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 周防美琴は川田章吾と二人、島の南東の道を歩いていた。憔悴した川田の手を
引きながら、素早い足さばきで進んでいく。しばらくの間、川田はそれにつられ
るように歩いていた。が、目覚めてからずっと彼を苛んでいた鈍い頭痛に加え、
喉元からせり上がる強い吐き気に襲われて、その歩みはフッと止まる。

「おい、川田?」

 その場にしゃがみ込み、ひどく咳きこみながら胃液を吐く川田の様子に周防は
不安を覚えた。川田は明らかに普通の状態ではない。彼の混乱は、慶子という恋
人を見失ったショックによる憔悴だとばかり思っていた周防だったが、それだけ
でこんなふうに嘔吐したりするだろうか、と彼女は訝しみ始める。

「……お前、もしかして身体どっかおかしいのか?」

 その言葉に、川田は途切れ途切れに答える。

「あたま、が痛い……ずっと、目が、覚めてから」

 その返答に、まず風邪による発熱を疑った周防は川田の額にふれたが、どうも
熱があるようには思えなかった。そこで、どこか打ったのかと思って川田の頭部
を撫でてみた彼女は、川田の後頭部がひどく腫れているのに気づく。

「何だこれ! すごい腫れてる!」
「……っ」
「川田、ひょっとして何かで頭打ったとか、そういうのないか?」
「……わから、ない」

 こんなに腫れるほど頭を打っておいてわからない、というのも奇妙な話だと周
防は思ったが、そのおかしさを問いただすには川田の状態が悪すぎる。血の気の
引いた顔、繰り返される嘔吐、そしてどこかで打ったかもしれない後頭部の頭痛。
周防の目から見て、川田の容態は楽観できるものではない。

 そのとき、ふと彼女が思い至ったのは脳震盪の可能性だ。拳法の使い手である
彼女にとって、その病体は記憶にあるものだった。頭を強く打った人間が、頭痛
や吐き気に襲われるさまを見た覚えがあったのだ。
 ちなみに、周防の推測通り川田は後頭部を強く打っており、重度の脳震盪によ
る吐き気と頭痛に苛まれ、なおかつ記憶障害にも陥っていた。その大元の原因を
作ったのが、自分が伊藤と対峙したときに飛んでいったあの金属バットであり、
しかもそれが今や川田の武器となっていることなど、周防は知る由もなかったが。

(……脳震盪だとしたら、頭を動かすのはマズいよな。でも、こんなとこで寝か
すわけにもいかないし)

 周防はデイパックから地図をとり出す。どこか近くに、身体を休められるよう
な場所がないかと探してみると、地図上のさほど離れていない場所に診療所があ
った。ここならいいだろう、と彼女は川田に声をかける。

「川田、吐き気がおさまったらさ、ちょっと場所動いてから休もうぜ。少し行け
ば診療所があるから、そこまで我慢な。おぶってってやりたいけど、ちょっと無
理そうだし……肩くらいなら貸せるからさ、あんま頭動かさないよーに、気をつ
けて歩けよ」
「……ああ、悪、い」

 そして川田がひとしきり吐き終わるのを待って、二人は診療所に向けて歩き出
した。ゆっくりと、静かに。
 1時間と少しあと、彼らがその場所に着いたとき、太陽は南中しかけていた。





 診療所に着くと、周防は川田を簡素な寝台にそっと寝かせてやった。歩いてく
る間にだいぶ落ち着いたのか、ふるまいにも少し余裕が見られる川田に、周防は
安心して声をかける。

「多分、脳震盪だと思うんだ。頭ぶつけたの覚えてないって言うけど、コブみた
いになってるし、頭が痛くて吐くっていったらそれっぽいだろ?」
「ああ……」
「きっと、頭打った衝撃でさ、そのときのこととか忘れてるんじゃないか?」
「かも、な……悪い、頭、冷やしたい」
「え、脳震盪って冷やしていいんだっけ?」
「そのほうが、いい」
「ふーん、詳しいなお前」
「……オヤジが、医者だ」
「へえ、そっか」

 言われるままに、周防は近くにある棚を探す。どう見ても氷はなさそうだった
ので、タオルを探して水に濡らすことにしたのだ。幸い季節は冬、暖房もない場
所で見つかる水はすべて冷たいはずだった。
 やがて、診療用の棚のから周防はタオルを見つける。それを浸す水も探したが、
ほとんど手に入らなかった。水が溜まっていたはずのタンクは倒れていて、底に
わずかな量が残っているのみだったのだ。その最後の水を含ませたタオルを、周
防は川田の後頭部にあててやる。

「すまない」
「いーよ、気にすんな……落ち着いたらケイコさん探しにいこうぜ」
「ああ……そうだな」

 そう言って少し微笑んだ川田は、ずいぶんと大人びて見えて、周防はどきりと
した。こうして落ち着いてみれば、周防の目に映る川田は、そう頼りない男では
ない。きっと、頭を打ったことで調子を崩していたのだろう、と周防は思った。

 とはいえ、実のところ、川田はまだ本来の状態まで回復していない。表面上は
落ち着いたように見えるけれども。
 そもそも彼が周防の存在を普通に受け入れていること自体がおかしいのだ。彼
はまだ、この場所が『慶子と共に参加しているプログラム』の会場だと思ってい
る。だとすれば、この島の中には川田、そして慶子と『同じクラス』の『中学3
年生』だけしか存在し得ない。にもかかわらず、この島の中で突然出会った見知
らぬ女・周防美琴を、川田は当たり前のように受け入れてしまっている。本当は
すでに破綻しているはずの川田の記憶は、彼自身がまだそれに気づいていないが
ゆえに、おかしな形で保たれていた。

 ……そして正午の放送が、その危うい均衡を破る時が来る。





『——皆さん、こんにちは』

 下品な男の声が電波に乗って流れる。それに叩き起こされるように、伊藤真司
は目を醒ました。周防美琴が民家を去ったあと、身体のダメージと激しい疲労か
ら、伊藤は深い眠りに落ちていたのだ。幸いにも、誰も彼の寝ている家の扉を開
けはしなかったので、襲われずにすんだのである。

『担任の坂持でーす。ちょうど、今、正午になりましたー』

 初めは煩いな、などと思って目を擦っていた伊藤だったが、『正午』という言
葉に完全覚醒した。自分が眠っていたらしい時間の長さに驚いたと同時に、『正
午』と『放送』というキーワードで状況に気づいたのだ。慌てて荷物から地図と
名簿と筆記具をとり出す。必死で発表された禁止エリアに印をつけ終わって、次
に読み上げられはじめた名前の多さに伊藤は愕然とした。

(……クソッ、もうこんなに死んじまったって言うのかよ!)

 いくつもの名前の横に印をつけながら、伊藤は言い知れない怒りに捕われてい
た。そして、その怒りは一つの名前を聞いた瞬間、深い悲しみをともなうものに
なる。

『軟葉高校、田中良くん』

 その名前を耳にした瞬間、一瞬頭が真っ白になった伊藤は、動きを止めた。そ
して数瞬の後、渦巻いた感情の激流に耐えきれずに、涙をこぼす。名簿に染込む
生暖かい水滴は、田中の名前を滲ませる。それがまたいっそう、伊藤にとっては
辛かった。とてつもない怒りと悲しみとが、彼を同時に襲う。

 田中良が深く暗い死の淵をのぞいたのは、この戦いの幕の開いてさほど時の経
たぬ朝のことだ。そのころ、伊藤はまだ誰とも出会っておらず、島の中を彷徨っ
ていた。そして、誰に救われることもなく田中は淵へと突き落とされることにな
る。
 その場に駆けつけられなかった伊藤に非などない。島の中に散り散りに配され
目覚めた、その場所が田中の近くでなかったことなど、伊藤の責任ではあり得な
いのだから。

 それでも伊藤真司は、何もできなかった自分自身を責めた。田中の命が危険に
晒されていたそのとき、自分はどうしていただろう、そう伊藤は思う。ふらふら
と島を歩いていただけか、周防と戦っていたか、それとももう民家で寝ていたか。
周防と戦ったことが間違いだとは思わないし、自分を民家に運んだ周防への恨み
もないが、『自分がそばにいれば田中を助けることができたかもしれない』とい
う思いは、如何ともしがたい。

 言葉ひとつなく、伊藤は固めた拳を壁に叩きつけた。建材の痛んだ壁はバキリ、
と音をたて、容易くそれに突き破られる。割れた壁板が拳に刺さったが、その痛
みを感じる余裕など伊藤にはなかった。卑しい男が電波越しに叫ぶ言葉すら、耳
には入らない。

「チ、クショ……っ、ふ、ざけんな……!」

 ……何かが、いや、何もかもが、許せなかった。





 坂持の声がスピーカーから吐き出されると、周防はあわてて地図と名簿を荷物
からとり出した。身体を起こそうとした川田を制して、自分がやっておくから休
んでいろ、と伝えることも忘れずに。
 そうしてまず、地図の禁止エリアに印をつけ終えてしまうと、今度は名簿に目
をやる。死者として読み上げられた最初の名前が、播磨と塚本のものだったこと
に愕然としながらも、彼女は取り乱さなかった。ただ、唇を強く噛んで耐えなが
ら、続く放送に耳をかたむける。

 友人たちの名を耳にしても、周防は泣かなかった。わめかなかった。理不尽だ、
と怒りもしなかった。なぜなら、彼女もまた、加害者であったからだ。

 ……周防美琴は自らの手で、人を、殺してしまった。人を、殺せてしまった。
だからこそ、理解できた。他の誰かが人を殺してしまうことも、殺せてしまうこ
とも。

 塚本と播磨の死を知り、数人の名前が読み上げられたそのあと、加藤乙女とい
う名前を耳にして、周防はそれが自分の殺した女の名前だとすぐに気づいた。胸
を締めつけられるような苦しさが、彼女を襲う。
 周防は加藤を優しい顔で騙して、金属バットで殴り殺した。バットのグリップ
まで伝わってきた、陥没する頭蓋骨の感触を、皹が入り折れる骨の感触を、周防
は忘れることができない。そしておそらく、忘れてはいけないのだろう、とも思
った。

 後悔はしない。考えすぎて殺すことを躊躇する前に、力の限りバットを振り下
ろしたことを、周防は決して悔やみはしない。それをしてしまったら、彼女はき
っと前には進めなくなるだろう。
 仲間たちとともに生き残るために、加藤の命を奪った自分を周防は否定しない。
その代わり、加藤や加藤の仲間にどれだけ恨まれても憎まれても、甘んじて受け
とめるつもりだった。播磨や塚本の名前を耳にしたとき、自分の胸に訪れた冷た
く深い悲しみは、きっと加藤の友の胸にも訪れているはずだ、と思ったから。

 人を殺す、その行為の痛みを、醜さを、決して忘れないでおこう、と周防は誓
う。そんなことが贖罪になるなどとは思わない。だが、せめてもの償いとしてそ
うあるべきだ、と思った。一方的に伊藤を殴りつけ、痛めつけながら流した涙の
苦さは、周防にそういう生き方を選ばせた。

(……あの子にも、あの子の友達にも許してもらおうなんて思わない。でも、私
はもう、誰も殺さないって決めたんだ)

 殺す、そして殺される。その両方の可能性が全ての人間にあるのだと理解でき
たからといって、その事実も痛みも軽くなりはしない。だが周防美琴は、泣いて
わめいて受け入れを拒否するほど、身勝手にはなれなかった。自分の殺した加藤
乙女の存在が、それをさせなかった。

 ……そう、周防美琴は、他人を殺したからこそ、友人の死の重さに耐えること
ができたのだ。まったく、これほどの皮肉があるだろうか。





 あの放送を聞いてからしばらくして、伊藤真司は扉を開いた。彼が数時間のあ
いだをそこで過ごした、古びた民家の扉を。そして彼は苦々しく一歩を踏み出し、
冬の弱い陽光にその身を晒した。吹きつける風の冷たさに少しばかり眉をひそめ
たあと、伊藤は、黒土が剥き出しの道を一足ごとに強く踏みしめるように歩き出
す。

 周防の攻撃によって受けたダメージは、まだ伊藤の身体に残っている。といっ
ても、伊藤は抜群の打たれ強さを誇る男だ。これまでにくぐり抜けた喧嘩におい
ても、数えきれないほど殴られてなお、立ちあがってきた。殴打の痛みを抱えた
ままでの移動も初めてではない。ましてや、彼を痛めつけた周防は、少林寺拳法
の心得があるとはいえ、れっきとした女性なのだ。いくら一方的に攻撃されたと
ころで、幾多の喧嘩の中で彼が耐えてきた拳とは重さが違う。決して万全とは言
えないが、休息したこともあって身体はいくらか回復していた。

 むしろ、いま彼が痛みを感じるのは、身体にではなく心にだ。大切な友人のひ
とりであった田中良を、知らぬ間に失ってしまったことは、伊藤の心に濃い影を
落としていた。無論、彼はあの教室で坂持に殺されたメグミのことも忘れていな
かったし、他の学校の学生たちの死にも憤りを覚えていたが、田中の死は殊更に
こたえたのだ。力でいえば決して強い方ではなかったが、誠実な正義の人だった
田中を、伊藤は男として認めていた。そんな田中だからこそ、こんな理不尽な状
況で死んでほしくはなかったのだ。

 無念の想いにかられながら、伊藤はただ、前へと進む。あの小屋の中に留まっ
ていても、何もできないと思ったから。

 彼はせめて、自分がこれから出会う人間くらいは、自らの手で救いたいと思っ
た。苦しんでいる人間がいるなら助けてやりたかったし、もし周防のように手を
汚そうとしている人間がいるならば、その考えを変えてやりたいと思った。だか
ら伊藤真司は、この道を歩いている。

 彼は、何もかも全てを自分の手で変えられるとは思っていない。もうこれだけ
の命が失われてしまった今、それはあまりにも浅はかな望みだと感じていた。
 全てをどうにかしてしまうような、何か圧倒的な力……それが自分には備わっ
ていないことを、彼は知っている。もしそんな力がこの島の中にの誰かに備わっ
ているとすれば、それは相棒である三橋貴志にだろう、そう彼は思っていた。

(三橋を探さねーと……あと理子ちゃん、高崎……どこにいんだよ、無事なのか、
チクショウ……)

 自分には全てを変える力などない。それでも……それでも、自分の手で救える
誰かがいるなら、せめて一人でも救いたいと願って、彼は先へと進む。

 ……そして、吹きすさぶ風の中、歩き続けた伊藤真司はある男に出会う。それ
は、散弾銃を片手に危うい様子で歩いてくる宇宙怪獣、花澤三郎だった。





 数分後、周防が全ての情報を書きこみ、放送が終わりを告げた。彼女は川田に
声をかけようと顔をあげかけて、奇妙なことに気づく。

(ケイコ、って……そんな名前の人、いなくないか……?)

 川田の恋人らしき女、ケイコ。名字まではまだ聞いていなかったが、名簿の中
に『ケイコ』と読めそうな名前はひとつもない。それどころか、川田の名前のあ
る城岩中の名簿に女性名は『相馬光子』しかなく、その相馬はすでに命を落とし
ており、先ほどの放送で『ソウマミツコ』と呼ばれていた。

「おい、川田……っ!?」

 おかしい、と感じた周防が顔を上げると、寝台の上の川田が頭を押さえ、真っ
青な顔でふるえている。そのあまりの異様さに、ケイコのことをたずねるのも忘
れて、周防は川田の名前を呼ぶ。

「川田、しっかりしろ、川田!」
「けい、……こ、こ……誰、……何で、俺……」
「川田!」

 川田の口からは言葉になりきらない単語がぽつりぽつりとこぼれ落ちる。青い
顔で意味をなさぬ言葉を落とし、震えるその姿はあまりにも異様で、周防は背筋
を冷たくする。

 ……無理矢理巻き戻された川田章吾はいま、本来の時の流れに放り込まれた。

 放送を聞いてついに、川田は自分の記憶の矛盾に気づいてしまったのだ。今ま
さに、川田の巻き戻った記憶は完全なる破綻を迎えようとしていた。

 偽りの平穏が終わる。それは回復に繋がるのか、それとも更なる崩壊に繋がる
のか……それはまだ、誰にもわからない。

(な、んで……、だ、どう、して……)

 ……この島にいる人間は全員、彼と同じ『神戸の中学』の生徒のはずだった。
何とか生き残ろうと足掻き、殺して、殺されかけて、最後の数人に何とか入り込
んだはずだった。そして、大切な慶子を見つけて……でも慶子は彼から逃げた。
追いかけなければ、もう一度追いかけなければ……そう思ったはずなのに。

(……こ、こは……、お、れは、いっ、たい、)

「おれ、は……だれ……な、んだ」
「か……、川田だよ!」
「かわ、だ」
「川田、川田章吾だよ、さっき自分で言ってただろ! お前は川田章吾だよ!」
「……かわだ、しょう、ご」

 川田章吾。そう、確かに彼は川田章吾だ。だが、この川田章吾は、一体いつの
川田章吾なのだろう……?

「そうだよ、川田だ! あんたは、城岩中の、川田章吾だよ!」

 周防は川田に呼びかける。名簿にあった、彼の中学の名前も交えながら。彼女
はまるで知らぬことだったが、それは『現在の』川田に繋がる大切な記号だった。

「っ! い、てぇ……!」

 やおら、強烈な頭痛が川田を襲う。割れそうに痛む頭を抱えて寝台の上で小さ
くなる川田に、周防は途方に暮れた。彼女がそっと手を置いた川田の身体はひど
く熱い。脳震盪のせいか、それともあの放送を聞いたせいか……どうやら彼は熱
を出しているようだった。冷やすためにあてたはずのタオルも温まり、もはや体
温と同化している。この熱が頭痛の原因にちがいない、と周防は思う。何とかも
う一度頭を冷やしてやりたかったが、あいにく診療所内には水がすでにない。

(しょーがない、こうなったら……!)

 周防はバタン、と勢いよく診療所の扉を開ける。

「川田、大人しくしてろよ! ちょっと水探してくるからな!」

 そう言い放って、周防美琴は駆け出す。川田章吾の熱を癒してやるための水を
探して。