CMWC NONEL COMPETITION

已むを得ず、無題2

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CMWC NONEL COMPETITION6

已むを得ず、無題

作:塩瀬絆斗
3、デコード≒ブリタニカコピー

 見れば見るほど奇妙な記号群だった。蛇の男は丁寧にも俺に上下の向きを示したと見える。わざわざ自分の目の前で紙を半回転させて俺に手渡したのだ。記号は釣り針のような鉤型が多く見受けられた。俺はこれを《釣針暗号》と名づけることにした。
 いや、しかしなによりの優先事項はこの部屋から脱出することだ。
 俺は暗号の紙をポケットへ仕舞うとドアを叩いた。もしかしたら外には誰もいないのではないかという希望が少しだけ――まさしく針の先端ほどだけあった。
「出してくれ」
「黙れ!」
 向こう側からドアが蹴られ、大きな音がした。
「頼む。彼女が待っているんだ」
「静かにしてろ。……分かってくれ。お前を逃がすわけにはいかないんだ」
 意外な言葉だった。何か押し殺したような声なのだ。
「ダイスケといったな」これは押すしかない。「君もこんなことはやっちゃいけないって思ってるはずだ。頼む、出してくれ。一緒に警察へ行けば大丈夫だ」
 しかし、ドアの向こうから返答はなかった。思わず施錠ツマミに手が行く。開錠すると同時に向こうから叫ぶ声がした。
「ふざけんな!」すぐさまロックがかかる。「もう下手なことは出来ないんだ! 大人しくしてろ!」
「頼む!」
 だが、しかし、ダイスケはそれきり俺の言葉に答えることはなかった。
 俺は諦めて床に腰を下ろした。固く、冷たい。俺はすべてに見放されたような気持ちに陥った。仕方なくポケットから《釣針暗号》を取り出す。あいつらが俺に解読を強要したというのは、おかしなことだった。やつらはどういった経緯でこれを手に入れたのか。また、これを書いたのは誰で、何を記したのか。
 俺の脳内に疑問符が次々と沸き上がってくる。
 暗号を解読するには、鋭い観察眼と閃きが必要だとサイモン・シンは言っていた。
 じっと暗号を見つめる。
 記号の種類は二十六をゆうに超えている。これは《釣針暗号》が日本語で書かれていることを意味する。どうやらローマ字表記ではないらしい。日本語で、その表記法ならば、「子音→母音」という基本構成が立ち現れるのだ。つまり、母音に使われている記号は頻出し、それが五種類であればA、I、U、E、Oのいずれかだとすぐに分かるはずなのだ。
 さらに見ていくと、すべての記号が六種類に分けられることに気付いた。
《第一》は、釣針の形が記号の右側にのみ見られる場合だ。釣針は針の先端を上方にしてひとつだけが現れている。
《第二》は、《第一》とは反対の向きのものだ。つまり、上向きの釣針は左側にのみ見られる。
《第三》は、上向きの釣針が両端から出ている場合だ。
《第四》は、右側には上向きの釣針が、左側には下向きの釣針が出ている場合だ。
《第五》は、《第四》の反対。すなわち、右側には下向き、左側には上向きの釣針が出ている。
《第六》は、既述のものとは一線を画していた。これはただの横棒で、釣針は見られない。
 この六種類の他に釣針以外の形状があって、この二つが組み合わさっているようだ。日本語であることを考えれば、五十音になるのだろうか。
 これらの観察が何を意味するのか。《第六》が暗号中にはごく小数のみ見られる。俺はこれを「ん」であると仮定した。それならば、他の五つの場合に納得の行く説明がつけられるのだ。つまり、他の五つの場合――《釣針の五種類》はそのまま母音の数と一致するのだ。あとは釣針以外の形状の違いが行を指定しているのだろう。問題は、《釣針の五種類》のなにが何の段を示し、釣針以外の形状のなにが何の行を示しているかだった。
 子供の頃に、小説の一ページに出てくる「段」の文字数を数えたことがあった。確かホームズ物の短編だったと思う。そのときは「あ段」が一番多かった。他は頻度は拮抗していた記憶がある。
 とりあえず、何か出来ることをやらねばならない。《釣針の五種類》に対応する記号数を数えてみるしかない。俺はこの部屋に閉じ込められながらも、ユウリが無事だったという事実を頼りに、随分と冷静さを取り戻していた。
《第一》が一番頻度の高い記号だった。四十三個だ。《第二》、《第三》は共に三十五個。《第四》が三十九個で、《第五》が一番少なく十七個となった。
 子供の頃の頻度検出を頼りにすれば、「あ段」は《第一》となる。しかし、一番頻度の少ない《第五》は一体どの段を表しているのだろうか。あまりにも他と差がつきすぎている。
 俺は《釣針暗号》の紙を投げ出した。溜息が漏れる。ダメだ。これ以上は何も分からない。「ん」が分かったとしても、その数自体が五個と非常に少なく、そこから他の文字を推測することなど不可能なのだ。同じ記号の並びを調べれば、また何か出てくるのかもしれなかったが、今の俺にはそこまでの気力はなかった。
 曇りガラスの小さな窓を見上げる。すっかり外は暗くなっていた。ユウリは俺の異変に気付いてくれただろうか。あのメッセージを読み取ってくれただろうか。今頃は警察に連絡が行っているだろうか。
 静かだった。
 俺はダイスケという見張りがまだいるのかどうか確かめるために叫んだ。
「おい、出してくれ! お願いだから!」
 ドアが蹴られる。見張りはまだ張り付いているようだった。
 ここで大声を出しても通行人に声が聞こえるかどうかは微妙なところだった。この部屋を擁する廃ビルは路地の奥まった場所にある上に、その路地は人通りが極端に少なかった。もしかすると、少年グループの縄張りという意識が近隣の住民にあって、それが人を忌避しているのかもしれなかった。
 俺は惨めな気持ちで床に放った暗号を見つめた。今は暗号はそっぽを向いたように上下反転していた。
 そういえば。
 なぜあの蛇の男はこの暗号の向きが分かったんだろうか。暗号を手に入れた際に暗号の向きだけが分かるということなどあるだろうか。また、向きだけを聞き出すなどということがあるだろうか。向きも聞いたのならば、そしてその相手(暗号の持ち主)が喋ったのなら、暗号の内容まで知っていて当然ではないだろうか。なぜ向きだけを知っていた?
 俺は高まる鼓動を胸に《釣針暗号》の紙片を拾う。
 もしかすると、蛇の男はこの暗号の内容を知っている? しかし、なぜ俺に解読を強要したのか。
 俺は脳味噌の回転を早める。今まで自分が冷静だと思ったのは飛んだ思い違いだった。これまでの出来事はおかしなことばかりだったのだ!
 なぜあの四人組は俺に包丁を盗ませたんだ。
 なぜ俺なんだ。
 なぜ見張りを一人残して他の三人は去ってしまったのか。
 なぜ四人組は途中まで俺から携帯電話を奪い取らなかったのか。
 包丁は何に使うつもりだった?
 分からないことだらけだった。俺の状況を客観視してみれば、俺はホームセンターで包丁を万引きした窃盗犯だ。四人組は包丁を欲しがっていた。包丁は調理器具だが、それを持つのが少年グループのメンバーだとすると、瞬間的にそれは凶器へと変貌する。奴らは凶器を欲しがっていた? しかし、それを俺に盗ませた。
 俺を罠に嵌めた?
 しかし、そういえば、蛇の男は去る前にダイスケに包丁を渡していた。ということは、出て行った三人は包丁を必要としていないということか。俺の動きを牽制するための凶器として包丁を? しかし、それはあまりにもおかしい。
 そして、なぜ俺に暗号解読を強制したんだ。
 今まで分かったことから、どうやら奴らは暗号の内容を知っているかもしれないようだ。つまり、暗号を解読する必要はない。
 そこまで考えて俺の頭の中に去来したのは恐ろしい計画の存在だった。
 ブリタニカの複製なのだ。あの有名な短編。俺はもしかすると、奴らの計画の一端を背負わされているのかもしれない。もし、俺が盗まされた包丁が何かの事件の凶器として用いられたとしたら、その出所から俺に疑いの目が向けられるだろう。すべての証拠が俺を犯人だと物語る……。それは恐ろしい姦計だった。
 どうにかして、この部屋から脱出しなければ。
 俺は《釣針暗号》の紙をポケットに仕舞いこんで、打ち捨てられた携帯電話を回収。まずは窓を調べて見ることにした。背伸びしてようやく届くほどの高所に窓はある。クレッセント錠が遠い。足場になるものが部屋の中にはなく、とても窓を開くことはできそうになかった。この調子では換気扇の方も絶望的で、これら二つの外界への道はひどく不親切に、そして閉鎖的に配置されていた。となると、脱出口はドアひとつのみだ。
 これは賭けだ。
 俺は蹲って出来るだけ苦しげに声を上げた。
「うっ……!」
「どうした?」
 怪訝なダイスケの声がドア越しに微かに聞こえた。俺はもっと大きな呻きを上げた。
「ぐえぇ! 痛い!」
 すぐさまドアノブの施錠ツマミが回転して縦になった。ダイスケはのた打ち回る俺の姿に目を丸くして、駆け寄ってきた。右手に包丁を持っている……。
「どうしたんだ!」
 俺は相手がさらに混乱に陥るように憎悪の念を込めた視線でダイスケを睨みつけた。
「お前ら……よくも、やりやがったな……!」
「な、なんだ?」ダイスケはあたふたしている。「知らない。俺は知らないぞ!」
 それは完全なる隙だった。
 俺は横たわりながらも、ダイスケの脇の下めがけて固く握った拳を叩き込んだ。
「ぐえっ!」
 くぐもった悲鳴を上げて包丁を取り落とす。ダイスケは口を半開きにしたまま真っ赤な顔に玉の汗を浮かべて倒れ込んだ。俺はすぐさま立ち上がって彼の側に転がった包丁を蹴り飛ばした。相手もなんとしても俺の逃走を防ぎたかったらしく、懸命に手を突いて立ち上がろうとした。ダイスケを無力化する。俺は相手の頭を抱えるように両手で持ち上げると、無防備の顎に膝蹴りをお見舞いした。彼は堪らず声を飲み込んだまま気絶した。
 俺は瞬間的な集中で切れた息を整えると、ダイスケのポケットの中をまさぐっていた。いつこいつが起き上がるか分からない。仲間が戻ってくるかもしれない。まずい。早くしなければ。俺は我を忘れていた。ポケットから部屋の鍵を取り出すと、すぐに外に出てドアを閉めて施錠した。思い出すのが今だから言えることだが、ここでドアに鍵をかけても何の意味もないのだった。なぜなら、ダイスケは起き上がれば部屋の内側の施錠ツマミで簡単に外に出られるのだから。だが、このときの俺は邪悪な計画にぶち当たったという思いとこれまでの人生には経験することのなかった攻撃的な一発勝負に打って出たことで気が動転していた。何とかダイスケを部屋に閉じ込めておかなければと思っていた。
 脱出した俺の頭にはユウリのことしかなかった。もしかしたら奴らに捕まっているかもしれない。そして何よりも、心配をかけさせていると思った。
 ユウリの部屋に到着し、そこに彼女がいなかったのに気が付いたときは心臓が止まるかと思った。彼女は俺のことが心配で俺の家に行っていたらしい。突然背後から声をかけてきたのがユウリだった。
 その後の俺はユウリに事情を説明して警察を呼んだ。その警官と踏み込んだあの部屋で惨劇は展開されていたのだ。
 死んでいたのはダイスケだった。ビニール製のゴミ袋を上半身に被せられ、腹にはあの包丁が刺さっていた。部屋は密室だった。警察の疑いは俺に真っ直ぐに向かって来て、刺さった。

4、∀utumn

 目の前の刑事は、俺の長い話を聞き終えると難しい顔で唸った。そして、彼の口から吐き出されたのは疑惑たっぷりの質問だった。
「で、その残りの三人のお仲間はどこにいるんだ?」
「分かりません」
「辻褄は合ってる。が、合いすぎている。典型的な嘘のパターンだ」
「違う!」
 頭に上った血が、俺の拳を突き動かして机をぶち叩いた。書記官が驚いた顔で振り向いたが、刑事は冷静だった。
「たとえ君が本当にあの部屋に閉じ込められたとしても、それが君の殺人の動機になる。そして、それはもやは正当防衛ではない。君は死体にゴミ袋を被せた上に部屋を密室にして、あの都市伝説を思わせるように迷彩柄のバンダナを置き去った。これは殺人現場の装飾であり、純粋な殺人事件だ。それに、万歩譲ってその三人の仲間が犯人だったとして、なぜ仲間を殺さなければならない? そこに動機はないのだ」
「物は考えようですよ。あのダイスケという男は、俺を逃がしてしまった。その過失を咎められて殺されたんだ。現にダイスケは『もう下手なことは出来ない』と言っていたんです」
 俺の目には三人の男の顔が焼きついていた。その三人さえ見つけてしまえば、俺のこの状況は打破できる。そう信じていた。
 そのとき、刑事の背後にあるドアが静かに開かれた。そこから顔を覗かせたのは狸みたいな顔の肥満体の中年男だった。
「失礼するよ」
 その声に振り向いた刑事の表情が凍りついた。
「清澄警視長!」
 清澄警視長と呼ばれた男は刑事の過剰な姿勢を手で制すると、温和な口調で言った。
「すまない、席を外してくれないかな」
 清澄は書記官にも同じように声をかけた。納得が行かないというような表情で、しかし渋々と下がる二人を見送ると、清澄は先ほどまで刑事が腰掛けていた椅子にゆったりとした動作で座った。張り出した腹を気にかけているようで、左手を添えている。左手は添えるだけ、だ。
「名前はなんというね?」
「霧島ソウジ、といいます……。あなたは?」
「警視庁の方で警視長をやっていてね」彼の持ちギャグらしい。狸オヤジだ。「まあ、世間話もなんだから、早速本題に移ろうかね。君が殺した、あの少年についてだ」
「俺は殺してない!」
 俺の剣幕にも動じない。皮の厚そうな顔。細い一重の目がじっと俺に向けられていた。
「実際のところ」清澄は静かに切り出した。「君が殺そうが、誰が殺そうが問題じゃない。問題は、誰が、ではなく、殺した、というほうなのだよ。あの少年は常田ダイスケという名前だ。彼は“綱”であった」
 綱? 何を言っているんだ、このメタボリカル狸オヤジは。
「正確に言えば、今にも千切れそうな綱――だった。彼は《アイコノクラスト》のメンバーでありながら、人としての良識が心のどこかにあったんだろう。我々警察に極秘裏に犯罪計画のひとつをリークしたんだよ。君は覚えているかね。一ヶ月ほど前、あの少年グループのメンバー数人が一斉に逮捕された事件を。あの逮捕劇のもとになったのが彼の情報だったというわけだよ。しかし、ここ最近、彼は我々との経路を断ち切ってしまった。我々警察としては、凶悪な少年グループ根絶のための大切な繋がりだった。それが失われてしまった」
 清澄は心底残念そうにそう打ち明けた。
「それと俺に、何の関係があるんですか」
「そう構えずともいい。今回の事件、彼――常田ダイスケの粛清だと私は思っている。君が殺したのならば、君が《アイコノクラスト》であるということだ」
「……なんだと」
「まあ、そういきり立つな」清澄はあることないこと言って俺の反応を楽しんでいるようだった。それが俺の神経を確信的に逆撫でしていた。「君が《アイコノクラスト》であろうがなかろうが、それも関係のないことだ。しかし、最終的には自分のためになる道を選ばざるを得なくなる。今回の殺人は、あの少年グループにとっては朗報だ。彼らは君を敵としてではなく味方として見るかもしれん。君は《アイコノクラスト》のメンバーか?」
「ふざけんな!」
 俺は机を両手で叩いて相手に飛び掛るポーズをとった。だが、ここでも清澄は微動だにしなかった。そして、部屋のまわりにいる、今の音を聞いただろう警官たちも部屋に押し入ってくることはしなかった。このオヤジ、陰では嫌われているに違いない。
「それならそれでいい。そこで私からの提案だ。君には《アイコノクラスト》へ特別捜査官として潜入してもらいたい」
 俺は耳を疑った。
「なんだって?」
「スパイだ。かっこいい響きだろう? グループの摘発のつながりを失った我々は今の君を必要としている。君が常田ダイスケを殺した《アイコノクラスト》のメンバーであればそのままグループに戻るがいい。ただし、情報は逐一我々に渡すこと。最終的に君のグループ内での行為は不問に付される。君が常田ダイスケを殺していないのならば、そして本当に善良な一般市民であるのなら、我々と共に正義を行うべきではないかね。――まあ、今すぐに返事をしろとは言わない。私の携帯に直接連絡をくれればいい」
 清澄は番号の書かれた紙を俺の手に握らせた。
「今ここで話されたことは君と私との秘密だ。誰にも喋ってはならん。いい返事を待っているよ」
 清澄はそう言い残してさっさと部屋を出て行った。
 俺は番号の書かれた紙を握り潰すと、不快が体中を駆け巡るのを感じた。それは犯されるみたいに。
 この国の警察は腐ってる――。そう思った。

 デブオヤジが去ってからしばらくしてあの刑事が戻ってきた。刑事は俺に何も聞かなかった。じっと俺の顔を見ている。
「今」彼は静かに口を開いた。「三人組の少年が署に連行されてきた。君の言っていた《アイコノクラスト》のメンバーかもしれない。ひとりは君の言うように蛇に似ていなくもないが……どちらとも言えず判断がつかない。君はまだ容疑者扱いだが、特別にそいつらの顔を見てもらおうかと考えていた」
 思いがけない言葉だった! 俺は頭を下げて懇願した。

 俺は刑事に先導されて特別な取調室の隣室へ通された。そこは狭く、壁の一面がガラス張りになっていて、その向こうが取調室になっていた。今、その中には誰もいなかった。
「これはマジックミラーで向こうからこちらは見えない。君も映画か何かで見たことがあるだろう」
「その三人組というのはどこに?」
「今呼ばせる」
 刑事は一旦廊下へ出て、すぐに戻ってきた。
 しばらくすると、取調室のドアが開かれて、警官の誘導で三人の少年が入室して来た。その三人の先頭を切る男の顔! それはまさしくあの蛇の男だった。
「あいつらです! 間違いない!」
「そうか」俺の叫びとは裏腹に刑事の声は冷静そのものだった。「君は別室で待機していてくれ」
「どうして! あいつらと話をさせてください」
「ダメだ。それに、君の彼女、君を心配していたぞ。彼女もその別室に待たせてある。行ってやれ。ただし、絶対にその部屋から出るな。もし約束を破れば、本当に君を犯人だと考える」
 有無を言わせない言葉。しかし、その根底には何か優しさが満ちているように俺には思えた。俺は頷いた。

「大丈夫だった?」
 ユウリの第一声はそれだった。
「ああ。俺を信じろよ」
「うん、ごめん。でも、よかった、本当に」
 ユウリは目尻に涙を溜めて俺に抱きついてきた。
「俺こそごめん、心配かけて」
 ユウリの体は微かに震えているようだった。しかし、確かに温かい彼女の体温が俺を安心させてくれる。俺はユウリのことが本当に好きなのだ。
 俺たちは体を離すと、隣り合ってソファに腰を下ろした。そこはこじんまりとした接客室だった。ドアにはワイヤー入りのガラスが嵌めこまれていて、そこから部屋の外に見張りの警官が立っているのが分かった。気が滅入りそうになったが、先ほどまでの待遇との違いが感じられて俺は胸を撫で下ろした。
「無事でよかった」
「だから、大丈夫だって。どうした?」
「さっき」ユウリは俺の手を握っていた。「この部屋で待っているときに、ソウジ君を連れ去った人たちが連行されているのが見えたの。廊下で鉢合わせたりしたらどうしようって、私、心配で……」
「あ、そうだったんだ……。ああ、大丈夫だよ。俺の担当の刑事が結構気を利かせてくれてね。このままだと俺の疑いも晴れそうだよ。その三人組があのダイスケって奴を殺したんだと思う。もうすぐ帰れるよ。……そうしたら、ユウリが言っていた大切な話ってのもじっくり聞けると思う。あれ、なんだったの?」
 ユウリは恥ずかしそうに頬を紅潮させると首を振った。
「ううん。いいの、もう。それにこんな状況で言うようなことじゃないし」
「なんだよ、気になるなあ!」
 ユウリは悪戯っぽい笑みを浮かべてその唇に人差し指を当てた。
「ヒミツ。それより、あの電話、どうして急に英語なんか……」
「ああ、あれか。あの電話をかけたときは四人組に捕まっていた最中だっていうのは話しただろ。そこへお前からの電話があった。俺はどうにかしてSOSを送れないかって考えた。でも、直接言えば、多分俺は殺されたと思う。そこで、暗号にしてみたんだ」
「暗号?」
「そう、俺が英語で言った内容を並べてごらん。『I’m gonna be late』『 On the way to you』 『Rope your books』。この英語のそれぞれ頭の言葉を取るんだ。『I’m』『On the』『Rope』になる。『I’m on the rope(s)』は英語でどういう意味か分かるだろ?」
 ユウリの目は見開かれていた。彼女は大きく開け放した口に手を当てていた。
「『絶体絶命』! そうか、ピンチに陥ってるっていうことを言っていたんだ」
「その通り。君には届かなかったけど……」
「ごめん。全然気がつかなかった……。早く気付いてたら警察に連絡できたのに」
「まあ、いいさ。結果こうして無事だったんだからさ」
 俺はユウリの髪の毛を撫でて、今の状況に危険なんかひとつもないことを実感するのだった。
 その闖入までは――。
 おずおずとドアを開いて入ってきたのは神妙な面持ちのあの刑事だった。
「どうでした?」
 刑事はなかなか切り出さなかった。
「俺の容疑は晴れましたね?」
「残念だが、君を第一容疑者として考えることにした」
 その声には、彼自身も意外だというような雰囲気が滲み出ていた。
「どうして! 俺はこの部屋から一歩も外に出ていないんですよ! なんだったら、外の見張りに聞いてくださいよ!」
「そうじゃない。あの三人組に、ダイスケを殺すことは出来なかった。君にはまだ言っていなかったな。ダイスケの死亡推定時刻は午後七時半過ぎ。今から二時間前だ。君は七時半前にあの部屋から脱出したと言った。そして、湯根山さんの自宅へ行き、事情を説明した後に警察を呼んだ。それが八時頃。そして、問題の七時半頃。あの三人組は町で暴行事件を起こして警察と悶着を起こしていた。そして警官を殴った末に逮捕されたんだ。つまり、あの三人組には完全なアリバイがあるということだ」
「そんな……」
 絶句。それは紛れもない言葉の封印だった。すべての思考が停止し、足元の地面が崩れる音が聞こえた。
 だって、犯人はあの三人以外に考えられないんだ! あの部屋にダイスケがいることを知っていたのはあいつらだけなんだから! 俺は犯人じゃないんだから!
「嘘だよね?」
 ユウリが涙を流している。
「そうさ、嘘だ。そんなことあるはずがないんだ、絶対に」
「残念だが、夢でも幻でもない。君が犯人であると言わざるを得ない」

5、In the: Sound and Gate

 署内の拘置所はひどく寒々しい場所だった。ユウリは刑事の話した内容にショックを受けているようだった。それは、信じたくはないが、真実であると認めざるを得ないといった表情だった。
 俺は犯人じゃない。そのはずだ。いや、俺が見てきたすべての光景は俺が犯人ではありえないことを示しているのだ。そんな俺でさえも、俺が犯人であると考えざるを得ない事実。何が起こったのだ。
 まさか本当に俺がダイスケを殺してしまったのだろうか。あの膝蹴りで気絶したと思っていたが、本当はあれが死因だった? 違う。刑事はダイスケの死因が包丁で刺されたことによる内臓へのダメージだと言っていた。俺がダイスケに一撃目を加えた後に蹴り飛ばした包丁がダイスケに刺さってしまったのか? それも違う。その後にダイスケは立ち上がろうとした。その体には包丁なんて刺さっていなかった。包丁は部屋の隅の方へ飛んで行ったんだ。
 部屋の隅……。そうだ、ダイスケの死体は部屋の隅にあった。だが俺はダイスケの体を移動させていない。ゴミ袋も被せていない。そういえば、ゴミ袋はあの部屋にあったものだっただろうか。確か、未開封の二十枚入りのゴミ袋が落ちていたはずだ。あの部屋には雑多なものが打ち捨てられていた。なぜ犯人は死体にゴミ袋を被せたんだ。なぜ死体を移動させたんだ。それともダイスケ自身が死の瀬戸際であの場所まで這って行ったのだろうか。しかし、包丁は彼の腹に刺さっていたはずだ。腹を下にして這うには無理がある。それとも背中を床につけて這って行ったのか? だが、何のために。ダイスケ自身が自分の意志であそこまで這って行ったにしても、犯人が死体を移動させたにしろ、不可解なことだった。
 そして最大の謎は、密室だった。あの部屋の鍵は俺が持っていたひとつしか存在しない。つまり、俺以外に外から施錠することは出来ない。
 密室トリック。もしそんなものがあるとすれば、犯人は部屋側のドアノブについている施錠ツマミを利用したはずだ。それ以外に施錠する手段はないからだ。しかし、それを利用するには犯人自身も部屋の中にいなければならない。それとも糸か何かを使って……? だが、あの施錠ツマミはするすると動くようなものじゃなかった。一度内側から回したから分かる。しっかりとしているのだ。施錠ツマミは縦の状態のときに開錠されていて、それを反時計回りに回転させて横倒しにすると施錠するタイプだ。縦の状態から、あるいは横の状態から回転するそのはじめに一番負荷が必要なのだ。糸で外から引っ張るのでは力が足りないように思える。もし、外に出ることができれば試そう。あの部屋にはタコ糸があった。しかし、そういえば接着テープの類はなかった。外から持ち込んだ? しかし、なぜダイスケがあの部屋にいると犯人は知っていたのか。刑事の話を信じるのならば、アリバイのあるあの三人が外から持ってきたテープを使って糸のトリックを施したのではなさそうだ。それに、
テープを使って施錠ツマミに糸を貼り付けて引っ張っても、やはりおそらく力が不足してしまうのだ。
 もしかすると、本当に『敗残兵の蛇男』が現れたのだろうか。その証拠に、迷彩柄のバンダナが落ちていた。あれは現場をただ装飾するだけ? それともトリックに関連しているのだろうか。
 俺は思考の海から這い出ると、ただ呆然とした。
 拘置所内には俺以外の姿はなかった。あの三人はどうしただろうか。もっとも、同じ空間にいなくてよかったが。溜息をついたときにポケットの中にガサリと音がした。二枚の紙片。一枚は《釣針暗号》もう一枚はメタボリカル狸オヤジの携帯番号の書かれた小さな紙だった。ポケットの中は詳しく改められなかった。壊れた携帯電話は没収されたが、紙は俺の手に残っていた。
 メタボリカル……あいつは今回の事件が《アイコノクラスト》によるダイスケへの粛清だと言っていた。まさにダイスケはグループにとってユダだったというわけだ。あのような汚い契約を提案するからには、ダイスケと警察が繋がっていたのは本当のことだろう。ならば、グループに関係ない俺にはますます犯行の動機はなくなる。ダイスケと警察が繋がっていることが、俺にとってなんの損益ももたらさないのだから。
 しかし、なぜ《アイコノクラスト》は一部のメンバーが捕まるだけで壊滅に至らないのだろうか。俺は思う。それはおそらくリーダーが尻尾を出さないからだ、と。あれだけの少年グループだ。相当にヤバイ奴だろう。もしかすると、そいつが今回の事件の犯人かもしれない。しかし、警察もダイスケという綱を持っていながら、どうしてリーダーを特定できなかったのか。何か特別な連絡の手段があるというのだろうか……。
《釣針暗号》!
 俺はもう一枚の紙片に目を落とした。これが奴らの連絡手段だったとしたら!
 俺に暗号を渡した蛇の男は暗号の向きを知っていた。そして暗号の内容を知っているのではないかというところまで俺は行き着いていた。もし、これが奴らの連絡手段ならば、そこに整合性のある説明がつけられる。これを解読すれば、奴らの情報が……。
 しかし、本当にそうだろうか。自分たちの情報が書かれたものを部外者である俺に渡すだろうか。そもそもなぜ俺に解読させようとしたのか。
 いや、もっと奇妙なことがある。ダイスケを見張りに立てて出て行ったあの三人。あの三人は俺が脱出したことについてどう考えているんだろうか。刑事の話にはそこのところが語られていなかった。あの三人は俺を閉じ込めて他で事件を起こしていた。まるで、アリバイを主張するみたいに……。
 まさか。
 これはあの三人の逮捕時の話をよく聞く必要がある。だが、今は暗号の解読を優先させた方がよさそうだ。おそらく警察は、今は俺の話を聞かないだろう。

 釣針以外の形状は多数あるのが分かる。俺はそれを数える前にあることに気がついた。この釣針以外の形状には手の加えられていないただの直線の種類があるのだ。つまり、《釣針の五種類》だけが特定要素になる種類の記号だ。俺は見当をつけた。この《直線形状》は母音を示すのではないかと。ということは、《釣針の五種類》がどの段を示しているか分かれば、自動的に《直線形状》の記号が判明することになるのだ。
 しかし、この《直線形状》が母音であるならば、暗号作成者の傾向は少し読める。それは、字の順番で徐々に記号の複雑さが増していくということだ。例えば、「あ」と「め」では「め」の方が記号が複雑になっているはずだということだ。もしそうだとすると、これは進歩的な手がかりだ。というのは、《釣針の五種類》にも複雑さの差があるからなのだ。《第一》(右側のみに上向きの釣針)と《第二》(左側のみに上向きの釣針)と、《第四》(右側に上向き、左側に下向きの釣針)と《第五》(右側に下向き、左側に上向きの釣針)の間には確実に段階的な複雑性の高まりが見られる。《第三》(両側に上向きの釣針)は中階的な複雑性を持っているといえるだろう。ここで強引に推測を押し進めていくのならば、《第一》と《第二》は、「あ段」か「い段」のいずれか。《第四》と《第五》は「え段」か「お段」のいずれか。そして中階的な複雑性を持つ《第三》は「う段」ということになる。
 暫定的であるが俺は「う段」と「ん」を手に入れることが出来た。あとは、これを《直線形状》の場合に当て嵌めて推測していくことにしよう。
 ところが、ここで詰まってしまう。《釣針暗号》は切れ目なく最後まで綴られているために文の長さが推定できない。文の終わりが分かれば、推測の余地はあったのだが。
 なにかシリー(予測可能なメッセージ鍵)はないだろうか。例えば、これが奴らの連絡手段ならば、仲間の名前が書いてあるとか。しかし、俺の手に入れた名前はダイスケ、だけだ。しかし、「ダイスケ」というのは面白い特徴を示している。それは段に直せば「AIUE」になるからだ。「う段」は暫定的に手に入れている。だから、一番目、二番目が《第一》、《第二》のいずれかで、四番目が《第四》か《第五》である記号列を探せばいいのだ。しかし、これは骨が折れる。そして、絶対にこの暗号にその言葉が含まれていると確信できない以上手を出すのは躊躇われた。
 この《釣針暗号》が連絡手段であれば、それは何を伝えているのだろうか。蛇の男の俺への指示はてきぱきとしていた。それがこの暗号に書かれたものだとしたら。しかし、なぜそれを俺に解読させるのか。本当に“ブリタニカ複製”なのだろうか。だが、もしこれが指示を書いたものであるなら、そこには「包丁」や「盗む」といったような単語があると予想できはしないだろうか。「地下室」とか「監禁」、「閉じ込め」といったものも期待できる。
 しかし、待てよ。これが指示書なら、俺は暗号の解読を強制された。ならば、この暗号中には「暗号」とか「解読」といった言葉が含まれているかもしれない。そして、「暗号」という言葉には母音の「う」そして、既に明らかにしている「ん」が含まれている。
 これを探そう。まずは「う」を見つける。それが見つかったらその二つ前の記号が「ん」を示す《第六》の横棒であればビンゴだ。
 それは九行目の一番左端にあった。その二つ前の記号は横棒で、これは「ん」を示している。そして横棒の前の《直線形状》は《釣針の五種類》が《第二》で、これは先ほど「あ段」か「い段」のいずれかだと推測したものだ。「暗号」という文字列は《釣針暗号》の中にあったのだ。まだ可能性の域を出ないのだが。(参照2)


 これが正しい場合、「あ段」は《第二》であるといえる。そして、《第一》は自動的に「い段」となるのだ。そして、《第四》が「お段」であることも明らかになり、したがって残る《第五》が「え段」となるのだ。興味深いのは、「ご」がひとつの記号で表されていることだ。釣針以外の形状の種類は、そう考えると、濁点の行も含めることになり、五十個以上の文字を表すことが出来るということになる。そして、釣針以外の形状(《中心形状》と名づけよう)で、尖山型のものは「が行」を示していると分かった。
 俺が手に入れたのは「あ行」と「が行」、「ん」だ。ここで俺は、強引に推測を続けた。というのは、先ほど考えていた“特徴”が暗号の中に現れていたからだ。しかも、その“特徴”は二度同じ形で現れていた。それは、五行目の右五番目から三つ目にかけての四つの記号だった。それと同じものが八行目、左七つ目から十個目にかけて記されている(参照3)。



 已むを得ず、無題3 へ続く
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