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09:00-10:30 第02回 第03回 印象派の幕開け、マネ「草上の昼食」を題材にして 2-1 エドゥアール・マネ  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』  (E'douard Manet, 1832年1月23日 - 1883年4月30日)は、19世紀のフランスの画家。  西洋の近代絵画の歴史の冒頭を飾る画家の一人である。マネは1860年代後半、パリ、バティニョール街の「カフェ・ゲルボワ」に集まって芸術論を戦わせ、後に「印象派」となる画家グループの中心的存在であった。しかし、マネ自身が印象派展には一度も参加していないことからも分かるように、最近の研究ではマネと印象派は各々の創作活動を行っていたと考えられることが多くなっている。  マネは1832年、パリのブルジョワの家庭に生まれた。父は司法省の高級官僚であった。はじめ海外航路の船員となるが、1850年、18歳の時に画家になることを決意し、当時のアカデミスムの大家、トマ・クーチュールに弟子入りする。1861年、サロン(官展)に『スペインの歌手』が初入選する。マネの画風はスペイン絵画やヴェネツィア派の影響を受けつつも、明快な色彩、立体感や遠近感の表現を抑えた平面的な処理などは、近代絵画の到来を告げるものである。 2-2 エドゥアール・マネのスキャンダル 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』  代表作の『草上の昼食』と『オランピア』はいずれも激しいスキャンダルを巻き起こした作品として知られる。1863年の落選展に出品した『草上の昼食』は、戸外にいる正装の男性と裸体の女性を描いたことから、不道徳であるとして物議をかもした。  しかし、さらに大きなスキャンダルとなったのは、2年後の1865年のサロンに展示された『オランピア』であった。この作品に描かれた女性は、部屋の雰囲気や道具立てなどから、明かに当時のフランスの娼婦であることがわかり、それが当時の人々の反感を買った。 西洋絵画の歴史において裸婦像は数多く描かれてきたが、それらはあくまでもただの「裸婦」ではなく、ヴィーナス、ディアナなど神話の世界の「女神」たちの姿を描いたものであった。しかし、「草上の昼食」と「オランピア」に登場する裸婦は、当時のフランス社会に生きる生身の女性を裸体で描いたため、「不道徳」だとされたのである。  しかし、マネの絵画の抱える問題は、そのような社会的なものに留まらず、むしろ造形的な問題へと発展する。それまでの西洋絵画の伝統を踏襲しつつそれを解体する。写実主義から受け継いだ思想は、マネを「近代」の画家へと導いた。研究が高度に進んだ現代においても、最も謎を残す画家の一人である。なぜ彼がそれまでの伝統を打ち壊し、近代の画家となりえたのか。あるいは彼が描く絵画そのものに隠された謎のモチーフの数々の意味するところは何か(『草上の昼食』における蛙や鳥、『オランピア』における黒猫など)。これらの謎も、マネの大きな魅力の一つでもある。 2-3 落選とスキャンダルの背景   そもそも、現代人の感覚では、サロンに入選したり、落選したりがこれほどの大騒動になる事が良く理解できないはずである。  まずは、サロンとはどんなものだったのか、手短に説明する。  この時代、現代のような強力なマスメディアはない。 具体的には、サロンは当時のフランスにおいて唯一無二の画家の社会的身分を保証するシステムであり、この展覧会に入選し作品が展示される事こそが画家として社会的に認証される方法だった、と言われている。  つまり、サロンに入選しない限りプロとして認められないし、とどのつまり「絵を描く」という仕事が受注できない、という仕組みになっていた。  だから、この展覧会に入選できない、という事は職業画家としては致命的な痛手ということになる。画家も必死だった。サロンは生殺与奪の権限を握っていたようなものである。  こうしたサロンの場に、名画の引用とはいえ、通常は神話上の裸婦を描くのが定法だった中で、市井の女性が裸で身近な風景の中にいる、という状況を描いたのだから大騒ぎになる、、、、、、のは当然といえば当然。 2-3 メディアの影響  もちろん、全くマスメディアが無かったらこのスキャンダルも大した反響は得なかった事だろう。ここが近代以降の芸術が社会的な影響力とのバランスの中で存在するようになった端緒と言われる所以だと思う。
09:00-10:30 第02回・第03回 印象派の幕開け、マネ「草上の昼食」を題材にして 2-1 エドゥアール・マネ  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』  (E'douard Manet, 1832年1月23日 - 1883年4月30日)は、19世紀のフランスの画家。  西洋の近代絵画の歴史の冒頭を飾る画家の一人である。マネは1860年代後半、パリ、バティニョール街の「カフェ・ゲルボワ」に集まって芸術論を戦わせ、後に「印象派」となる画家グループの中心的存在であった。しかし、マネ自身が印象派展には一度も参加していないことからも分かるように、最近の研究ではマネと印象派は各々の創作活動を行っていたと考えられることが多くなっている。  マネは1832年、パリのブルジョワの家庭に生まれた。父は司法省の高級官僚であった。はじめ海外航路の船員となるが、1850年、18歳の時に画家になることを決意し、当時のアカデミスムの大家、トマ・クーチュールに弟子入りする。1861年、サロン(官展)に『スペインの歌手』が初入選する。マネの画風はスペイン絵画やヴェネツィア派の影響を受けつつも、明快な色彩、立体感や遠近感の表現を抑えた平面的な処理などは、近代絵画の到来を告げるものである。 2-2 エドゥアール・マネのスキャンダル 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』  代表作の『草上の昼食』と『オランピア』はいずれも激しいスキャンダルを巻き起こした作品として知られる。1863年の落選展に出品した『草上の昼食』は、戸外にいる正装の男性と裸体の女性を描いたことから、不道徳であるとして物議をかもした。  しかし、さらに大きなスキャンダルとなったのは、2年後の1865年のサロンに展示された『オランピア』であった。この作品に描かれた女性は、部屋の雰囲気や道具立てなどから、明かに当時のフランスの娼婦であることがわかり、それが当時の人々の反感を買った。 西洋絵画の歴史において裸婦像は数多く描かれてきたが、それらはあくまでもただの「裸婦」ではなく、ヴィーナス、ディアナなど神話の世界の「女神」たちの姿を描いたものであった。しかし、「草上の昼食」と「オランピア」に登場する裸婦は、当時のフランス社会に生きる生身の女性を裸体で描いたため、「不道徳」だとされたのである。  しかし、マネの絵画の抱える問題は、そのような社会的なものに留まらず、むしろ造形的な問題へと発展する。それまでの西洋絵画の伝統を踏襲しつつそれを解体する。写実主義から受け継いだ思想は、マネを「近代」の画家へと導いた。研究が高度に進んだ現代においても、最も謎を残す画家の一人である。なぜ彼がそれまでの伝統を打ち壊し、近代の画家となりえたのか。あるいは彼が描く絵画そのものに隠された謎のモチーフの数々の意味するところは何か(『草上の昼食』における蛙や鳥、『オランピア』における黒猫など)。これらの謎も、マネの大きな魅力の一つでもある。 2-3 落選とスキャンダルの背景   そもそも、現代人の感覚では、サロンに入選したり、落選したりがこれほどの大騒動になる事が良く理解できないはずである。  まずは、サロンとはどんなものだったのか、手短に説明する。  この時代、現代のような強力なマスメディアはない。 具体的には、サロンは当時のフランスにおいて唯一無二の画家の社会的身分を保証するシステムであり、この展覧会に入選し作品が展示される事こそが画家として社会的に認証される方法だった、と言われている。  つまり、サロンに入選しない限りプロとして認められないし、とどのつまり「絵を描く」という仕事が受注できない、という仕組みになっていた。  だから、この展覧会に入選できない、という事は職業画家としては致命的な痛手ということになる。画家も必死だった。サロンは生殺与奪の権限を握っていたようなものである。  こうしたサロンの場に、名画の引用とはいえ、通常は神話上の裸婦を描くのが定法だった中で、市井の女性が裸で身近な風景の中にいる、という状況を描いたのだから大騒ぎになる、、、、、、のは当然といえば当然。 2-3 メディアの影響  もちろん、全くマスメディアが無かったらこのスキャンダルも大した反響は得なかった事だろう。ここが近代以降の芸術が社会的な影響力とのバランスの中で存在するようになった端緒と言われる所以だと思う。

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