一
私の名前は「きみ」今は天国に住んでるの。私は普通の女の子だったんだけど、けっこう有名なんですって。いろんな人のおかげだけど、まずは野口雨情さん。詩を書く人です。次に私の妹「その」大人になった妹は昭和四十八年、北海道新聞の夕刊に投書しました。 「野口雨情さんの赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私のお姉さんです。おかあさんは私に『雨情さんがきみちゃんのことを詩にしてくれたんだよ』と言って、赤い靴の歌を歌っていました。遠くを見つめ、目に涙をためて歌っていました。私は一目会いたいのです。会ってそのことをお姉さんに伝えたいのです」 次にこの記事を読んだ北海道テレビの記者だった菊池さんです。私もびっくりしたんだけど、おかあさまも天国に来るまで知らなかったことがありました。それを調べてくれたんです。五年あまりをかけておかあさまや私の足跡をたどり、ついにはアメリカにまで渡って調べてくれたんだって。
「赤い靴」ていう歌知ってる? あなたのおかあさまはたぶん知ってるわよ。
赤い靴 作詞:野口雨情 作曲:本居長世
1 赤い靴はいてた 女の子 異人さんに つれられていっちゃった
2 横浜のはとばから 船に乗って 異人さんにつれられて いっちゃった
3 今では青い目に なっちゃって 異人さんのお国に いるんだろ
4 赤い靴見るたび かんがえる 異人さんにあうたび かんがえる
私は明治三五年七月一五日、今の静岡市清水で生まれました。日本平のふもと、海が見えるところです。思い出は何もありませんが、ただ、おかあさまのせなかが暖かくて、お日様に海がキラキラ光っていたということをなぜか覚えています。 お父さんのことは全然知りません。おかあさまは赤ちゃんだった私とおじいちゃんとで北海道の函館に旅立ちました。そして、おかあさまはそこで再婚しました。
これは天国でおかあさまに聞いたお話です。 おとうさまになった鈴木志郎という人に開拓農場で働かないかとお誘いがあったそうです。開拓というのは森や荒れ地を切り開いて新しい田んぼや畑にすることです。おとうさまは、大切な仕事だと考え参加することにしました。 北海道の厳しい自然の中で、それも開拓村で生活することは大変なことです。おかあさまは病弱だった幼い私をそんなところに連れて行って大丈夫だろうかと心配していました。そうしたとき、アメリカ人の宣教師ご夫妻が養女を探していることを知り、ずいぶん悩みましたが、私を養女に出すことに決めました。私が三歳の時です。 「ごめんね、ごめんね」 このことを話すとき、何も苦しいことのない天国なのに、おかあさまは私を抱きしめて泣きます。
おかあさまたちは有珠山に程近い開拓地で一生懸命に頑張りましたが、静岡から呼び寄せたおかあさまの弟、辰蔵おじさんは病死し、開拓小屋も火事で失いました。二年後、開拓団は解散しました。 みじめな姿と気持ちでおかあさまたちは札幌に引き揚げました。おとうさまはやっとのことで小さな新聞社につとめることができました。
新聞社には野口雨情さんが働いていて、一軒家を野口夫妻と借りて、同じ屋根の下、一緒に暮らしたことがあるそうです。 おかあさまは私のことを雨情さんに話し、赤い靴の詩ができました。雨情さんもその後、女の子を亡くしました。その子への思いを綴ったのが「しゃぼん玉」の詞です。
しゃぼん玉 作詞:野口雨情 作曲:中山晋平
1 しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで こわれて消えた
2 しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた 生まれてすぐに こわれて消えた
風、風吹くな しゃぼん玉飛ばそ
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