、いずれも仕へるべき全體ではあるが、絶對的なものではない。場合によつてはいろいろな全體の要求が食ひ違ふこともある。義理と人情の板挾みといふやつである。それを一刀兩斷に解決するのが神であり、教會である。

 ところで、神は絶對である。絶對はこの相對の世界とは相ひ渉らぬ。それゆゑ神の考へは人間には知りやうがない筈である。ところが神の聲を聞く人がヨーロッパにはゐる。聲は聞かないまでも、自分の主張の正しさを絶對的に信じてゐるかのやうに見える人がゐる。神を信じるのではなく、自分を神にしてゐる子供のやうな人としか見えない。これで個人が確立されてゐると言へるのだらうか。
 確かに、ヨーロッパ人は自分を客觀視出來る。自分に對して「お前は」と語りかける。あたかも神が語りかける樣に。こんな藝當を續けてゐる結果、自分を神にしてしまふのか。
客觀視してゐるつもりで、結局は、はなはだ主觀的になつてゐるだけなのではないか。しかも本人は客觀視してゐるつもりだから始末が惡い。

 ヨーロッパは確立した個人がせめぎあつてゐるから個人主義なのではない。教會の權威が薄れ、結びつくべき全體を見失ひ、個人として放り出されて仕舞つた爲、個人で生きていかねばならなくなつてゐるだけである。頼るべきもののない個人が、縋るべき全體を見い出さうと足搔いてはゐるが、見つかるまでは何とか獨りで生きていかねばと惡戰苦鬪してゐるのが實態なのではないか。さういふ情況で揉まれてゐるから、日本人と違つて、しぶとく生き殘る強さは備へてゐるが、かといつて、個人が確立されて勝誇つてゐるわけではない。個人主義は榮光のもとに生れたのではなく、プロテスタンティズムの錯誤の産んだ混亂に過ぎない。

 日本人は日本といふ全體を持つてゐる。日本人は、ヨーロッパ人と違つて、日本人としての自分以外の自分を想像すら出來ない。男が女としての自分を想像で出來ない樣に。これは世界中でも珍しいことなのであらう。
 こんな日本人であるから個を強く出さずに生きていけるのは當然である。救ひは保證されてゐるので、政治や經濟などはよきに計らつてもらつて、自分は趣味の世界に遊んでゐたい。個といふものがあるとしたら、それが個である。政治や經済など社會生活では、個人はただ役割を演ずるのみである。

 しかし、ヨーロッパのやうな惡貨と付合つていくためには、日本人もいよいよ太平の眠りから覺めて、ヨーロッパのやうなしぶとい政治性を身に付けねばならぬのか。幕末には蒸氣船に脅されて防衞のために洋才を導入したが、和魂はそのままであつた。確かに洋魂は導入されなかつたが、和魂を大いに痛めつけてゐる。洋魂をいまさら導入しようとしても、付け焼刃で和魂が餘計歪むだけである。かといつて、昔の和魂にも最早戻りやうがない。しかし、殘つた和魂を大事にしていくしか日本人の生きる道はないのではないか。

一夫一妻制の崩壊 (H19.11.3) 續編


 一夫一妻といふのは、哺乳類には少いらしい。手長猿などに見られる程度だといふ。多いのは鳥だといふ。卵の孵化やその後の育兒に雄の助けが必要であるからではないかと言はれてゐる樣である。
 人間が一夫一妻制なのも、育兒に手間がかかるからだらうか。だとすると、昨今の樣に子供を託兒所に預けて女も働く樣な世の中になると、一夫一妻制は崩壊するのではないか。少くとも、その必要はない。亂婚或は一夫多妻、一妻多夫、何でも構はない。

 キリスト教は、倫理的によくないと言ふだらうが、我々日本人には關係ない。

 問題は、隨伴する家族の崩壊である。子供にとつて、親が片方しかゐないといふのは、問題ないだらうか。子供の方は、母親さへゐれば問題ないのかもしれぬ。それより、親の方が問題で、男は家族がなく單獨で暮すことになる。その孤獨に耐へられるか。
 よく、猫の雄は何のために生きてゐるのかと思つた。さかりのついたときに雌を追ひ囘すだけで、後は何をしてゐるのか分らぬ。單獨生活なので日々の獵をしてゐるのであらうか。

 キリスト教に逆らつて、ヨーロッパなどでの方が、先に未婚の母が増えたりして、段々そのやうになつていつてゐる樣にも見える。プロテスタントは、もともと、共同體から切離されてをり、孤獨に耐へる生活を強られてゐる。それゆゑ家族は最後の砦として大事にしてきたやうに見えるが、それもなくなると、本當に孤獨な生活を送ることになる。
 子供は欲しいが、結婚生活に耐へられないといふことなのかもしれぬ。銘々が己の救ひの確保に追はれてをり、他人のことに構つてゐられないといふことか。

(H19.11.10 追記)
 テレビでイギリスの話をやつてゐたが、獨身女性が人口授精や養子縁組で子供をもたうとしてゐる。或る人は、醫者に診斷して貰つて妊娠出來るのがあと數年と言はれ、しばらくは男を探すが、駄目なら人口授精を考へるといふ。別の人は、今まで散々男運が惡かつたのでもう諦めて人口授精を頼むといふ。また、男も探すが、養子を探してゐる人もゐた。何れも三十台であつた。
 男はいらないとは言はぬが、なければなくても仕方ないといふ感じで、しかし、子供はどうしても欲しい樣である。女として生れたからには何としても子供が欲しいといふ執念が感じられる。男とか結婚とかは二の次である。それも欲しいのは欲しいのだが、よくよく考へてみたら、子供を得るための手段に過ぎないとも言へ、本當にどうしても欲しいのは子供だといふことの樣である。

 以前、ジョン・レノンのイマジンについて書いたことがある。その時は何とも思はなかつたが、あれは一種預言なのかもしれぬ。「豫言」ではなく、神の言葉を伝へるといふ「預言」である。神から聞いたかどうかはともかく、かくありたいといふ願ひである。イギリス人は、地獄落ちを氣にせず、今日のために生きようとし始めてゐるのかもしれぬ。
    Imagine there's no heaven
    It's easy if you try
    No hell below us
    Above us only sky
    Imagine all the people
    Living for today...

 カトリックも、教會に來ないと地獄落ちだと脅しはしたのだらうが、教會に任せれば必ず救はれるとした。地獄落ちを心配する必要はなかつた。安心して異敎の世界に遊んでゐられた。しかし、プロテスタントは、教會の救ひが信じられず、自分の救ひを自分で確保しようとした。ルターにしろ、カルバンにしろ、創始者たちは自分の救ひを確信してゐた。自分の救ひが變つては困ると、また、憎い敵ローマが確實に地獄落ちする樣にと、豫定説を唱へた。それが後代にとつては重荷となつた。自分が果して救はれる身なのか一生掛けて證明せねばならなくなつた。
 もともと、イエスは愛の神を説いた。それまでの裁く神ではなく、信ずる者はすべて救はれると敎へた。心の持ち方次第でこの世は即天国になると。すなはち、心を貧しくしてすべてを捨てれば、何も思ひわづらふことはない。

 しかし、それは普通の人間に出來ることではない。また、皆がさうなつたらこの世は成立たぬ。そこにカトリック教會の出番があつた。イエスの教へに忠實に生きることは到底無理なので、今までと同じ樣に生きてゐても、教會が信者を正しく導いてくれるといふ譯である。
 プロテスタントの開祖達は、この事が分らなかつたのか。或は、ローマに金を持つて行かれるのが口惜しかつただけなのだが、金のことだけでは楯突けないので、免罪符では救はれぬと言ひだしたのか。いずれにせよ、一旦救ひを持出すと、それを追求しない譯にはいかなくなる。
 信ずる者は皆救ふ愛の神の救ひを疑ふといふことは、もはや愛の神ではなくなり、裁きの神に變質したことを意味する。かくして人びとは地獄落ちの恐怖に恐れおののくことになつた。今日のためではなく、あの世のために生きる樣になつた。

 クロムウェルの清敎徒革命で、イギリスの歌舞音曲は大きな打撃を被つたといふ。例へば、それ以前のイギリス人は樂器のひとつやふたつはひいたものだが、これ以降はさつぱりだといふ。現世の生活を樂しむ樣な者は地獄堕ち間違ひなしといふ譯である。食事が不味いのも、ラガーでなくエールを、それも生冷えでしか飲まぬのも、すべてそのためであると思ふ。命を維持するのにビールはいらぬが、永年の習慣だからこれ位は何とか許されるといふ發想ではないのか。イギリスでは、大陸と違つて、朝食をしつかり食べるが、それもしつかり働くためであらう。また、晝食をゆつくり樂しんでたらふく食ふ譯ではないことも、その理由であらう。

 かうして産業が發達し經済が發達した。しかし、人類は益々貧しくなる一方である。例へば、女も働かねばならぬ世の中になつた。人びとはみな勞働の重壓にあへいでゐる。
 何をさう急がねばならぬのか。キリスト教はもともとこの世を天國にしたいと思つてゐる。したいといふのではなく、正しくは、考へ方ひとつでさうなるとイエスはいつた。ところが、プロテスタント達は、選ばれた人間として、この世に神の榮光をもたらさねばならぬと考へたのか、理想郷を目指して世界の改造に乘りだした。

 確かに、ヨーロッパの都市は理想郷への一歩として建設されて來たやうに見える。高さも揃へ、整然と統一された街竝は、あきらかに永遠の都市を意識して造られてゐる。最近の新市街は、ドイツなどでも、高層化により高さも揃へてとはいかない樣であるが。

 ヨーロッパは教へに忠實たらんと勵んでゐるのだが、イエスはそんなことは言はなかつた。物質をいくら積重ねても天には届かぬ。バベルの塔は決して天國に達しない。イエスにより一度はこの世に天國が出現したのだから、必ず物質的理想郷に到達できるとキリスト者は思つてゐる樣だが、それは大きな勘違ひで、無限大には生身の人間は決して達し得ない。自然法則は神でも曲げられぬ、一旦決めた以上は。
 それこそ神の恩寵が必要である。恩寵により自由意志を與へられた人間は、心の持ち方次第でこの世を樂園となすことが出來る。物質的には貧しくとも。そもそも物質は生きていくために必要なだけで、足りなければ困るが、かといつてこれをいくら追求しても天國とは無縁である。

 裁きの神は人類に恩寵は與へて呉れない。プロテスタントの神は、豫定説の神であり、機械仕掛の神である。自然法則そのものである。すなはち、豫定を變更して人間に救ひといふ恩寵を與へることは出來ない。自然を造つた神は、自然に法則を與へたが、自分はその外にゐる。しかし、プロテスタントの神は自然の中にをり、自然そのものであり、同じく自然の中にゐる人間に恩寵を與へるやうな法則破りは出來ない。
 神は自然法則を造つたが、それはあくまでこの世の法則である。この世に關しては、法則が決り、初期條件が與へられれば、後のことはすべて決定される。確かに豫定説は正しい。しかし、自然法則はあの世には及ばぬ筈である。救ひはこの世のことではなく、あの世のことであるとすれば、豫定説は成立たぬ。神は自然の外にゐる。神はすべてを超越してゐる。

 チェスタトンは進化論は思想を破壞する思想であると言つたが、豫定説こそ思想を破壞する。なぜなら、すべてが豫定されてゐるのなら、何を考へても何を言つても現實に對して意味を持たない。それに、恩寵による自由意志を與へられぬ人間には、現實を變へる樣なことを考へる能力はない。



なんでも科學といへばいい (H19.12.17)


 なんでも科學といへばいいと思つてゐるのではないか。今日の新聞に「その子育ては科學的に間違つてます」といふ本の廣告があつた。子育てがなぜ科學なのか。或は、子育ては科學ではないが、科學により取扱へるといふくらゐに思つてゐるのか。

 先ず、子育ては科學ではない。科學は自然の法則を見つけようといふものであり、子育ては自然法則とは無關係である。

 次に、科學が取扱ふのは自然である。子育ては自然ではない。例へば、社會科學などといふのもをかしな言葉であり、社會は自然ではなく、科學の對象ではない。
 しひていへば、「科學的」な手法を用ゐるといふ氣持なのだらう。「科學的」といふ言葉で何を意味してゐるのか。恐らく、データに基づいて考へるといふくらゐのことであらう。しかし、どんな學問でも何らかのデータに基づいて思考してきたのである。科學もデータを取扱ふが、それは科學の專賣ではないし、また本質でもない。科學の本質は假説を立てることにある。假説の檢證のために實驗を行い、データを採取する。
 データにより檢證されたと思つても、それはその時の技術水準での檢證である。技術が進み測定の精度が上がれば、くつがへされることもある。科學は眞理ではない。せいぜい、現時點での近似でしかない。

天は自ら助くるものを助く (H19.12.31)


 「天は自ら助くるものを助く」といふ格言の樣なものがある。小學校の敎科書にのつてゐた。自力で努力すれば天が助けてくれるといふやうな意味だと敎わつたが、「自ら助くる」といふ言ひ方が、日本語としては少し變調に思はれ、その意味も納得がいかなかつた。

 最近辭書で調べてみると、この諺の原文は、'Heaven helps those who help themselves.' であるとなつてゐた。また、サミュエル・スマイルズといふ人の著書で、明治時代に飜譯され出版された有名な「西国立志編」にあるといふ。多分、これが日本に廣まつたもとであらう。
 飜譯に關して言えば、「自ら助くる」などと舌足らずな表現をせずに、文字通りに、「自らを助くる」と譯すべきところであると思ふ。それなら意味は一應分る。

 しかし、ずつと前に Benjamin Franklin (1706~1790) の引用として 'God helps those who help themselves.'を見つけたとき、「自ら助くる」の意味がやつと分つたやうな氣がした。アメリカのピューリタンの末裔であるフランクリンが好きな格言であるとなれば、「助く」の意味が自ずとはつきりしてくる。

 ウェーバーが書いててゐるが、「カルヴァン派の信徒は自分で自分の救ひを-正確には救ひの確信を、といはねばなるまい-『造り出す』」のである(マックス・ウェーバー、梶山力、大塚久雄譯、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神)。カルビニズムにおいては、現世において神の榮光を増すために、被造物界を秩序立て神の意志に従はせるべく努める義務が、選ばれた人間にはある。そして、その目的のためのみに生活を組織化し、毎日努力していくことで、信徒は自分が救ひに選ばれてゐるとの確信を持てる。
 單に世のため人のために努力すれば救はれるのではない。被造物そのもののために盡すことは、被造物神化になり、逆に不敬となる。被造物がより神の意志に従ふやうにすることのみが、神の榮光を増すことになるのである。具體的には、この世の合理化といふことで、社會の改良、機械化に繋つていくのである。