antipiazza @ ウィキ
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antipiazza @ ウィキja2009-02-08T19:53:32+09:001234090412前バラシ解答
https://w.atwiki.jp/antipiazza/pages/27.html
<p> </p>
<p>「君はどこで産まれたの、マリーア?」</p>
<p>「私は満開のアーモンド畑で見つかりました」</p>
<p>"Dove sei nata, Maria?"</p>
<p>"Sono stata trovata in un campo di mandorli in fiore."</p>
<p> </p>
2009-02-08T19:53:32+09:001234090412Il Canto di Ulisse
https://w.atwiki.jp/antipiazza/pages/26.html
<p>ウリッセの歌<br />
プリーモ・レーヴィ<br /><br />
…ウリッセの歌。どのように、そしてなぜ、それが私の心に浮かんだのかなど、誰が知ろうか。しかし、選んでいる時間は私たちにはない。この1時間はもはや1時間ではないのだ。もしジャンが聡明なら、理解するだろう。理解するだろう。私はそれだけの力が自分にあるように感じる。<br />
…ダンテとは誰か。神曲とは何か。もし神曲とは何かを手短に説明しようとするなら、いかなる新しい不思議な感慨が感じられるのか。地獄はどのように配置されており、コントラパッソとは何か。ヴィルジリオは理性であり、ベアトリーチェは神学である。<br />
ジャンは強く注意を向け、そして私は、ゆっくり、正確に、始める。<br /><br />
古代の炎の大きいほうの角が<br />
うめきながら揺らめき始めた<br />
まるで風で消えかけた火のごとく<br />
揺れながらその先をあちらこちらへ向け<br />
それは言葉を話す舌であるかのように<br />
言葉を外へ投げかけ言う 「私が…<br /><br />
ここで私は止まり、翻訳しようとする。壊滅的だ。哀れなダンテ、貧しいフランス語よ!それでも、この体験には見込みがあるようだ。ジャンはその奇抜な舌の比喩に感嘆し、《antico》を表すのにふさわしい言葉を提案する。それで《quando》の後は?何もない。記憶の穴だ。「エネーアがそう名づける前に。」また穴が。役に立たないいくつかの断片が浮かんでくる。「・・・年老いた父への情も、ペネロペを幸せにしてやるしかるべき愛も・・・」それも正しいだろうか?<br /><br />
・・・しかし私は深く広い海へ乗り出した。<br /><br />
これは合っているはずだ。これについては自信がある。ピコロに説明することができ、なぜ《misi me》が《je me
mis》ではなく、もっとずっと強く大胆で、破られた絆であり、彼ら自身を障壁の向こうへ投げ出すということであると識別でき、私たちはこの衝動をよく知っていた。深く広い海。ピコロは海を旅したことがあり、それが言わんとすることは知っている。それは、水平線がすっかり見渡せるときのもので、自由で真っ直ぐで単純で、そして今や海の匂いしかしない。甘美なものは残酷なほど、遠い。<br />
私たちは 2009-02-09T10:48:03+09:001234144083Gli Etruschi arrivano dalla Turchia
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<p>科学と技術<br /><br />
トリノ大学のイタリア人遺伝学者の研究によって、ムルロとヴォルテッラの人々のサンプルがトルコのものとよく似ていることが証明されるだろう。<br /><br />
エトルリア人はトルコから来た<br />
トスカーナ人のDNAから明かされた謎<br /><br />
古代人はリディア出身であり、飢饉のためにそこから逃亡してきたのだとするヘロドトスの説が裏付けられた。<br /><br /><br />
ヘロドトスは正しかった。エトルリア人はアナトリア、すなわちトルコの南の地からやってきたのである。それを明らかにしたのはDNAである。この、イタリア中央部に住んでいた人々の起源についての謎は、世界中の考古学者や歴史学者、言語学者によってもその解決は今日まで虚しく追い求められてきたが、今や古いものとなった。遺伝学のおかげである。その発見は、トリノ大学の遺伝学者であるアルベルト・ピアッツァの研究に含まれるもので、ニッツァで開催中の欧州人類遺伝学協会の年次総会において発表された。<br /><br />
その最先端の文化によって他のイタリア民族から尊敬された人々、エトルリア人の謎の鍵を見つけるため、ピアッツァは生命のもっとも深遠な秘密の書かれたところ、DNAの中に向かったのである。遺伝学者のチームは、少なくとも三世代前からムルロとヴォルテッラ、カセンティーノの中心部に住む住民の遺伝コードの分子サンプルを解析した。先の2つは、エトルリア人の考古学的に最も重要な場所の中にあり、カセンティーノはエトルリア人の文化がよく保存されていたところである。<br /><br />
研究者のチームは、集められたデータを、他の地理的エリア、特に北イタリア、シチリア、サルデーニャ、トルコ、ギリシアのレムノス島のものと比較した。すると、トルコ人のDNAとすべてのうちで最も似ているものは、まさにトスカーナのそのエリアの住民のそれだったのである。<br /><br />
「私たちは、ムルロとヴォルテッラの人のDNAがトルコ人のそれと最もよく似ているということを見つけました。特に、よく似た遺伝変数は、ムルロのサンプルとトルコ出身の人にしか見つかりませんでした。」とピアッツァは説明する。<br /><br />
したがって、この結果は、ギリシアの歴史家ヘロドトスがその 2009-02-07T11:59:01+09:001233975541Il linguaggio degli animali
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<p>
ある裕福な商人にはBoboという名の子がいて、賢く才能に目覚め、学ぶ欲求が高かった。父はすべての言葉を教えるために、とても博識な人に彼をゆだねた。<br />
勉強が終わると、Boboは家に帰り、父親と散歩した。木の上を雀が通り、いらいらさせるような音でさえずった。<br />
「この雀は私の鼓膜を毎晩破っている」<br />
商人は耳をふさいで言った。Boboは言った、<br />
「何と言っているか説明してほしいですか?」<br />
父は驚いた。<br />
「この雀の言うことがわかるのか?お前は予言者か?」<br />
「いいえ、先生が動物の言葉を全て教えてくれたのです」<br />
「おお、私の金は無駄になった。」父は言った、「あの先生は何をわかったのだろう? 私は動物の言葉ではなく、人間が話す言葉を教えてほしかったのに!」<br />
「動物の言葉はとても難しく、先生はそれから始めたがりました」Boboは言った。<br />
犬が彼らの方に向って吠えながら、彼らの前を走って行った。<br />
「言っていることを説明してほしいですか?」<br />
「私を放っておいてくれ、動物の言葉なんてまっぴらだ、かわいそうな私の金よ。」<br />
彼らは小川に沿って歩いていると、カエルが鳴いていた。<br />
「カエルまでもが私を陽気にさせようとしている(皮肉)!」父は言った。<br />
「お父さん、何と言っているか説明してほしいですか?」Boboは言った。<br />
「お前と、お前に教えた者は悪魔のところに行け」<br />
父は、子供の教育に金を捨てたことを怒り、この動物の言葉の知識は悪い技法だとして、召使に彼らが翌日すべきことを言った。</p>
<p><br />
翌日Boboは起きると、召使が彼を馬車に乗せ、召使が隣に座った。馬車で、馬を鞭打ち、早足で出発した。Bonoは旅について何も知らなかったが、隣の召使の眼が涙でふくらんでいるのを見た。<br />
「どこに行くのだ、悲しいのか?」しかし召使は黙っていた。<br />
馬車馬がいななき始めた時、Boboは彼らが言っていることを理解した。「悲しい旅だ、僕は若旦那さまを死出の旅に連れて行っている」<br />
別の召使が答えた。「お父様の命令は残酷なものでした」<br />
「じゃあ、お前 2009-02-08T21:54:31+09:001234097671L' anatemia lanciato nel giorno dei defunti(新聞その1)
https://w.atwiki.jp/antipiazza/pages/23.html
<p> </p>
<p>訳だけのせるよ。 文責:るい<br /><br />
死者の日に出された警告。<br />
イタリアではその事例の7%がこの行為を選択していてヨーロッパでもっとも低い率である。<br />
火葬にされることはキリスト教にふさわしくない。<br />
トレントの司教は教会の方針を認めない:土葬の方がよりよい</p>
<p>(<em>こっから本文</em>)<br />
火葬はキリスト教の伝統では無い。以外の散布や家で保存することも同様である。キリスト教では元来墓地に土葬することを好んでいる。トレントの大司教であるルイージ・ブレッサンはヨーロッパに従って、イタリアで広がっている新しい社会的現象(正式に教会も同意する)に対して叱責する。彼がそれを言ったのは死者に捧げられた日である。強い断言とともに論争の口火を切ることを運命づけた。<br /><em>このカッコ内はちょいと怪しい・・・</em>[キリスト教とは古代ローマ人が用いた二つの死者の埋葬方から元来きっぱりと選んできた。古代のキリスト教とは大地に埋葬して、それを聖なるものとしたイエス・キリストのように土葬した。]<br />
実際イタリアは火葬数においてヨーロッパでいまだにびりである。イタリアではほんの7%なのに対して、スウェーデン、イギリス、デンマークやスイスの地域では平均で70%を超え、オランダでは49%、フランスは23.5%である。<br />
「しかし、ミラノではすでに火葬が土葬を超えている」とイタリアの葬儀会社のもっとも有名なもののひとつであるサンシーロの責任者であるアルチーデ・チェラートは確約する。町では51%だ、と。このことはイタリアの残りの部分でも同じではない。火葬はローマでは大体6%で南では下落し2,3%である。文化的多様性による選択である。しかし、家族の振る舞いは根本的に変わりつつある。(それを理解するには)あなたはスペッツァの企業は過ぎゆく時を刻む死者の灰を入れてリビングに置くために骨つぼを砂時計の形をしたガラス製のものにしたと考えるだけでよい。<br />
ますます頻繁に市町村の行政は火葬に頼ることを好意的にみている。大きな都市の墓地の空間は大いに不足している。拡大のための費用も莫大である。また、家族は火葬に世話になる方がより実用的で経済的だと考える。ヴェネツィアでは 2009-02-09T01:12:19+09:001234109539il folle volo di Ulisse
https://w.atwiki.jp/antipiazza/pages/22.html
<p class="rientrato">Lo maggior corno de la fiamma antica<br />
cominciò a crollarsi mormorando,<br />
pur come quella cui vento affatica;</p>
<p class="rientrato">indi la cima qua e là menando,<br />
come fosse la lingua che parlasse,<br />
gittò voce di fuori e disse: «Quando</p>
<p class="rientrato">mi diparti' da Circe, che sottrasse<br />
me più d'un anno là presso a Gaeta,<br />
prima che sì Enëa la nomasse,</p>
<p class="rientrato">né dolcezza di figlio, né la pieta<br />
del vecchio padre, né 'l debito amore<br />
lo qual dovea Penelopè far lieta,</p>
<p class="rientrato">vincer potero dentro a me l'ardore<br />
ch'i' ebbi a divenir del mondo esperto<br />
e de li vizi umani e del valore;</p>
<p class="rientrato">ma misi me per l'alto mare aperto<br />
sol con un legno e con quella compagna<br />
picciola da la qual non fui diserto.</p>
<p class="rientrato">L'un lito e l'altro vidi infin la Spagna,<br />
fin nel Morrocco, e l'isola d'i Sardi,<br />
e l'altre che quel mare into 2009-01-24T22:51:25+09:001232805085Mandorlinfiore
https://w.atwiki.jp/antipiazza/pages/21.html
<p>C'era una moglie e un marito,e stava per nascergli un bambino.Il padre ando
alla porta,a vedere chi passava per via,perche il primo che sarebbe
passato,cosi sarebbe diventato il figlio.<br />
Passarono delle donne cattive,e il padre grido alla moglie:<br />
-Non farlo nascere ora,non farlo nascere ora!<br />
Passarono dei ladri e il padre ancora grido:<br />
-Non farlo nascere ora! Non farlo nascere ora!<br />
Poi passo il Re e in quel momento nacque il bambino;ed era un maschio.Allora il
Re disse che il bambino voleva prenderselo conse e allevarlo lui.Il padre e la
madre lo benedistro e glielo diedero.<br />
Per strada il Re ci ripenso.<<Perche devo allebvare uno che non
s'augurera altro che la mia morte?>>Trasse un coltello,lo pianto in gola
al bambino e li lascio in mezzo a un campo di mandorli in fiore.<br />
Ilo giorno dopo,passarono di la due mercanti.Trovarono il bambino ancora
vivo,gli fasciarono la ferita e uno d'essi lo porto a casa a sua moglie.Erano
marito e 2009-02-08T10:45:25+09:001234057525I sette messaggeri (p.80)
https://w.atwiki.jp/antipiazza/pages/20.html
<p>訳:(最後あたり授業寝てたので途中までです!至急補完よろしくです。)</p>
<p>七人の使者<br />
ディーノ・ブッツァーティ</p>
<p> 父の王国を探索しに旅立ち、日に日に町から遠ざかると、私に届くその近況はますます少なくなっていく。<br />
30を少しすぎた頃にその旅を始め、8年余り、正確に言えば8年と7ヶ月15日の絶え間ない道のりが過ぎた。私は出発にあたって、幾週間もしないうちに王国の果てにたどり着くと信じていたが、しかしずっと新しい人々や村に出会い続けていた。行く先々どこでも同じ言葉を話し、私の臣下だと述べるものばかりであった。<br />
私は時折思う、私の地理学者のコンパスは狂っていて、南の方へずっと進んでいると思っていても、私たちは実際には、町との距離を全く稼ぐことなくおそらく同じところをぐるぐる回っていたのではないかと。このことは、私たちが未だ限界の果てにたどり着いていないことを説明できるだろう。<br />
しかし、この境界など存在せず、王国はいかなる限界も持たず広がり、たとえ私が進んだとしても決して果てにはたどり着けないだろうという疑念が私をますます頻繁に苛む。<br />
もう30を過ぎた頃に、私が旅に身を置いたのは、遅過ぎたのかもしれない。友人や同族の人たちは、壮年期を無駄に使うことだと言って私の計画をあざ笑った。実際私の忠臣のほとんどは出発に同意しなかった。<br />
のんき者だったにもかかわらず―今よりもずっとそうだった!―、私は旅の間親しい人と連絡し合えるかが心配で、護衛の騎兵の中から7人よい者を選んだ。彼らは使者として仕えた。<br />
私は無意識に、7人を連れて行くことは大げさであるとさえ思っていた。時間が経つにつれて、反対にそれは馬鹿げたほど少ないと言うことに私は気づいた。彼らのうちの誰も決して病気にならず、盗賊にも出くわさず、馬を乗りつぶすこともなかったと言うのに。皆と七人は一途に、決して報われることがないと言う献身をもって私に仕えてきたのだった。<br />
彼らを簡単に区別するため、私はアルファベット順のイニシャルに従って名前を付けた。アレッサンドロ、バルトロメオ、カーイオ、ドメニコ、エットレ、フェデリコ、グレゴリオ。<br />
家から離れていることに慣れず、私は1人目、すなわちア 2008-07-21T08:25:19+09:001216596319D'inverno, nel Friuli (p.32)
https://w.atwiki.jp/antipiazza/pages/19.html
<p>雪は固くなり、道は氷の板になる冬の一番寒い日々には簡単にバランスを崩し渓谷の罠に落ちてしまう。<br />
昔も今もとりわけ谷の女性にそれは多かった。なぜなら際限のない雪解けから自由になると、彼女たちは寒い月に男たちによって製造されたキ木の品物を積んだ背負いかごを持って平原へと降りていくからだ。それはキッチン用品や、彩色されたお面、十字架や聖母像であった。<br />
ほかの村やほかの時では彫刻家、石工、刃物売り、時計職人になるべく生まれてくるように、キアーゾの谷ではだれもが木の彫り物師や彫刻家になるべく生まれてくる。<br />
平原では女が、食堂に供給し、空腹に戦い、生存に必要なあらゆるものをかごに積んで帰ってくる。(p. 32, line 15~17が抜けてますww)<br />
我々の生活は平野に頼っている。なぜなら村では牛乳と家畜の肉しか作れず、かつては羊毛と木製の機織り機で作られた重い服しかなかったからだ。平原の人々の手の人質のようなもので、我々の存在は彼らの気分に左右されていた。<br />
(冬が)道や小道が滑りやすく通れない道にするから、冬の前にどの家族も自分の備蓄庫のために、多くの備蓄を余裕を持って用意しなければならない。<br />
そのために、平野にカゴに様々なものを積んだ多くの輸送が必要だった。物置の中にふくろづめされたとうもろこし、くり、麦を一列に並べ、塩の山、ワインや油の瓶を供給する必要があった。スパイスの香りで飽和したワインの貯蔵庫の鉄のフックに一年中育てた豚のサラミやソーセージをつるさなければならない。そして、棚にはチーズの丸い塊やバターのパンも並んでいた。ほぼすべての家族が冬を乗り切り、無事に春を迎えると、予想外の病気や不運に備えて、わずかなお金を準備するために、冬が越した後、彼らは牛を売ったり夏の間牧場を保たなくてはならない。<br />
冬が北から吹く冷たい風の長い遠吠えとともに近づくと、我々は子供も大人もひそかなハッキリしない不安や恐怖に追いつかれた。なぜなら、(冬の間は)家に閉じこもって、木を切って一日中ストーブにくべるため、戒厳令のように感じられたからだ。<br /><br />
(p.34 line22, L'inverno era una・・・から不明ww)</p>
<p> </p>
<p>訳:冬、フリウーリ 2008-07-23T19:47:25+09:001216810045宿題2
https://w.atwiki.jp/antipiazza/pages/18.html
<p>1.イタリア人の96%がカトリックである。<br /><br />
Il novantasei percento degli italiani e' cattolico.</p>
<p>2.イタリアは労働の上に築かれた共和国である。<br /><br />
L'italia e' una repubblica che fondata sul lavoro.</p>
<p>3.ポー川はイタリアで一番長い。</p>
<p>Il Po e' il piu' lungo fiume in Italia.</p>
2008-07-19T13:58:19+09:001216443499