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文化不況

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文化不況

白田 秀彰



1 はじめに


不況だといわれます。物が売れないといいます。その一方で、とても高価なブランド品に人々が群がっているともいわれます。またその逆に、 100円ショップに代表されるような、とにかく安くてこだわりのない品も売れているようです。スーパーやデパートでは、経営破綻が相次いでいます。街の個人商店も経営が苦しいようで、倒産や廃業が続いているようです。マーケティングの専門家の方は、消費が二極化しているのだ、と指摘します。たしかにそのようです。でも、なぜ消費が二極化しているのかについては、説明がないようです。

経営コンサルタントの方は、商品に付加価値をつけるように指導しているようです。でも、商品にくっつく「付加価値」ってなんでしょう?単にかっこいいロゴマークのことではないはずです。システム・エンジニアの方は、情報ネットワークによって顧客とつながって商品を売り込みなさい、といいます。でも、決して安くはないパソコンがお店に入ったところで、客が来てくれるとは限らないようです。

私は、商店を経営したこともない素人です。とはいえ、ある街に引っ越したことをきっかけに、自分の研究領域と、この不況との関係が見えてきました。そこで、この論文を書くことにしました。ここで、結論から言ってしまえば、この不況は「文化不況」であるということです。これは単に「物が売れない」という原因について指すのではなく、私たちの社会における「文化」それ自体が停滞状態に陥っていることを指しています。不況からの脱出のためには文化の建て直しを進めなければなりません。

当然、教育に携わっている私自身も、そうした文化の建て直しに努力しなければならないのでしょう。しかし、文化が停滞状態に陥っている理由は、社会の情報の流通システムがいびつな状態になっているからであると 私は考えます。その意味では、情報の流通システムの建て直しが、文化の建て直しを可能にし、文化の建て直しが商品の高付加価値化を可能にし、そうして最終的には消費活動の拡大再生産につながっていくと考えるのです。



2 なぜ二極化するのか


とてつもなく高価なブランド品を買う人たち。その一方で、 260円の牛丼や 160円のハンバーガーにおなじ人たちが群がっています。そうした とても安い食事を提供するお店のテーブルに、ルイ・ヴィトンのバッグが載っていることを誰も奇妙だと思わないのでしょうか?「一点豪華主義」という豪華なのか貧しいのかわからない標語が現われてもいます。

この状態を簡単に言い換えてしまうと、消費者の側における判断停止を原因とする両極端化です。消費者の側に商品価値に対する判断能力が無いため、「ブランド」であるとか「価格」という非常にわかりやすい記号のみに反応する消費行動が作られてしまっているのです。洋服にしても食事にしても、ある品質の物に対して、どのくらいの金額を支払うべきかという判断が、私たちの「値ごろ感」をつくります。品質が高いならば、それなりの金額を支払い、またその商品を選択するでしょう。品質が低いなら、もう二度とその物に対してお金を払おうと思わないでしょう。

こうした判断が可能になるためには、消費者の側に商品に対する知識・評価基準などが備わっている必要があります。例えばスーツについて考えてみてください。この論文を読んでいる皆さんは、値札のついていないスーツを着せられて、そのスーツの値段を推測することができるでしょうか?そのスーツの値段を測るためには、生地の品質、仕立ての良し悪し、細部の仕事の丁寧さなどを測る必要があります。これは、実はとても大変な知識と感性を必要とする作業です。スーツに限らず、あらゆる商品について、このことは妥当します。

もし、消費者の側に、この「値ごろ感」が形成できない場合、どのような行動をとるか考えれば、二極化の原因はすぐに分かるはずです。自分のとくにこだわりをもつ商品については、とにかく「最高の品質」をもつと考えられる商品を選ぶはずです。そこで、自分の知識の範囲で「最高の品質」を提供していると考えるブランドを信奉するわけです。一方、こだわりのない商品については、とにかく「最低の価格」をもつ商品を選ぶはずです。なぜなら、商品として成立している品質を備えている以上、価格が最低であれば少なくとも「損をしていない」と安心できるからです。このように二極化の原因は、消費者の商品に対する見識が著しく低下していることが理由なのです。

当然、現在の消費者が怠慢である、というわけではありません。私たちが、すべての商品について「目利き」になることは不可能です。そうした場合、従来では「商店」あるいは「店主」、もっと一般的に言えば「暖簾」を信じてきたわけです。経験的に、あるいは地域的な伝統として、「この店はインチキな商売はしない」「この店は、この程度以下の品質のものを置かない」といった信用を測ることで、商品の品質を測る代わりをしていたわけです。そういう意味では、商店というのは、客の代理人として商品知識をたくわえ、商品の選別を行っていたわけですから、どんな業種の商店であっても情報サービス業の一種であったと見ることができます。

この機能を怠った商店は、「あらゆる商品を置いている」ことを価値とする大規模スーパー等に勝ち得ません。逆に大規模スーパーは、商品の選別努力を削減し、客自身に選択させるという戦略を取ったわけです。そのために、大規模スーパーは商店としての「個性」を失いました。その結果、価格競争に陥らざる得ないわけで、その行き着く先が100円ショップだったといえるでしょう。コンビニに到っては、顧客の消費行動を分析することで、どのような商品を置くかを決定しているのですから、先に述べたように「価値のある商品を選別する」という意味での商店ではないのです。それは、「客が買う→仕入れる」という関係が「仕入れる→客が買う」という関係の裏返しではないか、という逆説から逃れることができません。

「暖簾」が効力を持たなくなった理由は、地域共同体が希薄化し都市化するにつれて、その地域における共有情報が存在しなくなったからです。地域における知識として形成されてきた情報は、いまや伝達されない状態に到っています。とくに近年 従来の住民が高齢化し購買力が低下しつつある一方で、購買力のある層があたらしく建築されたマンション等に居住しているわけですから、昔から実直に商売をしてきたという実績が効力を発揮しなくなりつつあります。マンション等においては、住民同士での交流が乏しいことに加えて、マンション外の地域との交流も乏しいからです。地域から切り離された新住民の情報の入り口が、テレビや雑誌などのメディアに限定されてしまえば、そうしたメディアに力を及ぼすことのできるブランドの影響力が大きくなるのは当然です。

加えて、「暖簾」をもっていた商店が衰退し、スーパーが抬頭した理由は、やはりスーパーの価格が安かったから、という理由も見逃せません。私たちは、大抵の日用品については、安いものを選択するはずですから。しかし、価格競争の果てのコストダウン競争は、品質の最低化 (このように言うのが差し支えがあるなら、均一化といいましょう) も進めてしまいました。消費者が価格のみに注目した消費行動を続けた結果、品質に対する一種の「絶望」が生じていると、私は考えます。

「どの商品を買っても、どこで買っても大して違いがない」 という認識です。この認識は、安さを売り物にする商店だけでなく、一般の商店に対しても向けられます。実際には、専門店には見識と矜持がありますから、消費者の側に見る目があれば、その品質に対する価格の意味がわかるのでしょう。しかし、その消費者の目が衰えている今、専門店には打つ手がなくなっているのです。

しかし、消費者には「良い商品を買いたい」という欲求があります。よい品質の物には所有する喜びと使用する喜びがあります。そこで、自分の好きな特定分野の商品について、マニアックなまでに情報を収集し、店員顔負けの商品知識を得るような消費者も現われています。こうした消費者は、最高の品質を求めますから、特定の商店やブランドに集中することになります。すると、それほどまで商品に対する熱心さがない消費者までも、マニア的消費者と同じ行動をとろうとするでしょう。他人の行動によって、商品選別のための判断にかかる努力を節約しようとしているのです。

こうして、二極化が発生したと私は考えます。さらにつけくわえれば、ブランドとしてマニアを引き付ける商店は、利益が大きくなりますから、テレビや雑誌などのメディアを利用して、一般の商品に絶望した消費者たちに「高品質な商品」「持つ喜びのある品」を訴えることができます。商品の選択について自らの見識のない消費者がこうした傾向に乗ってしまうことは、仕方のないことです。こうして二極分化は、「特定商店のブランド化 → メディアによるブランドの補強 → 特定商店のブランド化→メディアによるブランドの補強」という循環を描くことになります。

この循環が維持されている限り、高級ブランドと100円ショップに挟まれた中間的な商店の位置づけは、どんどん小さくなります。こうして、良い品を妥当な価格で売っている、良心的な個人商店がどんどん消えていくことになるのです。私は、そうした商店が消えることがとても残念でなりません。ですから、どうにかしなければならないと考えているのです。また、商品の品質に対する無関心は、市場の縮小再生産を発生させます。「どんな商品でも同じという認識 → 安い物しか買わない →安い物しか作らない → 品質に対する絶望が生じる → どんな商品でも同じという認識」ということです。こうなっては経済が縮小するのも当然です。

消費が二極化する理由と、二極化の一方である「商品に関する無関心」が経済の縮小の原因であるという指摘をしました。しかし、二極化のもう一方である「高級ブランド指向」についていえば、「商品に対するこだわり → 高い物でも気にせず買う →さらに商品の品質が高まる」というサイクルになりそうです。ところが、高級ブランドへの消費者の集中の蔭で、実際に生じているのは、高級ブランドのより低い価格帯への商品展開の拡大です。これはどうしたことでしょうか。それもまた、消費者の見識のなさが原因です。先ほど指摘したように、ブランドに集中している消費者の大半が、その商品価値を理解していません。単にブランドであるから購入しているだけです。ブランドは彼らに品質に対する安心をもたらしてくれるからです。ですから、ブランドは品質と価格を下げたサブ・ブランドを展開することで、そうした見識のない消費者を取り込んでいるのです。



3 教養の崩壊


先ほど、ハンバーガー・ショップのテーブルにルイ・ヴィトンが置いてある、という事例を挙げました。また、別の事例としては、高級機械時計をいくつも買っているにも関わらず、スーツは量販店で買っているような人、全身をブランドの服で固めているのに、食事は牛丼といような人も挙げましょう。こうした人たちは、ある特定の分野の商品に対する見識・知識はたいしたものを持っているかもしれませんが、「教養のない人」だと言ってもいいでしょう。

「教養」は次のように定義されています。「一般に人格的な生活を向上させるための知・情・意の修練、つまり、たんなる学殖多識、専門家的職業生活のほかに一定の文化理想に応じた精神的能力の全面的開発、洗練を意味する (平凡社 世界大百科辞典「教養」)」。すなわち、教養とは特定の学問や知識を指すものではなく、全体的なものです。文化の文脈を理解して個別に応用する能力、あるいは逆に個別の事例をもとにして文化の文脈を理解する能力と定義したいと思います。

ある商品には、それが背景とする文化が必ず存在します。ある食品が食べられるべき調理法、ある服装が要求される場、調度品が背景としている様式や時代など、さまざまな文脈において、商品が成立しています。もちろん、商品をどのような文脈において使うかという問題は、必ずしも伝統だけに依拠すべきものでもないので、それぞれ各人が自由にしてよいとも考えられるのですが、そこにも一定の型すなわち「スタイル」が必要とされます。少なくとも衣・食・住における様々な要素が調和的である必要があるといえるでしょう。上記の例は、私の目からみてそれらのバランスが著しく悪い例のつもりです(もちろん、それで良いのだとする見方もありえるかもしれません)。

ある人にスタイルが備わっていますと、例えば、アンティークのテーブルを骨董屋で買ったら、つぎはそれに似合うテーブルウェアを揃えたくなる、またそれに相応しいケーキやデザートを準備するようになる、というように消費の連鎖が始まるのですが、スタイルがない消費者は、そういった買い方をしません。アンティークが好きな人は、ただひたすらアンティークを買い込むことに気が回ってしまい、その他の要素については、まるで無頓着なのです。生活においてスタイルを決定する重要な要素である「教養」は、社会においてとても低く見られてしまうようになりました。とくにいま大学に来ている学生たちの教養というものに対する見方は、簡単にいえば「何の役に立つのか分からない勉強」程度のものです。そこに「一点豪華主義」なる考え方が唱道されますと、とてもちぐはぐな消費行動が発生してしまうわけです。

さらに、現在の若者に顕著に見られるのですが、できるだけ悪そうに、できるだけ貧乏くさく、できるだけ反知性的にみえるようなファッションが蔓延しています。それらのファッションが何らかの意味での反体制的な文化を表しているのかもしれません。しかも、彼らの着ているTシャツやジーンズやスニーカーが、私たちの常識を越えた高価なものである場合も しばしばあります。この文章の読者の中には、そうした新文化に対する深い造詣があったり、またそうした文化に属する商品を販売している人がいるかもしれません。

しかし、私は、こうした傾向は、教養の崩壊であるとして批判したいと思います。実際、彼らにそれらの服装の意味をたずねても答えられる学生はいません。「かっこいいからいいじゃん (何をもってかっこいいかという判断基準もよくわかりません「感性」らしいです)」「楽だからいいじゃん」という返事がせいぜいのところです。チェ・ゲバラの顔のプリントがついているTシャツの意味が分からず、ハーケンクロイツのついたヘルメットを平気でかぶる若者に、何らかの筋のとおった文脈があるとはとても思えません。

こうした現在のファッション傾向は、若者向けのメディアを通じて作られているのですが、このファッション傾向の文脈においては、より自分を社会的に高めていこうという要素がありません。ある意味では文化や教養というのは「見栄」を張るという面があるのですが、現在のファッション傾向は、「駄目で貧乏だけど楽」な生活へと誘っているのです。これでは、消費が高度化するはずはありません。そして、なるほど 100円ショップやファースト・フードが賑わうはずです。こういう消費行動に慣れた消費者は、ますます商品の価値が分からなくなり、さらに消費の二極化行動に走ることになります。この「駄目で貧乏で楽」を良しとする傾向は、若者に限ったものではなくなりつつあるように感じます。これが 私の考える「文化不況」であり、こうした文化傾向を転換しない限り、現在の消費不況は改善せず、地域の個人商店が復活するチャンスも見つけられないと考えます。



4 高付加価値とは


ある機能を果たすだけの商品であれば、現在の高度な産業社会においては、ほとんどタダ同然で販売することができます。すなわち100円ショップの存在がそれを裏付けています。100円シッョプの商品は、目的を達するだけであるならば十分な品質を備えていることは間違いありません。すると、それを越える何からの価値を付加するならば、品質を向上させたり、デザインを向上させたり、品物に何からの文化的・社会的価値を持たせるしかありません。これに成功した販売者がブランドを形成しているわけです。

高付加価値と高機能や高品質とは、似て非なるものです。日本の家電メーカーは、高付加価値をすなわち高機能と理解したために、日本の家庭電化製品は、著しく多機能化・高機能化しました。そのうち、消費者がほとんど使わないような些末な機能が満載された家電が現われて来てしまったのです。その結果 近年では、シンプルな単機能ながら、しっかりした性能をもち、なおかつスタイリッシュなデザインをもつ海外製家電が人気を集めるようになっています。住居がマンションなどによって欧風化し、それに合わせて家具なども北欧家具風のデザインが好まれるようになると、家電品のデザインまでが問題にされるようになったからです。繰り返し、雑誌等によってフィリップス、ブラウン、デロンギなどの欧州家電が、スタイリッシュなインテリアとして紹介されることで、消費者の家電に対する見方は変わりました。そして、高機能はもはや付加価値にはならなくなり、欧州的な生活のイメージが付加価値として強力になったのです。

このように見れば、付加価値とは商品を取り巻く文化であり、イメージであると言ってよいと思われます。それゆえ、高級ブランドはさまざまなメディアを動員して、自らの商品に関する知識や文化を宣伝し、さまざまな商業美術によってイメージを高めるよう努力しているのです。商品にまつわるイメージを転換することによって付加価値を大幅に増加させたブランドとして、近年ではグッチを挙げることができるでしょう。10年前のグッチと、最近のグッチではブランド・イメージはまるで違っています。ここ数年の投資と戦略によってグッチ製品に対する付加価値を大幅に増したのです。

地域の個人商店においても、日夜営業努力をつづけ、店に商品に様々な付加価値をつけるべく工夫していると思います。しかしながら、いくら商店が情報発信しても、受け手の側が理解できなければ空振りに終わってしまいます。高付加価値商品をささえる社会的基盤は、その高付加価値を理解する消費者の存在です。ところが、二極化のところで指摘しましたように、現在の消費者は、みずから教養を高めて見識を磨くことを怠り、マス・メディアに頼りがちです。そして、マス・メディアを動かしうるのは、高い収益を誇る高級ブランドやメーカー、あるいは原宿・青山・渋谷・代官山などのように商店街全体がブランド化してメディア訴求力のあるところにかぎられます。さらに、教養の崩壊という現象が加わりますと、もはや商店主が努力しても無駄だということになります。教養が失われた消費者に対して訴求しうる要素は値札でしかありませんから。

大学を含む高等教育は、専門的知識の前提として教養と趣味を涵養する場であったはずです。

文化振興と経済振興は一体のプランとして進めなければなりません。大ホールでの講演会や演奏会もよろしいかと思います。お祭りのときに出店(でみせ) を出すのもよいかと思います。しかし、文化振興と経済振興を一体化するという目的からしますと、まず商店主は、自ら扱っている商品についての専門知識はもとより、その商品をとりまく文化を理解するための教養を備えねばならないはずです。ひいては、その店の文化が、扱っている商品に相応しい店主の服装、態度、店構え、調度品に現われるわけで、このあたりを等閑にしているようでは、客の文化水準を上げることなど不可能であるといえます。

たとえば紅茶屋なら、適切な茶器や、入れ方や、よく味わいの会うお菓子や、ティーパーティの演出について語れるべきかと思います。紅茶屋で、試飲につかったカップを素敵だと褒める客に対して、そのカップを扱っている瀬戸物屋を紹介するとか、美容室に置いてあるボンボン (お菓子)を食べて、美味しかったと褒める客に対して、そのボンボンが買える菓子店を紹介する、というような商店間の趣味の連携を取る必要もあると思われます。その時重要なことは、あくまでも商店主自身が納得するものを、客に対してサービスするという基本態度です。

続いて、客の文化水準を上げなければなりません。単に高いものを買ってくれる客を良い客であるとするのではなく、店の示している文化に理解を示してくれる客を良い客として扱うことで、店の文化がより鮮明になってきます。店は、店構えや調度品によって評価のみされるのではなく、通ってきている客によっても評価されるからです。また、客のなかでも洗練された趣味の人をえらんで、積極的に情報を取得することも良いでしょう。店主に教えを請われた客は、自分がその店において高く評価されていると感じます。これによって店に対する親近感・忠誠度が上がります。もしかすると、その客は店の支援者となってくれるかもしれません。

また、客である私自身の立場からしますと、自分の趣味にあった店が、より自分の意向を考慮してくれた展開をしてくれることは喜ばしいことなのです。

こうして客との相互関係(インタラクション)をつくることができれば、その客にとって、その店は、時間をかけてつくりあげた自分の文化の一部となるわけですから、単なる価格やブランドといった信号に なびかない強固な関係となるわけです。



5 客が参加する店作り


店が客をつくり、客が店をつくり、互いに(教養を)高めあう、というのは実はよく聞かれる標語ではあります。問題は、これをどうやって実現するのかということです。スーパーやファースト・フードのスタイルに慣れてしまった客は、店主とのコミュニケーションを嫌います。声を掛けると逃げてしまうような客も多いようです。これでは、店主が教養を高めるところまでは努力することができても、客の教養を高めることができません。

実は、見ず知らずの人と会話する能力というのも重要な教養の一部なのですが、このあたりを現代の教育は等閑にしているようです。学生のほとんどは、人前でスピーチすることはおろか、私が話し掛けたことに対して、まともに受け答えすることさえできません。そういう人たちの会話を傍で聞いておりますと、当たり障りのない空虚な話題を、とても少ない単語数で交換しているだけのようです。ですから、この水準までの教養の向上は、何としても家庭教育と学校でどうにかする必要があります。

逆に、消費者の立場からしますと、立派な店であるほど「敷居が高い」ということになります。とくに現在の「駄目で貧乏で楽」が良いとする風潮を基礎としますと、反高級志向があるか、あるいは自分に自信がないわけですので、どうしても機械的にサービスを受けられる店に足が向きがちです。しかし、ここで商店主のみなさんがそうした消費者に迎合して店の水準を落としますと、一時的に客は増えるかもしれませんが、文化不況現象から逃れられないわけですから、けっして節を曲げてはいけません。

店の文化に合う客の数が少ないのならば、店の文化や趣味を広く発信して、そうした文化を理解できる客を現在の商圏からより広く集められれば、店の水準を落とすことなく商売を広げることが可能になります。理想的には、マス・メディアを動員できれば、より大きな効果を上げられるのですが、それには費用がかかります。そこで、現在ではインターネットを使うということになりがちなのですが、Web ページが単に「電子チラシ」の段階に留まっているのでは意味がありません。ここまでの議論を踏まえれば、次の要素が満たされる Webページを作らなければならないことになります。

1. 店の文化をデザインとして明確に打ち出す 店舗と同様にWebページでもデザインが重要です。店主自らがそうしたデザイン・センスを身につけているのが理想ですが、困難な場合が多いわけです。そこでデザイナに委託することになるわけですが、このとき、店の文化をデザイナに十分に伝達して理解してもらう必要があります。というのも、店の文化やスタイルを理解していないデザイナに「お任せ」してしまうと、単にデザイン優先のページになってしまうからです。また、店構えとWebデザインが関連性を持つようにデザインすることも重要です。

2. 文化やスタイルの理解を助ける周辺情報を提示する 文化は、単独の知識で成り立つものではなく総合的な教養を基礎にします。それゆえ、店の商品と関連のある情報をページの中で表示したり、あるいは、関連のあるページへリンクしたりすることが必要です。また、店のページからリンクした先から逆にリンクしてもらうことで、アクセス数が増えることが予想されます。

3. 店主の趣味や興味に関する情報を提示する 店は人で成り立ちます。単なるスタッフの自己紹介やプロフィールではなく、店や商品に対する思いや店主のコダワリなどを出すことで、客の側も店主に話し掛けやすくなるでしょう。商品紹介が、単に品質に関する情報と価格に対する情報だけというのでは、その商品について何らかの付加価値もつけずに、価格で勝負しようとしているのも同然です。

4. オンラインでの情報交流を助ける機能を加える 日用品を売る店でないかぎり、それほど頻繁に客が店に足を運んでくれるわけではありません。掲示板やちょっとしたメールで、店に関する情報提供をすることが望ましいです。ここで注意すべきことは、店に関する情報は、「広告」ではないということです。一番望ましい形態は、客同士で店に関する話題が続くような状態です。

5. ある店のWebページから同じ系統のスタイルを持つ店へのリンク 総合デパートでもない限り、自分の客を自分の店だけに囲い込もうとすることは、望ましくありません。本論でも繰り返し述べているように、客の教養が高まり文化水準が総合的に向上することで、消費は高度化するのです。ですから、同じ系統のスタイルをもつ、他の店にも客を紹介することで、他の店において趣味を高めてもらうことを期待するほうがよいです。



6 まとめ


現在は消費不況といわれていますが、実際に生じているのは消費の二極化です。一方では、高級ブランドの高額商品が売れ、一方では、安売り店が客を集めています。この二極化の原因は、生活スタイルに関する教養の欠如です。教養が欠如した理由は、ひとつに教育の怠慢、次に客の怠慢、さらに店の怠慢があります。生産力過剰の現代において付加価値とは、商品の意味付けを理解して、そこに価値を付与する知識・教養に他なりません。商店主であるみなさんのできることは、まず自らの店の文化水準を高めることです。次に客をより高い文化水準に持ち上げるよう手助けすることです。そのためには客との密接なコミュニケーションが必要となります。まず客となりうる人々に店に足を運んでもらわなければなりません。そのためのツールとしてネットワークを活用することができます。付加価値が情報であるならば、情報を伝達するネットワークを利用して、付加価値を発生させることができます。しかし、単なる商品のチラシでは、文化不況を克服することができません。あくまでも店の文化を伝達し、客の文化水準を上げることを目的とすべきです。

Note
Ireland / Legend of Aran Sweater
この『文化不況』では、店主と顧客が教養を高めあうことで、ブランドに惑わされない商品の実質価値を理解しうる文化水準の高い顧客を確保し、商店における「文化」を作り上げる必要性について指摘した。また、こうしたプロセスにWebページを活用することができることを指摘した。これらの私の提言にまことに合致した、好適な例と思われる店を発見したので紹介したい。

英國氣質の洋服屋を標榜する「セヴィルロウ倶樂部」だ。

残念ながら所在地が静岡県ということで、私は直接足を運んだことはない。とはいえ、Web上での商品紹介の綿密さ、店主の思い入れや理念の明示、顧客との交流を良好に維持しようとする細やかな運営などを見れば「模範」と呼んでも過言ではないだろう。実際の店舗や品揃えもそれに相応しい素晴らしいものだろうと推測する。静岡に立ち寄ることがあれば、ぜひうかがってみたいものだ。

さらに店主の野沢 弥市朗氏は、アイルランドのアランセーターに対して強い思い入れをもち、何度かの現地での調査研究も交えて、研究書まで刊行している。それが左の写真に掲げた「アイルランド / アランセーターの伝説」だ。メールでの注文で直接著者から一冊購入し、到着の即日に読了した。簡易に装丁されたささやかな本だが、同セーターを取り巻くアイルランド文化への、野沢氏の深い興味と愛情が伝わってくる好著だ。アランセーターに対する故パトレイグ・オシォコン氏の静かな情熱が野沢氏を揺さぶり、それがまた自分自身にも響いてくるかのようだ。

著者の野沢氏は、ケルティック・トレードセンターの代表でもあり、アランセーターの国内総代理的立場にある。同書でも述べられているように、同書がアランセーターに関する販売促進ツール的立場にあることは事実だ。それゆえ野沢氏の同書に対する情熱や記述内容には割り引くべき部分があると考えられる面もあろう。しかしそれ以上に重要なことは、野沢氏がアランセーターを単なる商品として売ろうとしているのではないことだ。

自らの研鑚を通じて、アランセーターとアイルランド文化との深いかかわりを提示し、その魅力を高めることで、価格に対応した価値を見出す顧客を作り出そうとする姿勢。これが、正しい意味での商売の王道であろうと思う。(2003/1/9)



Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 助教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp
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