人間は蠅に似ている
 なぜ頭から
 窓ガラスを通り抜けて
 救いの光には
 到達できないのかを
 理解できない蠅に

       ―― J. A.





 日に焼けてくすんだクリーム色。ぼやけて見えるそれが、彼の脳が認識した最
初の色で、同時に目に映った全てだ。そのクリーム色の正体は、彼のいる小屋の
天井だった。より正確に言うならば、天井とおぼしき何かだった。網膜に映りこ
んだそれを天井と断じるには、あまりにも彼の視界は狭くなっていたから。

(ここは……?)

 そう頭の片隅で思った瞬間、体中が軋み、悲鳴を上げ、激痛を訴えてきたので、
彼は思わずもう一度目をつむる。そして、上瞼と下瞼が触れあったとたん、今度
はその接触による痛みに思わずもう一度目を見開く羽目になった。

(……痛い、なんてもんじゃないな、これ)

 もはや感覚すら麻痺しそうなほどの痛みに、不思議と冷静になった彼は、自分
のおかれた状況を少しだけ思い出した。彼は、七原秋也は、花澤三郎に挑んで敗
北した……いや、命をかけて花澤を説得することに、失敗したのだ。

 殴られ、蹴られ、地べたに這いつくばって、それでも何度も、何度も立ちあが
った七原の身体は、すでにぼろぼろだった。それなりに整った造作であったはず
の顔は、打撃の痕を残して赤黒くふくれあがり、特に瞼は開くことすらままなら
ない。腫れあがった肉の隙間からほんのわずかにのぞく眼球、それだけが彼の覚
醒のしるしだった。そして、その微かな動きに、読書に勤しむ藤岡が気づこうは
ずもない。辺りにはコーヒーの芳ばしい香が漂っていたが、鼻骨を折られた彼の
嗅覚は、鼻腔に溜まった血液の鉄臭さしかとらえていなかった。

 だから七原は、まだ、自分以外の人間がそばにいるとは気づかずにいる。藤岡
は音もたてずに本のページをめくっていたし、もし少しばかり紙の擦れる音がし
たとしても、花澤の攻撃によって強い衝撃を受け、損傷した七原の鼓膜ではその
程度の音を拾うことはとてもできなかっただろう。

(駄目、だった、な……)

 圧倒的な力の前に、七原は屈した。精神はまだ屈していなかったとしても、肉
体は屈した。酷く傷つき、疲弊しきって動かない身体を寝台に横たえたまま、七
原秋也は独り、自らの弱さを噛みしめた。

 いくら運動神経に自信があるとは言え、七原は一介の中学生に過ぎない。優等
生ではなかったにせよ、いわゆる不良というのとも違っていたし、日常的に暴力
に親しむような環境に身を置いたことはなかった。そんな彼が相対したのは、悪
名轟く鈴蘭男子高等学校の1年戦争を制した男だ。狂犬・加東秀吉を倒し、坊屋
春道に挑んだ花澤三郎の拳は、蹴りは、七原が受けとめるには重すぎた。

(俺は、あの人がわかってくれるまで、立ってられなかった)

 花澤に『自分に喧嘩で勝てば話を聞く』と言われたとき、七原は初め、是とは
応えなかった。暴力でこれに決着をつけるのは嫌だと思ったからだ。花澤は銃を
持っていながら撃てないようだったし、それなら自分の話を聞いて、理解してく
れる可能性だってあるだろうと思えたから、七原はできるだけ言葉でその場をや
りすごしたいと考えた。

 もちろん、正義に燃える彼とて人の子だ。相手は自分より年上のようだし体格
もいい、喧嘩で勝つのは容易でない……そう目に見えてわかっていたことも、彼
が花澤と拳を交えたくなかった理由の一つではあった。

 だが、それでも彼が花澤の言葉に応じたのは、もし勝てなかったとしても、花
澤の心の扉を開くことができるまで立ち続けていればきっと、自分の気持ちは伝
わるはずだと信じたからだ。

 ……そう、彼は信じていた。誰だって殺し合なんてしたくないに違いない、生
き残りたいに違いない、だったらきっとみんな話を聞いてくれる、そして自分の
仲間になってくれる、そうしたらみんなで生きて帰れる……そんな、夢物語を。

(結局、甘かったんだ、俺は)

 そう胸の内でこぼしたあと、己の愚かしさを悔いて、彼はゆっくりと目を閉じ
る。そして、声もあげず、ただ、とても静かに涙を流した。腫れて、元のなだら
かな隆起など何ひとつ残さずにかわりはてた彼の頬を、一筋の雫がつたう。その
水滴の緩やかな動きすら、傷ついた彼の皮膚を苛んだ。切れてめくれた唇へと流
れ込んだそれは、舌が痺れるほどに苦い。

(勇気じゃ、足りなかった……全然、足りなかった)

 今、彼の頬を流れる涙は、七原秋也が知った、初めての本当の意味での挫折の
味だった。

 ……あのとき、彼の目の前にひとつの開かない扉があった。それは内側から鍵
のかかった重い扉だ。その鍵がどこにあるのか、彼にはわからなかった。そもそ
も、外側から開けるための鍵が存在しているのかすら、彼は知らなかったのだ。

 だが、彼は扉をどうしても開けたかった。向こうにいる人間と、手を繋ぎたか
ったから。初めて会う相手だけれど、どんな人なのかも知らないけれど、言葉を
尽くして、心を尽くしてこの想いを伝えれば、誰だってきっとわかってくれると
思ったから。閉ざされた扉の向こうにいた人を、彼は信じたから。

 そう。信じたから、全力で扉を叩いた。本当に全力だった。身の内に存在する
限りの、全ての力を使って叩いた。

 そして彼は、開かない扉の前に崩れ落ちた。彼の幼い拳が、扉に小さな皹を入
れたことも知らずに。彼は花澤の力の前に、思いだけでは、勇気だけでは、心だ
けでは開かない扉があることを知ったのだ。それは少年を大人にする、苦い苦い
挫折であった。

(……勇気だけじゃ、何もできない。気持ちだけじゃ、足りないんだ)

 挫折を知らぬ少年の愚は時に、全てを凌駕する武器となるものだ。青いからこ
その蛮勇は、その色を失った者たちを魅了する。七原の与り知らぬことではあっ
たが、花澤とて、彼の青さに何も感ずることなく彼を殴ったわけではない。花澤
の心に、言い得ぬ焦燥を植えつけた七原はしかし、今まさにその青さを失おうと
していた。支給品を全て捨てた彼の、なけなしの青い武器が人知れず錆びつつあ
ったそのとき、傷んだ鼓膜を揺すぶったのは、何の感動もない平坦な声。

「ああ、目が覚めたんですね」

その声に七原は、思考の海から現実へと引き戻された。この場所に自分以外の
人間がいたことを知って、驚いて目を開ければ、自分の顔をのぞき込んでくる男
(……だと七原は認識した)と視線がかち合う。せめて寝台から起き上がろうと、
痛む身体に鞭を打って腕に力を入れる。

「あの、えと、あなた、ここ……」

 身体を起こしながら彼は、自分のいる場所の確認と相手の名前を聞こうとして
口を開いた。しかし、舌は滑らかに動かず、唇も震わせるのが精一杯だ。まとも
に言葉の出ない七原の意図を、それでも正確に読みとった藤岡は答えた。

「桜蘭高校の藤岡ハルヒです。ここの場所はあんまり……誰かの家だったとこみ
たいですけど」
「……ふじ、おか、さん」
「藤岡です……あ、顔腫れてて言いにくいのかな」
「すい、ません、あの、おれを、ここ、はこんで、くれたの、あなた、ですか?」
「いいえ、あなたを運んだのは別の人です」
「え、じゃあ、そのひと、は、いったい……?」
「運んだのは花澤くんって人です、鈴蘭高校の」
「は、なざ、わ……」

 七原は、名前を聞いても、それが自分を殴った相手であることにすぐには気づ
かなかった。なぜなら、花澤と対峙しているときに喋っていたのは彼ばかりで、
名乗ったのも彼だけだったからだ。だが、状況からすると、殴られて行き倒れて
いる人間を抱えてここまで連れてきて、ベッドに寝かせていくだけの部外者とい
うのはどうも考えにくい。なので、彼は自分が相対したあの男が花澤なのだろう、
と理解した。

(あの人、何で俺のこと……)

 ここまで殴ったあと、自分をこんなところに連れてきた花澤の行動が解せなく
て、七原は頭を悩ませる。以前ならば単純に、花澤は結局自分を殺せなかった、
やっぱり殺し合いになんか乗っていないんだ……と思い込めたところだっただろ
うが、打ちのめされた彼はさすがにそこまで楽観できなかった。もやもやとした
気持ちを抱えて眉根を寄せた七原に、藤岡が声をかける。

「何にもありませんけど、ってここ人の家ですね……まあいいや、何か飲みます
か?」
「あ、すいま、せん……みず、を」
「じゃあ、さっき沸かしたのがあるから……もう冷めてると思うので」

 そう言いながら藤岡は食器棚(だったらしいもの)へと足を向け、古びた湯の
みをとり出すと、備蓄されていた水を使って、流しで洗った。布巾がないのでよ
く振って水を切ると、カセットコンロに乗っていた薬缶から冷めた湯をそれに注
いで、彼に手渡した。

「どうぞ」
「あ、どう、も」

 湯のみを受けとった七原は、そっとそれに口をつける。どこもかしこも傷だら
けなので、ぬるい湯冷ましでもひどく染みた。それでも、喉を潤す水分は快い。

「すいません、あなたのお名前聞いてもいいですか?」

 ゆっくりと、だがひたすら飲み続ける彼に、また藤岡が話しかける。血が溜ま
って粘りついた口の中が洗われ、少し話しやすくなった七原は、いくらかスムー
ズに言葉を紡いだ。

「あ、俺は城岩中の、七原秋也です」
「七原さんですか? ああ、あの教室の時の……」
「そうです」

 彼の名を耳にした藤岡は、この殺し合いの始まりが告げられた教室での出来事
を思い出していた。すっかり容貌が変わってしまっていたから、あの時の人物だ
とは今まで認識できていなかったのだが、彼の声は確かにこんな感じだった、と
彼女は思い返す。

 だが、いや、だとすれば、自分がこれから彼に頼もうとしていることは、彼に
とって酷なことであるかもしれない、そう彼女は思った。親代わりの施設の先生
を暴行され、目の前で友人が殺された彼にとって、殺人は間違いなく忌避すべき
ものであるだろう。

 けれども、藤岡はあえて自分の望みを口にすることにした。七原が傷つくかも
しれない、そこまでわかった上で、それでもなお、無神経であることを選んだ。

「あのう、七原さん」
「はい?」
「目が覚めたばっかりのところにこんなこと頼むのも悪いなあとは思うんですけ
ど、ちょっと……お願いがあるんです」

 そう言って、藤岡は様子を伺うようにちらりと七原を見た。何とはなしに不穏
な空気を感じた彼だったが、満身創痍で寝ていた自分に襲いかかることもなく、
目覚めた今、こうして水まで用意してくれた藤岡の頼みをむげにはできない。と
りあえず話を聞いてみようと、藤岡の言葉を繰り返すことで先を促す。

「……お願い、ですか?」
「うーんと、もし動けるようだったら、なんですが……」
「はい」
「申し訳ないんですけど、ひと思いにサクッと殺してもらえませんか?」
「……え?」
「本当は花澤くんに頼んだんですけど、彼の仲間にやってもらったほうがいいっ
て言われまして、その人たちに会うまで一緒に行動してたんですよ。でも花澤く
ん、しばらく帰ってこないみたいなんです。待つのも面倒だけど、自殺して地獄
に行くのは避けたいんですよね。さっさと殺してもらえれば別にどなたさまにや
っていただくんでもこちらは構わないんで、お願いできないかなと」
「え、や、ちょっ……」
「あ、でもあんまり痛くないほうがありがたいんです、やっぱり苦しまないで死
にたいなーと思うので」
「な……」

 藤岡の口からこぼれたのが想像を絶する言葉だったので、七原の頭は真っ白に
なった。誰もが(その選ぶ道は違えど)生き残りたいと思っているだろうこの場
所で、まさか自ら死を望む人間がいようとは、彼は思いもしなかったのだ。予期
せぬ『お願い』に、七原は驚愕する。

(何言ってるんだ、この人……!? 自分から殺してくれって、何だよそれ、そ
んなのおかしいよ、どうしてそんな簡単に死ぬとか言えるんだよ?! なんで、
なんでそんなに……!)

 藤岡の考えを理解できず、むしろ激しい怒りすら覚えている七原だったが、藤
岡の『どうせ生き残れないんだし苦しまないように死にたい』という考え自体は、
実のところ、さほど突飛なものではない。人殺しになりたくもないし惨殺される
のも避けたい、仲間も頼りになるとは思えない……ならばせめて痛くない方法で
死んでしまおう、というのは、こういった状況下では十分にありうる思考の流れ
だと言えよう。

 ただし、今回のようなチーム制とも言うべき戦闘の場面では、他の生き残りた
い仲間にとっては、一人の死が重大な損失になる。その事実を理解することなく
この世を去るのと、理解した上であえてそうするのでは、大きな差があるだろう。
そしてこの場合の藤岡は後者だった。死を選ぶことの身勝手さなど、よくよく理
解した上で、彼女はそれを望んだ。

 ただ、唯一風変わりなのは、『苦しまずに死ぬ』ために他人の手を借りようと
いう、その部分であろう。

 藤岡は、殺すくらいなら死んだほうがいいと自ら言っておきながら、相手が自
分と同様の考えを持っているという可能性や、同じではないにしても、できるだ
け人を殺したくないと考えている可能性には、目をつぶっていた。

 ……本当は、怖かったのだ。藤岡は、本能で、死というものを恐れていた。確
かに彼女は気丈で、物事に動じない人間ではあった。とはいえ、藤岡ハルヒは、
まだ高校一年生の、単なる女生徒に過ぎない。そんな彼女は、死を選ぶと決意し
てなお、本能的な部分で恐れていた。愛しい母を奪った死神の鎌を、自分で自分
の首筋に突きつけることはできなかったから、人の手を借りようなどと彼女は考
えたのだ。いささか鈍いところのある彼女らしく、そんな自分の本当の気持ちに
は、微塵も気づいていなかったのだけれど。

 そうやって藤岡は、自分の思考の不自然さに気づきもせず、他人の手を汚そう
としていた。目の前にいる、ぼこぼこに膨れあがった顔をした男の、深い深い憤
りには気づかずに。

「……ふざけんな」

 七原は寝台から足を下ろす。縁に座ったまま、右腕をありったけの背筋の力で
後ろに引いた。藤岡の左頬に向かって、かたい拳が飛びだす。かたく、かたく握
りしめた拳。軋む身体をおして、力の限り彼は拳を突き出した。まるで他人事の
ように、藤岡はその拳の動きを見ている。クリーンヒット。彼女は、衝撃で座っ
ていた椅子から床へと投げ出された。

 このとき、七原秋也は、人生で初めて女性を本気で殴った。相手が女性だとは
知らなかったけれど。殴った勢いで七原は立ちあがる。床に崩れたままの藤岡を
見下ろしながら、浅い息を吐いた。

「あんた、あんた何でそんな……そんな身勝手なこと言えるんだよ!」
「……、は?」
「何で死ぬなんて簡単に言えるんだ、あんたが死んだら悲しいやつ、絶対いるだ
ろ! 生きろよ! 何でそういうやつのこと考えないんだよ! ふざけんなよ!」

 激した七原を見上げながら、殴られた頬をさすって藤岡は無感動に言葉を紡ぐ。

「……考えなかったわけじゃ、ないですよ」
「じゃあ、何で……!」
「モリ先輩は強いし、れんげさんはお客様ですから、出会ったらみんなが必ず守
るはずです。鏡夜先輩もなんだかんだ言って環先輩をきっと探します。自分があ
そこに入る前からあの人たちは繋がってる。所詮自分は借金を返すためにあそこ
に入ったんですし、死んだら一番最初に忘れてもらえると思うんですよね」
「な……」
「まあ、正直、ウチの人たちはとても殺しなんてできそうにないですから……自
分がいてもいなくても、優勝できそうな気は全然しないんですけど」
「……そ、んなの、わかんないだろ」
「桜蘭が優勝するかもしれないってことですか? もちろん可能性ならあるんで
しょうけど、低いと思いますよ」
「それでもそいつらが生き残ろうとしてたらどうすんだよ……あんたの仲間はど
うなるんだよ! あんたが死んだら、それだけで……っ」
「……それだけで、ウチの人たちの生き残れる確率が減る、と?」
「……そう、だよ」

 言いながら、七原は感じていた。もはや、簡単に夢物語を語ることのできない
自分を痛感していた。挫折を知った彼は、すでにこの殺し合いのルールに則って
藤岡を説得しようとしている。みんなで生き残ろう、力を合わせればきっとどう
にかなる、そんな青くて愚かで、だが強い言葉はまだ、胸の内のどこかに残って
いるのに……口に出すだけの勇気が、七原の中から消え失せてしまっていた。

「うーん、あんまりそうは思えないんですよね。闘ったりするならやっぱり、自
分なんかいらないんじゃないかなー、と。運動苦手ですしね。れんげさんも向い
てなさそうですけど、だったら余計に足手まといを増やさないように早めに死ん
でおくってのもありかな、っていう気がしたんです。邪魔になる人間は二人もい
らないでしょう?」
「けど、俺……、俺だったら、足手まといでも、何でも、生きててくれたほうが
いい」
「……もともと低い可能性が、自分のせいでさらに下がって、ほとんどなくなる
としても、ですか」

 そうこぼした藤岡に、七原は答える。腹の底から、言葉をしぼり出すように。

「可能性なんか、ないってわかってたって、信じたい、ことだって、あるんだ」
「……」
「信じたいことだって、あるだろ……!」

 自らに言い聞かせるように、彼は叫んだ。もっとも、七原秋也が信じたいのは、
『自分の仲間だけ』が生き残れる可能性ではなく、『全ての人間が生き残れる可
能性』であったけれど。

 口にできない青い夢は、それでも未だ七原の中で燻っている。挫折の苦い涙す
ら、完全に鎮火させることのできなかったその炎が、わずかにその姿をのぞかせ
ていた。そんな七原の苦悩など知らぬ藤岡は、表情を変えずにぽつりとこぼす。

「……自分は弁護士になりたかったんです」
「……へ?」
「奨学金をとって、大学に行って。死んだ母と同じように。でも、七原さん、あ
なただったら……あなただったら、人を殺して生き残った弁護士に、依頼なんて
しますか?」
「……っ、けど、殺さないで生き残る方法だってあるかもしれないだろ!」
「確かに、殺さないで、生き残れる可能性だってあるかもしれない。もしかした
ら運良く他の学校の人たちが潰しあってくれて、ウチが残る可能性だって全くな
いとは言えません。でも、ここで生き残った人間が、ひとりも殺してないだなん
て、誰が信じます?」
「あ……」
「テレビで顔流されて、家に帰って、それで、前みたいに暮らせるわけないです
よ。政府のエラい人に褒めてもらえたって、結局、周りの普通の人から見たらた
だの人殺しなのに。そんなの、父さんにだってきっと、迷惑かけちゃいます」
「……」
「だけど、あなたは……あなたはそれでも生き残るって、そう思ってるんですよ
ね? だったら、殺して下さい。あなたが生き残る確率、上がりますよ」

 そう言って藤岡は七原の目を見た。その大きな瞳に見据えられて、七原はまた、
自分の考えの浅さを知る。みんなで生き残りたい、そう彼は思っていたけれど、
みんなで生き残ったとして、どこへ帰るというのだろう? その問いに答えなど
あるはずもない。迎える人など、ありはしないのだ。状況は絶望的だった。

(そうだ……殺し合いに優勝したってそうなのに、みんなで生き残るってなった
らもっと大変じゃないか。プログラムをぶっ壊して、生き残って、それからどう
なる? ここから脱出できたって、一生追われる身になるんだ)

 初めてその事実に気づいた七原は、背筋に冷たいものが流れるのを感じた。プ
ログラムを破壊して、脱出しようと持ちかけること……それは、この先一生追わ
れる身になる覚悟を要求することでもあるのだと、彼は今、やっと理解した。

(俺は、そんな重大なことを、赤の他人に押しつけようとしてたのか……!)

 藤岡を身勝手と罵った七原は、ついに自分自身の身勝手さに気づいたのだ。彼
の心の中の儚く美しいものが、パリン、と華奢な音をたてて砕け散る。七原秋也
の幼く愚かな勇気は、このとき、完全に死んでしまった。

「……七原さん、お願いします」

 顔面蒼白の七原に、藤岡は無情にも言いつのる。眉一つ動かすことなく。その
瞳に促されるように、七原は彼女に近づいてゆき、首筋に手を伸ばした。

 細い、たよりない、白い首。指先に力をこめれば、きっと彼は藤岡を殺せてし
まう。彼女の望む、苦しまない死に方ではないかもしれないけれど。

 七原の親指と人さし指に力が入る。皮膚の下で血管が脈打っているのが彼には
わかった。少しずつ、少しずつ、力を強めていく。白い首筋にめり込む指先も、
力の入れすぎで白くなる。ただ、そのめり込んでいる指先の色だけを彼は見てい
た。もうこのまま、殺してしまおうか、そう考えた七原がもう片方の手を添えよ
うとしたとき、ケホッ、と藤岡が咳をした。苦しそうに、何度も。その音にハッ
として、七原の視線が彼女の顔へと持ち上がる。涙を溜めて、苦しげに眉根を寄
せ、やや赤黒くなった顔がそこにはあった。

(……俺は、俺は一体何を!)

 すぐさま彼は藤岡の首筋から手をはなす。急に喉に空気が通るようになった彼
女は、先ほどよりも酷く咳きこんだ。咳の合間にヒュウヒュウと空気の音がする。

「ごめん、……ごめんな」

 謝罪する七原に、苦しげな声で藤岡は答える。

「い、いい、んです……たの、だの、こっち、です、から」

 そう言ってほんのわずかに口元に笑みを浮かべた彼女を見ながら、何というこ
とをしてしまったのだろう、と七原は思った。そして同時に、何ということをさ
せるのだ、とも。

「なあ……、藤岡、さん」

 七原は、一音一音を噛みしめるように、彼女の名前を紡いだ。それに藤岡は小
さく返事をする。

「……は、い」
「あんた、殺してくれって言うけど……人を殺すなんて、簡単なことじゃないん
だ、俺なんか、こんなに殴られても、生きてるだろ……あの人は、ここまで俺を
殴れるのに、俺を撃てなかったんだ」
「……」
「人を殺すって、それくらい難しいんだ、本当は……本当は、それくらい難しく
なきゃ、いけないんだ」
「……七原、さ」
「難しくなきゃ、いけないんだよ……!」

 血を吐くように叫んだ彼は、両手で顔を覆って床にへたり込んだ。その両目から
は、とめどなく涙があふれている。藤岡は、絞められた首のあたりを押さえたまま、
震える七原を呆然と見ていたが、しばらくして口を開いた。

「七原、さん」
「……」
「すみま、せ、でした」
「……っ」
「他人を、殺すって、七原さ、の言う通り、簡単な、ことじゃ、ない、です、よね、
無理、言、て、ごめ、なさい」
「いや……、俺も、ごめん」

 顔をあげた七原と、藤岡の視線が絡む。二人はそのまま、しばし微動だにせずに
いた。戸惑いながら張りつめた空気が、その場を包む。結局、先に動いたのは藤岡
だった。彼女は呼吸を整えると、テーブルにつかまって立ちあがり、七原の湯のみ
に残っていた湯冷ましを飲みほして、言った。

「……七原さん、コーヒー、飲みますか」
「え……」
「さっき、インスタントコーヒー見つけたんです」

 ほら、と歪んだ笑顔を浮かべながら、彼女はコーヒーの瓶を見せる。突然の話題
転換にいささか拍子抜けした七原だったが、膠着した空気を破ろうとする藤岡の気
持ちも少しわかる気がして、それに縦に首を振った。







 七原秋也は歩いていた。冷たい風の吹きすさぶ中を。体中が悲鳴をあげているけ
れど、それでも足を前に出す。まるで、何かを振り切るように。はれあがった瞼は
未だ、視界を狭めている。痛みをこらえながら、彼はただ、歩いた。小屋から遠ざ
かるために。

 藤岡ハルヒのいれたコーヒーの味が、まだ舌には残っている。芳ばしい苦み。悲
しいけれど、どこか優しい味だった。それを思い返すように、一瞬、目をつぶる。
もう二度と味わえないかもしれないものだったから、味や香りの記憶の一つ一つを
大切にしたかった。せめて、いつまでも忘れずにいられるように。

 あのあと藤岡は、七原と自分のためにコーヒーをいれ、それを会話もなく飲み終
えたあと、デイパックから小さな手鏡を出した。それは彼女の支給品だった。

「何かの役には立つかもしれませんから」

 そう言って手鏡を七原に渡したあと、彼女はとても静かに、この小屋を出ていく
よう彼に告げた。そのときの藤岡の目が、何の迷いもなく澄み切っていたから、彼
はそれを受け入れた。何となく、彼女がどうしようとしているのかはわかったけれ
ど、止める気にはなれなかった。それで良かったのかどうか、まだ彼の中で答えは
出ていない。この先、出るのかもわからずじまいだ。

 彼は、止めないことが正しいことだとは思っていない。だが、止めることが正し
いことだと言えるだけの青さも、勇気も……、彼が彼であるために必要であったろ
う全てのものを、すでに七原は手放していた。もはや彼は、かつての七原秋也では
あり得なかった。

(……これから、どうしたらいいんだろうな)

 寄る辺のない思いで彼は歩く。ポケットに突っ込まれたままの左手には藤岡の手
鏡が、右手には小屋にあった古い果物ナイフが握られていた。唯一の武器であり、
防具であった美しい愚かしさを失ってしまった彼は、自分を守るためにせめて、ほ
んの小さな刃物でもいいから、持っていたかったのだ。それが、どれほど無意味な
代物だったとしても。

 刃こぼれし、錆びたそれの柄を握りながら、目的もなく彼は歩く。その道の先に
何があるのかは、まだ、誰も知らない。



【F-2の道を北西へ/1日目-昼】

【七原秋也@バトル・ロワイアル】
[状態]:疲労大 全身を負傷 激しい失意
[装備]:古い果物ナイフ(刃こぼれ・錆)、手鏡
[思考]
基本:これからどうすべきか考えあぐねている
1:俺は一体、これからどうすればいいんだ……
2:あの小屋に残って藤岡を止めるべきだったかもしれない
3:本当は、みんなでプログラムから脱出したい、でも……

備考:
みんなで力を合わせてプログラムを脱出しようと考えていましたが、
それが非常に困難であるという事実に気づき、失意のどん底にいます。







 藤岡ハルヒは、笑っていた。

 ひとり小屋に残されると、美しいけれど目玉が飛び出るほど高いカップや、無駄
に豪華で高価な衣装が急に思い出されて、なぜか笑えたのだ。悲しくて、愛しくて、
彼女はちいさく、ちいさく笑った。

 七原に小屋を去るよう頼んだのは、全て終わらせるためだった。自分の手で、自
分の人生に幕を引くことを、彼女は望んだ。誰かの手を煩わせることなく、ひとり
で終わるのが、正しいやり方なのだと思ったから。

『……人を殺すなんて、簡単なことじゃないんだ』

 七原のセリフは重かった。それはあまりにも、あまりにも真実だった。他人を殺
すなんて、容易なことではない。そんなことは自分だってしたくないのだから、当
然、他人にさせてはいけないだろう……藤岡はそう思った。

(ほんとは怖かったんだ、きっと)

 自分で死ぬのは恐ろしい……ついさっきまで気づいていなかったけれど、彼女は
死を恐れていた自分を知った。他人でなくとも、自分という人間を殺すことに躊躇
はある。それに、刃物も七原が持っていったナイフ程度しかないこの場所で、自殺
する方法なんてすぐには思いつかなかった。支給されたアーミーナイフは花澤に渡
したままだし、もうひとつの支給品の手鏡も、七原にやってしまった。外に出て、
島の端まで歩いて海に身を投げようかとも思ったが、それをしている最中に怖じ気
づく自分がいるような気がしてやめた。そんな彼女はふと、とても簡単な方法を思
いついてしまう。

(火を、つければ……)

 火。それを扱う力を得たことで、人は文化的な動物に進化したのだという。だが、
人がそれを自らおこし、使うようになってどれだけの時間が経っても、それに対す
る畏怖はなくなることがない。ひとつ扱い方を間違えただけであっさりと命を落と
すのが炎だ。大きくなればそれは、山だって街だって呑みこんでしまう。

(きっとすごく熱いし、痛いだろうけど……ここだと他に何もなさそうだし、しょ
うがないか)

 自殺は地獄に行くと聞くけれど、他人を殺しても地獄には行くんだろうし、他人
に自分を殺させるのも、何だか酷い罪を犯すことのように藤岡には思えた。かとい
って、このままだらだらと生きて、ホスト部の仲間たちの足手まといになることも
本意ではなかった。父より先に死ぬなんて親不孝だけれど、人殺しになった自分で
も、きっと外聞も気にせずに抱きしめてしまうのだろう父を思えば、やはり死を選
ぶべきであるようにも感じられた。

 ……そうして彼女は、ガスコンロに火をつけた。デイパックの中の地図や名簿を
ぐしゃりと捻って先端に火を移すと、すぐにベッドへと放る。布団やシーツに引火
して、たちまち炎は大きくなった。それからガスコンロを窓辺のカーテンの下へと
移動し、その布が燃え上がるのを待って、彼女は椅子に腰掛けた。まだ読みかけだ
った本を手にとる。

(どうせこれも燃えるだろうけど、読めるとこまで読んどこうかな)

 彼女はページをめくる。外国の詩人が連ねた言葉。ここの住人は少しばかり反政
府的だったのかもしれない。読みなれぬ言葉の羅列の横に、持ち主が書き込んだの
だろう、鉛筆書きの訳文があった。

(ああ、きっと……蠅なんだ)

 小さく笑いながら、藤岡は思い出していた。愛しい、悲しい、蠅たちのことを。
煙に巻かれてひどく咳をしながら、喉の奥が焼けただれるような感覚を覚えて涙し
たとき、なぜか浮かんだのは父と……あの、金色の髪をした男の泣き顔だった。

「……たまき、せんぱ、い」

 愛すべき美しい蠅の名を呼びながら、彼女は意識を失う。その胸にあった淡い恋
情に、気づきもしないまま。

(たまき、せんぱい、なかないで、)

 小屋を呑みこんだ炎の中、ガスコンロのボンベが爆発したのは、それからすぐの
ことだった。






【藤岡ハルヒ@桜蘭高校ホスト部 死亡確認】
【残り31人】





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最終更新:2009年04月25日 01:10