CMWC NONEL COMPETITION

13番テーブルのガム

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CMWC NONEL COMPETITION4

13番テーブルのガム


雨沢流那
【問題編】

 13番カウンターの椅子にくっついていた、ガム――全ての事件は、そこから始まった。少なくとも、僕にとっては。
 というか、本来的には「事件」なんて言ってしまうほどたいそうな出来事ではないかもしれない。けれど、退屈な日常を送る一般市民である僕にとってそれは、紛うことなき「事件」であり、そしてその発端は全て、13番カウンターのガムなのである。

 全ての発端となる、「ガム」に関する事件――というより、出来事が起こったのは、今から二週間ばかり遡ったある日の晩である。それは、フリーター一年目の僕が、大阪ミナミはアメリカ村、三角公園のすぐそばのラーメン屋「瑞雄亭」に勤め始めた二日目のことだったので、よく覚えている。
 その日は比較的忙しかった――今から思えば。というのも、当時はまだ新人で、忙しいかどうかの尺度も分からなかったし、そんなことを考える余裕も無かったからだ。
 それは、もうすぐバイト上がりかという午後九時半頃のことだった。ガヤガヤと、三人組の若い男の客が入ってきた。アメリカ村にもっとも高い割合で生息する、茶髪でジャラジャラとアクセサリーを下げているタイプのグループだ。所作が荒く、新人の僕にさえ分かるほど、あまり歓迎できないタイプのお客。
 テーブル席はいっぱいだったので三人は、あまり客の使うことの無い奥のカウンター席に座った。手前から、11番、12番、13番の席である。
「いらっしゃいませ」
 まだなれぬ手付きで、水を出した。
「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」
 三人は、メニューを手に取りあれやこれや。僕は、そちらを構っている余裕なく、埋まっているテーブル席へ出来上がったラーメンを運ぶ。全席わずか29席の狭い店内とはいえ、ホールは僕一人なので満員になると大変なのだ。
 ようやくラーメンを運び終えた頃、
「お兄ちゃん、注文!」
 呼び止められて僕は、慌てて注文票を持ってカウンター席へ行った。
「ええと……」と言いながら、てんでばらばらに注文。しかも「あ、やっぱそれはやめといて……」と言い換えたり。こういうバイトをするとよく分かるけど、そういう注文の仕方は気に入らないね!
 一段落したようなので、聞く。
「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
 返事が無い。いいんだろう。
「当店、キムチの方が無料サービスになってますので、よろしければご自由にどうぞ」
 と言うと、
「お、マジで! もらい~」
 と、立ち上がっていく。まったく、現金な連中だ。
 オーダーを通して、出来上がったラーメンを運んで。その頃にはもう、忙しさはだいぶ落ち着いていた。もうすぐ、今日の仕事もおしまい。そう思うと、緊張していた分、軽く体の力が抜けた。
 ふと目をやれば、例の客はすでにラーメンを食べ終えて、爪楊枝をすすっている。もうそろそろ、お帰りだろうか。
 そのとき、別の客が席を立った。僕は慌てて、レジへ走る。お金の受け渡しをして、そろそろ帰ろうかという三人組を横目に見つつ、空いた食器を下げようとテーブル席へ向かって――
「ちょっとお兄さん、これガムくっついとぅで!」
 そう僕を呼んだのは、13番カウンターの客。なにっ!と、慌てて行くと、そこには確かに、ガム――客のズボンにぐっしゃりとついているではないか。木目の座席にも白いガムの痕がついている。まさか、座席にガムがついていたのか!?
 びっくりな状況に僕はテンパってしまって、状況もよく把握せぬまま大慌てで「すみません!」と平謝りに謝り、おしぼりを持ってきた。だが、べっとりついたガムは容易には落ちてくれない。
「どうしてくれんねんな、これぇ!」
 と、客は凄む。あかん、もう手に負えん。
 ――僕はまるでケンカに負けて泣きべそかいて助けを求めるみたいに、店長に報告。
「なに、ガムやと?」
 と、店長はいっぺんに不機嫌な顔。おお、こええ!
「なんで、んなとこにガムがくっついとんねんな。普通気付くやろ。おかしいやんけ。どうせ、値段安くしようといちゃもんつけとうだけや」
 ……そう言われてみれば確かにそうだ。僕はもちろん気付かなかったし、客だって座ろうとしたときに気付かなかったのだろうか?
 だが――実際は気付かなかった。なぜ――?
「まぁええわ、俺が話したる」
 そう言って店長は肩で風を切って客の元へ――さすが、ミナミでラーメン屋を構えるだけの事はある。迫力満点。
 ――だが僕は、それがその後どうなったのか、見る事は出来なかった。十時になって、上がる時間になったからだ。十時からのバイトと交代して、僕はその場を引き上げた。結局どちらも引き下がらず喧嘩別れのごとくなってしまったらしいが、そのようなことの顛末を聞いたのは、のちのこと。
 のち――そう「彼」が店にやってきたときだ。

 ――チャリン。
 平日の昼間、客は皆無。暇つぶしに割り箸の補充をしていた僕は、ドアの開く音に振り返った。
「いらっしゃいませ」
 そこに立っていたのは、ラーメン屋や牛丼屋などにおける共通の客――一人きりの、男性客だ。とても、昼飯にマクドなんぞには入れないタイプ。よれよれのスラックスに変てこな柄のワンポイントTシャツ、頭には帽子。競馬場によくうろついていそうな、まともな職、まともなセンスとは思えない風体だが、こんな格好の男でさえ違和感なくアメリカ村という街は許容する。
 男は、きょろきょろと挙動不審げに見回すので、僕は「ご自由な席へどうぞ」と声を掛けた。すると男は、寝ぼけたように目をしょぼしょぼさせながら手前のカウンター席へ向かった。
 伝票を取り出し僕は、「10カウンター、1名」と書き込む。男はまだ、メニューに見入っている。
 しかし――暇だ。いくら平日の3時という比較的暇な時間帯とはいえ、三十分ぶりの客である。おかげで店長も、イライラを隠そうとしない。そして僕の居場所は無い。働かぬ給料泥棒と思えば、余計に。
 これがもし、ラーメンが不味いせいなら諦めもつこう。味が不味ければ、それは仕方ないことだ。だがしかし、瑞雄亭のラーメンは文句なしにうまいのだ。少なくとも、僕はここのラーメンの大ファンである。ちょっとこってり目のとんこつしょうゆ。系統としては、和歌山ラーメンに近いだろうか。ノーマルな「元味ラーメン」一杯600円という標準的な値段のわりにボリュームはあるし、キムチ食べ放題というのもありがたい(このキムチがまたうまいのだ)。しかも場所は、アメリカ村の待ち合わせ場所としてよく使われる三角公園の、笑っちゃうくらいすぐまん前。となれば流行らぬはずはないと思うのだが……。
 基本的に苦戦の原因は、まだオープンしてそれほど経っていないせいだと思う。開店して半年、いまだ常連客を確保できていないのだ(実際、未だ一見さんが過半数を占める)。それに、せっかく常連客を確保したって、アメリカ村を闊歩する人種の多くは、遊びに来ている連中だ。毎日来ているわけじゃない。だから、せっかく獲得したリピーターも、根本的にアメリカ村に足を運ぶ回数そのものが少ないために、客足が安定してくれないのだ。
 ぶっちゃけ、そこで働いているからという義務感を除いてなお、僕は瑞雄亭のラーメンを人に勧めたい。一ファンとしてたくさんの人に食べてもらいたい。そんなことを思いつつせいぜい真面目に働くのだが……
 相変わらず店は、暇だ。
「すいません」
 呼ばれて僕は、慌ててカウンター席に走った。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「……お勧めラーメンって、何ですか?」
 待たせといてそれかい、と思いつつ。いやいやしかし、ここが腕の見せ所である!
 写真付きのメニューを指差しつつ、
「はい、当店のお勧めは、こちらの特製こってりラーメンです。とんこつしょうゆのベーシックなラーメンに旨味背油を入れこってり目にしまして、さらに煮タマゴや揚げにんにく、もやしなどをトッピングしたラーメンです! お薦めですよ!」
 と、「おいしいぜ!」というオーラをにじませながら熱心に説明した。
 さぁ、頼めや!特製こってり! 750円で利益率が高いんだ!(もちろん、本当にお勧めにうまいけどね)
 すると男は、
「じゃあこっちの、元味ラーメンください」
 ガクッと肩が落ちそうになった。おい、特製こってりがお勧めって言うとうやんけっ!何のために「お勧め」を聞いてん! 
 未練がましく僕は、言う。
「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
 だが客は何のためらいも無く、
「はい」
 ……くそう。元味ラーメン600円か、三十分ぶりに来た客が600円……だが僕はそんな落胆は顔に出さず笑顔で、「当店、キムチの方が無料サービスになってますので、よろしければご自由にどうぞ」
 そう言うと男は、「どうも」と立ちあがった。くそっ、キムチだけしっかり食っていく気か! ならもっと高いモン頼めよ!
 ……とまぁ、心の中でどれだけ愚痴っても仕方が無いので、僕は「元味一丁!」とオーダーを通した。店長も、いまいち機嫌はよろしくない。そりゃそうだ、600円じゃ僕の時給にさえならないのだから。
 不機嫌そうながらも、店長はさっと麺を茹でにかかる。そして、スープを火にかけた。さらに、ラーメン鉢に湯を張り、温める。
 その間僕は、手持ち無沙汰だ。横目で、ぼやあっと客のほうを観察する。
 男は、黙々とキムチをつまんでいた。年のころは……一見してのうらびれっぷりは四十前にも見えるし、見ようによってはまだ二十代の後半とも見えるし。端的に言うと、年齢不詳。ついでに言うと、正体不明。まぁ、ラーメン屋の客はわりと、こういうその人間のバックボーンというか、正体の分からぬ人間が多いものだ。
 しかしまぁ、ながめればながめるほど、よくこんな格好で外へ出てくるもんだ、と思う。髪はまったく手入れがされておらずボサボサで、Tシャツのよれっぷりもひどい。まるで、洗濯機で洗って乾かすのにそのまま洗濯機の中で乾かしたんじゃないかと思えるほど。靴だって、いい加減履きつぶされて、白のスニーカーが黒ずんで斑模様に見えるという代物だ。まったく、信じられない。
 だが、そうこうしているうちに、後ろで湯を切る音が聞こえてきた。麺が茹で上がったらしい。出来上がりを待つべく、そちらを振り返る。
 ばしゃっと、鉢に張ってあった湯が捨てられた。そこに、瑞雄亭自慢の卵麺がさっと盛られる。湯気を立ててつやつやと輝く麺の上に、黄金色のスープが注がれ、その中で麺が緩やかに泳ぐ。店長が箸で軽くかき混ぜると、食欲をそそるかぐわしい香りが横で待つ僕の元にまで届いてきた。
 チャーシューを二枚乗せ、キャベツとネギを一つまみずつ。「上がったよ!」
 そこに僕は仕上げに、海苔を一枚とゴマを一振り。これで、当店自慢、元味ラーメン600円なりの完成だ! 黒い鉢に盛られたまさしく出来たてのラーメンは……実にうまそうだ。いやマジで。食べたいし。
 口の中にたっぷりたまった唾をこっそり飲み干し僕は、レンゲとともにラーメンを運んだ。
「お待たせしました!」
 もちろんあくまで、目いっぱい愛想よく。今日は、仕方ない。ラーメン一杯で許してやるさ。だが、確実においしいから、ちゃんとまた来て、そんで今度はもっと高いもの頼めよ!
 男は「どうも」と頭を下げつつ、キムチで赤く染まった割り箸で、ラーメンを食べ始めた。僕は邪魔にならぬよう、厨房の入り口の前でじっと気を付けで立った。
 平日の午後の、アメリカ村。高い日差しが照りつける窓の外を見れば、思い思いの格好をした若者達が闊歩している。いや、若者とも限らない。日本人とも限らない。年齢性別人種を問わず、趣味を問わず、全て違和感なく街に溶け込んでいた。茶髪のにーちゃんが売り込むジーンズショップ、観光らしき老夫婦、たこやき片手に歩く女子高生、バンダナした黒人のティッシュ配り、そんな全てがきれいに調和して、それが「大阪」になっていた。
 そういう意味で僕は、大阪――ミナミという街が好きだった。がちゃがちゃしすぎていて、落ち着かない、汚いという気持ちも分からないではないが、どんな種類の人間でさえ平気で受け入れてくれるその懐の深さが、好きだった。行ったことがないからよく分からないけれど、例えば今ラーメンを食っているようなセンスなしの客が渋谷を歩けばきっと違和感で目立ってしまうだろう。けれど難波じゃ、アメリカ村じゃ目立ちやしない。悪びれもせず、堂々と歩けるんだ。
 そんなことをぼやあっと考えながら、働くラーメン屋。僕もこの街の一員。そんな感じは悪くない。
 ずるるぅ、ずるずる。ラーメンをすする音が聞こえる。調子よく食っているから、きっとうまいんだろう。いや、うまくないなんてことはない。いいなぁ、僕も食べたいよ。
 ――結局、それから一人の客も来ることのないまま、男はラーメンを食べ終えた。スープまでしっかり飲み干して、爪楊枝で歯をすすっている。
 爪楊枝を灰皿に捨て、水を一口飲み。男は、僕に声を掛けた。
「すいません」
 お会計だろうか、と僕は「はい」と返事をした。だが男は、伝票を取ろうとした僕の目の前に、思いもよらないものをズボンの後ろポケットから取り出した。
「こういうものですけど」
 ――それは、警察手帳だった!


 男は、南署の藪神と名乗った。確かに、警察手帳には男の顔写真。しかし、この男がまさか刑事だなんて!
「け、警察ですか……」
 そう言いながら僕はつい、男の格好を上から下まで見てしまった。すると薮神はそれに気付いたらしく、
「格好、おかしいですか?」
 僕は慌てて、「いえ、そういうわけでは……。でも、やっぱり普通警察官がそんな格好はしていないかな、と……」
 すると藪神は、まるで気障なインテリみたいにちっちっと指を振って、
「世の中で常識とされていることは、必ずしも100%その通りとは限らないのです。わずかながらも例外は存在するのです。私の格好がその一つです」
 ――たしかにそうだろう。どう見ても目の前の男は「普通」ではなく「例外」の部類と思えた。
 僕は慌てて、店長を呼んだ。不機嫌そうな顔をして出てきた店長も、刑事だという自己紹介には面食らった。だが、やや不審げに、
「刑事って……普通刑事は二人一組で行動するモンちゃうの?」
 すると藪神は、
「世の中で常識とされていることは……」
 と、僕に言ったのと同じセリフを繰り返した。お気に入りのセリフなのだろうか?
 というかそもそも、捜査ならいちいちラーメンなんて食わなくていいはずだ。はじめっから警察手帳を出していればいい……と言おうとしたけれど、きっとまた「世の中で……」と返されそうなので、止めておいた。
 唖然としつつ見つめる僕と店長の前に、薮神は一枚の写真を出してみせた。
「この写真の男に、見覚えはありませんか?」
 差し出されたのは、ダブルピースしてはしゃいでいるジャラジャラな若い男三人組。アメリカ村でもっともステレオタイプに見かける人種だ。
「四月十三日の午後九時過ぎ、三人連れでこの店でラーメンを食べたはずなのですが」
 四月十三日といえば、もう二週間も前だ。アメリカ村ではあまりにありふれたタイプのグループなので、余計に思い出せない。
 「ちょお待ってくださいよ……」と、店長は厨房の奥へ入り、今月のシフト表を持ってきた。僕もそれを覗き込む。――あっ、十三日といえば、僕がバイトを入って二回目の日じゃないか!
「覚えてます、覚えてます!」
 そう、あの「ガム」の客だ。
「店長、ほら、あのガムの客ですよ!」
 そう言うと店長も思い出したようだ。
 薮神は、言った。
「実は、ちょっとした事情で彼らの足跡を追ってましてね。本人曰く、八時ごろヨーロッパ村のクラブで落ち合い、そこで九時過ぎまで時間をつぶしたあと、ぶらぶらとアメリカ村の方へ歩いてきて、腹が減ったのでふらっとここのラーメン屋に入ったと証言しているのです」
「ああ、確かに連中、来とったよ」
 と、店長が答える。だが藪神は大げさに手を振り、
「いえ、実はそれは疑っていません。ただ、ヨーロッパ村のクラブからラーメン屋に来るまでに、何かブツの受け渡しをしているはずなのですよ。それの手がかりを探すためにこうして聞き込みをさせていただいているわけで。あ、そうそう、ブツが何かは捜査上の秘密で言えません」
 ……いや、別に聞かないけれど。しかし、今どき「ブツ」なんて言っちゃうセンスもなぁ。ま、きっと大方、ドラッグかなんかだろう。
「受け渡しいうても、普通に手渡したんとちゃうんかいな」
 店長の言葉に藪神は、
「いえ、実は受け渡した者同士は顔を知らないのです。ですから直接の受け渡しは考えられず、何らかの手段を使ったと考えられます。まぁ、だからこそ証拠が無く、やっかいなのですけどね」
 そう言って藪神は髪をぽりぽりと掻いた。
「ブツは確実に三人に分配されたと考えられています。そして三人が行動をともにしたのは、ヨーロッパ村のクラブからこのラーメン屋まで。店を出て、そのまま別れたそうですし。この間に、ブツとの接触があったはずなのです。それでまずお聞きしたいのですが、彼らが店に入ったのは何時頃か分かりますか?」
 それには僕が答えた。
「ええと、あの日僕のシフトが十時までで、そのちょっと前に入ってきたから、九時半は回っていたと思います」
「なるほど、ありがとうございます。九時二十分ごろまでクラブにいたという目撃証言があるので、どこにも寄らず真っ直ぐにここへ来た、という彼らの証言は間違いないようですね」
「でも、本当に真っ直ぐ来たのなら、どうやって受け渡しが行われたんでしょう?」
 僕の疑問に藪神は、
「まぁ、その気になれば幾らでも方法はあるでしょう。ブツは小さなものですから、場所を決めておいてどこぞに張り付けておくなり、ビルの使われていないポストに入れておくなり。ただ問題は、その方法を特定できないこと、証拠を挙げられないことなのです。受け渡し方法さえ特定できれば、渡し手の方は泳がせてあるので、待ち伏せればそれで済むのですが」
 そこで藪神は店内を見回した。
「もしかしたら、この店内が受け渡し場所なのかとも思ったのですが、それは無理なようですね」
 そう、もっと大きな店ならばともかく、この小さな店内では無理だろう。例えばテーブルの裏に張り付けるなりするとしても、店員に見つかる確率は高いし、狙いの席に座れるとも限らない。もっとも店が協力しているとすれば別だが、ラーメン一筋の頑固店長がそんなことをするとは、まさか思えなかった。
「ところで、さっき『ガムの客』と言いましたよね? 何か、あったんですか?」
 その問いに僕は、「ええと……」と店長を見上げる。それを受けて店長は、
「何の参考にもならんと思うけど?」
 だが藪神は、
「いえ、一応聞いておきます。お話しください」
 それを受けて、店長も口を開いた……と、そんなわけで、僕もまたその後の顛末を聞けた、というわけだ。
 まぁ、こんな感じのことがあって、と店長が言い終わると、意外にも薮神は真剣な面持ちで考え込むように顎に手を当てていた。その表情を不審に思いつつ、
「あの……どうかしましたか?」
 と、恐る恐る聞いてみる。すると薮神は、一瞬でぱあっと表情を変え、さも満足げに微笑んだ。
 僕の方を見て、言う。
「いえ、目的を達成できましたので。喜んでいるんですよ、ははは」
 何だって!? 目的を達成できた?
「っていうことはひょっとして、受け渡し方法が分かったってことですか!?」
 それに藪神は自信たっぷりに頷き、
「ええ、分かりましたとも」
「そんな、ただ客のズボンにガムがくっついちゃったってだけじゃないですか。普通、たったあれだけの話じゃ何も分からないですよ」
 そう、そんな分かるわけがない――だけど藪神は、僕らの目の前にすっと人差し指を立ててみせた。
 そして、言った。
「世の中で常識とされていることは、必ずしも100%その通りとは限らないのです。普通の人ならば分からないかもしれない。けれど例外的に、分かる人間もいるのです」
 藪神は、ニヤリと笑った。
「それが、私なのです」

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