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*CMWC NONEL COMPETITION6 **已むを得ず、無題 #right(){作:塩瀬絆斗} 1、Re レッドラム・マ・イ  制服に身を包んだ警官が俺を見ていた。それは疑惑以外のなにものでもなかった。 「どういうことだね?」  その手は肩口の無線機に置かれていた。  ――どういうことか? だって?  俺が知りたい。  俺は小言をバラバラと撒き散らす親を無視するみたいに目をそらした。その、開かれたドアの向こうへ。  空気が悪いのは仕方がない。部屋は半地下室だった。薄汚い打ちっぱなしのコンクリートの壁が閉塞感を煽るのだ。  俺と警官、ユウリの三人は部屋に入ったすぐのところで馬鹿みたいに立ち尽くしていた。  俺たちを呆けさせるもの。それは無残な肉塊だった。どうしようもない、それは抜け殻だった。部屋に足を踏み入れて左手前の隅、そこに男は転がっていた。まるで打ちひしがれた人間みたいに上半身を部屋の隅に押しつけ足を投げ出してしょげ返っていた。  その死体は頭からゴミ袋が被せられていた。死に顔を隠す。 「どういうことだね?」  戯言みたいに繰り返すのは、死体恐怖の震える声。  俺は頭を抱えた。ユウリが俺を見ている。その眉間に刻まれた皺の深さは、疑いの奈落に通じていた。  そんなはずはないのだ! 俺は殺してなんかいないのだ。  そうやって俺は叫び出したかった。だが、喉の奥から搾り取れるのはただただ細い溜息のみだった。  俺の手の中では、この部屋の鍵が他人事みたいに僅かな音を立てていた。  俺がこの部屋の施錠を解いた。  死体が、現実逃避でもするみたいに部屋の隅に座り込んでいた。  部屋を見渡す。  ドアの正面の壁。天井に近いところに横に細長い窓がついていた。窓は閉まり、クレッセント錠が下りているのが見える。しかし、問題はそれではなかった。窓自体が小さいのだ。部屋の右手の壁には、これまた高いところに換気扇がついていた。沈黙している。そして、その下の床には驚くべきことに迷彩柄のバンダナが落ちていた……。  部屋は密室だった。  誰が殺した?  俺は縋るみたいにユウリの顔を見た。ユウリ。俺の初めての恋人だ。  いまこのとき、この場には無表情しかなかった。  捕囚だった。  俺は抵抗も反論も意識に上らないままに警察署へ連行されていた。ユウリは混乱しながらも、警官の制止を無視して俺に付き添って車に乗り込んでいた。 「何が……起こった」  署への道の途中、俺の口からようやく発された初めての言葉はそれだった。 「ソウジ、しっかりして」 「夢でも見てるみたいだ」  あの部屋の前で警察の応援が殺到する様は、連続写真のようだった。何人もの人間が部屋の中へ飛び込んでいった。俺は部屋の外で無数の質問の弾丸を浴びせられた。  気付けば車の中だ。 「知らないんだ」俺は喪失した現実感の中で虚ろに口を開いていた。「ユウリには話したな。いきなり四人組に襲われて……、あの部屋に監禁されて……。脱出して……、お前の許に行って……心配だったから……。……こんなのは嘘なんだ。嘘なんだ……絶対」 「うん。聞いたよ」  ユウリはそれだけを言って俺の手を両手で包み込んだ。温かく柔らかいその手は俺を徐々に現実へ引き戻していった。  取調室だった。  俺の目の前に刑事が座っていた。部下らしい男が入ってきて書類を刑事に手渡した。 「どうして殺した?」  口調は柔和だった。しかし、根底には禍々しい針が鈍い光を放っているようだった。 「殺してなんかいない」 「動機は監禁されたことへの報復」刑事は俺の心の中を覗き見するみたいに切り出した。「被害者には脇の下と顎に打撲傷があった。先ほど調べたとおり、君のジーンズの膝の部分から被害者の唾液と血液が検出された。君は被害者の顎を膝蹴りしたんだ。相手が気絶した隙に君は殺害を行った。――凶器は君が店から盗み出したものだ。君の指紋も検出されている。あの包丁で君は被害者を刺した。そしてそれが内臓にダメージを与え死に至らせた。――現場は密室だった。窓は人間の出入りできるものじゃない。換気扇も人間が出入りできるような隙間はない。唯一の鍵は君が持っていた」  俺の前に堆く積み上げられていくもの。それを、ただ見上げていた。  刑事は椅子の背凭れに身を委ねた。手にしていた書類を、俺たちを隔てる机の上に放ると、深い溜息をついた。  俺にはこの男の次の一言が予想できた。 「君だったな」感慨深げに刑事は口を開いたのだった。「あの少年グループ《アイコノクラスト》のメンバー一人の逮捕協力の件で、署長賞を受けたのは」 《アイコノクラスト》は少年らによる犯罪グループだ。メンバーは中高生で構成されるといわれている。俺より若い連中がそうして世間を騒がせていた。  それはひょんなことだった。  自宅近くの公園で中高生の集団が密かに犯罪計画を話しているのを偶然から聞いたのだ。その連中が《アイコノクラスト》であったことは後から知った。俺はすぐに警察へその情報を伝えたのだ。警察はこの情報をもとにメンバーの一人を確保。俺は逮捕に関わった情報提供者として署長賞を授与されたのだった。 「今回の被害者は《アイコノクラスト》のメンバーの一人だった。君はこの少年グループを摘発し、最後には殺してしまったというわけか……」 「違う」  俺は自分の身の潔白を示したかった。だが、どうすればいいのか分からなかった。  あの囹圄のような部屋を思い返すと、脳髄が麻痺して思考が棒立ちになってしまうのだった。あの状況は一体なんだったのだろうか……。なぜあんなことが可能なのか。  俺の頭にはある都市伝説の一篇が去来していた。『敗残兵の蛇男』だ。蛇男は普段は人間だが、蛇に姿を変えることができる。その姿ならば、あの換気扇の隙間を使って部屋を出入りすることができるではないか……。 「君は、社会悪を罰したつもりかもしれない」  刑事は机の上に両肘を乗せて俺のほうへ体を傾けていた。その目は断罪の響きを湛えていた。俺は相手を力なく見つめ返していた。力なく――。 「だが、貫きすぎた正義は、自家製の大義名分に過ぎない。君はもはや正義の徒ではないのだ」 「俺はやっていないんだ……」 「君は今回の殺人に先立って、凶器である包丁を盗んでいる。その店に残っていた監視カメラの映像を見たよ。君の手際は、こう言ってはなんだが、随分小気味のいいものだった。あの映像自体が君の罪を雄弁に物語っているのだ」 「あれは仕方なかった!」俺は声を絞り出していた。「やらなきゃ、ユウリが危険だった!」 「聞いたよ」  その冷淡な応答。  刑事は署に同行してくれたユウリに対しても事情聴取を行っていた。 「君は《アイコノクラスト》のメンバーに強要されたんだと。だが、そんな証拠はない。妄言であるといってしまえばそれで終わりなのだ」  そうだ。  俺の頭がようやく回転を始めた。ここに至るまでの出来事の数々が脳裏のスクリーンに投影され始めたのだ。 「俺を拘束したのはその《アイコノクラスト》の四人のメンバーだった。殺されたのは、その内のひとり。きっと仲間割れか何かで――」  動き出す。投影機が。  俺の意識は、そう、時空を遡行していった。  あれは、ほんの数時間前のことだったんだ。 2、スタートQT 「窮地で始まるミステリ」だと。  俺はパソコンのディスプレイの前で途方に暮れていた。 《電脳ミステリ作家倶楽部》のトップページにはテーマが決定したこと、そして募集期間などが掲載されていた。  都市伝説じゃなかった……。  俺の住む町には実しやかに囁かれる話があった。『敗残兵の蛇男』だ。  数年前にこの町のある家で起こった殺人事件。現場は密室だったのだ。外界と接していたのは小さな天窓だった。天窓はほんの数センチだけ開くようになっていたが、人間がそこを通って部屋を出入りすることは出来ないのだ。そして、ある人が調査をしたところ、事件の前夜その家の前で不審な人影が目撃されていた。それは、全身を迷彩服で固めた不気味な男の姿だった。男はこれから事件が起こるであろう家をじっと見つめていたのだという。そして、その目は爬虫類の目をしていたのだ……。事件現場の密室内からは迷彩柄のバンダナが発見されていた。警察はそれを手がかりに事件の捜査を開始したが、結局犯人は見つからなかった。そして最後に残された結論は、迷彩服の男が蛇に姿を変えて命を奪うというものだった。爾来、男を見た者はなく、今もどこかで獲物を探しているかもしれないという……。  この都市伝説を基にミステリが一本書けそうだったのに。だからそれに投票したのだが、大差で「窮地で始まるミステリ」となってしまった。  どうしようか……。もう九月二十九日。余裕がない。  俺は《電ミス》のロゴを見つめていた。  将来は推理小説家になりたかった。だから、この倶楽部に入会したのだった。今年は就職活動の年だった。だが、何もせずここまで来てしまった。気がつけばノートに小説のネタをメモしていたりする。そんな日々の中で、しかし、実家の親からのプレッシャーが気ままな生活を許さない。俺の中を焦燥感が駆け巡っていた。  いっそのこと、大学在学中に小説家デビューできれば……。  それが現実逃避だと言われれば、そうだろう。しかし、本気だった。そのためには、ここで挫けるのは敗北を意味することになる。  俺は腕組みして考えていた。作品の募集期間は今月いっぱいまで。他のメンバーのHPなりブログなりを見てみると、「既に完成した」だの「推敲だけだ!」などという文字が躍る。それが焦りに拍車をかけた。  どうしようか。  そのときだった。携帯電話が鳴った。着信は湯根山ユウリ。先日出来た俺の初めての彼女だ。瞬間、意識から競作は消え去った。携帯に飛びついて声をかけた。 「はい!」 「あ、ソウジ君――」  いつもと違って声が低まっているような気がした。 「どうした? 元気がないみたいだけど」 「あ、うん――」  彼女はなかなか切り出そうとしない。俺はこういうときどうしたらいいか分からないから黙ってしまう。嫌な予感はふつふつと沸いて出る。俺は心配性な人間だった。 「ちょっとさ」ユウリの声が俺を我に返らせる。「ウチに来てほしいんだ……。大切な話があるからさ……」 「大切な話? 電話じゃダメなの」 「ごめん。来てほしいんだ」  俺は迷うことなく返事をした。 「分かった、行くよ。待ってて」  何の話だろうか。また予感が首を擡げる。  まあ、いいさ。行けば分かる。アントニオ猪木だってそう言ってる。  ユウリの家は俺の家から歩いて十分くらいのところにあった。  彼女との出会いは、町で偶然に彼女から声をかけてきたときだったが、こうして互いが近傍に住んでいるということが運命的な心持ちを与えていた。  俺は自然と速まる足に時間を預けてユウリのことを考えていた。  ユウリは素晴らしく人目を引くルックスの持ち主だった。小顔でスタイルがよかった。端的に言うと、榮倉奈々を髣髴とさせたが、あれをもう少しコケティッシュにした感じの女の子だった。しかし、彼女は見た目に似合わず随分と控えめでお淑やかだった。あまり自信を持っている風でもなかった。俺はそこが好きだった。守ってやりたいと心の底から思うような――そう思わせるような魅力が彼女にはあった。それに彼女には理解力があった。先ほどの競作の話も、『敗残兵の蛇男』にまつわるミステリの完成を心待ちにしているようだった。もっとも、今回はテーマを外されてしまったのだが。  彼女は俺より歳が五つ下だった。高校生なのに、一人暮らししてすごく真面目な子だ。そのためか、見た目も大人っぽい。背の高さもそれを後押ししている。彼女と並べば俺など見劣りするんだろう。俺の友人にはまだ彼女のことを話していなかった。来週、仲間と遊びに行く際に彼女をお披露目することになっていた。あいつ、驚くだろうな。  思わずにやにや笑いがこみ上げてくる。  しかし、そうした幸せの時間のあとに、神様はバランスを計って不幸を配置しているのかもしれない。  ユウリの家まで道程あと半分というところ。少し寂しげな路地だった。前方に四人組の男が立っていた。高校生くらいだろうか。それが二人して行く手を阻むかのように仁王立ちしていた。その眼は紛れもなく俺に注がれていた。嫌な予感がした。  関わり合いにならない方がいい。しかし、俺が躊躇する間に二人がこちらへ歩いてくる。  二人は俺とすれ違った……。と思った。  俺は囲まれていた。包囲の中には脇道はない。前方の二人が目を獣みたいにして向かってくる。ひとりが口を開く。 「霧島ソウジ」  俺の声は少し震えていた。 「ここは道だったな。通してくれ」  強がるしかなかった。頭の中には《アイコノクラスト》という言葉が浮かんでいた。  突然俺は背後から羽交い絞めにされた。 「グッ! ――何すんだ!」  力が強い。俺は瞬間的に恐怖が沸騰するのを感じた。殺されるかもしれないと思った。 「言うとおりにしろ」  拘束される俺の目の前に立って、男が言った。 「は?」  意味が分からなかった。しかし、俺がこう漏らした途端、腹に強い衝撃が走った。鳩尾に男の拳がめり込んでいた。  俺は息もできないまま崩れ落ちそうになった。だが、体は押さえつけられて人形が立つみたいにしていなければならなかった。 「言うとおりにしろ」  それは二度目の命令だった。有無を言わせない威圧感。 「な、んで」  俺はようやく口が動かすことが出来るようになっていた。途切れつつそう聞くと、襟首を掴まれて顔を無理やり相手の方へ向けさせられた。 「いいか。これから俺たちの言うことを聞け。さもないと、お前の大切な人がひどい目に遭うぞ」  その言葉がもたらしたのは、ユウリのイメージだった。 「お、お前らっ! あいつを――!」  変だと思ったんだ。ユウリの、あの、今にして思えば怯えたような声。ユウリはこの男たちの仲間に捕まっているのかもしれない……!  しかし、なぜ?  その理由にも俺は思い当たっていた。  署長賞だ。俺の情報で逮捕された少年は《アイコノクラスト》のメンバーだった。この男たちはあの少年グループに属していて、俺に報復しようとしているんだ。  もう俺にはなす術がなかった。せめてユウリが無事であってほしいと願う。  俺は弱弱しく頷いた。  それは俺の意識の中に入り込んだ恐怖の悪魔が命じた所作。  そして運命の女神フォルトゥーナが、俺を地獄のような線路へ投げ込んだ瞬間であった。  俺が連れ去られたのは、後にあの忌まわしい事件が起こる薄汚い半地下室だった。  俺は部屋の中に蹴り入れられた。部屋は随分長い間使っていないような印象だった。物が乱雑に置かれていた。あるいはただ散らばっていただけかもしれない。ただ、ハサミやタコ糸や方眼紙、色紙などがある様はここが昔事務倉庫か何かに使われていたのではないかと思わせた。封の切られていない二十枚入りのゴミ袋や、埃に塗れて潰れかけた段ボール箱から覗くボールペンの入った白い箱、床には汚れた白い紙が張り付いていたりした。調度類は姿がなく、俺はその部屋の中央にみっともなく横たわっていた。部屋を見回す。半地下のために窓は天井の近くに小さなものがついているだけだった。とても届きそうではないし、もしそれが叶っても頭すら通らないだろうと思われた。俺の後方の壁の天井近くには換気扇が穿たれていた。その隙間から、夜の帳が下り始める外の光が漏れ入って来ていた。そこもとてもじゃないが、脱出口となりそうではなかった。換気扇の枠はすっかり錆び付いていた。そこから床の方に向かって伸びる錆びの跡が、俺の心の中に流れる様々な感情を宿した涙の ように見えた。だから、俺は今もこうして冷静に部屋を見ていられるのだろう。  俺を見下げる四人の男の顔。俺は一生その冷酷な表情たちを忘れないだろう。 「まずお前にやってもらいたいことがある」  さっきから口を開くのは一人だけだ。蛇みたいな印象の男。常に口の端に残酷な笑みを浮かべていた。眼光は鋭く、その痩身から発される負のオーラは黒々として俺を取り込もうとする。 「サン・ホームセンターへ行って包丁を盗んで来い」 「な、なんだって?」  俺の背中に容赦ない蹴りが入る。咳き込む俺に蛇の男が唾を吐きかけるみたいな口調で言い放った。 「言うことを聞け」言外には人質の安否がちらついていた。……ユウリ。「盗んで来るんだ。『分かった』以外の答えは許さない」 「わ、分かった……」 「よし。――お前ら、こいつを立たせろ」  三人が俺をマネキンみたいにして持ち上げて乱暴に直立させた。俺は玩具のようだった。蛇の男は顔を近づけて言う。 「いいか。二人がお前を監視してる。変な真似をすれば、お前の大切な人は死ぬことになる。分かるな」  俺は黙って頷いた。 「包丁をひとつ盗め。絶対にばれるな。捕まりそうになったら全力で逃げろ。万が一捕まった場合は、俺たちのことを話すのは許さない。分かっているな」  分かっているな――こいつはユウリのことを言っているのだ。俺には頷く以外の選択肢を取り得なかった。  太陽は地平線と戯れている。  町は明かりが満ちていた。サン・ホームセンターは太陽をモチーフにしたキャラクターを看板にしていた。コジマ電気みたいだ。俺はその前に立って、心を落ち着けていた。俺のすぐ後ろでは四人組の内の二人が侍していた。あとの二人はあの部屋で待っている。 「行け」  背中を小突かれて俺は店内へ足を踏み入れた。客入りは少なかった。明るい白色照明が、俺の心の内を透かしているようで、怖かった。  調理器具のコーナーは、レジのすぐそばにあった。近年の世相を反映して目の届く場所に置くようになっているのだろう。俺は焦った。 「これじゃ、ばれる」  小声で後ろの二人に言った。返って来たのは完全な無言だった。俺とは無関係を装っているのだ。……ふざけやがって――!  俺は天井を見回した。レジのそばに監視カメラがある。このコーナーも少し視界に入っているだろう。店員の姿はレジの中にひとつ。まだこちらに気付いていないようだった。白髪の目立つ中年の痩せた男。せっせとレジの中で何か作業をしていた。客の姿も近くにはなかった。俺は包丁のひとつをそっと手に取ると、シャツの中に仕舞いこんだ。すぐに走り去らない。俺は平静を装ってレジの方へ向かった。後ろの二人はそわそわとしていた。レジの男が俺の姿をはじめて認めた。俺はレジの前を通って店の外へ出た。  怪しい素振りはしなかった。  怒鳴る声もない。俺は背後に二人を従えて、町の雑踏へ紛れ込んだ。  あの闇の半地下室へ戻る。  待機していた蛇の男ともうひとりが俺を中に引き入れるとドアを閉めてしまった。 「意外と早かったな」  蛇の男は俺から包丁を受け取ると、ひやりとした笑みを浮かべた。  と、そのときだった。  俺のポケットの中で携帯が鳴ったのだった。  瞬時に俺の頭の中にユウリの顔が浮かんだ。だが、彼女は捕らえられているはずだった。そして、目の前の四人が携帯を取り上げなかったことに今気が付いたのだった。  四つの視線を受ける。携帯を取り出す。蛇の男がさっと俺から携帯を奪い去る。 「はい――今隣にいる。お前にだ」蛇の男は受け取ろうとする俺に顔を寄せる。冷血な眼が俺を射抜いていた。「余計なことは喋るな」 「もしもし……。ああ、ユウリ――無事か?」 「え、なに、どういうこと? 今のは?」  ユウリの反応はおかしかった。《アイコノクラスト》のメンバーに捕らえられているとは思えないような、普通の声の調子なのだ。 「捕まったんじゃないのか」 「何言ってるの。それよりいつウチに来れるの? ずっと待ってるんだけど……」  なんということだ。ユウリは捕まっていなかった。  ちらりと男たちを見る。やつらは笑っていた。騙されたのだ。  胸の中に安堵の波が押し寄せる。同時に怒りが俺の中に満ちていた。助けを求めようとした俺の喉元に、静かに包丁が突きつけられた。蛇の男の目は殺気を放っていた。  もう最後の手段だった。 「I’m gonna be late(遅れる)。ごめん」  四人は身構えた。しかし蛇の男はすぐに平静を取り戻して余裕の笑みで言った。 「英語だから分からないと? 理解できているぞ。変な事を喋れば殺す」  包丁の柄を握る手が白みを増した。力が込められているのだ。 「どうしたの、急に英語で」 「いいから」俺は携帯から顔を離すと弁明した。「彼女は英語を主に話すんだ」 「今どこにいるの?」 「On the way to you(行く途中だよ)。すぐに着くから」 「別にいいけど……。待ってるから。大切な話なの」 「ああ。……その話って、掃除を手伝ってほしいとかじゃないよな」 「違うよ」ユウリの口から笑いがこぼれた。よかった。「あ、でも雑誌とか本がいっぱいで……」 「だから言っただろ」俺はこの会話の流れに感謝した。「Rope your books(本は縛っておけって)」 「うん」 「じゃあ……すぐ行くから」  俺は頼みの綱を投げて電話を切った。  蛇の男はすぐさま携帯を取り上げると、部屋の隅へ叩きつけた。  ユウリと付き合い始めたときに買い換えた新しいものだった。それがめきっという音を立てて転がった。なんつーことを。 「お前にはこの部屋でやってもらうことがある」  蛇の男は包丁を隣の仲間に渡すと、ズボンのポケットから紙片を取り出した。それを一瞥して紙を半回転させると俺に突き出した。 「この暗号を解け」  それは奇妙な記号列だった。 「なんだ、これは?」 「質問は許さない。お前がやるべきことは、暗号解読だけだ」 「こんなことをしてただで済むと思ってるのか?」ユウリが無事だという事実が俺の気を楽にしていた。「じきにお前らは逮捕される」  蛇の男は鼻で笑った。 「それは面白い。せいぜい頑張ることだ。――ダイスケ、見張りに立ってろ。こいつが暗号を解くまで絶対に外に出すな」  ダイスケと呼ばれた男が小さく頷く。 「鍵を預けておく。お前は部屋を施錠してドアの外で待機しろ」  蛇の男は鍵と共に包丁を手渡した。 「分かった」  三人の男はダイスケを残してぞろぞろと部屋の外へ消えた。  ダイスケも部屋の外へ。ガチャリと音がして、ドアノブの施錠ツマミが横倒しになった。内側からは容易に鍵を開けられるのだ。いざとなれば、正面突破で脱出するしかない。それにユウリにはSOSを出しておいた。いつまで経っても俺が到着しなければ不審に思って、どこかへ連絡が行くはずだ。  俺の前には暗号の記された紙が残された。(参照1) #image(c6gazou1.jpg,center)
*CMWC NONEL COMPETITION6 **已むを得ず、無題 #right(){作:塩瀬絆斗} 1、Re レッドラム・マ・イ  制服に身を包んだ警官が俺を見ていた。それは疑惑以外のなにものでもなかった。 「どういうことだね?」  その手は肩口の無線機に置かれていた。  ――どういうことか? だって?  俺が知りたい。  俺は小言をバラバラと撒き散らす親を無視するみたいに目をそらした。その、開かれたドアの向こうへ。  空気が悪いのは仕方がない。部屋は半地下室だった。薄汚い打ちっぱなしのコンクリートの壁が閉塞感を煽るのだ。  俺と警官、ユウリの三人は部屋に入ったすぐのところで馬鹿みたいに立ち尽くしていた。  俺たちを呆けさせるもの。それは無残な肉塊だった。どうしようもない、それは抜け殻だった。部屋に足を踏み入れて左手前の隅、そこに男は転がっていた。まるで打ちひしがれた人間みたいに上半身を部屋の隅に押しつけ足を投げ出してしょげ返っていた。  その死体は頭からゴミ袋が被せられていた。死に顔を隠す。 「どういうことだね?」  戯言みたいに繰り返すのは、死体恐怖の震える声。  俺は頭を抱えた。ユウリが俺を見ている。その眉間に刻まれた皺の深さは、疑いの奈落に通じていた。  そんなはずはないのだ! 俺は殺してなんかいないのだ。  そうやって俺は叫び出したかった。だが、喉の奥から搾り取れるのはただただ細い溜息のみだった。  俺の手の中では、この部屋の鍵が他人事みたいに僅かな音を立てていた。  俺がこの部屋の施錠を解いた。  死体が、現実逃避でもするみたいに部屋の隅に座り込んでいた。  部屋を見渡す。  ドアの正面の壁。天井に近いところに横に細長い窓がついていた。窓は閉まり、クレッセント錠が下りているのが見える。しかし、問題はそれではなかった。窓自体が小さいのだ。部屋の右手の壁には、これまた高いところに換気扇がついていた。沈黙している。そして、その下の床には驚くべきことに迷彩柄のバンダナが落ちていた……。  部屋は密室だった。  誰が殺した?  俺は縋るみたいにユウリの顔を見た。ユウリ。俺の初めての恋人だ。  いまこのとき、この場には無表情しかなかった。  捕囚だった。  俺は抵抗も反論も意識に上らないままに警察署へ連行されていた。ユウリは混乱しながらも、警官の制止を無視して俺に付き添って車に乗り込んでいた。 「何が……起こった」  署への道の途中、俺の口からようやく発された初めての言葉はそれだった。 「ソウジ、しっかりして」 「夢でも見てるみたいだ」  あの部屋の前で警察の応援が殺到する様は、連続写真のようだった。何人もの人間が部屋の中へ飛び込んでいった。俺は部屋の外で無数の質問の弾丸を浴びせられた。  気付けば車の中だ。 「知らないんだ」俺は喪失した現実感の中で虚ろに口を開いていた。「ユウリには話したな。いきなり四人組に襲われて……、あの部屋に監禁されて……。脱出して……、お前の許に行って……心配だったから……。……こんなのは嘘なんだ。嘘なんだ……絶対」 「うん。聞いたよ」  ユウリはそれだけを言って俺の手を両手で包み込んだ。温かく柔らかいその手は俺を徐々に現実へ引き戻していった。  取調室だった。  俺の目の前に刑事が座っていた。部下らしい男が入ってきて書類を刑事に手渡した。 「どうして殺した?」  口調は柔和だった。しかし、根底には禍々しい針が鈍い光を放っているようだった。 「殺してなんかいない」 「動機は監禁されたことへの報復」刑事は俺の心の中を覗き見するみたいに切り出した。「被害者には脇の下と顎に打撲傷があった。先ほど調べたとおり、君のジーンズの膝の部分から被害者の唾液と血液が検出された。君は被害者の顎を膝蹴りしたんだ。相手が気絶した隙に君は殺害を行った。――凶器は君が店から盗み出したものだ。君の指紋も検出されている。あの包丁で君は被害者を刺した。そしてそれが内臓にダメージを与え死に至らせた。――現場は密室だった。窓は人間の出入りできるものじゃない。換気扇も人間が出入りできるような隙間はない。唯一の鍵は君が持っていた」  俺の前に堆く積み上げられていくもの。それを、ただ見上げていた。  刑事は椅子の背凭れに身を委ねた。手にしていた書類を、俺たちを隔てる机の上に放ると、深い溜息をついた。  俺にはこの男の次の一言が予想できた。 「君だったな」感慨深げに刑事は口を開いたのだった。「あの少年グループ《アイコノクラスト》のメンバー一人の逮捕協力の件で、署長賞を受けたのは」 《アイコノクラスト》は少年らによる犯罪グループだ。メンバーは中高生で構成されるといわれている。俺より若い連中がそうして世間を騒がせていた。  それはひょんなことだった。  自宅近くの公園で中高生の集団が密かに犯罪計画を話しているのを偶然から聞いたのだ。その連中が《アイコノクラスト》であったことは後から知った。俺はすぐに警察へその情報を伝えたのだ。警察はこの情報をもとにメンバーの一人を確保。俺は逮捕に関わった情報提供者として署長賞を授与されたのだった。 「今回の被害者は《アイコノクラスト》のメンバーの一人だった。君はこの少年グループを摘発し、最後には殺してしまったというわけか……」 「違う」  俺は自分の身の潔白を示したかった。だが、どうすればいいのか分からなかった。  あの囹圄のような部屋を思い返すと、脳髄が麻痺して思考が棒立ちになってしまうのだった。あの状況は一体なんだったのだろうか……。なぜあんなことが可能なのか。  俺の頭にはある都市伝説の一篇が去来していた。『敗残兵の蛇男』だ。蛇男は普段は人間だが、蛇に姿を変えることができる。その姿ならば、あの換気扇の隙間を使って部屋を出入りすることができるではないか……。 「君は、社会悪を罰したつもりかもしれない」  刑事は机の上に両肘を乗せて俺のほうへ体を傾けていた。その目は断罪の響きを湛えていた。俺は相手を力なく見つめ返していた。力なく――。 「だが、貫きすぎた正義は、自家製の大義名分に過ぎない。君はもはや正義の徒ではないのだ」 「俺はやっていないんだ……」 「君は今回の殺人に先立って、凶器である包丁を盗んでいる。その店に残っていた監視カメラの映像を見たよ。君の手際は、こう言ってはなんだが、随分小気味のいいものだった。あの映像自体が君の罪を雄弁に物語っているのだ」 「あれは仕方なかった!」俺は声を絞り出していた。「やらなきゃ、ユウリが危険だった!」 「聞いたよ」  その冷淡な応答。  刑事は署に同行してくれたユウリに対しても事情聴取を行っていた。 「君は《アイコノクラスト》のメンバーに強要されたんだと。だが、そんな証拠はない。妄言であるといってしまえばそれで終わりなのだ」  そうだ。  俺の頭がようやく回転を始めた。ここに至るまでの出来事の数々が脳裏のスクリーンに投影され始めたのだ。 「俺を拘束したのはその《アイコノクラスト》の四人のメンバーだった。殺されたのは、その内のひとり。きっと仲間割れか何かで――」  動き出す。投影機が。  俺の意識は、そう、時空を遡行していった。  あれは、ほんの数時間前のことだったんだ。 2、スタートQT 「窮地で始まるミステリ」だと。  俺はパソコンのディスプレイの前で途方に暮れていた。 《電脳ミステリ作家倶楽部》のトップページにはテーマが決定したこと、そして募集期間などが掲載されていた。  都市伝説じゃなかった……。  俺の住む町には実しやかに囁かれる話があった。『敗残兵の蛇男』だ。  数年前にこの町のある家で起こった殺人事件。現場は密室だったのだ。外界と接していたのは小さな天窓だった。天窓はほんの数センチだけ開くようになっていたが、人間がそこを通って部屋を出入りすることは出来ないのだ。そして、ある人が調査をしたところ、事件の前夜その家の前で不審な人影が目撃されていた。それは、全身を迷彩服で固めた不気味な男の姿だった。男はこれから事件が起こるであろう家をじっと見つめていたのだという。そして、その目は爬虫類の目をしていたのだ……。事件現場の密室内からは迷彩柄のバンダナが発見されていた。警察はそれを手がかりに事件の捜査を開始したが、結局犯人は見つからなかった。そして最後に残された結論は、迷彩服の男が蛇に姿を変えて命を奪うというものだった。爾来、男を見た者はなく、今もどこかで獲物を探しているかもしれないという……。  この都市伝説を基にミステリが一本書けそうだったのに。だからそれに投票したのだが、大差で「窮地で始まるミステリ」となってしまった。  どうしようか……。もう九月二十九日。余裕がない。  俺は《電ミス》のロゴを見つめていた。  将来は推理小説家になりたかった。だから、この倶楽部に入会したのだった。今年は就職活動の年だった。だが、何もせずここまで来てしまった。気がつけばノートに小説のネタをメモしていたりする。そんな日々の中で、しかし、実家の親からのプレッシャーが気ままな生活を許さない。俺の中を焦燥感が駆け巡っていた。  いっそのこと、大学在学中に小説家デビューできれば……。  それが現実逃避だと言われれば、そうだろう。しかし、本気だった。そのためには、ここで挫けるのは敗北を意味することになる。  俺は腕組みして考えていた。作品の募集期間は今月いっぱいまで。他のメンバーのHPなりブログなりを見てみると、「既に完成した」だの「推敲だけだ!」などという文字が躍る。それが焦りに拍車をかけた。  どうしようか。  そのときだった。携帯電話が鳴った。着信は湯根山ユウリ。先日出来た俺の初めての彼女だ。瞬間、意識から競作は消え去った。携帯に飛びついて声をかけた。 「はい!」 「あ、ソウジ君――」  いつもと違って声が低まっているような気がした。 「どうした? 元気がないみたいだけど」 「あ、うん――」  彼女はなかなか切り出そうとしない。俺はこういうときどうしたらいいか分からないから黙ってしまう。嫌な予感はふつふつと沸いて出る。俺は心配性な人間だった。 「ちょっとさ」ユウリの声が俺を我に返らせる。「ウチに来てほしいんだ……。大切な話があるからさ……」 「大切な話? 電話じゃダメなの」 「ごめん。来てほしいんだ」  俺は迷うことなく返事をした。 「分かった、行くよ。待ってて」  何の話だろうか。また予感が首を擡げる。  まあ、いいさ。行けば分かる。アントニオ猪木だってそう言ってる。  ユウリの家は俺の家から歩いて十分くらいのところにあった。  彼女との出会いは、町で偶然に彼女から声をかけてきたときだったが、こうして互いが近傍に住んでいるということが運命的な心持ちを与えていた。  俺は自然と速まる足に時間を預けてユウリのことを考えていた。  ユウリは素晴らしく人目を引くルックスの持ち主だった。小顔でスタイルがよかった。端的に言うと、榮倉奈々を髣髴とさせたが、あれをもう少しコケティッシュにした感じの女の子だった。しかし、彼女は見た目に似合わず随分と控えめでお淑やかだった。あまり自信を持っている風でもなかった。俺はそこが好きだった。守ってやりたいと心の底から思うような――そう思わせるような魅力が彼女にはあった。それに彼女には理解力があった。先ほどの競作の話も、『敗残兵の蛇男』にまつわるミステリの完成を心待ちにしているようだった。もっとも、今回はテーマを外されてしまったのだが。  彼女は俺より歳が五つ下だった。高校生なのに、一人暮らししてすごく真面目な子だ。そのためか、見た目も大人っぽい。背の高さもそれを後押ししている。彼女と並べば俺など見劣りするんだろう。俺の友人にはまだ彼女のことを話していなかった。来週、仲間と遊びに行く際に彼女をお披露目することになっていた。あいつ、驚くだろうな。  思わずにやにや笑いがこみ上げてくる。  しかし、そうした幸せの時間のあとに、神様はバランスを計って不幸を配置しているのかもしれない。  ユウリの家まで道程あと半分というところ。少し寂しげな路地だった。前方に四人組の男が立っていた。高校生くらいだろうか。それが二人して行く手を阻むかのように仁王立ちしていた。その眼は紛れもなく俺に注がれていた。嫌な予感がした。  関わり合いにならない方がいい。しかし、俺が躊躇する間に二人がこちらへ歩いてくる。  二人は俺とすれ違った……。と思った。  俺は囲まれていた。包囲の中には脇道はない。前方の二人が目を獣みたいにして向かってくる。ひとりが口を開く。 「霧島ソウジ」  俺の声は少し震えていた。 「ここは道だったな。通してくれ」  強がるしかなかった。頭の中には《アイコノクラスト》という言葉が浮かんでいた。  突然俺は背後から羽交い絞めにされた。 「グッ! ――何すんだ!」  力が強い。俺は瞬間的に恐怖が沸騰するのを感じた。殺されるかもしれないと思った。 「言うとおりにしろ」  拘束される俺の目の前に立って、男が言った。 「は?」  意味が分からなかった。しかし、俺がこう漏らした途端、腹に強い衝撃が走った。鳩尾に男の拳がめり込んでいた。  俺は息もできないまま崩れ落ちそうになった。だが、体は押さえつけられて人形が立つみたいにしていなければならなかった。 「言うとおりにしろ」  それは二度目の命令だった。有無を言わせない威圧感。 「な、んで」  俺はようやく口が動かすことが出来るようになっていた。途切れつつそう聞くと、襟首を掴まれて顔を無理やり相手の方へ向けさせられた。 「いいか。これから俺たちの言うことを聞け。さもないと、お前の大切な人がひどい目に遭うぞ」  その言葉がもたらしたのは、ユウリのイメージだった。 「お、お前らっ! あいつを――!」  変だと思ったんだ。ユウリの、あの、今にして思えば怯えたような声。ユウリはこの男たちの仲間に捕まっているのかもしれない……!  しかし、なぜ?  その理由にも俺は思い当たっていた。  署長賞だ。俺の情報で逮捕された少年は《アイコノクラスト》のメンバーだった。この男たちはあの少年グループに属していて、俺に報復しようとしているんだ。  もう俺にはなす術がなかった。せめてユウリが無事であってほしいと願う。  俺は弱弱しく頷いた。  それは俺の意識の中に入り込んだ恐怖の悪魔が命じた所作。  そして運命の女神フォルトゥーナが、俺を地獄のような線路へ投げ込んだ瞬間であった。  俺が連れ去られたのは、後にあの忌まわしい事件が起こる薄汚い半地下室だった。  俺は部屋の中に蹴り入れられた。部屋は随分長い間使っていないような印象だった。物が乱雑に置かれていた。あるいはただ散らばっていただけかもしれない。ただ、ハサミやタコ糸や方眼紙、色紙などがある様はここが昔事務倉庫か何かに使われていたのではないかと思わせた。封の切られていない二十枚入りのゴミ袋や、埃に塗れて潰れかけた段ボール箱から覗くボールペンの入った白い箱、床には汚れた白い紙が張り付いていたりした。調度類は姿がなく、俺はその部屋の中央にみっともなく横たわっていた。部屋を見回す。半地下のために窓は天井の近くに小さなものがついているだけだった。とても届きそうではないし、もしそれが叶っても頭すら通らないだろうと思われた。俺の後方の壁の天井近くには換気扇が穿たれていた。その隙間から、夜の帳が下り始める外の光が漏れ入って来ていた。そこもとてもじゃないが、脱出口となりそうではなかった。換気扇の枠はすっかり錆び付いていた。そこから床の方に向かって伸びる錆びの跡が、俺の心の中に流れる様々な感情を宿した涙の ように見えた。だから、俺は今もこうして冷静に部屋を見ていられるのだろう。  俺を見下げる四人の男の顔。俺は一生その冷酷な表情たちを忘れないだろう。 「まずお前にやってもらいたいことがある」  さっきから口を開くのは一人だけだ。蛇みたいな印象の男。常に口の端に残酷な笑みを浮かべていた。眼光は鋭く、その痩身から発される負のオーラは黒々として俺を取り込もうとする。 「サン・ホームセンターへ行って包丁を盗んで来い」 「な、なんだって?」  俺の背中に容赦ない蹴りが入る。咳き込む俺に蛇の男が唾を吐きかけるみたいな口調で言い放った。 「言うことを聞け」言外には人質の安否がちらついていた。……ユウリ。「盗んで来るんだ。『分かった』以外の答えは許さない」 「わ、分かった……」 「よし。――お前ら、こいつを立たせろ」  三人が俺をマネキンみたいにして持ち上げて乱暴に直立させた。俺は玩具のようだった。蛇の男は顔を近づけて言う。 「いいか。二人がお前を監視してる。変な真似をすれば、お前の大切な人は死ぬことになる。分かるな」  俺は黙って頷いた。 「包丁をひとつ盗め。絶対にばれるな。捕まりそうになったら全力で逃げろ。万が一捕まった場合は、俺たちのことを話すのは許さない。分かっているな」  分かっているな――こいつはユウリのことを言っているのだ。俺には頷く以外の選択肢を取り得なかった。  太陽は地平線と戯れている。  町は明かりが満ちていた。サン・ホームセンターは太陽をモチーフにしたキャラクターを看板にしていた。コジマ電気みたいだ。俺はその前に立って、心を落ち着けていた。俺のすぐ後ろでは四人組の内の二人が侍していた。あとの二人はあの部屋で待っている。 「行け」  背中を小突かれて俺は店内へ足を踏み入れた。客入りは少なかった。明るい白色照明が、俺の心の内を透かしているようで、怖かった。  調理器具のコーナーは、レジのすぐそばにあった。近年の世相を反映して目の届く場所に置くようになっているのだろう。俺は焦った。 「これじゃ、ばれる」  小声で後ろの二人に言った。返って来たのは完全な無言だった。俺とは無関係を装っているのだ。……ふざけやがって――!  俺は天井を見回した。レジのそばに監視カメラがある。このコーナーも少し視界に入っているだろう。店員の姿はレジの中にひとつ。まだこちらに気付いていないようだった。白髪の目立つ中年の痩せた男。せっせとレジの中で何か作業をしていた。客の姿も近くにはなかった。俺は包丁のひとつをそっと手に取ると、シャツの中に仕舞いこんだ。すぐに走り去らない。俺は平静を装ってレジの方へ向かった。後ろの二人はそわそわとしていた。レジの男が俺の姿をはじめて認めた。俺はレジの前を通って店の外へ出た。  怪しい素振りはしなかった。  怒鳴る声もない。俺は背後に二人を従えて、町の雑踏へ紛れ込んだ。  あの闇の半地下室へ戻る。  待機していた蛇の男ともうひとりが俺を中に引き入れるとドアを閉めてしまった。 「意外と早かったな」  蛇の男は俺から包丁を受け取ると、ひやりとした笑みを浮かべた。  と、そのときだった。  俺のポケットの中で携帯が鳴ったのだった。  瞬時に俺の頭の中にユウリの顔が浮かんだ。だが、彼女は捕らえられているはずだった。そして、目の前の四人が携帯を取り上げなかったことに今気が付いたのだった。  四つの視線を受ける。携帯を取り出す。蛇の男がさっと俺から携帯を奪い去る。 「はい――今隣にいる。お前にだ」蛇の男は受け取ろうとする俺に顔を寄せる。冷血な眼が俺を射抜いていた。「余計なことは喋るな」 「もしもし……。ああ、ユウリ――無事か?」 「え、なに、どういうこと? 今のは?」  ユウリの反応はおかしかった。《アイコノクラスト》のメンバーに捕らえられているとは思えないような、普通の声の調子なのだ。 「捕まったんじゃないのか」 「何言ってるの。それよりいつウチに来れるの? ずっと待ってるんだけど……」  なんということだ。ユウリは捕まっていなかった。  ちらりと男たちを見る。やつらは笑っていた。騙されたのだ。  胸の中に安堵の波が押し寄せる。同時に怒りが俺の中に満ちていた。助けを求めようとした俺の喉元に、静かに包丁が突きつけられた。蛇の男の目は殺気を放っていた。  もう最後の手段だった。 「I’m gonna be late(遅れる)。ごめん」  四人は身構えた。しかし蛇の男はすぐに平静を取り戻して余裕の笑みで言った。 「英語だから分からないと? 理解できているぞ。変な事を喋れば殺す」  包丁の柄を握る手が白みを増した。力が込められているのだ。 「どうしたの、急に英語で」 「いいから」俺は携帯から顔を離すと弁明した。「彼女は英語を主に話すんだ」 「今どこにいるの?」 「On the way to you(行く途中だよ)。すぐに着くから」 「別にいいけど……。待ってるから。大切な話なの」 「ああ。……その話って、掃除を手伝ってほしいとかじゃないよな」 「違うよ」ユウリの口から笑いがこぼれた。よかった。「あ、でも雑誌とか本がいっぱいで……」 「だから言っただろ」俺はこの会話の流れに感謝した。「Rope your books(本は縛っておけって)」 「うん」 「じゃあ……すぐ行くから」  俺は頼みの綱を投げて電話を切った。  蛇の男はすぐさま携帯を取り上げると、部屋の隅へ叩きつけた。  ユウリと付き合い始めたときに買い換えた新しいものだった。それがめきっという音を立てて転がった。なんつーことを。 「お前にはこの部屋でやってもらうことがある」  蛇の男は包丁を隣の仲間に渡すと、ズボンのポケットから紙片を取り出した。それを一瞥して紙を半回転させると俺に突き出した。 「この暗号を解け」  それは奇妙な記号列だった。 「なんだ、これは?」 「質問は許さない。お前がやるべきことは、暗号解読だけだ」 「こんなことをしてただで済むと思ってるのか?」ユウリが無事だという事実が俺の気を楽にしていた。「じきにお前らは逮捕される」  蛇の男は鼻で笑った。 「それは面白い。せいぜい頑張ることだ。――ダイスケ、見張りに立ってろ。こいつが暗号を解くまで絶対に外に出すな」  ダイスケと呼ばれた男が小さく頷く。 「鍵を預けておく。お前は部屋を施錠してドアの外で待機しろ」  蛇の男は鍵と共に包丁を手渡した。 「分かった」  三人の男はダイスケを残してぞろぞろと部屋の外へ消えた。  ダイスケも部屋の外へ。ガチャリと音がして、ドアノブの施錠ツマミが横倒しになった。内側からは容易に鍵を開けられるのだ。いざとなれば、正面突破で脱出するしかない。それにユウリにはSOSを出しておいた。いつまで経っても俺が到着しなければ不審に思って、どこかへ連絡が行くはずだ。  俺の前には暗号の記された紙が残された。(参照1) #image(c6gazou1.jpg,center)  [[已むを得ず、無題2]] へ続く . .

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