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目次 #contents *大山の読切り-碁との違ひ (H23.3.8)  「そして第二図から8一玉だが、これは、『きはどく寄らない形』で、この後も難解な変化がたくさんある。それらをすべて讀切つたうへでの8一玉である。5四歩を打つとき、先手が指し切る形を全部讀切つてゐたのだ。將棋といふゲームは、結局讀みくらべのゲームである。數多く手を讀んでゐた方が勝つのだ。將棋史上大山ほど多く讀めた棋士はゐない。それをあらはす好例が、この第二局といふ譯である。」[河口俊彦、大山康晴の晩節、232頁、新潮文庫、平成18年(飛鳥新社、平成15年)]  河口七段のこの本は、大山を賞讚してゐる本なのであるが、催眠術を使ふといはれてゐたが思ひ當たる節があるとか、若い人をわざと馬鹿にして威嚇したとか、碁でいふ「はめ手」を指したとか、碌なことを書かれてゐない。この人は、大山を貶すためにこの本を書いたのかと錯覺したりしたが、結局、終盤の讀みの深さが天才だと言つてゐるのである。  將棋は終盤力である。序盤、中盤でいくら優勢になつても、最後に相手の王樣を詰める形に持つていかなければ勝てない。優勢になれば特別なことをしなくとも自然に勝てる譯ではない。終盤において詰みを發見する力が必要である。あるいは、詰む形にもつていく力が必要である。それに加へて、あらゆる逆襲をかはす手を讀む力が必要である。  その点、碁は違ふ。中盤で優勢を築けば、終盤は何もしなくも勝てる。優勢といふことは、地が多い、或は多く見込めるといふことであり、後は、間違へなければ勝つ。勿論、劣勢な方はあの手この手で逆轉を狙つてくるから、必ず勝てる譯ではない。美事逆轉を食らふこともある。しかし、基本的には、中盤で碁は終る。  そこで、「碁に勝つて勝負に負ける」といふ言葉も出來る。つまり、中盤の終くらゐで勝負はついてゐたが、その後間違へて逆轉したといふことである。「將棋に勝つて勝負に負ける」といふ言ひ方はつひぞ聞いたことがない。  終盤になると、專門棋士ならば大抵の変化は讀切つてゐる。勿論、完璧ではないから逆轉も起る。坂田の樣に、寄せで鬼手を放つ人もなかにはゐた。また、寄せの計算は結構複雜で、間違へることもある。しかし、終盤になると、盤面が石で埋つて來るので変化が少くなり、讀切り易いのは確かである。  將棋は、終盤になつても、変化が減る譯ではない。盤面が埋つていく譯ではないし、逆に、持駒は何處にでも打てる。挑戰手合でも、A級順位戰でも、終盤に詰める手があつたのに雙方氣づかず、後で指摘されてぎやふんとなつた、などといふことが時々ある。必ずしも、秒讀みに追はれてとも限らない。或は、誰もが敗勢と思つてゐたのに、一發逆轉の妙手を繰出す人もゐる。それくらゐ、專門家でも讀切ることは難しい。  計算機の將棋が最近強くなつてゐるが、終盤が得意な樣である。詰みがあるやうな情況になると、しらみ潰しに讀んでいけば、詰みに辿り着くのであらう。逆に、序盤は詰むところまで讀むのは大變である。計算機といへども容易に出來ない。途中經過で判斷しないといけないが、何をもとに判斷させるかがなかなか難しいのであらう。そこで、計算機と對局するときは、序盤、中盤で差をつけておかないといけないといふ。終盤に入つて對等では、その後、讀み負けるといふ譯である。それ位、將棋の終盤は難しい。  その終盤で、相手のあらゆる應手を讀切つて確實に勝つのが大山であつた、といふことである。するどい妙手を繰出したりはしないが、じわじわと寄せていき、相手に逆轉の妙手はないことを讀切つて、間違ひなく勝つ。指す手そのものは凡手ばかりかもしれぬが、そこまで讀切れるのが天才だといふのである。  大山が亡くなったとき、この著者は、生涯の一手をあげようとして思ひ浮かばず困つたといふ。結局、さきの8一玉になつたといふが、難しい手ではないといふ。單に、8一玉と引いただけの手であるといふ。しかし、「これが誰も氣がつかなかつた妙手なのだつた。」 *羽生の迷ひ (H24.7.7)  將棋の羽生二冠へのインタビューが朝日新聞に載つてゐたが、その中に、或る人が、羽生は「『勝負を度外視した勝負』を求めているように感じた」と言つてゐたとあつた。さういへば、少し前の記事でも、似た樣なことを羽生が言つているのを見た樣な氣がする。要は、單に勝てばいいのではなく、いい將棋を指したいといふ樣な感じなのである。  しかし、將棋は勝ちか負けかしかない。いい將棋を指しても、終盤になつて相手を詰ませられなければ勝てないし、負ければ、いい將棋だつたなどとうそぶいても誰も認めてくれない。いや、自分自身、いい將棋だつたなどと思はないであらう。  碁の場合は、「碁に勝つて勝負に負ける」といふ言ひ方がある。本人は負惜しみになるから言ふまいが、周圍はさう言つたりする。實際、終盤に入れば棋士は大體讀切つてをり、ポカでもなければ逆轉することは少い。終盤に入つて優勢であれば、ほぼ勝つた樣なものである。  將棋は、碁と違つて、終盤になつても讀み切れない。結局、強い方が、自分はなんとかしのぎながら相手玉を詰める手を發見して勝つのである。中盤でいい手を繰出していかに優勢になつても、終盤になつて詰める手を見つけられなければ勝てない。詰める手を繰出して勝つのが強い棋士なのである。中盤いくらうまく指しても、負ければ弱いとしか言へない。終盤の力が將棋の力なのである。  將棋では、實際、互いに詰みに氣がつかず、後で記録係にあそこでかう指したらどうだつたかと指摘されて、對局者も控室もぎやふんと言はされたと云ふ樣なことがよくある。女流棋士がコンピュータと對局するときに、終盤までに差をつけておかないと勝てないと言つたことがあるが、これは、コンピュータは短手數で詰みがある場合はしらみ潰しに讀むから見逃さないと云ふことであり、逆に云へば、棋士は短手數の詰みを見逃すことがあると云ふことである。  羽生はこんなことも言つてゐた。先手が有利と言へないのは、例へば、先手が先に理想形を得たとしてても、次の手を指すことでその形が崩れてしまふことからもわかるであらうと。しかし、一手動かすことで駄目になるのなら、それはいい形ではないのではないか。固く守つてさへゐれば勝てるのではなく、守りながらも攻めへの展開を見てゐなければならぬ筈で、それが見えない形はそもそも理想形ではなからう。  私見では、先手が有利と言へないのは、序盤、中盤だけでなく終盤になつても讀み切れないからである。先手の利を活かして中盤で少し有利な形に持込んでも、終盤の詰みが讀み切れてはゐない。從つて、相手に詰みを見つけられて仕舞ふと簡單に逆轉する。極言すれば、終盤の詰みの發見で勝負が決るのであるから、中盤までの戰ひは勝敗に關係ないのである。先手が有利だとしたら、序盤、中盤で有利に持込みやすいといふだけであらうから、結局勝敗には關係ないのである。坂田三吉などは、序盤は適當にやつゐて劣勢になつても、なんとか持久戰に持込めばこつちのものと思つてゐた節がある。  勿論、序盤、中盤で大差がつけばさうもいかないであらうが、大差がつくのは、實力差でなければ、失敗によるのであるから、これも先手・後手には關係ない。  なお、將棋が終盤でもなかなか讀み切れないのは、取つた駒も使へるから終盤になつても駒の数は減らないし、讀む範囲も盤全體であるから、全く單純化されず場合の数が減らないからである。  碁の場合は、盤が石で埋つて來るから、場合の数が段々減つていく。更に、石が分斷されていくので、分斷された各々の狹い領域内について讀めよくなり、大幅に場合の数が減る。勿論、分斷された領域での変化が他の領域にも影響するのではあるが。  羽生自身、最近、「強い方が勝つのではなく、勝つた方が強いのだ」といつてゐた。つまり、中盤をうまく指していい將棋だと自讚しても意味がなく、最後に勝たなければ駄目だといふことはよく分つてゐるのである。分つてゐながら何を迷つてゐるのであらうか。  いい將棋と言つても、勝たうとして必死に讀むからいい將棋も生まれるのであつて、いい將棋そのものを目指すことは出來ないのではないか。碁の場合は、中盤でほぼ勝負がつくので、その段階でいい碁だとか、勝てば名局だとか言へる。しかし、將棋は中盤では勝負がつかないのであるから、最後まで指して勝ちきるしか、いい將棋を目指す手はないのである。そして、多分、將棋を極めるといふことは到底出來ないのである。
目次 #expand(450){{{ #contents *大山の読切り-碁との違ひ (H23.3.8)  「そして第二図から8一玉だが、これは、『きはどく寄らない形』で、この後も難解な変化がたくさんある。それらをすべて讀切つたうへでの8一玉である。5四歩を打つとき、先手が指し切る形を全部讀切つてゐたのだ。將棋といふゲームは、結局讀みくらべのゲームである。數多く手を讀んでゐた方が勝つのだ。將棋史上大山ほど多く讀めた棋士はゐない。それをあらはす好例が、この第二局といふ譯である。」[河口俊彦、大山康晴の晩節、232頁、新潮文庫、平成18年(飛鳥新社、平成15年)]  河口七段のこの本は、大山を賞讚してゐる本なのであるが、催眠術を使ふといはれてゐたが思ひ當たる節があるとか、若い人をわざと馬鹿にして威嚇したとか、碁でいふ「はめ手」を指したとか、碌なことを書かれてゐない。この人は、大山を貶すためにこの本を書いたのかと錯覺したりしたが、結局、終盤の讀みの深さが天才だと言つてゐるのである。  將棋は終盤力である。序盤、中盤でいくら優勢になつても、最後に相手の王樣を詰める形に持つていかなければ勝てない。優勢になれば特別なことをしなくとも自然に勝てる譯ではない。終盤において詰みを發見する力が必要である。あるいは、詰む形にもつていく力が必要である。それに加へて、あらゆる逆襲をかはす手を讀む力が必要である。  その点、碁は違ふ。中盤で優勢を築けば、終盤は何もしなくも勝てる。優勢といふことは、地が多い、或は多く見込めるといふことであり、後は、間違へなければ勝つ。勿論、劣勢な方はあの手この手で逆轉を狙つてくるから、必ず勝てる譯ではない。美事逆轉を食らふこともある。しかし、基本的には、中盤で碁は終る。  そこで、「碁に勝つて勝負に負ける」といふ言葉も出來る。つまり、中盤の終くらゐで勝負はついてゐたが、その後間違へて逆轉したといふことである。「將棋に勝つて勝負に負ける」といふ言ひ方はつひぞ聞いたことがない。  終盤になると、專門棋士ならば大抵の変化は讀切つてゐる。勿論、完璧ではないから逆轉も起る。坂田の樣に、寄せで鬼手を放つ人もなかにはゐた。また、寄せの計算は結構複雜で、間違へることもある。しかし、終盤になると、盤面が石で埋つて來るので変化が少くなり、讀切り易いのは確かである。  將棋は、終盤になつても、変化が減る譯ではない。盤面が埋つていく譯ではないし、逆に、持駒は何處にでも打てる。挑戰手合でも、A級順位戰でも、終盤に詰める手があつたのに雙方氣づかず、後で指摘されてぎやふんとなつた、などといふことが時々ある。必ずしも、秒讀みに追はれてとも限らない。或は、誰もが敗勢と思つてゐたのに、一發逆轉の妙手を繰出す人もゐる。それくらゐ、專門家でも讀切ることは難しい。  計算機の將棋が最近強くなつてゐるが、終盤が得意な樣である。詰みがあるやうな情況になると、しらみ潰しに讀んでいけば、詰みに辿り着くのであらう。逆に、序盤は詰むところまで讀むのは大變である。計算機といへども容易に出來ない。途中經過で判斷しないといけないが、何をもとに判斷させるかがなかなか難しいのであらう。そこで、計算機と對局するときは、序盤、中盤で差をつけておかないといけないといふ。終盤に入つて對等では、その後、讀み負けるといふ譯である。それ位、將棋の終盤は難しい。  その終盤で、相手のあらゆる應手を讀切つて確實に勝つのが大山であつた、といふことである。するどい妙手を繰出したりはしないが、じわじわと寄せていき、相手に逆轉の妙手はないことを讀切つて、間違ひなく勝つ。指す手そのものは凡手ばかりかもしれぬが、そこまで讀切れるのが天才だといふのである。  大山が亡くなったとき、この著者は、生涯の一手をあげようとして思ひ浮かばず困つたといふ。結局、さきの8一玉になつたといふが、難しい手ではないといふ。單に、8一玉と引いただけの手であるといふ。しかし、「これが誰も氣がつかなかつた妙手なのだつた。」 *羽生の迷ひ (H24.7.7)  將棋の羽生二冠へのインタビューが朝日新聞に載つてゐたが、その中に、或る人が、羽生は「『勝負を度外視した勝負』を求めているように感じた」と言つてゐたとあつた。さういへば、少し前の記事でも、似た樣なことを羽生が言つているのを見た樣な氣がする。要は、單に勝てばいいのではなく、いい將棋を指したいといふ樣な感じなのである。  しかし、將棋は勝ちか負けかしかない。いい將棋を指しても、終盤になつて相手を詰ませられなければ勝てないし、負ければ、いい將棋だつたなどとうそぶいても誰も認めてくれない。いや、自分自身、いい將棋だつたなどと思はないであらう。  碁の場合は、「碁に勝つて勝負に負ける」といふ言ひ方がある。本人は負惜しみになるから言ふまいが、周圍はさう言つたりする。實際、終盤に入れば棋士は大體讀切つてをり、ポカでもなければ逆轉することは少い。終盤に入つて優勢であれば、ほぼ勝つた樣なものである。  將棋は、碁と違つて、終盤になつても讀み切れない。結局、強い方が、自分はなんとかしのぎながら相手玉を詰める手を發見して勝つのである。中盤でいい手を繰出していかに優勢になつても、終盤になつて詰める手を見つけられなければ勝てない。詰める手を繰出して勝つのが強い棋士なのである。中盤いくらうまく指しても、負ければ弱いとしか言へない。終盤の力が將棋の力なのである。  將棋では、實際、互いに詰みに氣がつかず、後で記録係にあそこでかう指したらどうだつたかと指摘されて、對局者も控室もぎやふんと言はされたと云ふ樣なことがよくある。女流棋士がコンピュータと對局するときに、終盤までに差をつけておかないと勝てないと言つたことがあるが、これは、コンピュータは短手數で詰みがある場合はしらみ潰しに讀むから見逃さないと云ふことであり、逆に云へば、棋士は短手數の詰みを見逃すことがあると云ふことである。  羽生はこんなことも言つてゐた。先手が有利と言へないのは、例へば、先手が先に理想形を得たとしてても、次の手を指すことでその形が崩れてしまふことからもわかるであらうと。しかし、一手動かすことで駄目になるのなら、それはいい形ではないのではないか。固く守つてさへゐれば勝てるのではなく、守りながらも攻めへの展開を見てゐなければならぬ筈で、それが見えない形はそもそも理想形ではなからう。  私見では、先手が有利と言へないのは、序盤、中盤だけでなく終盤になつても讀み切れないからである。先手の利を活かして中盤で少し有利な形に持込んでも、終盤の詰みが讀み切れてはゐない。從つて、相手に詰みを見つけられて仕舞ふと簡單に逆轉する。極言すれば、終盤の詰みの發見で勝負が決るのであるから、中盤までの戰ひは勝敗に關係ないのである。先手が有利だとしたら、序盤、中盤で有利に持込みやすいといふだけであらうから、結局勝敗には關係ないのである。坂田三吉などは、序盤は適當にやつゐて劣勢になつても、なんとか持久戰に持込めばこつちのものと思つてゐた節がある。  勿論、序盤、中盤で大差がつけばさうもいかないであらうが、大差がつくのは、實力差でなければ、失敗によるのであるから、これも先手・後手には關係ない。  なお、將棋が終盤でもなかなか讀み切れないのは、取つた駒も使へるから終盤になつても駒の数は減らないし、讀む範囲も盤全體であるから、全く單純化されず場合の数が減らないからである。  碁の場合は、盤が石で埋つて來るから、場合の数が段々減つていく。更に、石が分斷されていくので、分斷された各々の狹い領域内について讀めよくなり、大幅に場合の数が減る。勿論、分斷された領域での変化が他の領域にも影響するのではあるが。  羽生自身、最近、「強い方が勝つのではなく、勝つた方が強いのだ」といつてゐた。つまり、中盤をうまく指していい將棋だと自讚しても意味がなく、最後に勝たなければ駄目だといふことはよく分つてゐるのである。分つてゐながら何を迷つてゐるのであらうか。  いい將棋と言つても、勝たうとして必死に讀むからいい將棋も生まれるのであつて、いい將棋そのものを目指すことは出來ないのではないか。碁の場合は、中盤でほぼ勝負がつくので、その段階でいい碁だとか、勝てば名局だとか言へる。しかし、將棋は中盤では勝負がつかないのであるから、最後まで指して勝ちきるしか、いい將棋を目指す手はないのである。そして、多分、將棋を極めるといふことは到底出來ないのである。 }}}

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