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*CMWC NONEL COMPETITION3 **青森毒林檎の謎2 #right(){塩瀬絆斗} ~後編~  何故信号無視の車を警官は見逃したのか? 車は確かに信号無視をした。しかし、この場合それは世間一般では違法行為と認識されないのである。車は青信号で停まっていたのである。そして、このなぞなぞを解くためには“前提から考え直さなくてはならない”のである。大山には一人変わった友人がいる。友人といっても、本当は大山の甥である。名は塩瀬絆斗といい、今年高校に入ったばかりである。実はあのなぞなぞを思いついたのは絆斗であった。彼は言う。 「おっちゃんも変に事件を意識しているんだよ。もっと気楽にいけばいいのさ」 「例えばどんな風にすればいいんだい?」  大山は絆斗の前では口調も変わってしまう。 「だから、何故あのホームレスが殺されたって思うの? よく考えてみてよ。“そんなこと、あるはずがない”」  年が明け、三が日も明けた。街は再び活気付き、行き交う人々は誰もが忙しなく、時間は光のように過ぎてゆく。  署の机について大山は思う。 (仕事場はどこか落ち着く)  しかし彼自身もその落ち着きは非常に研ぎ澄まされたものだということを知っている。 「おはようございます」  吉田が大股で部屋に入ってきた。彼の口から「明けましておめでとうございます」という言葉を聞いたことが少なくとも大山にはない。その理由は吉田によれば、「時間の概念というものは……。つまり年明けというのは……」云々。  吉田は一番に大山の机にやって来た。見ると大山は何かの紙を見ている。きれいな白い紙だ。折り目がついており、白い紙は光の具合で灰色などに変化していた。 「警部、それは?」 「ああ、あの毒林檎事件の時の手紙だ」 「高田家の事件ですか? そんなものを見て今更何を……?」  問われて大山は思い出す。先日のことだ。絆斗はあの手紙を見せてほしいという。聞けば毒林檎の事件の手紙のことだという。大山はその正確な写しを持っていたし、特に害はないだろうと思い、軽い気持ちで彼に見せてやったのだが、絆斗は難しい顔をして大山に言った。そして、その言葉は未だに忘れられない。まるで磯貝のように頭の中にこびりついてしまったのである。それほどまでに衝撃的な言葉だった。 「でもねぇ、おっちゃん、やっぱりこういう暗号は頭が柔らかい子供にしか分からないのかもしれないね」  暗号! あの時ばかりは大山自身、絆斗が気でも違ったのかと思ったほどだ。 「な、な、何故暗号だというのだ? それは遠まわしな脅迫文だよ。ははは」  笑いも引きつってしまう。しかし絆斗は真顔で大山を見つめる。 「おっちゃん、この文を見て何かおかしいとか思わなかったの?」 「ん? ああ、まぁ、変わった脅迫文だなぁ、とか、冗長な奴だとかは思ったが、特には気に掛けなかった」 「もう一度よく見てよ。おかしいよ、この文章は」  そう言って彼は目の前のテーブルに半ば投げ出すようにその紙――彼の言葉を借りるなら、暗号――を置いた。大山にはもう見慣れた文章だ。諳んじている。 『君は毒林檎を知っているかね? いかにも例の林檎だ。白雪姫がその命を悪い魔女から奪われかけた、あれだ。いや、多分眠りの薬が入っていたんだと思うね、あれには。……今聞くのは、天国へ(いや、地獄だろうが)連れて行くはずの毒林檎なんだがね。赤く、まさに非の打ち所なんかない林檎だ。ただ、 それは文字通り君の人生において、まさしく最後の晩餐となるだろうね!』  絆斗は大山の顔を覗き込み、再び言う。 「文章がとても稚拙に見える。幾つか上げるとするならば、 『……今聞くのは、天国へ(いや、地獄だろうが)連れて行くはずの毒林檎なんだがね。』  という文だけれども、変な言い回しだ。『天国に連れて行く“はず”の』なんてあまりにもひどい。次に、 『赤く、まさに非の打ち所なんかない林檎だ。』  という文。いい林檎というのは赤いのが全てだろうかと言えばそうじゃないでしょう。甘くなくちゃいけない。でもこれでは赤いのが全てだと言っている。甘い、ということが抜けているんだよ」  大山も困惑顔である。確かに絆斗の言う通りであるが、しかし、 「そんなことはこじつけにしかならないよ」 「そんなことはない。考えてみてよ。犯人の行動はこうだ。まずこの脅迫文を送って高田家の面々に警戒させる。そして毒林檎を送ったんだ」 「ああ、私もそのことは不思議に思っていたんだ。何故そんなことをしたんだろうかってね。もしかすると、林檎はもっと早く高田家に届くだろうと犯人が予測していたんだろうが、それが外れた。つまり、これは不測の事態だということになるんだよ」  一方、絆斗の眼差しは鋭い。 「違うね。犯人がそんな偶然に賭けるような行動にでるはずがない。だってもし必要があれば、この手紙を林檎の箱の中に入れておけばいいんだよ。でも犯人はそうしなかった。林檎が先に届くという考えもおかしい。あの封筒の状態を考えれば、分かると思うけど、切手が貼られていないということは犯人が直接あのポストに入れたということだよ。でも先に毒林檎で死者が出てしまったら、いくら犯人でもポストに入れるのは難しいだろうね」  ここで絆斗は一息つく。 「つまり犯人はこの毒林檎の事件をまさに今回の事件の手順通りになると予想してやったんだ。じゃあ、何故犯人はそんなことをしたのか?」 「警部」吉田は訝しげに大山を見る。「どうしたんですか?」 「あ? いや、ちょっと思い出していたんだ」 「何を、ですか?」  大山は手に持っていた紙を机の上にぱさりと置いた。彼はそれに視線を投げかけながら言った。 「つまり君、犯人はわざわざ高田家の面々に警戒させて林檎が届くようにしたわけなんだよ。とすると、犯人は“誰も殺したくなかった”ということにならないか?」  吉田は目を見開く。「仏頂面」という陰口も今日まで、と思わせるような見事な壊れっぷりである。 「誰も殺したくなかった、ですって?」 「ああ、そうとしか考えられないのだよ。では何故犯人はあんなことをしたのか? ただ警戒させるためなのか。犯人はあの過程で何をしたかったのだろうか?」 「一体何をしたかったんだ?」  絆斗はソファに身を沈めて、我関せずといった風である。 「だから、さっきの暗号を示したかったんじゃないかな、と思っただけさ。ところで、さっきの話に戻るけど、本当におっちゃんはあのホームレスが殺されたと思っているの?」」  大山は、ある日「一足す一は二ではない」と聞かされた大人のような顔をしていた。口をあんぐりと開け、眉間には皺を寄せている。 「当たり前さ。何故ならあの林檎が……」 「そこで躓いたんだよね、おっちゃん。つまりさ、前提が間違っていたんだよ。流石のおっちゃんも分からなかったのかね?」  絆斗自身、大山が吉田に一目置いているように、大山に一目置いているのである。   「前提、といいますと」吉田は首を捻りながら言う。「つまり、あれは殺人でない、と?」  大山は実に大袈裟に頷く。微風も起こるはずである。 「そうだ。何故男は毒で死ななかったのか? それが決め手ではないのかね。犯人は毒で殺さなかったんじゃない。殺せなかった。既に死んでいたからだ。そう考えれば、林檎の泥に関するあの奇妙な不一致も説明できる」 「泥? 不可解でもなんでもないよ。だってあれはその状態から、雨が止んだ後に置かれたはずなんでしょ。犯人が十九日の午前零時までにホームレスを殺していたのならば、林檎はあんな状態にならない。つまり、午前四時以降に置かれたものとみて間違いないんじゃないかな。こういうことだと思う。犯人はあの朝偶然にあの場所で死体を発見した。そしてその死を利用しようと考えた。そして林檎を取って来て、そこに置いたというわけさ。もし、もう誰かに見つかっていれば、そのまま何食わぬ顔で帰ればいい。犯人にとって、あの事件はまさに『たなぼた』だったんじゃないかな。でもよく考えると、殺人説を採った場合も、事故利用説を採った場合も、結局犯人はあの近辺に住んでいるということになるんだよね」 「しかし警部、それとあの毒林檎の事件は一体どうして繋がるのですか?」  大山は咳払いを一つして意味もなく座りなおした。この場だけが、白熱して、温度が高くなっていると気付いたから熱を逃がしたのだろうか。大山はふっと息をついて、口を開く。 「やはり見せしめなんだろう」 「そういえば、先日はその話は結局尻切れ蜻蛉になっていましたね」  吉田の言葉は中途半端に空気に混じり、やがて独り言となってしまった。 「そう考えれば、何故犯人がホームレスの死体の横に林檎を置かなくてはいけなかったのか説明できるだろう。毒林檎事件については新聞沙汰にすらならなかったから、それを基に誰かが、ホームレスの死体の横に林檎を置くということは考えられない。となると、やはり同一の意志が働いていると考えざるを得ない。では何故見せしめを行なったのか?」  吉田は次の言葉を待っていた。大山の口から真実が……。  しかし期待に反して、大山は口を噤んでしまった。そして徐に立ち上がると吉田に大声をかけた。 「行くそ! 目的地は高田邸だ」  大山は高田邸までの道中で、吉田がこれほどまでにしつこい性格だということに初めて気付いた。沈黙の中でも、三十秒と経たないうちに彼は一体どういうことなのか説明して欲しい、としきりに頼んだのである。あまりの執拗な攻撃に大山は口を割ったのだが、その言葉は吉田の求めるものではなかった。 「君は、もう一つおかしなことがあるということに気が付かなかったかね?」  道は案外すいていた。歩道には昨日一昨日までの賑やかさはなかったが、時折親子連れが歩いているのが見えた。そして大山達はそんなことが出来なくなってしまった家族の元に向かっているのである。 「おかしなこと、ですか? それは何の事件の?」 「毒林檎の件だ」  吉田は眉をひそめ、口を歪めて苦笑する。 「おかしなことといっても、そんな急には……」 「“何故九つの林檎のうち、一つだけに毒が入っていたのか?”」  運転は吉田がしていたが、ちらっと大山の方を見る吉田に対して、大山はじっと前を向いていた。 「いや、それは……、犯人が毒をそれだけしか持っていなかったからでは?」 「だからといって、脅迫状まで出して、表面上は殺人を臭わせている人間がそんな中途半端なことをすると思うか?」 「警部、でもそれは――」 「そう、確かに君に言わせれば、こじつけに過ぎないだろう。しかし、君には言ったかもしれないが、あの脅迫文は暗号文でもあるのだよ」  吉田は、おそらく車を運転している人間の中で世界で一番助手席の人間を振り返りたいと思ったことだろう。 「暗号、ですって!」 「うむ」 「何故そう思うのです?」  大山は絆斗とのあの会話を――どういうわけか、絆斗の存在は無視していたが――簡潔に話した。 「なるほど。確かにあの文章は変な部分がありましたね。とするとやはり警部の仰るとおり暗号の線が濃厚ですね」  大山はうむ、と頷く。車体が揺れたような感覚を吉田は味わったのだが、気のせいであろうか。 「犯人は、あの脅迫文が暗号である限り、殺人を臭わせなくてはいけないのだ。犯人はどういうわけか、暗号の方を隠したがっている。暗号を隠したければ、殺人を臭わせればいい、というのは分かる。だが、毒林檎はたった一つしかなかった。私に言わせれば、この犯人は非常に中途半端だ」 「警部、それでは先程の警部の話と矛盾するじゃないですか」(これは私の意見であるが、吉田の言う大山の矛盾というのは、彼が次の台詞を口にするために逆説的に用いたものではないかと思う) 「いや、ここで考えたんだ。その中途半端こそが鍵ではないか、と。つまり、“毒林檎はたった一つでなくてはいけなかった。”言うなれば、犯人は中途半端な人間ではなく、最初から意図があったんだと思う」 「じゃあ、その暗号というのは何なんだ?」  絆斗は大欠伸をしている。傾きかけた陽が窓からはやの中へとオレンジ色の色彩を投げかけている。絆斗はちょうどその光の中に据わっており、どこか哀愁が漂っていた。 「もう答えは出ているよ。どうして毒林檎はたった一つだけだったのか? 犯人はそうしなければならなかった」  大山は苦笑いする。 「はぐらかすな、絆斗。分かっているんだろう?」 「ああ、それにこの暗号が解ければ全てが解ける。もっとも、僕にはこの暗号の意味がよく分からないんだけど、多分重要な“出来事”なんだろうね」  大山は吉田のその暗号とはなんですか、という質問を黙殺した。高田邸までは車の中は沈黙が包み込んだ。時刻は昼前だから、十一時くらいだろうか。冬の澄んだ空気を通して、太陽が眩しく輝いている。街路樹も葉を落とし、寒々しく裸で立ち尽くしていた。  高田邸には三十分ほどで到着した。あの壮麗な庭園を通り、立派な玄関をくぐると、そこには由梨絵がまだ信じられない、といった様子で悲しみにくれながら待っていた。二人はそんな由梨絵に再びあの静寂の和室へと案内された。既に亮輔、詩織はそこに控えており、大山達が入ってくると、座ったままお辞儀をした。その様もぎこちなく、未だに悲しみの坩堝に投げ込まれているような印象を、大山は受けた。お茶を、という由梨絵を引き止めて、大山達は三人の向かい側に座る。 「まず、少し難しい話になりますので、簡単に解説をします」  大山は今までの事件の経過、そして、多くの推理を披露した。それはここに記すまでのものではない。大山は先を続ける。 「そして、“何故毒林檎は一つだったのか”、“何故犯人は見せしめを行なったのか”、“暗号には何が書かれているのか”、そして、“犯人は誰なのか”という問題が残るのです」 「出来事?」大山はこれでもか、というほどに身を乗り出している。一方、絆斗は非常に落ち着いていた。「何だ、それは?」 「じゃあ、まず暗号を解いてみることにしようか、おっちゃん」  絆斗は教師のような口調で身を起こし、大山に言う。大山は大袈裟に頷く。 「まず、毒林檎がたった一つしかなかったということに関してだけど、加えて言うと、“毒林檎は九つのうちの一つだった”ということだね。それでさっき僕は、頭の柔らかい子供のほうが分かるだろうね、と言ったんだ。だって、大人は誰もが何故暗号なのか、とかつまらないことを言うじゃない。まずは遊び感覚でやってみればいい。それで僕はこの暗号が解けたわけなんだ」  大山はまさに歯痒い思いをしていた。早く本題に入れ、と。そんな大山の気持ちを察したのか、絆斗は切り出した。 「よく、文字を何文字かに一文字で拾っていくという暗号があるけど、今回もそれなんだ。つまり、九文字に一文字を拾っていく。毒林檎は九つに一つだったからね。それで、全部を平仮名にして、記号を無視してやってみることにしたんだ」  絆斗はポケットからペンを取り出し、暗号に丸を書き込んでいく。 『きみはどくりんご“を”しっているかねい“か”にもれいのりんご“だ”しらゆきひめがそ“の”いのちをわるいま“じ”ょからうばわれか“け”たあれだいやたぶ“ん”ねむりのくすりが“は”いっていたんだと“お”もうなあれにはい“ま”きくのはてんごく“へ”いやじごくだろう“が”つれていっていく“は”ずのどくりんごな“ん”だがねあれはまさ“に”ひのうちどころな“ん”かないりんごだた“だ”それはもじどおり“き”みのじんせいにお“い”てまさしくさいご“の”ばんさんになるだ“ろ”うね』  絆斗は今や笑顔を湛えており、 「これで、実はもう一つおかしなことがあの暗号にはあるんだ。『ただ、』の後が改行されていた。最初は演出でやったんだろう、とか思っていたんだけど、暗号を解いてみて分かった。違ったんだね。きっと、この暗号は『ただ』から先は考慮しないということなんだと思うよ。さて、纏めてみようか。勿論、『ただ』より後は抜かすよ」  そういうと絆斗は紙の余白に一文字ずつ書き出していった。するとそこには……。 『をかだのじけんはおまへがはんにんだ』 「な、なんと! こんなことが……」 「別に驚くことじゃないよ。こういった文字遊びみたいなものは、よく和歌にも見られる。有名なところでは、在原業平の 『“か”らころも  “き”つつなれにし  “つ”ましあれば  “は”るばる来ぬる  “た”びをしぞ思う』  という、“かきつばた”の歌があるよね。  ところでおっちゃん、この『をかだ』っていう名前だけど……」 「亮輔君の旧姓!」  突如として吉田は叫んだ。そう、『岡田』である。亮輔は下を俯いたまま、微動だにしない。それを見てか、大山は先を続ける。 「この『をまえ』というのは、雅彦さんが自殺されたということから、彼のことだと思われます。ちなみに、偶然このような文章が出てくる可能性はありません。意図があって初めてこういうことが起こるのです。そしてこの解読文こそが今回の一連の事件の鍵を握っているのです。もしかすると、雅彦さんは偶然この暗号に気付いたのではないでしょうか。そして……自殺された」  大山はここで永遠とも感じられるほどの間を取った。  静寂。  誰もが、つとも動かない。  再び大山のよく通る声。 「亮輔君、君は以前、君のお父さんは自殺だということを肯定していたが、あれは嘘だね? 君以外に事の真相を知り得る人間はいないのだよ」(これについては深く考えることもなかろう。彼の言葉どおり、真相を知り得たのは亮輔のみであろう)  亮輔は暫くの後、こくりと頷いた。そして口を開く。 「警部さんの言う通り父は自殺ではなかったんです。……今の僕の父、雅彦さんに殺されたのです」 「本当かね?」 「はい。  当時僕と父、洋一はとても仲が悪かったんです。互いに素直になれなかった。しょっちゅう喧嘩ばかりしていました。そして決まって父はその後で僕を押入れの中に閉じ込めたんです。  ある日、僕は押入れの中で眠ってしまっていました。そしてふと目を覚ますと、男同士の声で口論が聞こえたんです。僕は押入れを少しだけ開けて外を見ました。そこには洋一と雅彦さんがいたのです(二人はちょっとした友人だったようだ)。二人はなにやら激しく口論をしていました。そして……急に雅彦さんが父に襲いかかったんです。首を絞められ、父は動かなくなりました。僕はあまりの恐怖に押入れの奥で震えているしかありませんでした。雅彦さんは暫く何かしていたようでした。音で分かったんです。そして出て行くのが聞こえました。僕は押入れから出て唖然としました。父が首を吊られていたからです。僕は母が当時入院していた病院に走って逃げました。たいていは病院に母と一緒にいましたから」 「確か、君のお母さんの幸子さんはお父さんの自殺の後、あとを追う様に病死されたんだったね」 「はい」 「しかし、何故君は自分の父親を殺した男に引き取られることを拒まなかったんだね? それが分からんよ」  亮輔は肩を震えさせていた。泣いているのだろうか。その声はか細く、消え入りそうであった。 「ぼ、僕は、愚かにも……、……父が死んだことに悲しみすら起こりませんでした。いつも家族に迷惑はかけるし、母に気も遣わない。僕に八つ当たりをして……。だ、だから、……僕は。つまり……せいせいとしました。気持ちが、解放されたような……。……愚かでした」  亮輔は嗚咽を漏らす。静かな嘆きが静寂に響き渡った。  後日。 「しかし、どうして彼は十九年も経った後であんなことを……」  絆斗は相変わらず、寝ぼけたような顔つきである。 「これは想像するしかないけれどもね、きっと亮輔さんは詩織さんと雅彦さんの関係に自分を見たんだろうね。お互いに素直になれない。どちらかが折れれば、きっと気持ちよくなるはずなのに……。亮輔さんは詩織さんに雅彦さんとの仲直りを勧めていた。きっと他人事じゃなかったんだろうね。自分が“あの時”に出来なかったことを、と。そして、その頃に自分の父親が殺された、という事実が大きくなっていった。でも多分、あの暗号はただ雅彦さんに謝ってもらいたい、というような気持ちで書いたんだと思うね」 「それにしても、あんなにいい子が何故あんな……。しかもあの様子じゃ、ホームレスの死体を見せしめに利用した理由が分からん」  絆斗はソファに深々と背中を寄せる。 「おっちゃん、人の心なんか、すぐに変わっちゃうものだと、僕は思うよ。“魔がさした”なんていう言葉もあるけど、あれは一瞬で自分の心が変わってしまうことだ。きっと河原でホームレスの死体を発見した時、まさに魔がさしたんだろうね。でも、雅彦さんが自殺してしまったとき、誰よりも驚いたのは亮輔さんだろうな。何しろ、そんなことになるとは予想もしていなかっただろうから」 「警部」署の自動販売機の前のベンチである。吉田の声が木霊する。「亮輔君は何故あんなに気付かれにくい暗号を残したんでしょう?」 「思うに、詩織さんと雅彦さんの関係から過去の自分を思い返す時までは、純粋に雅彦さんに今まで育ててくれたことに対して感謝していたんじゃないだろうか。そのことが頭にあったから、別に暗号が露見しなくてもそれはそれでいい、と思っていたんだろう。しかし、ある時、洋一さんの自殺が幸子さんの病死を引き起こしたと考え、あの計画を練った。その時はもしかしたら殺意すらあったかもしれない。だが、結局はあのようになってしまった。きっと毒林檎を送ってから色々な葛藤があっただろう。色々なことがあの短い人生の中に起こって、とても不安定な心を持っていたんだろうな。雅彦さんにしても、十九年前に亮輔君の父親を殺してしまった償いとして亮輔君を引き取ったのだろうな。そう考えれば、実の娘より可愛がっていた理由が分かる。まぁ、これはどれも憶測に過ぎないがね。だが、こう考えれば、暗号に気付いた雅彦さんが自殺してしまった理由が分かるような気がする」  そう言うと、大山は吉田の奢りである缶コーヒーをぐいっと飲み干し、屑篭に投げ入れた。アルミ缶の乾いた音があたりに反響し、むなしく空気に溶けていった。 「おっちゃん」まだ大山が高田家に最後に踏み込む前である。「やっぱり、その十九年前の事件を詳しく調べるべきだろうね。まだ何か隠された事実があるかもしれない。きっとあの家族は悲しむと思うよ。たとえ血が繋がっていなくとも……」  夕暮れ時である。オレンジ色の光は次第に色を失い始める。ついつい感傷に浸ってしまう刻である。大山は重苦しい考えを振り払うように首を回す。そして大きな溜息を一つ。 「じゃあ、ありがとうな。きっと事件は解決だ。絆斗のお陰で助かったよ」  絆斗は笑顔を見せない。沈んだ表情である。そして言う。 「でも、やっぱり、亮輔さんが罪に問われるかどうかは微妙なところだね」 「ああ、色々と論争があるだろうな。本人には厳しい環境が待ってることになる。だが、私は彼に罪を着せたいとは思わん」  大山は伸びと同時に立ち上がる。ぐんっと伸びをすると天井にまで手が届きそうである。 「明日、高田家に行こうと思う。絆斗も来ないか? お前にも説明して欲しい」 「いや、僕の名前は絶対に出さないで。さっきの推理はみんなおっちゃんのものだよ。誰に教えてもらった、とか言わなくていいから」  絆斗の意志は鋼鉄より固かった。有無を言わせないその気持ちは表情から滲み出て……。 「何故そんなつれないことを言うんだ? いいじゃないか」  絆斗は眠そうに目を擦っていた。大山の声が聞こえなかったのだろうか。大山は暫くの沈黙の後、絆斗が静かに呟くのを聞いた。 「おっちゃん、悪いけど電気点けてくれる?」 #right(){ 【了】 } . . .
*CMWC NONEL COMPETITION3 **青森毒林檎の謎2 #right(){作:塩瀬絆斗} ~後編~  何故信号無視の車を警官は見逃したのか? 車は確かに信号無視をした。しかし、この場合それは世間一般では違法行為と認識されないのである。車は青信号で停まっていたのである。そして、このなぞなぞを解くためには“前提から考え直さなくてはならない”のである。大山には一人変わった友人がいる。友人といっても、本当は大山の甥である。名は塩瀬絆斗といい、今年高校に入ったばかりである。実はあのなぞなぞを思いついたのは絆斗であった。彼は言う。 「おっちゃんも変に事件を意識しているんだよ。もっと気楽にいけばいいのさ」 「例えばどんな風にすればいいんだい?」  大山は絆斗の前では口調も変わってしまう。 「だから、何故あのホームレスが殺されたって思うの? よく考えてみてよ。“そんなこと、あるはずがない”」  年が明け、三が日も明けた。街は再び活気付き、行き交う人々は誰もが忙しなく、時間は光のように過ぎてゆく。  署の机について大山は思う。 (仕事場はどこか落ち着く)  しかし彼自身もその落ち着きは非常に研ぎ澄まされたものだということを知っている。 「おはようございます」  吉田が大股で部屋に入ってきた。彼の口から「明けましておめでとうございます」という言葉を聞いたことが少なくとも大山にはない。その理由は吉田によれば、「時間の概念というものは……。つまり年明けというのは……」云々。  吉田は一番に大山の机にやって来た。見ると大山は何かの紙を見ている。きれいな白い紙だ。折り目がついており、白い紙は光の具合で灰色などに変化していた。 「警部、それは?」 「ああ、あの毒林檎事件の時の手紙だ」 「高田家の事件ですか? そんなものを見て今更何を……?」  問われて大山は思い出す。先日のことだ。絆斗はあの手紙を見せてほしいという。聞けば毒林檎の事件の手紙のことだという。大山はその正確な写しを持っていたし、特に害はないだろうと思い、軽い気持ちで彼に見せてやったのだが、絆斗は難しい顔をして大山に言った。そして、その言葉は未だに忘れられない。まるで磯貝のように頭の中にこびりついてしまったのである。それほどまでに衝撃的な言葉だった。 「でもねぇ、おっちゃん、やっぱりこういう暗号は頭が柔らかい子供にしか分からないのかもしれないね」  暗号! あの時ばかりは大山自身、絆斗が気でも違ったのかと思ったほどだ。 「な、な、何故暗号だというのだ? それは遠まわしな脅迫文だよ。ははは」  笑いも引きつってしまう。しかし絆斗は真顔で大山を見つめる。 「おっちゃん、この文を見て何かおかしいとか思わなかったの?」 「ん? ああ、まぁ、変わった脅迫文だなぁ、とか、冗長な奴だとかは思ったが、特には気に掛けなかった」 「もう一度よく見てよ。おかしいよ、この文章は」  そう言って彼は目の前のテーブルに半ば投げ出すようにその紙――彼の言葉を借りるなら、暗号――を置いた。大山にはもう見慣れた文章だ。諳んじている。 『君は毒林檎を知っているかね? いかにも例の林檎だ。白雪姫がその命を悪い魔女から奪われかけた、あれだ。いや、多分眠りの薬が入っていたんだと思うね、あれには。……今聞くのは、天国へ(いや、地獄だろうが)連れて行くはずの毒林檎なんだがね。赤く、まさに非の打ち所なんかない林檎だ。ただ、 それは文字通り君の人生において、まさしく最後の晩餐となるだろうね!』  絆斗は大山の顔を覗き込み、再び言う。 「文章がとても稚拙に見える。幾つか上げるとするならば、 『……今聞くのは、天国へ(いや、地獄だろうが)連れて行くはずの毒林檎なんだがね。』  という文だけれども、変な言い回しだ。『天国に連れて行く“はず”の』なんてあまりにもひどい。次に、 『赤く、まさに非の打ち所なんかない林檎だ。』  という文。いい林檎というのは赤いのが全てだろうかと言えばそうじゃないでしょう。甘くなくちゃいけない。でもこれでは赤いのが全てだと言っている。甘い、ということが抜けているんだよ」  大山も困惑顔である。確かに絆斗の言う通りであるが、しかし、 「そんなことはこじつけにしかならないよ」 「そんなことはない。考えてみてよ。犯人の行動はこうだ。まずこの脅迫文を送って高田家の面々に警戒させる。そして毒林檎を送ったんだ」 「ああ、私もそのことは不思議に思っていたんだ。何故そんなことをしたんだろうかってね。もしかすると、林檎はもっと早く高田家に届くだろうと犯人が予測していたんだろうが、それが外れた。つまり、これは不測の事態だということになるんだよ」  一方、絆斗の眼差しは鋭い。 「違うね。犯人がそんな偶然に賭けるような行動にでるはずがない。だってもし必要があれば、この手紙を林檎の箱の中に入れておけばいいんだよ。でも犯人はそうしなかった。林檎が先に届くという考えもおかしい。あの封筒の状態を考えれば、分かると思うけど、切手が貼られていないということは犯人が直接あのポストに入れたということだよ。でも先に毒林檎で死者が出てしまったら、いくら犯人でもポストに入れるのは難しいだろうね」  ここで絆斗は一息つく。 「つまり犯人はこの毒林檎の事件をまさに今回の事件の手順通りになると予想してやったんだ。じゃあ、何故犯人はそんなことをしたのか?」 「警部」吉田は訝しげに大山を見る。「どうしたんですか?」 「あ? いや、ちょっと思い出していたんだ」 「何を、ですか?」  大山は手に持っていた紙を机の上にぱさりと置いた。彼はそれに視線を投げかけながら言った。 「つまり君、犯人はわざわざ高田家の面々に警戒させて林檎が届くようにしたわけなんだよ。とすると、犯人は“誰も殺したくなかった”ということにならないか?」  吉田は目を見開く。「仏頂面」という陰口も今日まで、と思わせるような見事な壊れっぷりである。 「誰も殺したくなかった、ですって?」 「ああ、そうとしか考えられないのだよ。では何故犯人はあんなことをしたのか? ただ警戒させるためなのか。犯人はあの過程で何をしたかったのだろうか?」 「一体何をしたかったんだ?」  絆斗はソファに身を沈めて、我関せずといった風である。 「だから、さっきの暗号を示したかったんじゃないかな、と思っただけさ。ところで、さっきの話に戻るけど、本当におっちゃんはあのホームレスが殺されたと思っているの?」」  大山は、ある日「一足す一は二ではない」と聞かされた大人のような顔をしていた。口をあんぐりと開け、眉間には皺を寄せている。 「当たり前さ。何故ならあの林檎が……」 「そこで躓いたんだよね、おっちゃん。つまりさ、前提が間違っていたんだよ。流石のおっちゃんも分からなかったのかね?」  絆斗自身、大山が吉田に一目置いているように、大山に一目置いているのである。   「前提、といいますと」吉田は首を捻りながら言う。「つまり、あれは殺人でない、と?」  大山は実に大袈裟に頷く。微風も起こるはずである。 「そうだ。何故男は毒で死ななかったのか? それが決め手ではないのかね。犯人は毒で殺さなかったんじゃない。殺せなかった。既に死んでいたからだ。そう考えれば、林檎の泥に関するあの奇妙な不一致も説明できる」 「泥? 不可解でもなんでもないよ。だってあれはその状態から、雨が止んだ後に置かれたはずなんでしょ。犯人が十九日の午前零時までにホームレスを殺していたのならば、林檎はあんな状態にならない。つまり、午前四時以降に置かれたものとみて間違いないんじゃないかな。こういうことだと思う。犯人はあの朝偶然にあの場所で死体を発見した。そしてその死を利用しようと考えた。そして林檎を取って来て、そこに置いたというわけさ。もし、もう誰かに見つかっていれば、そのまま何食わぬ顔で帰ればいい。犯人にとって、あの事件はまさに『たなぼた』だったんじゃないかな。でもよく考えると、殺人説を採った場合も、事故利用説を採った場合も、結局犯人はあの近辺に住んでいるということになるんだよね」 「しかし警部、それとあの毒林檎の事件は一体どうして繋がるのですか?」  大山は咳払いを一つして意味もなく座りなおした。この場だけが、白熱して、温度が高くなっていると気付いたから熱を逃がしたのだろうか。大山はふっと息をついて、口を開く。 「やはり見せしめなんだろう」 「そういえば、先日はその話は結局尻切れ蜻蛉になっていましたね」  吉田の言葉は中途半端に空気に混じり、やがて独り言となってしまった。 「そう考えれば、何故犯人がホームレスの死体の横に林檎を置かなくてはいけなかったのか説明できるだろう。毒林檎事件については新聞沙汰にすらならなかったから、それを基に誰かが、ホームレスの死体の横に林檎を置くということは考えられない。となると、やはり同一の意志が働いていると考えざるを得ない。では何故見せしめを行なったのか?」  吉田は次の言葉を待っていた。大山の口から真実が……。  しかし期待に反して、大山は口を噤んでしまった。そして徐に立ち上がると吉田に大声をかけた。 「行くそ! 目的地は高田邸だ」  大山は高田邸までの道中で、吉田がこれほどまでにしつこい性格だということに初めて気付いた。沈黙の中でも、三十秒と経たないうちに彼は一体どういうことなのか説明して欲しい、としきりに頼んだのである。あまりの執拗な攻撃に大山は口を割ったのだが、その言葉は吉田の求めるものではなかった。 「君は、もう一つおかしなことがあるということに気が付かなかったかね?」  道は案外すいていた。歩道には昨日一昨日までの賑やかさはなかったが、時折親子連れが歩いているのが見えた。そして大山達はそんなことが出来なくなってしまった家族の元に向かっているのである。 「おかしなこと、ですか? それは何の事件の?」 「毒林檎の件だ」  吉田は眉をひそめ、口を歪めて苦笑する。 「おかしなことといっても、そんな急には……」 「“何故九つの林檎のうち、一つだけに毒が入っていたのか?”」  運転は吉田がしていたが、ちらっと大山の方を見る吉田に対して、大山はじっと前を向いていた。 「いや、それは……、犯人が毒をそれだけしか持っていなかったからでは?」 「だからといって、脅迫状まで出して、表面上は殺人を臭わせている人間がそんな中途半端なことをすると思うか?」 「警部、でもそれは――」 「そう、確かに君に言わせれば、こじつけに過ぎないだろう。しかし、君には言ったかもしれないが、あの脅迫文は暗号文でもあるのだよ」  吉田は、おそらく車を運転している人間の中で世界で一番助手席の人間を振り返りたいと思ったことだろう。 「暗号、ですって!」 「うむ」 「何故そう思うのです?」  大山は絆斗とのあの会話を――どういうわけか、絆斗の存在は無視していたが――簡潔に話した。 「なるほど。確かにあの文章は変な部分がありましたね。とするとやはり警部の仰るとおり暗号の線が濃厚ですね」  大山はうむ、と頷く。車体が揺れたような感覚を吉田は味わったのだが、気のせいであろうか。 「犯人は、あの脅迫文が暗号である限り、殺人を臭わせなくてはいけないのだ。犯人はどういうわけか、暗号の方を隠したがっている。暗号を隠したければ、殺人を臭わせればいい、というのは分かる。だが、毒林檎はたった一つしかなかった。私に言わせれば、この犯人は非常に中途半端だ」 「警部、それでは先程の警部の話と矛盾するじゃないですか」(これは私の意見であるが、吉田の言う大山の矛盾というのは、彼が次の台詞を口にするために逆説的に用いたものではないかと思う) 「いや、ここで考えたんだ。その中途半端こそが鍵ではないか、と。つまり、“毒林檎はたった一つでなくてはいけなかった。”言うなれば、犯人は中途半端な人間ではなく、最初から意図があったんだと思う」 「じゃあ、その暗号というのは何なんだ?」  絆斗は大欠伸をしている。傾きかけた陽が窓からはやの中へとオレンジ色の色彩を投げかけている。絆斗はちょうどその光の中に据わっており、どこか哀愁が漂っていた。 「もう答えは出ているよ。どうして毒林檎はたった一つだけだったのか? 犯人はそうしなければならなかった」  大山は苦笑いする。 「はぐらかすな、絆斗。分かっているんだろう?」 「ああ、それにこの暗号が解ければ全てが解ける。もっとも、僕にはこの暗号の意味がよく分からないんだけど、多分重要な“出来事”なんだろうね」  大山は吉田のその暗号とはなんですか、という質問を黙殺した。高田邸までは車の中は沈黙が包み込んだ。時刻は昼前だから、十一時くらいだろうか。冬の澄んだ空気を通して、太陽が眩しく輝いている。街路樹も葉を落とし、寒々しく裸で立ち尽くしていた。  高田邸には三十分ほどで到着した。あの壮麗な庭園を通り、立派な玄関をくぐると、そこには由梨絵がまだ信じられない、といった様子で悲しみにくれながら待っていた。二人はそんな由梨絵に再びあの静寂の和室へと案内された。既に亮輔、詩織はそこに控えており、大山達が入ってくると、座ったままお辞儀をした。その様もぎこちなく、未だに悲しみの坩堝に投げ込まれているような印象を、大山は受けた。お茶を、という由梨絵を引き止めて、大山達は三人の向かい側に座る。 「まず、少し難しい話になりますので、簡単に解説をします」  大山は今までの事件の経過、そして、多くの推理を披露した。それはここに記すまでのものではない。大山は先を続ける。 「そして、“何故毒林檎は一つだったのか”、“何故犯人は見せしめを行なったのか”、“暗号には何が書かれているのか”、そして、“犯人は誰なのか”という問題が残るのです」 「出来事?」大山はこれでもか、というほどに身を乗り出している。一方、絆斗は非常に落ち着いていた。「何だ、それは?」 「じゃあ、まず暗号を解いてみることにしようか、おっちゃん」  絆斗は教師のような口調で身を起こし、大山に言う。大山は大袈裟に頷く。 「まず、毒林檎がたった一つしかなかったということに関してだけど、加えて言うと、“毒林檎は九つのうちの一つだった”ということだね。それでさっき僕は、頭の柔らかい子供のほうが分かるだろうね、と言ったんだ。だって、大人は誰もが何故暗号なのか、とかつまらないことを言うじゃない。まずは遊び感覚でやってみればいい。それで僕はこの暗号が解けたわけなんだ」  大山はまさに歯痒い思いをしていた。早く本題に入れ、と。そんな大山の気持ちを察したのか、絆斗は切り出した。 「よく、文字を何文字かに一文字で拾っていくという暗号があるけど、今回もそれなんだ。つまり、九文字に一文字を拾っていく。毒林檎は九つに一つだったからね。それで、全部を平仮名にして、記号を無視してやってみることにしたんだ」  絆斗はポケットからペンを取り出し、暗号に丸を書き込んでいく。 『きみはどくりんご“を”しっているかねい“か”にもれいのりんご“だ”しらゆきひめがそ“の”いのちをわるいま“じ”ょからうばわれか“け”たあれだいやたぶ“ん”ねむりのくすりが“は”いっていたんだと“お”もうなあれにはい“ま”きくのはてんごく“へ”いやじごくだろう“が”つれていっていく“は”ずのどくりんごな“ん”だがねあれはまさ“に”ひのうちどころな“ん”かないりんごだた“だ”それはもじどおり“き”みのじんせいにお“い”てまさしくさいご“の”ばんさんになるだ“ろ”うね』  絆斗は今や笑顔を湛えており、 「これで、実はもう一つおかしなことがあの暗号にはあるんだ。『ただ、』の後が改行されていた。最初は演出でやったんだろう、とか思っていたんだけど、暗号を解いてみて分かった。違ったんだね。きっと、この暗号は『ただ』から先は考慮しないということなんだと思うよ。さて、纏めてみようか。勿論、『ただ』より後は抜かすよ」  そういうと絆斗は紙の余白に一文字ずつ書き出していった。するとそこには……。 『をかだのじけんはおまへがはんにんだ』 「な、なんと! こんなことが……」 「別に驚くことじゃないよ。こういった文字遊びみたいなものは、よく和歌にも見られる。有名なところでは、在原業平の 『“か”らころも  “き”つつなれにし  “つ”ましあれば  “は”るばる来ぬる  “た”びをしぞ思う』  という、“かきつばた”の歌があるよね。  ところでおっちゃん、この『をかだ』っていう名前だけど……」 「亮輔君の旧姓!」  突如として吉田は叫んだ。そう、『岡田』である。亮輔は下を俯いたまま、微動だにしない。それを見てか、大山は先を続ける。 「この『をまえ』というのは、雅彦さんが自殺されたということから、彼のことだと思われます。ちなみに、偶然このような文章が出てくる可能性はありません。意図があって初めてこういうことが起こるのです。そしてこの解読文こそが今回の一連の事件の鍵を握っているのです。もしかすると、雅彦さんは偶然この暗号に気付いたのではないでしょうか。そして……自殺された」  大山はここで永遠とも感じられるほどの間を取った。  静寂。  誰もが、つとも動かない。  再び大山のよく通る声。 「亮輔君、君は以前、君のお父さんは自殺だということを肯定していたが、あれは嘘だね? 君以外に事の真相を知り得る人間はいないのだよ」(これについては深く考えることもなかろう。彼の言葉どおり、真相を知り得たのは亮輔のみであろう)  亮輔は暫くの後、こくりと頷いた。そして口を開く。 「警部さんの言う通り父は自殺ではなかったんです。……今の僕の父、雅彦さんに殺されたのです」 「本当かね?」 「はい。  当時僕と父、洋一はとても仲が悪かったんです。互いに素直になれなかった。しょっちゅう喧嘩ばかりしていました。そして決まって父はその後で僕を押入れの中に閉じ込めたんです。  ある日、僕は押入れの中で眠ってしまっていました。そしてふと目を覚ますと、男同士の声で口論が聞こえたんです。僕は押入れを少しだけ開けて外を見ました。そこには洋一と雅彦さんがいたのです(二人はちょっとした友人だったようだ)。二人はなにやら激しく口論をしていました。そして……急に雅彦さんが父に襲いかかったんです。首を絞められ、父は動かなくなりました。僕はあまりの恐怖に押入れの奥で震えているしかありませんでした。雅彦さんは暫く何かしていたようでした。音で分かったんです。そして出て行くのが聞こえました。僕は押入れから出て唖然としました。父が首を吊られていたからです。僕は母が当時入院していた病院に走って逃げました。たいていは病院に母と一緒にいましたから」 「確か、君のお母さんの幸子さんはお父さんの自殺の後、あとを追う様に病死されたんだったね」 「はい」 「しかし、何故君は自分の父親を殺した男に引き取られることを拒まなかったんだね? それが分からんよ」  亮輔は肩を震えさせていた。泣いているのだろうか。その声はか細く、消え入りそうであった。 「ぼ、僕は、愚かにも……、……父が死んだことに悲しみすら起こりませんでした。いつも家族に迷惑はかけるし、母に気も遣わない。僕に八つ当たりをして……。だ、だから、……僕は。つまり……せいせいとしました。気持ちが、解放されたような……。……愚かでした」  亮輔は嗚咽を漏らす。静かな嘆きが静寂に響き渡った。  後日。 「しかし、どうして彼は十九年も経った後であんなことを……」  絆斗は相変わらず、寝ぼけたような顔つきである。 「これは想像するしかないけれどもね、きっと亮輔さんは詩織さんと雅彦さんの関係に自分を見たんだろうね。お互いに素直になれない。どちらかが折れれば、きっと気持ちよくなるはずなのに……。亮輔さんは詩織さんに雅彦さんとの仲直りを勧めていた。きっと他人事じゃなかったんだろうね。自分が“あの時”に出来なかったことを、と。そして、その頃に自分の父親が殺された、という事実が大きくなっていった。でも多分、あの暗号はただ雅彦さんに謝ってもらいたい、というような気持ちで書いたんだと思うね」 「それにしても、あんなにいい子が何故あんな……。しかもあの様子じゃ、ホームレスの死体を見せしめに利用した理由が分からん」  絆斗はソファに深々と背中を寄せる。 「おっちゃん、人の心なんか、すぐに変わっちゃうものだと、僕は思うよ。“魔がさした”なんていう言葉もあるけど、あれは一瞬で自分の心が変わってしまうことだ。きっと河原でホームレスの死体を発見した時、まさに魔がさしたんだろうね。でも、雅彦さんが自殺してしまったとき、誰よりも驚いたのは亮輔さんだろうな。何しろ、そんなことになるとは予想もしていなかっただろうから」 「警部」署の自動販売機の前のベンチである。吉田の声が木霊する。「亮輔君は何故あんなに気付かれにくい暗号を残したんでしょう?」 「思うに、詩織さんと雅彦さんの関係から過去の自分を思い返す時までは、純粋に雅彦さんに今まで育ててくれたことに対して感謝していたんじゃないだろうか。そのことが頭にあったから、別に暗号が露見しなくてもそれはそれでいい、と思っていたんだろう。しかし、ある時、洋一さんの自殺が幸子さんの病死を引き起こしたと考え、あの計画を練った。その時はもしかしたら殺意すらあったかもしれない。だが、結局はあのようになってしまった。きっと毒林檎を送ってから色々な葛藤があっただろう。色々なことがあの短い人生の中に起こって、とても不安定な心を持っていたんだろうな。雅彦さんにしても、十九年前に亮輔君の父親を殺してしまった償いとして亮輔君を引き取ったのだろうな。そう考えれば、実の娘より可愛がっていた理由が分かる。まぁ、これはどれも憶測に過ぎないがね。だが、こう考えれば、暗号に気付いた雅彦さんが自殺してしまった理由が分かるような気がする」  そう言うと、大山は吉田の奢りである缶コーヒーをぐいっと飲み干し、屑篭に投げ入れた。アルミ缶の乾いた音があたりに反響し、むなしく空気に溶けていった。 「おっちゃん」まだ大山が高田家に最後に踏み込む前である。「やっぱり、その十九年前の事件を詳しく調べるべきだろうね。まだ何か隠された事実があるかもしれない。きっとあの家族は悲しむと思うよ。たとえ血が繋がっていなくとも……」  夕暮れ時である。オレンジ色の光は次第に色を失い始める。ついつい感傷に浸ってしまう刻である。大山は重苦しい考えを振り払うように首を回す。そして大きな溜息を一つ。 「じゃあ、ありがとうな。きっと事件は解決だ。絆斗のお陰で助かったよ」  絆斗は笑顔を見せない。沈んだ表情である。そして言う。 「でも、やっぱり、亮輔さんが罪に問われるかどうかは微妙なところだね」 「ああ、色々と論争があるだろうな。本人には厳しい環境が待ってることになる。だが、私は彼に罪を着せたいとは思わん」  大山は伸びと同時に立ち上がる。ぐんっと伸びをすると天井にまで手が届きそうである。 「明日、高田家に行こうと思う。絆斗も来ないか? お前にも説明して欲しい」 「いや、僕の名前は絶対に出さないで。さっきの推理はみんなおっちゃんのものだよ。誰に教えてもらった、とか言わなくていいから」  絆斗の意志は鋼鉄より固かった。有無を言わせないその気持ちは表情から滲み出て……。 「何故そんなつれないことを言うんだ? いいじゃないか」  絆斗は眠そうに目を擦っていた。大山の声が聞こえなかったのだろうか。大山は暫くの沈黙の後、絆斗が静かに呟くのを聞いた。 「おっちゃん、悪いけど電気点けてくれる?」 #right(){ 【了】 } . . .

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