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#Contents() *神の聲 歐米人は神の聲を聞く。彼らにとつて神は身近な存在である。家族の樣なものであり、父に比せられる。フランス語なら tutoyer する仲である。英譯聖書でも、イエスは、'My God, my God, why hast thou forsaken me?' と、thou を使つてゐる(American Standard Version)。 いつも神に話しかけてゐるせゐか、彼らはときに神の聲を聞く。ピューリタン革命の Oliver Cromwell (1599~1658)などはその最たる例である。彼は、「この貧弱な軍隊の中に大いなる神は姿を現してくださつた」と書いたそうである(大木英夫、ピューリタン、中公新書, 1968)。Jeanne d'Arc (1412~1431)などもさうである。絶對の神がなぜ特定の人物や集團を贔屓にするのか、日本人には理解できない。神と言つても、ユダヤの部族の守り神の域を出てゐないのではないかといふ氣がする。 しかし、これら宗教がかつた人たちに限らず、普通の人たちも似た樣なものである。鯨は神聖だからとつてはいけないと言つてきかぬ人たちが歐米には多い。インド人は、あなた方に牛を食うなと言ひますか、と言つても、なにを言っても、兔に角いけないと言つてきかぬ。多分神の聲を聞いているのだらう。 歐米人は、自分自身に對して、「お前はなんでそんなことをしたのだ」などと話しかける。日本人なら、「俺は」といふ處である。自分の中にもう一人の自分がゐて、自分を客觀的に見てゐる譯である。 その結果、自分を客觀的に眺められてゐるか。さうは見えない。單なるエゴイズムを眞理であるかの樣に臆面もなく主張するのに役だつてゐるだけの樣に見える。 彼らの自問自答は、神から話しかけられてゐるかのやうである。しかし、所詮、神を演じてゐるのは自分であり、自分を神にしてゐると言へる。自分を神にしてしまふと、人間何も見えなくなる。 本來、神は各人に多樣に語るといふ認識があつた筈である。他人の意見を聞くといふ民主主義の原理もそこに基盤があつた。つまり、神の似姿である人間は眞理を掴めるはずといふのがキリスト教の考へ方であるが、しかし、人間である以上全貌は掴めず、斷片しか得られぬといふ認識があつた。各人の掴んだ斷片を繋ぎ合はせていくことで、少しでも眞理に近づかうといふ認識があつた。それが今は忘れられてゐないか。 思ふに、科學萬能の影響があるのかもしれぬ。科學はもともと假説にすぎぬのに、「科學的眞理」などと、ことばの矛盾に氣がつかぬ。人間の分際で眞理などとおこがましい。 そもそも、眞理の斷片を掴めるといふ發想が間違ひではないか。チェスタトンは、キリスト教の神が一度は地上に現れたといふ考へから、ヨーロッパは不可知論に陷らずにすんだと言つてゐる。しかし、不可知論のどこが惡いのか。不可知論は無氣力と停滯をもたらす樣なことを書いてゐたと思ふが、もしさうだとしても、ヨーロッパの樣な倒錯よりはましではないか。 H16.12.5 *Simon Birch 'Simon Birch' といふ映畫を DVD で見た。ニューイングランドの Maine 州 Gravestown といふ町での話で、一種ピューリタニズムの宣傳映畫である。出てくる教會はカトリックであつたが。 Joe といふ十二歳の少年と、その友達の Simon Birch といふ、病氣で背は低いが顔は少し大人びた少年が主人公である。Simon は、背が伸びないのは、自分が英雄になるといふ神の計劃があるためだと信じてゐる。 みんな Simon を輕んじてゐた。ところが、實際、Simon は十二人の少年の命を救ひ英雄になる。少年たちを乘せたバスが冬の川に滑り落ち車中に水がどんどん入つて來る。運轉手は自分は泳げないとすぐに逃げてしまい、殘された少年たちはパニックに陷つてしまつた。そのとき、Simon は、流れは速いが淺いことに氣附き、皆を落着かせ、一番大きな Joe に一人づつ抱へて岸に渡らせる。そのあとバスはさらに流され、殘された Simon はバスとともに深みに沈んでいく。ところが、Simon は小さな窓から拔け出して助かる。そして、收容された病院で、Joe に、自分の老けた顔と体の小ささが役立つたと話した後、'Gotta go now' の言葉を殘して息を引取る。 一旦助かったのに、神に召されていくといふのは不自然に感じるが、英雄になる使命を果したからといふキリスト教的演出であらう。 Simon は神父に、神の計劃について確信がもてなくなつたと惱みを相談したりもするが、最後は確信に滿ちて旅立つ。ピューリタンが救はれるべく神から撰ばれてゐるといふ自覺を持つてゐるのと同じである。 ただ、キリスト教は、いついかなる時にも人に誠實に生きようとする力を與へるといふことは言へる。 不遇といふのは神の試煉であり、さういふとき人は限りない力を出すことがある。それがなければ得てして平凡なことしかできないのに。 H16.12.19 *日本人の信仰は現世利益が目的  日本人にも信仰を持つ人はゐる。キリスト教徒も、教会がいふには全人口の1%ゐるさうだ。しかし、問題はその中味である。  宗教とは、煎じ詰めればあの世のことを保證してくれるものである。人間みな死ぬのが怖い。死んだ後どうなるのか不安である。それを宗教が保證してくれる。  ところが、日本人には死後の世界といふものがない。死んだら終りと思つてゐる。歐米人にとつては、死んでも魂は殘るといふのが常識であり、すべての前提である。  なるほど、唯物論といふのもある。しかし、唯物論は觀念論から派生したものにすぎず、絶對神の存在がその前提にある。絶對神により自然界の法則が定められてゐるので、物質は勿論、人間も物質から出來てゐる以上、その法則から逃れられぬといふだけの話である。八百万の神のやうに勝手気ままは許されぬといふことである。  つまり、神が人格を失つて機械的な法則に發展したといふことになる。神を信じてゐない、と言つても、法則或は眞理を信じてゐるとしたら、神を信じてゐるのと同じことである。では魂はどうか。魂は物質の作用の反映で、肉體が滅んだら消えるべきものであり、一場の夢にすぎぬと考へるとしたら、日本人と同じではないか。  しかし、日本人は永遠の眞理を信じてゐるか。眞理は兔も角、永遠などといふものは頭の中に全くないのではないか。歐米人は、永遠の魂を否定するとしても、永遠は信じてゐる。それだけは信じてゐる。いや、それを信じるために、最低限信じられる唯物論を持出したのであらう。唯物論を通じて、永遠を信じようとしてゐる。  日本人には、永遠もなければ、あの世もない。あるのはこの世だけてある。従つて宗教といつても、冠婚葬祭の儀式でしかない。神道は目出度い方を擔當し、佛教は、神道の一部門として、不祝儀の方を擔當している。  これに飽きたらず、眞面目に信心する人もゐる。しかし、何を宗教に期待してゐるのか。端的に言って、現世利益ではないのか。といふと、眞面目に天國に入ることを祈願してゐるキリスト教徒は怒るかもしれぬ。しかし、言葉の上でさう思ひ込んでゐるだけではないのか。文字通り金儲けを期待してゐるとは言はぬが、あの世での救ひを願ふことで現世での心の平安を得てゐるのだけなのではないか。  さういふと、歐米人でも心の平安を得ることは同じではないか、と思へる。同じかもしれぬ。しかし、彼らの場合、それ以上に地獄落ちへの恐怖が強いと思ふ。と言つて惡ければ、「眞理」に對して不誠實になつてゐないかといふ恐怖が根本にあると思ふ。 H17.1.1 *唯物論と觀念論  唯物論か觀念論かといふのは大した問題ではない。唯物論は觀念論の一分派にすぎない。神を素朴に信じられなくなつた人達が、代りに自然法則を絶對として崇拜してゐるだけである。しかし、法則がどうやつて出來たのかは説明できない。それを説明出來るのは觀念論だけである。  問題は、まず、唯物論や觀念論の樣に、絶對を信じるか否かである。日本人は、絶對神も信じてゐなければ、永遠不滅の自然法則も信じてゐない。つまり、日本人は、大部分、唯物論を信じてゐるつもりだらうが、實際には、唯物論と言へる樣なものではなく、單に、目に見えるものを信じ、目に見えないものは想像さへ出來ないといふだけである。  とはいへ、自然法則は信じてゐるのではないか。少くとも、科學に對する信仰は盛んな樣である。なるほど、「科學的」といふ言葉が呪文の樣に稱へられ、多くの人がそれにひれ伏してゐる。しかし、八百万の神のお告げにひれ伏してゐるのと同じではないか。それが現實に效果があるから、或は效果があると思はれるから、ひれ伏してゐるだけである。  科學は本來無益である。眞理を探求するものである。ただ、技術と結びつくことで實益ももたらして來ただけである。また、科學は神の造つた自然の法則を理解したいといふ欲求であり、そのための假説にすぎない。決して眞理ではない。  日本人の場合、科學といふありがたい眞理があり、そして、技術と結びつくことにより現世に實益をもたらすから、八百万の神のひとつとして信仰してゐるのである。あくまで、現世利益しか眼中にはない。  そんな日本人に科學精神はあるか。科學者は澤山ゐる。しかし、その現世での無用を確信しながら、ただ自然の法則を追求したいといふ情熱で科學者になつた人がゐるか。もし、少しでも有用を期待してゐるなら、それは科學精神とは異なるものである。  アメリカの場合、確かに有用性を重んじてゐる。だから、彼らは科學はやつてゐない。技術に專念してゐる。Institute of Technology すなはち「技術學校」が彼らの「科學」をやる大學である。技術のために有用だから科學的なこともやるといふことである。そういう意味では、歐米は、歐の科學、米の技術の分業體制になつてゐる。勿論、歐洲が技術をやらないわけではないが。  日本にも「宗教」と呼ばれるものは澤山ある。しかし、佛教にしても、本當に信仰してゐる人は少いが、その人達にしても、目的は現世利益である。必ずしも物質的利益とは限らない、心の平安みたいなものを含めてである。決してあの世のことを念じてなどゐない。永遠の命など夢想だにしてゐない。早い話が初詣に行つて何を禱るか。家内安全とか、健康とかであり、來世のことを禱る人など何處にゐようか。  なほ、日本の佛教は、いふまでもなく、神道の一部であり、おめでたいことはお宮、葬式はお寺と分擔してゐる。  本當に問題なのは、唯物論であれ觀念論であれ、絶対神或は絶對法則を假定すると、決定論になるといふことである。すべてが神の決めた法則通りに動くので、初期条件が與へられれば、その後のことはすべて決つてしまふことになる。論理的には決定論しかあり得ない。  絶對を理解してゐない日本人には、縁のない話である。しかし、世界は決定論の陷穽にはまつて苦しんでゐる。神をもたない日本人は、抵抗する術もなく、より深い地獄で苦しんでゐる。 H17.7.18 *神は人を助けるか  キリスト教徒はすぐ神の加護を願ふ。イギリスの国歌は God save the Queen である。個人的なことでも、何かにつけて、神に禱る。必ずしも加護を願つてゐるとは限らぬかも知れぬが、さういふ下心がないとも言へぬだらう。  これは、部族の守り神であつたユダヤの神をキリスト敎が受継いでゐるといふことであらう。勿論、欧米も最近は信じる力を失ひかけており、神に禱らない人も増えてゐるが。  絶對神は人を助けるか。絶對といふ以上、神はこの世と關はりを持つてはいけないはずである。この世と關はつては絶對性を維持出來ない。少くとも、相對の世界に感知される様な關はり方をすることはあり得ない。  神は自然を造つた。といふことは、法則を定めたといふことである。その結果、物質が出來た。そして生物を造り、人間を造つた。  生物や人間を、神が造つたといふのも、出來たといふのも、同じことである。神が始めに法則を定め、初期条件を與へれば、後は設計した通りに自動的に動いていくだけである。自然に出來た、といふことは、神の設計通りに動いてゐるといふことであり、神が造つたといふことと變りない。  神は人を助けたりはしない。神は自然を造つたが、後は自然法則にに任せてゐる。しかし、神の法則通りに動くといふことが、すなはち、神の意志通りに動いてゐるといふことである。特定のものを助けるとか、地獄に落すとかいふことはあり得ない。あるとしたら、有限の世界に關はることになり、絶對の存在でなくなつてしまふ。さういふ介入をする者があるとしたら、それは神ではなく、惡魔か何かであり、有限の存在である。すなはち、人間の心に巣くふ病のなせるわざである。  ところで、すべてが神の設計通りに動いていくだけだとしたら、この世は何なのか、人生生きるに値するのか、といふことになる。となれば、自由意志を假定せざるを得ない。神は、なぜかは知らぬが、人間に自由意志を與へた。すなはち、人間は神の定めた軌道から外れていくことができる。本當にできるかどうかは知らぬ。しかし、それを假定しないと世の中が成立たない。絶對神を假定しないと何も考へられないのと同樣に。 H17.9.11 *世にも不思議な物語  テレビの「世にも不思議な物語」をたまたま見たら、地獄が一杯になつて、惡人が死ねなくなつたといふコントをやつてゐた。それで、みんなが、死なずに濟むのならと、惡に走り出した。主人公の極道は、募金をつのる幼い子供の可愛らしさにほだされて善人になってしまひ、死にたくない堅氣の男に刺されて死ぬ。ところが、地獄は擴張されたが、今度は天國が一杯になってゐて、葬式の最中に生き返つて自分への香奠を募金に取上げるところで終つた。  この話を見てゐて、すぐ聯想したのは、ピュウリタニズムのビジネス至上主義である。金を稼げば永遠の命が得られると教へ込まれて、みんなで金儲けに邁進するといふお伽噺である。「金持が天國に入るのは駱駝が針の穴を通るより難しい」はずなのに。  永生を得るために魂を惡魔に賣り渡すといふ、このお伽噺は、今もつて續いてゐる。世の中が惡くなるはずである。そして、本國のアメリカやイギリスよりも、植民地の日本に於てその害は甚だしい。無防備な魂に惡魔の魔手が及べば、抵抗力が全くないのは明らかである。  このお伽噺の困るところは、自分だけは救はれたいと人を押しのけるところである。  この孤獨と家庭生活とをどうやつてバランスを取つているのか。いや、彼らは一方で家庭を非常に大事にする。何となく義務的な匂ひもするが。とは言へ、家族だけは最後の砦で、ここでだけは人を信じることが出來る。例へば、ヨーロッパでは、妻は夫の不利になる樣な證言は出來ない。それを許しては家庭という信頼の場が崩壊するのだらう。  家庭以外では不信を前提にしているから兔に角孤獨な鬪ひを續けるしかない。  これにどう對處すればよいのか。食はねばならぬから、ビジネスで後れを取ってはならぬ。といふと日本人はすぐそれだけになつて、他をすべて犧牲にしがちである。犧牲にするといふより、それしか考へることがないのである。  兎に角、日本人は、自ら省みて見苦しくない樣に生きるしかない。 H16.9.20 *諸惡の根源  プロテスタンティズムにより、キリスト敎世界は予定された神の國の建設に邁進することになり、人間はそのための齒車にすぎなくなつた。そしてそれに貢献することで、自分が救はれるべく選ばれた人間すなはち選民であることを證明しなければならなくなつた。これが今の世界の諸惡の根源である。  アメリカのビジネス至上主義はこの流れによつてしか理解出來ない。アメリカでは、ヨーロッパの樣に敎會離れ、いはゆる世俗化(secularism)が進んでをらず、宗敎或は宗敎的雰圍氣が生活を支配してゐる。日本に住みついたアメリカ人には、この重苦しい雰圍氣から逃れられて樂になつたといふ人が多い。  ビジネス至上といつても、アメリカの場合、ピューリタンの傳統からきてをり、金儲けのための金儲けではなく、自分が神に救はれる人間であることを證明するための證據として儲けた金額が必要なだけである。従つて、儲けた金は、慈善事業に寄付するなり、再投資するなりしなければならず、自分の贅澤や蓄財に廻してはならない。  このやうな背景であつてみれば、彼らのビジネスがゲーム化してゐると言ふのもなんとなく理解出來るのではないか。もともとヨーロッパでは戰爭もゲームとしてゐるくらゐであるし。ゲーム化してゐるといふのは、樂しんでゐるといふことではなく、いや實際密かに樂しんでもゐるかも知れないが、それはともかく、いくら儲るかだけに興味が集中し、その中味については何ら詮索しないことを指してゐる。例へば、もともとは恐らく助けあひの意味で始つた筈の保險でさへ、アメリカでは金儲けの對象になつてゐる。  「時は金なり」といふのはアメリカのピューリタンの標語である。彼らは自分が saint すなはち救ひに予定された人間であることを證明するために金を儲けねばならず、寸暇を惜しんで働く。ファーストフードもそのために開発された。食べる時間も惜しいといふ譯である。  彼らは自分が選ばれてゐるといふ自覺はあるといふ。それならば何も證據などいらぬではないか。しかし、選ばれている程の人間なら現世でも役に立つはずであり、それなら金も儲かるはずであるといふ論理で、金儲けに對して強迫観念を抱く樣になつた樣である。それに加へて地上に神の國を建設するといふ使命感といふか、やはり強迫觀念みたいなものもあるのだらう。  しかし、選ばれてゐるのは死後の世界でであつて、地上においてではない。地上でも役に立たねばならないといふのは、論理的にはをかしい。もともと、救ひは神の恩寵によるもので、善行によるものでもなければ、信仰によるものでさへなかつた筈である。少くともルターにおいてははさうであつた。強迫觀念としか言ひ樣がない。  そのため、彼らは生活を楽しむことを知らぬ。樂しんでゐてはいけないのである。そんなことでは地獄に落ちるしかない。永遠の生命を得るためには、身を粉にして働くしかないのである。  食事は當然粗食である。勿論、世の中の役に立つべく、命を維持する必要があるから、ちやんと澤山食べねばならぬが。音樂とかもろもろの趣味をやるとしても、それで身を立てて金を儲けるのでなければ、仕事をよりよくやるための體調調整のために必要だといふことでからうじて認められる。スポーツは、體を維持するため、やらねばならぬ。こんな具合で、すべて、ビジネスのために捧げられる。  日本人をエコノミックアニマルとヨーロッパは蔑んだが、アメリカこそさうである。ただ、アメリカは神の國の建設といふ大義名分を旗印にしてゐるのに対し、日本は鮮明な旗がない所が違ふ。それでヨーロッパは日本を馬鹿にしてゐる。  しかし、大義名分を持たないから、日本はまともなのである。つまり、大義名分の實現のための道具に堕してゐない。大義を持つアメリカこそ、道具と化し、アニマルなのである。  これに對し、ヨーロッパは未だカトリックの傳統がからうじて生き殘つてをり、生活を楽しむ雰圍氣がある。勿論、アメリカを産んだイギリスなど、いくつかのプロテスタント國はアメリカに似てゐる。しかし、イタリア、スペインなどのカトリック國は、異敎の雰圍氣を殘し、優雅に暮してゐるのではなからうか。  イタリアは近代化が遲れたといふが、近代化とは何か。端的にいつて英米化である。すなはち、プロテスタント化である。カトリックの有機體を破壞し、人間を孤立させ、無意味な存在、單なる道具に貶めることである。  われわれは、どんなに苦しくとも、單なる道具になつてはならないと思ふ。日本にはカトリックの樣な防護壁がない。アメリカ化、グローバリゼーションに立ち向かふすべは何も持つてゐない。立ち向かふどころか、進んで受入れようとしてゐるかのやうである。しかし、日本は明治以来西洋文明を積極的に受入れてきた。それだけでなく、遠い昔には支那文明を受入れた。しかし、結局、自分の氣に入るものしか受入れず、氣に入らないものは知らぬ間にどこかに打ちやつてきた樣である。受入れた樣でゐて、表面だけで、肝心なところは何も導入してゐない。例へば、キリスト敎にしても、殆ど受入れてゐないし、數少ない信者たちも、どこまで本當の信仰を持つてゐるか知れたものではない。要するに、精神は全く受入れてゐない。これはつまり日本人には精神といふ才能がないといふことである。具體的な物、目に見えるものしか日本人は理解しない。であるから、いくらアメリカの眞似をしても、所詮形だけで、ピューリタン精神やその亞流の精神は入つて來るべくもない。  さういふ意味では安心してゐていいのだらうか。しかし、世の中の表向きだけはどんどん近代化、グローバル化し、舊態依然の中味との差が益々擴大して行くことになり、益々生きにくくなつて、人間がさらに歪められ、いじけてしまふのではなからうかと心配である。  とにかく日本人としての自分の感性を頼りに生きていくしかない。 17.10.10 *自由意志  絶対神を假定すると、決定論になる。すべてが神の決めた法則通りに動くので、初期条件が與へられればその後のことは決つてしまふことになる。  しかし、カトリックは自由意志を認めた。神の恩寵により人間に自由意志が與へられたとした。人間は神の似姿に造られたのである。 *豫定説  ある者は救ひに、ある者は滅びに、神により豫定されてゐるといふ豫定説はプロテスタントの特徴である。しかし、プロテスタントの發明ではなく、以前からあった思想である。  既にアウグスチヌスは、神の豫定について述べてゐる。豫定とは、つまり、決定論といふことである。決定論は神の絶對性を假定すれば當然の歸結である。すなはち、神が絶對の法則を定め、さらに初期条件を與へて世界を始動させれば、後は自動的に動いていくだけである。神の決定は絶對であるから、途中で變更などあり得ない。すべては始動の時點で決つており、何も變へようがない。神の恩寵により救はれる者は救はれ、滅びに豫定されてゐる者は地獄に墮ちるしかない。ただ、自分が救ひに選ばれてゐるかどうかは誰も分らぬのだから、すべての人は神を信じ敬虔に生きねばならぬとした。  一方で、アウグスチヌスは自由意志を信じた。神の恩寵により人間は自由意志を持つと考へた。これがカトリックの教義となつた。これは微妙な教説で、決定論からすると、本來、あり得ない。しかし、自由意志がないと世界は生きる價値のないものになつてしまふ。單なる機械仕掛けのおもちやになつてしまふ。人間の魂のあり場所がなくなつてしまふ。その意味では、神の絶對性に傷を付けてでも、自由意志は守らねばならない。  ルターやカルバンは、改めて豫定説を持出し、自由意志を否定した。もし自由意志を認めると、神の豫定が不確かなものになることになり、全能の神にそんなことはあり得ないと考へた。絶對神を追求すれば、論理的にはかうなるしかない。  ルターは、神が私を救ふことを約束してゐるので私は安泰である、と述べてゐる(ルター、「奴隸的意志」)。カルバンは自分が救ひに選ばれてゐるか否かは本人には分らないとしてゐたとされてゐる。しかし、カルバンにとつて、神の豫定は慰めであつたといふ。といふことは、彼も自分の救ひだけは確信してゐたのではないか。實際、後に、カルバンの流れを汲むピューリタンたちは、救ひの自覺を公言し、visible saints と呼ばれてゐる。自分の救ひが豫定されてゐるのなら、自由意志などで豫定が亂されては逆に迷惑といふものである。  ルターは、豫定の教義は逆境におけるキリスト者の唯一の慰めであるといつてゐる(「奴隸的意志」)。この意味を勘ぐると、例へば、ルターの敵であるローマの連中は滅びに豫定されてゐると考へることで、己の勝利を信じて鬪ふ活力が出てくるといふことである。單に、神の恩寵により人は皆救はれるでは困る。敵も天國に入つてしまふ。政敵を地獄にたたき落してくれる強力な教義が必要なのである。  さういへば、あるアメリカ人が、靖国神社について、戰犯と一緒に祀られては、戰犯に戰爭に驅りだされて犧牲となつた兵隊たちの家族はいやだらう、といつたのを思ひ出す。「戰犯に戰爭に驅りだされて犧牲になつた」といふのが正しいかどうか、また、戰犯を本當に犯罪人と認識するかどうかは、ここでは論じないが、戰犯であれ何であれ、死んだら皆神樣で、同じく戰爭に参加して亡くなつたのなら同じ靖國に祀るといふのが日本人の考へ方である。これに対して、歐米人は、どうしても地獄墮ちを造らねば気が済まぬやうである。地獄墮ちがゐないと、選ばれた優越感、天國のありがたさが實感出來ぬのである。少し品良く言へば、神の榮光を増すために惡魔が必要なのである。  ルターは、また、私に自由意志が與へられることを欲しない、とも言つててゐる(「奴隸的意志」)。攻立ててくる惡靈に打勝てないからばかりでなく、むしろ、不確かさに惱まされるからであるといふ。いかなるわざを爲し遂げても、それが神の氣に入つたか、まだ足りぬかといふ疑問が残るといふ。さらに勘ぐれば、自由意志などをなまじ認めると、自分たちの勝利も、敵の地獄墮ちも、確實でなくなつてしまふ。豫定を確實に實行して貰ふ必要がある。  ルターに限らず、キリスト者は、己が選ばれてゐるといふ確信を持つ手合が多い。困難に立向かふときに勇氣を奮い立たせるためには有效かも知れぬが、相手を惡魔の手先と完全に否定してしまふのは困る。日本の戰犯にしてもさうだ。また、捕鯨禁止を稱へる連中も、自己陶酔して客觀的にものごとを見る餘裕がないやうに見える。一方で、sense of meeting といふ言葉があり、仲間うちでは、意見が對立してゐても、同じ眞理の別の斷片を掴んでゐるだけであり、斷片を繋ぎ合はて行くことにより眞理の全體像に近づかうといふ感覺がある。ところが、一旦、相手を敵と認識すると、自分は選民で相手は惡魔だから何をしてもいいとなつてしまふ。日本人など、イエスの息のかかつてゐない連中を相手にするとなると、惡魔でさへない、動物なみといふところか。  キリスト教徒、特にプロテスタントは、絶對神に直接鍛へられて、個人が確立してをり、神の目を通して自己を客觀的に眺められると言はれてゐる。確かに、自分に對して、二人稱で、おまえは、と呼びかけられる。あたかも神が呼びかけたかのやうである。日本人にはとても眞似できない藝當である。しかし、多くの場合、自分を神にしてゐるだけなのではないか。自分を客觀視出來ているのではなく、ただ主觀を客觀のやうに見なしてゐるだけである。  論理的に、絶對神が有限の存在である人間に話しかけるといふことはあり得ない。あるとすれば、錯覺であり、幻聽である。  魂の問題ならまだしも、なぜ神が、この世の政治的な問題に口を出すのか。例へば、ジャンヌ・ダルクの場合、フランスをイギリスの攻撃から救ふことになぜ神が興味を持つのか。イギリスにもそれなりに大義名分はあらうし、フランスのそれの方がより理にかなってゐると、自分で思ふのは勝手だが、あくまで相對的なものにすぎず、神がなぜそれを認めるのか。己を鼓舞するための自己劇化として有效であり、有效であるためには本人が信じ込まないといけないのであるとも言へるが、信じつつも覺めてゐなければいけない。覺めてゐるとはとても思へない人ばかりである。  このやうに書いてくると、豫定だの自由意志だのと言つてゐても、魂の救ひの話だつた筈が、一應宗教がらみであるとはいへ、世俗での政治的な話になつてゐる。魂が清く神に選ばれてゐるから、世俗でも勝つ筈だと。選ばれてゐるのは、精神世界、あの世での話であり、この世はまた全く別のはずであるが。少くとも、イエスは「カイザルのものはカイザルに」と言つた(マタイ傳 22.21)。また、金持が天國に入るより駱駝が針の穴を通る方がやさしいとも言つた(マタイ傳 19.24)。俗世には興味がなく、もちろん俗世に支配を及さうとも思はなかつた。  しかし、もともと、カトリックの時代から、神の力でこの世で勝利すると信じる手合は多い。ジャンヌ・ダルクに限らず。これは、キリスト教の神といふより、ユダヤの守護神の流れである。同樣に、プロテスタントの神も地上に降りたつた各個人の守護神である。  プロテスタントの特徴を世俗化(secularization)と言つたりする。ウェーバーは、「魔術からの解放」と呼び、世界から八百萬の神々が追ひだされたとした。これは、つまり、世界をすべて絶對神の支配下におかうといふ動きとも言へる。神の内在化ともいふやうに、野放しだつた個人がそれぞれ神をもつやうになつたが、世界も混沌から救はれ神の國をめざすことになつた。しかしその神はイエスの神といふよりヘブライの神であつた。すなはち、愛の神ではなく、裁く神、選ぶ神である。  これを徹底したのが唯物論である。人格を失ひ單なる法則に還元された神が物質に宿つてゐる譯である。ただ、唯物論は、物質がどこから來たのか、法則を誰が造つたのかは議論しない。といふ意味で、唯物論はそれ自身で完結した體系ではなく、觀念論を暗默の前提としてゐる。或は、觀念論の一解釋法にすぎない。  それはともかく、この「法則」或は「眞理」も、裁く神を受継いでゐる。忠誠ならざるものは「救はれぬ」。「善かれ惡しかれ、一般的なアメリカ人--「神樣」の存在なんてばかばかしいと思ふアメリカ人も含めて--は、大文字で書くTruth(眞)といふ絶對的なものがどこかにあると思つてゐる。そして、それは自分といふ人間の外に存在するものである。人間は、眞面目に良心的に考へれば、 Truthful な生き方が分かり、それに忠實に生きたい、あるいは、もつと嚴密にいへば、人間には、自分の分かつてゐる範圍で忠實に生きる義務がある、といふ妙な思想である。これは、アメリカ人一般の暗默の前提と考へてよいであらう。」(マーク・ピーターセン、續日本人の英語、岩波新書、1990)  話がそれたが、プロテスタンティズムは、イエスの説いた愛の宗教から、ヘブライの裁く神と選民思想への囘歸をもたらした。聖書に忠實たらんとして、イエスに背く結果となつた。もともと、キリスト教の本質は、舊約はもちろん、新約にもなく、一流イエスの説いた現世を全く無視した教へを、二流の徒が、三流四流の輩が實行できるやうに改變した教會の傳統にあつたのだから、當然といへば當然である。  實際、カルビニズム末流であるピューリタニズムの榮えたイギリスでは、人々は旧約をもつぱら讀んだといふ。新約で唯一讀まれたのは、新約當時の支配者ローマ帝国への復讎を誓つた默示録で、福音書ではない。  ただ、イエスにしても、遅ればせながらでも囘心すれば神は救つてくれると言つてゐるものの、要は囘心して選民の列に連なることを要求してをり、決して選民思想から逃れられてはゐない。ユダヤ人の劣等感からくる了見の狭さをイエスも乘越えられなかつた。  さらに重要なことは、プロテスタンティズムによる豫定説の採用と自由意志の否定、すなはち決定論化であつた。その結果、世界は全く機械的なものとなつてしまつた。この世界では、人は、神の國をめざす過程の單なる齒車にすぎない。  もはや奇蹟は起らなくなつた。自由意志を持つた人間が生きてゐるといふことがすなはち奇蹟であつた。今や、神でさへ自分の造つた法則を曲げることは出來ない、がんじがらめの世界となり果てた。  1619年、Dortの會議で二重豫定説がプロテスタントの教義の中心に据ゑられた。豫定説を否定した Arminianism では、神の恩寵のみによる救ひといふプロテスタントの中心教義の根幹が危ふくなると考へられたのである。ルターやカルバンは豫定説に縋つたのだが、一般庶民はさうは行かない。豫定説が中心の教義として明確に打出されると、しもじもは恐怖におののくことになる。自分は果して救はれる人間なのか、地獄に墮ちる人間なのかと。  ルターはただ己が救はれたくて自由意志を否定しただけで、その意味するところをどれだけ自覺してゐたのか分らぬ。しかし、一旦低地が出來れば、水は必ずそこに流れる。自分だけは地獄落ちしないようにと、信者たちは自分が選ばれた者であることの證明に精を出すことになる。  ルターは、信仰により義とされても、この世では肉體をもつて生活してゐるので、勞働や修行に努めねばならぬとしてゐる。それは肉體が魂と同化するため云々と書いてゐる(「キリスト者の自由」)。いずれにしても、これら善行により義とされるのではなく、信仰によつてのみ義とされるれのだが、義とされれば當然勞働にも精を出し善行を行ふといふのである。  カルバンはこの世は神の創造したものであり、惡魔の支配を取除き、神の國を建設していく義務があると考へた。そして、實際に現世の改良に取組んでゐる。この傾向が後に資本主義の精神の根幹となつたとされてゐるのであるが、これは、カルバンがルネサンスの人文主義に晒された影響とされてゐる。  人文主義とは何か。英語では Humanism だが、これは人間中心主義とも譯され、中世の神中心から、神になれる可能性を持つた人間中心の世界觀に轉換したものとされてゐる。  しかし、中世は神中心か。神はあの世での話で、この世は必ずしもキリスト教化されず、「異教」時代のままだつたやうに見える。例へば、クリスマスや復活祭などの祭も、異教の傳統をキリスト教に位置づけたものといはれてゐる。生活はすべてキリスト教の色に染められてゐたかも知れぬが、中味は異教時代のままであつたのではないか。臨終の時だけ司祭に終油の秘蹟を授けて貰へば天國に行けるといふことのやうに見える。日本文化が佛教色に染まってゐながら、結局、葬式の時にしか坊主のお世話にはなつてゐないのと多少似てゐるかも知れない。  むしろ、カトリックの歴史を重ねた結果、人間は神から自由意志を授けられ、魂をもつといふ觀念が漸く滲透してきたといふことではなからうか。つまり、ルネサンスになつてやつとカトリックが一般市民にまで滲透し始めてきたといふことである。技術が進み生活が豊かになり商業も盛んになつたといふやうなことも背景にあるだらうが。  それをさらに推し進めたのが宗教改革である。教會の免罪符では自分の救ひは確かではないと、確實な救ひを求めた結果、教會を經由せず、神と直接取引しようといふことになつた。劇藥は萬人に扱へる譯ではないからと、カトリックは、教會といふ救濟のための施設をつくつたのであるが。結果として、やはり劇藥は容易に扱へるものではなかつたと思ふ。プロテスタントたちは自分を神とするといふ思ひ上がりに陷つてゐる。すべてが既に決定されてをり、聖徒たちの救ひも決つてゐるとすれば、彼らには神はもういらない。すべてを見通した彼らは、神となんら變はるところがない。すべて見通したとは、神の國の建設に邁進しつつ、その未來の完成を確信してゐるといふことである。  これは、キリスト教自體に内在してゐた危險である。イエスをキリスト或は神と認めるといふことは、この世に絶對が一度は實現したことになり、將來も絶對がこの世に出現し得ることになる。となれば、聖徒たちがキリストになれない理由はどこにあるのかといふことなる。  チェスタトンは、この三位一體により、ヨーロッパはアジアのやうな無氣力な不可知論に陷らずに濟んだと言つてゐるが、アジアがどう無氣力なのか分らぬ。佛像の半眼を取上げて、現世を睨んでゐないなどと言つてゐるが、單に集中力を養ふ爲の坐禪を組んでゐるだけである。また、そもそも、佛教がアジアの精神を代表してゐる譯でもない。アジアのことはともかく、ヨーロッパがそんなに活氣があるか。ルネサンス以降漸く活性化したが、それ以前はローマよりむしろ退却してゐた。  いずれにせよ、キリスト敎世界は豫定された神の國の建設に邁進することになり、個人はそれに貢献することで選民たることを證明しなければならなくなつた。これが今の世界の諸惡の根源である。 H17.10.10 *命より大事なもの、そして自由意志  ♪忘れないで、お金よりも大切なものがある(CMの歌から)-それはさうでせう。お金は必要だが、一番大事だつたら困る。  ♪忘れないで、あなたよりも大切なものはない-それは困る。いくら日本人が目に見えないものは信じられないとはいつても、自分を越えるものがなければ、世の中生きていけない。自分を育てて呉れた風土とか、祖先とか。  なぜ生きていけないか。さういふものから獨立した人間といふものは、全く何者でもない。何の制約もない人間は、何者にもなりうるし、なんでも出來るかも知れないが、實際には何者でもなく、何もできない。  死んだ人ははつきりしてゐる。確かだ。それに比べると、生きてゐる人間は何を爲出來すか分らず當てにならない。しかし、段々と自己を追ひ込んで行くことで確固たる人間になつていく。  何をもつて追ひ込んでいくか。歴史と風土以外にあるまい。自己を産み育ててくれたもろもろのものである。さういふものと付き合つていくことで、次第に自己が形成されていく。  人間は無限の可能性を持つかも知れぬが、そこから何かを選び取つていくしかない。そこに選ぶといふ意志はあらうが、所詮、選ばせられてゐるだけかも知れぬ。  とは言へ、そこに人間の意志が働くのは確かだ。人間の意志と神の意志とがぶつかり、結局は神の意志通りになるとしても、神の意志あるいは計画は必ずしも固定したものではなく、人間の働きかけにより完成していくものなのではないか。  といふことは何を意味するか。世界は、物理法則と初期条件により、劫初に決められた通りに動いてゐるだけのものではないと云ふことだ。この雁字搦めの世界を變へる人間の意志とは何か。意志は何にどう作用するのか。意志は自分の行動を變へる。それだけでなく、他人の意志にも影響を與へる。  しかしそれがなぜ意味を持ちうるのか。その意志の變化さへ神の計劃に書かれてあることではないのか。すなはち、劫初の初期条件により既に決つてゐることでないのか。さうかも知れぬ。しかしそれを言ひだしたら人間生きる力を失ふ。  意志とは何か。意志は時には己の生存とは逆の行動を志す。それとて、本能として組込まれてあることだとも言へる。何をしても、お釋迦樣の掌の中の孫悟空かも知れぬ。しかし、人間は自由意志を信じるしか生きる道はない。 H17.12.31
#Contents() #expand(450){{{ *神の聲 歐米人は神の聲を聞く。彼らにとつて神は身近な存在である。家族の樣なものであり、父に比せられる。フランス語なら tutoyer する仲である。英譯聖書でも、イエスは、'My God, my God, why hast thou forsaken me?' と、thou を使つてゐる(American Standard Version)。 いつも神に話しかけてゐるせゐか、彼らはときに神の聲を聞く。ピューリタン革命の Oliver Cromwell (1599~1658)などはその最たる例である。彼は、「この貧弱な軍隊の中に大いなる神は姿を現してくださつた」と書いたそうである(大木英夫、ピューリタン、中公新書, 1968)。Jeanne d'Arc (1412~1431)などもさうである。絶對の神がなぜ特定の人物や集團を贔屓にするのか、日本人には理解できない。神と言つても、ユダヤの部族の守り神の域を出てゐないのではないかといふ氣がする。 しかし、これら宗教がかつた人たちに限らず、普通の人たちも似た樣なものである。鯨は神聖だからとつてはいけないと言つてきかぬ人たちが歐米には多い。インド人は、あなた方に牛を食うなと言ひますか、と言つても、なにを言っても、兔に角いけないと言つてきかぬ。多分神の聲を聞いているのだらう。 歐米人は、自分自身に對して、「お前はなんでそんなことをしたのだ」などと話しかける。日本人なら、「俺は」といふ處である。自分の中にもう一人の自分がゐて、自分を客觀的に見てゐる譯である。 その結果、自分を客觀的に眺められてゐるか。さうは見えない。單なるエゴイズムを眞理であるかの樣に臆面もなく主張するのに役だつてゐるだけの樣に見える。 彼らの自問自答は、神から話しかけられてゐるかのやうである。しかし、所詮、神を演じてゐるのは自分であり、自分を神にしてゐると言へる。自分を神にしてしまふと、人間何も見えなくなる。 本來、神は各人に多樣に語るといふ認識があつた筈である。他人の意見を聞くといふ民主主義の原理もそこに基盤があつた。つまり、神の似姿である人間は眞理を掴めるはずといふのがキリスト教の考へ方であるが、しかし、人間である以上全貌は掴めず、斷片しか得られぬといふ認識があつた。各人の掴んだ斷片を繋ぎ合はせていくことで、少しでも眞理に近づかうといふ認識があつた。それが今は忘れられてゐないか。 思ふに、科學萬能の影響があるのかもしれぬ。科學はもともと假説にすぎぬのに、「科學的眞理」などと、ことばの矛盾に氣がつかぬ。人間の分際で眞理などとおこがましい。 そもそも、眞理の斷片を掴めるといふ發想が間違ひではないか。チェスタトンは、キリスト教の神が一度は地上に現れたといふ考へから、ヨーロッパは不可知論に陷らずにすんだと言つてゐる。しかし、不可知論のどこが惡いのか。不可知論は無氣力と停滯をもたらす樣なことを書いてゐたと思ふが、もしさうだとしても、ヨーロッパの樣な倒錯よりはましではないか。 H16.12.5 *Simon Birch 'Simon Birch' といふ映畫を DVD で見た。ニューイングランドの Maine 州 Gravestown といふ町での話で、一種ピューリタニズムの宣傳映畫である。出てくる教會はカトリックであつたが。 Joe といふ十二歳の少年と、その友達の Simon Birch といふ、病氣で背は低いが顔は少し大人びた少年が主人公である。Simon は、背が伸びないのは、自分が英雄になるといふ神の計劃があるためだと信じてゐる。 みんな Simon を輕んじてゐた。ところが、實際、Simon は十二人の少年の命を救ひ英雄になる。少年たちを乘せたバスが冬の川に滑り落ち車中に水がどんどん入つて來る。運轉手は自分は泳げないとすぐに逃げてしまい、殘された少年たちはパニックに陷つてしまつた。そのとき、Simon は、流れは速いが淺いことに氣附き、皆を落着かせ、一番大きな Joe に一人づつ抱へて岸に渡らせる。そのあとバスはさらに流され、殘された Simon はバスとともに深みに沈んでいく。ところが、Simon は小さな窓から拔け出して助かる。そして、收容された病院で、Joe に、自分の老けた顔と体の小ささが役立つたと話した後、'Gotta go now' の言葉を殘して息を引取る。 一旦助かったのに、神に召されていくといふのは不自然に感じるが、英雄になる使命を果したからといふキリスト教的演出であらう。 Simon は神父に、神の計劃について確信がもてなくなつたと惱みを相談したりもするが、最後は確信に滿ちて旅立つ。ピューリタンが救はれるべく神から撰ばれてゐるといふ自覺を持つてゐるのと同じである。 ただ、キリスト教は、いついかなる時にも人に誠實に生きようとする力を與へるといふことは言へる。 不遇といふのは神の試煉であり、さういふとき人は限りない力を出すことがある。それがなければ得てして平凡なことしかできないのに。 H16.12.19 *日本人の信仰は現世利益が目的  日本人にも信仰を持つ人はゐる。キリスト教徒も、教会がいふには全人口の1%ゐるさうだ。しかし、問題はその中味である。  宗教とは、煎じ詰めればあの世のことを保證してくれるものである。人間みな死ぬのが怖い。死んだ後どうなるのか不安である。それを宗教が保證してくれる。  ところが、日本人には死後の世界といふものがない。死んだら終りと思つてゐる。歐米人にとつては、死んでも魂は殘るといふのが常識であり、すべての前提である。  なるほど、唯物論といふのもある。しかし、唯物論は觀念論から派生したものにすぎず、絶對神の存在がその前提にある。絶對神により自然界の法則が定められてゐるので、物質は勿論、人間も物質から出來てゐる以上、その法則から逃れられぬといふだけの話である。八百万の神のやうに勝手気ままは許されぬといふことである。  つまり、神が人格を失つて機械的な法則に發展したといふことになる。神を信じてゐない、と言つても、法則或は眞理を信じてゐるとしたら、神を信じてゐるのと同じことである。では魂はどうか。魂は物質の作用の反映で、肉體が滅んだら消えるべきものであり、一場の夢にすぎぬと考へるとしたら、日本人と同じではないか。  しかし、日本人は永遠の眞理を信じてゐるか。眞理は兔も角、永遠などといふものは頭の中に全くないのではないか。歐米人は、永遠の魂を否定するとしても、永遠は信じてゐる。それだけは信じてゐる。いや、それを信じるために、最低限信じられる唯物論を持出したのであらう。唯物論を通じて、永遠を信じようとしてゐる。  日本人には、永遠もなければ、あの世もない。あるのはこの世だけてある。従つて宗教といつても、冠婚葬祭の儀式でしかない。神道は目出度い方を擔當し、佛教は、神道の一部門として、不祝儀の方を擔當している。  これに飽きたらず、眞面目に信心する人もゐる。しかし、何を宗教に期待してゐるのか。端的に言って、現世利益ではないのか。といふと、眞面目に天國に入ることを祈願してゐるキリスト教徒は怒るかもしれぬ。しかし、言葉の上でさう思ひ込んでゐるだけではないのか。文字通り金儲けを期待してゐるとは言はぬが、あの世での救ひを願ふことで現世での心の平安を得てゐるのだけなのではないか。  さういふと、歐米人でも心の平安を得ることは同じではないか、と思へる。同じかもしれぬ。しかし、彼らの場合、それ以上に地獄落ちへの恐怖が強いと思ふ。と言つて惡ければ、「眞理」に對して不誠實になつてゐないかといふ恐怖が根本にあると思ふ。 H17.1.1 *唯物論と觀念論  唯物論か觀念論かといふのは大した問題ではない。唯物論は觀念論の一分派にすぎない。神を素朴に信じられなくなつた人達が、代りに自然法則を絶對として崇拜してゐるだけである。しかし、法則がどうやつて出來たのかは説明できない。それを説明出來るのは觀念論だけである。  問題は、まず、唯物論や觀念論の樣に、絶對を信じるか否かである。日本人は、絶對神も信じてゐなければ、永遠不滅の自然法則も信じてゐない。つまり、日本人は、大部分、唯物論を信じてゐるつもりだらうが、實際には、唯物論と言へる樣なものではなく、單に、目に見えるものを信じ、目に見えないものは想像さへ出來ないといふだけである。  とはいへ、自然法則は信じてゐるのではないか。少くとも、科學に對する信仰は盛んな樣である。なるほど、「科學的」といふ言葉が呪文の樣に稱へられ、多くの人がそれにひれ伏してゐる。しかし、八百万の神のお告げにひれ伏してゐるのと同じではないか。それが現實に效果があるから、或は效果があると思はれるから、ひれ伏してゐるだけである。  科學は本來無益である。眞理を探求するものである。ただ、技術と結びつくことで實益ももたらして來ただけである。また、科學は神の造つた自然の法則を理解したいといふ欲求であり、そのための假説にすぎない。決して眞理ではない。  日本人の場合、科學といふありがたい眞理があり、そして、技術と結びつくことにより現世に實益をもたらすから、八百万の神のひとつとして信仰してゐるのである。あくまで、現世利益しか眼中にはない。  そんな日本人に科學精神はあるか。科學者は澤山ゐる。しかし、その現世での無用を確信しながら、ただ自然の法則を追求したいといふ情熱で科學者になつた人がゐるか。もし、少しでも有用を期待してゐるなら、それは科學精神とは異なるものである。  アメリカの場合、確かに有用性を重んじてゐる。だから、彼らは科學はやつてゐない。技術に專念してゐる。Institute of Technology すなはち「技術學校」が彼らの「科學」をやる大學である。技術のために有用だから科學的なこともやるといふことである。そういう意味では、歐米は、歐の科學、米の技術の分業體制になつてゐる。勿論、歐洲が技術をやらないわけではないが。  日本にも「宗教」と呼ばれるものは澤山ある。しかし、佛教にしても、本當に信仰してゐる人は少いが、その人達にしても、目的は現世利益である。必ずしも物質的利益とは限らない、心の平安みたいなものを含めてである。決してあの世のことを念じてなどゐない。永遠の命など夢想だにしてゐない。早い話が初詣に行つて何を禱るか。家内安全とか、健康とかであり、來世のことを禱る人など何處にゐようか。  なほ、日本の佛教は、いふまでもなく、神道の一部であり、おめでたいことはお宮、葬式はお寺と分擔してゐる。  本當に問題なのは、唯物論であれ觀念論であれ、絶対神或は絶對法則を假定すると、決定論になるといふことである。すべてが神の決めた法則通りに動くので、初期条件が與へられれば、その後のことはすべて決つてしまふことになる。論理的には決定論しかあり得ない。  絶對を理解してゐない日本人には、縁のない話である。しかし、世界は決定論の陷穽にはまつて苦しんでゐる。神をもたない日本人は、抵抗する術もなく、より深い地獄で苦しんでゐる。 H17.7.18 *神は人を助けるか  キリスト教徒はすぐ神の加護を願ふ。イギリスの国歌は God save the Queen である。個人的なことでも、何かにつけて、神に禱る。必ずしも加護を願つてゐるとは限らぬかも知れぬが、さういふ下心がないとも言へぬだらう。  これは、部族の守り神であつたユダヤの神をキリスト敎が受継いでゐるといふことであらう。勿論、欧米も最近は信じる力を失ひかけており、神に禱らない人も増えてゐるが。  絶對神は人を助けるか。絶對といふ以上、神はこの世と關はりを持つてはいけないはずである。この世と關はつては絶對性を維持出來ない。少くとも、相對の世界に感知される様な關はり方をすることはあり得ない。  神は自然を造つた。といふことは、法則を定めたといふことである。その結果、物質が出來た。そして生物を造り、人間を造つた。  生物や人間を、神が造つたといふのも、出來たといふのも、同じことである。神が始めに法則を定め、初期条件を與へれば、後は設計した通りに自動的に動いていくだけである。自然に出來た、といふことは、神の設計通りに動いてゐるといふことであり、神が造つたといふことと變りない。  神は人を助けたりはしない。神は自然を造つたが、後は自然法則にに任せてゐる。しかし、神の法則通りに動くといふことが、すなはち、神の意志通りに動いてゐるといふことである。特定のものを助けるとか、地獄に落すとかいふことはあり得ない。あるとしたら、有限の世界に關はることになり、絶對の存在でなくなつてしまふ。さういふ介入をする者があるとしたら、それは神ではなく、惡魔か何かであり、有限の存在である。すなはち、人間の心に巣くふ病のなせるわざである。  ところで、すべてが神の設計通りに動いていくだけだとしたら、この世は何なのか、人生生きるに値するのか、といふことになる。となれば、自由意志を假定せざるを得ない。神は、なぜかは知らぬが、人間に自由意志を與へた。すなはち、人間は神の定めた軌道から外れていくことができる。本當にできるかどうかは知らぬ。しかし、それを假定しないと世の中が成立たない。絶對神を假定しないと何も考へられないのと同樣に。 H17.9.11 *世にも不思議な物語  テレビの「世にも不思議な物語」をたまたま見たら、地獄が一杯になつて、惡人が死ねなくなつたといふコントをやつてゐた。それで、みんなが、死なずに濟むのならと、惡に走り出した。主人公の極道は、募金をつのる幼い子供の可愛らしさにほだされて善人になってしまひ、死にたくない堅氣の男に刺されて死ぬ。ところが、地獄は擴張されたが、今度は天國が一杯になってゐて、葬式の最中に生き返つて自分への香奠を募金に取上げるところで終つた。  この話を見てゐて、すぐ聯想したのは、ピュウリタニズムのビジネス至上主義である。金を稼げば永遠の命が得られると教へ込まれて、みんなで金儲けに邁進するといふお伽噺である。「金持が天國に入るのは駱駝が針の穴を通るより難しい」はずなのに。  永生を得るために魂を惡魔に賣り渡すといふ、このお伽噺は、今もつて續いてゐる。世の中が惡くなるはずである。そして、本國のアメリカやイギリスよりも、植民地の日本に於てその害は甚だしい。無防備な魂に惡魔の魔手が及べば、抵抗力が全くないのは明らかである。  このお伽噺の困るところは、自分だけは救はれたいと人を押しのけるところである。  この孤獨と家庭生活とをどうやつてバランスを取つているのか。いや、彼らは一方で家庭を非常に大事にする。何となく義務的な匂ひもするが。とは言へ、家族だけは最後の砦で、ここでだけは人を信じることが出來る。例へば、ヨーロッパでは、妻は夫の不利になる樣な證言は出來ない。それを許しては家庭という信頼の場が崩壊するのだらう。  家庭以外では不信を前提にしているから兔に角孤獨な鬪ひを續けるしかない。  これにどう對處すればよいのか。食はねばならぬから、ビジネスで後れを取ってはならぬ。といふと日本人はすぐそれだけになつて、他をすべて犧牲にしがちである。犧牲にするといふより、それしか考へることがないのである。  兎に角、日本人は、自ら省みて見苦しくない樣に生きるしかない。 H16.9.20 *諸惡の根源  プロテスタンティズムにより、キリスト敎世界は予定された神の國の建設に邁進することになり、人間はそのための齒車にすぎなくなつた。そしてそれに貢献することで、自分が救はれるべく選ばれた人間すなはち選民であることを證明しなければならなくなつた。これが今の世界の諸惡の根源である。  アメリカのビジネス至上主義はこの流れによつてしか理解出來ない。アメリカでは、ヨーロッパの樣に敎會離れ、いはゆる世俗化(secularism)が進んでをらず、宗敎或は宗敎的雰圍氣が生活を支配してゐる。日本に住みついたアメリカ人には、この重苦しい雰圍氣から逃れられて樂になつたといふ人が多い。  ビジネス至上といつても、アメリカの場合、ピューリタンの傳統からきてをり、金儲けのための金儲けではなく、自分が神に救はれる人間であることを證明するための證據として儲けた金額が必要なだけである。従つて、儲けた金は、慈善事業に寄付するなり、再投資するなりしなければならず、自分の贅澤や蓄財に廻してはならない。  このやうな背景であつてみれば、彼らのビジネスがゲーム化してゐると言ふのもなんとなく理解出來るのではないか。もともとヨーロッパでは戰爭もゲームとしてゐるくらゐであるし。ゲーム化してゐるといふのは、樂しんでゐるといふことではなく、いや實際密かに樂しんでもゐるかも知れないが、それはともかく、いくら儲るかだけに興味が集中し、その中味については何ら詮索しないことを指してゐる。例へば、もともとは恐らく助けあひの意味で始つた筈の保險でさへ、アメリカでは金儲けの對象になつてゐる。  「時は金なり」といふのはアメリカのピューリタンの標語である。彼らは自分が saint すなはち救ひに予定された人間であることを證明するために金を儲けねばならず、寸暇を惜しんで働く。ファーストフードもそのために開発された。食べる時間も惜しいといふ譯である。  彼らは自分が選ばれてゐるといふ自覺はあるといふ。それならば何も證據などいらぬではないか。しかし、選ばれている程の人間なら現世でも役に立つはずであり、それなら金も儲かるはずであるといふ論理で、金儲けに對して強迫観念を抱く樣になつた樣である。それに加へて地上に神の國を建設するといふ使命感といふか、やはり強迫觀念みたいなものもあるのだらう。  しかし、選ばれてゐるのは死後の世界でであつて、地上においてではない。地上でも役に立たねばならないといふのは、論理的にはをかしい。もともと、救ひは神の恩寵によるもので、善行によるものでもなければ、信仰によるものでさへなかつた筈である。少くともルターにおいてははさうであつた。強迫觀念としか言ひ樣がない。  そのため、彼らは生活を楽しむことを知らぬ。樂しんでゐてはいけないのである。そんなことでは地獄に落ちるしかない。永遠の生命を得るためには、身を粉にして働くしかないのである。  食事は當然粗食である。勿論、世の中の役に立つべく、命を維持する必要があるから、ちやんと澤山食べねばならぬが。音樂とかもろもろの趣味をやるとしても、それで身を立てて金を儲けるのでなければ、仕事をよりよくやるための體調調整のために必要だといふことでからうじて認められる。スポーツは、體を維持するため、やらねばならぬ。こんな具合で、すべて、ビジネスのために捧げられる。  日本人をエコノミックアニマルとヨーロッパは蔑んだが、アメリカこそさうである。ただ、アメリカは神の國の建設といふ大義名分を旗印にしてゐるのに対し、日本は鮮明な旗がない所が違ふ。それでヨーロッパは日本を馬鹿にしてゐる。  しかし、大義名分を持たないから、日本はまともなのである。つまり、大義名分の實現のための道具に堕してゐない。大義を持つアメリカこそ、道具と化し、アニマルなのである。  これに對し、ヨーロッパは未だカトリックの傳統がからうじて生き殘つてをり、生活を楽しむ雰圍氣がある。勿論、アメリカを産んだイギリスなど、いくつかのプロテスタント國はアメリカに似てゐる。しかし、イタリア、スペインなどのカトリック國は、異敎の雰圍氣を殘し、優雅に暮してゐるのではなからうか。  イタリアは近代化が遲れたといふが、近代化とは何か。端的にいつて英米化である。すなはち、プロテスタント化である。カトリックの有機體を破壞し、人間を孤立させ、無意味な存在、單なる道具に貶めることである。  われわれは、どんなに苦しくとも、單なる道具になつてはならないと思ふ。日本にはカトリックの樣な防護壁がない。アメリカ化、グローバリゼーションに立ち向かふすべは何も持つてゐない。立ち向かふどころか、進んで受入れようとしてゐるかのやうである。しかし、日本は明治以来西洋文明を積極的に受入れてきた。それだけでなく、遠い昔には支那文明を受入れた。しかし、結局、自分の氣に入るものしか受入れず、氣に入らないものは知らぬ間にどこかに打ちやつてきた樣である。受入れた樣でゐて、表面だけで、肝心なところは何も導入してゐない。例へば、キリスト敎にしても、殆ど受入れてゐないし、數少ない信者たちも、どこまで本當の信仰を持つてゐるか知れたものではない。要するに、精神は全く受入れてゐない。これはつまり日本人には精神といふ才能がないといふことである。具體的な物、目に見えるものしか日本人は理解しない。であるから、いくらアメリカの眞似をしても、所詮形だけで、ピューリタン精神やその亞流の精神は入つて來るべくもない。  さういふ意味では安心してゐていいのだらうか。しかし、世の中の表向きだけはどんどん近代化、グローバル化し、舊態依然の中味との差が益々擴大して行くことになり、益々生きにくくなつて、人間がさらに歪められ、いじけてしまふのではなからうかと心配である。  とにかく日本人としての自分の感性を頼りに生きていくしかない。 17.10.10 *自由意志  絶対神を假定すると、決定論になる。すべてが神の決めた法則通りに動くので、初期条件が與へられればその後のことは決つてしまふことになる。  しかし、カトリックは自由意志を認めた。神の恩寵により人間に自由意志が與へられたとした。人間は神の似姿に造られたのである。 *豫定説  ある者は救ひに、ある者は滅びに、神により豫定されてゐるといふ豫定説はプロテスタントの特徴である。しかし、プロテスタントの發明ではなく、以前からあった思想である。  既にアウグスチヌスは、神の豫定について述べてゐる。豫定とは、つまり、決定論といふことである。決定論は神の絶對性を假定すれば當然の歸結である。すなはち、神が絶對の法則を定め、さらに初期条件を與へて世界を始動させれば、後は自動的に動いていくだけである。神の決定は絶對であるから、途中で變更などあり得ない。すべては始動の時點で決つており、何も變へようがない。神の恩寵により救はれる者は救はれ、滅びに豫定されてゐる者は地獄に墮ちるしかない。ただ、自分が救ひに選ばれてゐるかどうかは誰も分らぬのだから、すべての人は神を信じ敬虔に生きねばならぬとした。  一方で、アウグスチヌスは自由意志を信じた。神の恩寵により人間は自由意志を持つと考へた。これがカトリックの教義となつた。これは微妙な教説で、決定論からすると、本來、あり得ない。しかし、自由意志がないと世界は生きる價値のないものになつてしまふ。單なる機械仕掛けのおもちやになつてしまふ。人間の魂のあり場所がなくなつてしまふ。その意味では、神の絶對性に傷を付けてでも、自由意志は守らねばならない。  ルターやカルバンは、改めて豫定説を持出し、自由意志を否定した。もし自由意志を認めると、神の豫定が不確かなものになることになり、全能の神にそんなことはあり得ないと考へた。絶對神を追求すれば、論理的にはかうなるしかない。  ルターは、神が私を救ふことを約束してゐるので私は安泰である、と述べてゐる(ルター、「奴隸的意志」)。カルバンは自分が救ひに選ばれてゐるか否かは本人には分らないとしてゐたとされてゐる。しかし、カルバンにとつて、神の豫定は慰めであつたといふ。といふことは、彼も自分の救ひだけは確信してゐたのではないか。實際、後に、カルバンの流れを汲むピューリタンたちは、救ひの自覺を公言し、visible saints と呼ばれてゐる。自分の救ひが豫定されてゐるのなら、自由意志などで豫定が亂されては逆に迷惑といふものである。  ルターは、豫定の教義は逆境におけるキリスト者の唯一の慰めであるといつてゐる(「奴隸的意志」)。この意味を勘ぐると、例へば、ルターの敵であるローマの連中は滅びに豫定されてゐると考へることで、己の勝利を信じて鬪ふ活力が出てくるといふことである。單に、神の恩寵により人は皆救はれるでは困る。敵も天國に入つてしまふ。政敵を地獄にたたき落してくれる強力な教義が必要なのである。  さういへば、あるアメリカ人が、靖国神社について、戰犯と一緒に祀られては、戰犯に戰爭に驅りだされて犧牲となつた兵隊たちの家族はいやだらう、といつたのを思ひ出す。「戰犯に戰爭に驅りだされて犧牲になつた」といふのが正しいかどうか、また、戰犯を本當に犯罪人と認識するかどうかは、ここでは論じないが、戰犯であれ何であれ、死んだら皆神樣で、同じく戰爭に参加して亡くなつたのなら同じ靖國に祀るといふのが日本人の考へ方である。これに対して、歐米人は、どうしても地獄墮ちを造らねば気が済まぬやうである。地獄墮ちがゐないと、選ばれた優越感、天國のありがたさが實感出來ぬのである。少し品良く言へば、神の榮光を増すために惡魔が必要なのである。  ルターは、また、私に自由意志が與へられることを欲しない、とも言つててゐる(「奴隸的意志」)。攻立ててくる惡靈に打勝てないからばかりでなく、むしろ、不確かさに惱まされるからであるといふ。いかなるわざを爲し遂げても、それが神の氣に入つたか、まだ足りぬかといふ疑問が残るといふ。さらに勘ぐれば、自由意志などをなまじ認めると、自分たちの勝利も、敵の地獄墮ちも、確實でなくなつてしまふ。豫定を確實に實行して貰ふ必要がある。  ルターに限らず、キリスト者は、己が選ばれてゐるといふ確信を持つ手合が多い。困難に立向かふときに勇氣を奮い立たせるためには有效かも知れぬが、相手を惡魔の手先と完全に否定してしまふのは困る。日本の戰犯にしてもさうだ。また、捕鯨禁止を稱へる連中も、自己陶酔して客觀的にものごとを見る餘裕がないやうに見える。一方で、sense of meeting といふ言葉があり、仲間うちでは、意見が對立してゐても、同じ眞理の別の斷片を掴んでゐるだけであり、斷片を繋ぎ合はて行くことにより眞理の全體像に近づかうといふ感覺がある。ところが、一旦、相手を敵と認識すると、自分は選民で相手は惡魔だから何をしてもいいとなつてしまふ。日本人など、イエスの息のかかつてゐない連中を相手にするとなると、惡魔でさへない、動物なみといふところか。  キリスト教徒、特にプロテスタントは、絶對神に直接鍛へられて、個人が確立してをり、神の目を通して自己を客觀的に眺められると言はれてゐる。確かに、自分に對して、二人稱で、おまえは、と呼びかけられる。あたかも神が呼びかけたかのやうである。日本人にはとても眞似できない藝當である。しかし、多くの場合、自分を神にしてゐるだけなのではないか。自分を客觀視出來ているのではなく、ただ主觀を客觀のやうに見なしてゐるだけである。  論理的に、絶對神が有限の存在である人間に話しかけるといふことはあり得ない。あるとすれば、錯覺であり、幻聽である。  魂の問題ならまだしも、なぜ神が、この世の政治的な問題に口を出すのか。例へば、ジャンヌ・ダルクの場合、フランスをイギリスの攻撃から救ふことになぜ神が興味を持つのか。イギリスにもそれなりに大義名分はあらうし、フランスのそれの方がより理にかなってゐると、自分で思ふのは勝手だが、あくまで相對的なものにすぎず、神がなぜそれを認めるのか。己を鼓舞するための自己劇化として有效であり、有效であるためには本人が信じ込まないといけないのであるとも言へるが、信じつつも覺めてゐなければいけない。覺めてゐるとはとても思へない人ばかりである。  このやうに書いてくると、豫定だの自由意志だのと言つてゐても、魂の救ひの話だつた筈が、一應宗教がらみであるとはいへ、世俗での政治的な話になつてゐる。魂が清く神に選ばれてゐるから、世俗でも勝つ筈だと。選ばれてゐるのは、精神世界、あの世での話であり、この世はまた全く別のはずであるが。少くとも、イエスは「カイザルのものはカイザルに」と言つた(マタイ傳 22.21)。また、金持が天國に入るより駱駝が針の穴を通る方がやさしいとも言つた(マタイ傳 19.24)。俗世には興味がなく、もちろん俗世に支配を及さうとも思はなかつた。  しかし、もともと、カトリックの時代から、神の力でこの世で勝利すると信じる手合は多い。ジャンヌ・ダルクに限らず。これは、キリスト教の神といふより、ユダヤの守護神の流れである。同樣に、プロテスタントの神も地上に降りたつた各個人の守護神である。  プロテスタントの特徴を世俗化(secularization)と言つたりする。ウェーバーは、「魔術からの解放」と呼び、世界から八百萬の神々が追ひだされたとした。これは、つまり、世界をすべて絶對神の支配下におかうといふ動きとも言へる。神の内在化ともいふやうに、野放しだつた個人がそれぞれ神をもつやうになつたが、世界も混沌から救はれ神の國をめざすことになつた。しかしその神はイエスの神といふよりヘブライの神であつた。すなはち、愛の神ではなく、裁く神、選ぶ神である。  これを徹底したのが唯物論である。人格を失ひ單なる法則に還元された神が物質に宿つてゐる譯である。ただ、唯物論は、物質がどこから來たのか、法則を誰が造つたのかは議論しない。といふ意味で、唯物論はそれ自身で完結した體系ではなく、觀念論を暗默の前提としてゐる。或は、觀念論の一解釋法にすぎない。  それはともかく、この「法則」或は「眞理」も、裁く神を受継いでゐる。忠誠ならざるものは「救はれぬ」。「善かれ惡しかれ、一般的なアメリカ人--「神樣」の存在なんてばかばかしいと思ふアメリカ人も含めて--は、大文字で書くTruth(眞)といふ絶對的なものがどこかにあると思つてゐる。そして、それは自分といふ人間の外に存在するものである。人間は、眞面目に良心的に考へれば、 Truthful な生き方が分かり、それに忠實に生きたい、あるいは、もつと嚴密にいへば、人間には、自分の分かつてゐる範圍で忠實に生きる義務がある、といふ妙な思想である。これは、アメリカ人一般の暗默の前提と考へてよいであらう。」(マーク・ピーターセン、續日本人の英語、岩波新書、1990)  話がそれたが、プロテスタンティズムは、イエスの説いた愛の宗教から、ヘブライの裁く神と選民思想への囘歸をもたらした。聖書に忠實たらんとして、イエスに背く結果となつた。もともと、キリスト教の本質は、舊約はもちろん、新約にもなく、一流イエスの説いた現世を全く無視した教へを、二流の徒が、三流四流の輩が實行できるやうに改變した教會の傳統にあつたのだから、當然といへば當然である。  實際、カルビニズム末流であるピューリタニズムの榮えたイギリスでは、人々は旧約をもつぱら讀んだといふ。新約で唯一讀まれたのは、新約當時の支配者ローマ帝国への復讎を誓つた默示録で、福音書ではない。  ただ、イエスにしても、遅ればせながらでも囘心すれば神は救つてくれると言つてゐるものの、要は囘心して選民の列に連なることを要求してをり、決して選民思想から逃れられてはゐない。ユダヤ人の劣等感からくる了見の狭さをイエスも乘越えられなかつた。  さらに重要なことは、プロテスタンティズムによる豫定説の採用と自由意志の否定、すなはち決定論化であつた。その結果、世界は全く機械的なものとなつてしまつた。この世界では、人は、神の國をめざす過程の單なる齒車にすぎない。  もはや奇蹟は起らなくなつた。自由意志を持つた人間が生きてゐるといふことがすなはち奇蹟であつた。今や、神でさへ自分の造つた法則を曲げることは出來ない、がんじがらめの世界となり果てた。  1619年、Dortの會議で二重豫定説がプロテスタントの教義の中心に据ゑられた。豫定説を否定した Arminianism では、神の恩寵のみによる救ひといふプロテスタントの中心教義の根幹が危ふくなると考へられたのである。ルターやカルバンは豫定説に縋つたのだが、一般庶民はさうは行かない。豫定説が中心の教義として明確に打出されると、しもじもは恐怖におののくことになる。自分は果して救はれる人間なのか、地獄に墮ちる人間なのかと。  ルターはただ己が救はれたくて自由意志を否定しただけで、その意味するところをどれだけ自覺してゐたのか分らぬ。しかし、一旦低地が出來れば、水は必ずそこに流れる。自分だけは地獄落ちしないようにと、信者たちは自分が選ばれた者であることの證明に精を出すことになる。  ルターは、信仰により義とされても、この世では肉體をもつて生活してゐるので、勞働や修行に努めねばならぬとしてゐる。それは肉體が魂と同化するため云々と書いてゐる(「キリスト者の自由」)。いずれにしても、これら善行により義とされるのではなく、信仰によつてのみ義とされるれのだが、義とされれば當然勞働にも精を出し善行を行ふといふのである。  カルバンはこの世は神の創造したものであり、惡魔の支配を取除き、神の國を建設していく義務があると考へた。そして、實際に現世の改良に取組んでゐる。この傾向が後に資本主義の精神の根幹となつたとされてゐるのであるが、これは、カルバンがルネサンスの人文主義に晒された影響とされてゐる。  人文主義とは何か。英語では Humanism だが、これは人間中心主義とも譯され、中世の神中心から、神になれる可能性を持つた人間中心の世界觀に轉換したものとされてゐる。  しかし、中世は神中心か。神はあの世での話で、この世は必ずしもキリスト教化されず、「異教」時代のままだつたやうに見える。例へば、クリスマスや復活祭などの祭も、異教の傳統をキリスト教に位置づけたものといはれてゐる。生活はすべてキリスト教の色に染められてゐたかも知れぬが、中味は異教時代のままであつたのではないか。臨終の時だけ司祭に終油の秘蹟を授けて貰へば天國に行けるといふことのやうに見える。日本文化が佛教色に染まってゐながら、結局、葬式の時にしか坊主のお世話にはなつてゐないのと多少似てゐるかも知れない。  むしろ、カトリックの歴史を重ねた結果、人間は神から自由意志を授けられ、魂をもつといふ觀念が漸く滲透してきたといふことではなからうか。つまり、ルネサンスになつてやつとカトリックが一般市民にまで滲透し始めてきたといふことである。技術が進み生活が豊かになり商業も盛んになつたといふやうなことも背景にあるだらうが。  それをさらに推し進めたのが宗教改革である。教會の免罪符では自分の救ひは確かではないと、確實な救ひを求めた結果、教會を經由せず、神と直接取引しようといふことになつた。劇藥は萬人に扱へる譯ではないからと、カトリックは、教會といふ救濟のための施設をつくつたのであるが。結果として、やはり劇藥は容易に扱へるものではなかつたと思ふ。プロテスタントたちは自分を神とするといふ思ひ上がりに陷つてゐる。すべてが既に決定されてをり、聖徒たちの救ひも決つてゐるとすれば、彼らには神はもういらない。すべてを見通した彼らは、神となんら變はるところがない。すべて見通したとは、神の國の建設に邁進しつつ、その未來の完成を確信してゐるといふことである。  これは、キリスト教自體に内在してゐた危險である。イエスをキリスト或は神と認めるといふことは、この世に絶對が一度は實現したことになり、將來も絶對がこの世に出現し得ることになる。となれば、聖徒たちがキリストになれない理由はどこにあるのかといふことなる。  チェスタトンは、この三位一體により、ヨーロッパはアジアのやうな無氣力な不可知論に陷らずに濟んだと言つてゐるが、アジアがどう無氣力なのか分らぬ。佛像の半眼を取上げて、現世を睨んでゐないなどと言つてゐるが、單に集中力を養ふ爲の坐禪を組んでゐるだけである。また、そもそも、佛教がアジアの精神を代表してゐる譯でもない。アジアのことはともかく、ヨーロッパがそんなに活氣があるか。ルネサンス以降漸く活性化したが、それ以前はローマよりむしろ退却してゐた。  いずれにせよ、キリスト敎世界は豫定された神の國の建設に邁進することになり、個人はそれに貢献することで選民たることを證明しなければならなくなつた。これが今の世界の諸惡の根源である。 H17.10.10 *命より大事なもの、そして自由意志  ♪忘れないで、お金よりも大切なものがある(CMの歌から)-それはさうでせう。お金は必要だが、一番大事だつたら困る。  ♪忘れないで、あなたよりも大切なものはない-それは困る。いくら日本人が目に見えないものは信じられないとはいつても、自分を越えるものがなければ、世の中生きていけない。自分を育てて呉れた風土とか、祖先とか。  なぜ生きていけないか。さういふものから獨立した人間といふものは、全く何者でもない。何の制約もない人間は、何者にもなりうるし、なんでも出來るかも知れないが、實際には何者でもなく、何もできない。  死んだ人ははつきりしてゐる。確かだ。それに比べると、生きてゐる人間は何を爲出來すか分らず當てにならない。しかし、段々と自己を追ひ込んで行くことで確固たる人間になつていく。  何をもつて追ひ込んでいくか。歴史と風土以外にあるまい。自己を産み育ててくれたもろもろのものである。さういふものと付き合つていくことで、次第に自己が形成されていく。  人間は無限の可能性を持つかも知れぬが、そこから何かを選び取つていくしかない。そこに選ぶといふ意志はあらうが、所詮、選ばせられてゐるだけかも知れぬ。  とは言へ、そこに人間の意志が働くのは確かだ。人間の意志と神の意志とがぶつかり、結局は神の意志通りになるとしても、神の意志あるいは計画は必ずしも固定したものではなく、人間の働きかけにより完成していくものなのではないか。  といふことは何を意味するか。世界は、物理法則と初期条件により、劫初に決められた通りに動いてゐるだけのものではないと云ふことだ。この雁字搦めの世界を變へる人間の意志とは何か。意志は何にどう作用するのか。意志は自分の行動を變へる。それだけでなく、他人の意志にも影響を與へる。  しかしそれがなぜ意味を持ちうるのか。その意志の變化さへ神の計劃に書かれてあることではないのか。すなはち、劫初の初期条件により既に決つてゐることでないのか。さうかも知れぬ。しかしそれを言ひだしたら人間生きる力を失ふ。  意志とは何か。意志は時には己の生存とは逆の行動を志す。それとて、本能として組込まれてあることだとも言へる。何をしても、お釋迦樣の掌の中の孫悟空かも知れぬ。しかし、人間は自由意志を信じるしか生きる道はない。 H17.12.31 }}}

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