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「悪魔8」(2006/07/26 (水) 17:23:09) の最新版変更点
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オリジナル 悪魔7 【幸福論】
※グロ?描写あり。食べ物注意。
「それでいいのか」
血に染まった手をひたすらに見つめる男の背に立ちながら、血涙の悪魔は問うた。光を見ることがなく、赤き涙の跡を刻む頬をのぞけば、そこそこに整った顔立ちの黒衣の男。彼は悪魔であり、その蝙蝠のような羽は黒く大きく、鴉のような艶を持ち合わせないかわりに何者をも拒絶する暗い絶望の光を宿していた。
気まぐれにそれを人間が目にすれば、すぐさま街中の人間に刃物を向けて狂い死にでもさせるような強烈な負の匂いを漂わせる。
血涙の悪魔は残酷な性質ではなかった。だが彼が持つ性質は確実に人間の精神を蝕み、圧迫し、瓦解させる力を持つようになっていた。
「それで満足なのか、神父」
かつて、初めて人間を喰らった時も血涙の悪魔は神父の肉を貪った。清童の匂いのする肌を引き裂き、血を啜った。
それから幾ばくかの時が流れると、血涙の悪魔は自然と肉食を控えるようになった。肉を喰らうことよりも、魂を堕落させることに興味を持ち始めたのである。それは力をつけてきた証拠であり、今では人間を餌として扱うことは半々になっていた。
「これで良いのです。いえ、私にとってはこれが良いのです」
神父の目の前には、普段清貧を説く者として教会の裏手で育てた野菜やパンのような質素な食事ではなく、よく煮込まれ飴色になったシチューが食卓を飾っていた。
「もともと、私は神の愛を説きながらそれを信じてはいなかったのです。でなければ、聖職者として狂い死にしてしまいたいほどの苦悩を抱えることはなかったでしょう」
「今はそれがないというのか?」
「ありません。物心ついた時から常にわだかまっていたものがこうもあっさりも消えるとは想いませんでした。今では、なにか寂しいものすら感じているのです」
神父の胸にはロザリオがなかった。その残骸はきっと暖炉にでもあるのではないだろうか、昨日、薪の代わりにいくつかの衣料とともに燃やしていたから、多少は焼け残っているかもしれない。溶けた聖人の顔だとか、へしゃげた十字架だとか。
「あの子も幸せだと想うのです。これで私たちを隔てるものは何もなくなった」
神父は祈りも捧げず、スプーンを取ってシチューを口にした。一口一口、感慨深くも敬虔そのものといった表情。
いや、多くの人間の表情を見てきた血涙の悪魔にはわかった。
それは、法悦の表情だ。恍惚にとろけて、その頭の中こそが天国に昇ってしまったかのような幻に包まれて。
「おいしい」
神父はシチューに向かって、美味しいともう一言呟いた。
「とても、おいしいよ。クラヴィ」
愛おしい者に囁くように睦言を吐き続ける神父の背中を血涙の悪魔はじっと見つめていた。何かを待つように。
ビクター神父といえば教区の中でも徳の高い人物として街の人間からの人望厚く、多くの信頼を集めていた。
穏やかでしんと染みいるような声で聖書の一節を読み、その説教は厳かであっても心に深く重なるものだった。
その教会では小さいながらも聖歌隊があった。もちろんきちんとした役職ではなく、街の子供たちを預かり、昼の間は簡単な読み書きを教えたりする代わりに、聖歌を覚えさせて日曜礼拝の時に歌ってもらうのだ。大きな街の本格的な聖歌隊のような荘厳さはないが、その街の活気がありながらも穏やかな気質を受け継いだ子供たちの歌声はのびやかで可愛らしさが漂う。
教会の中で子供達に歌を教え、オルガンを弾く役目の少年がいた。出自は定かではなく、教会の前に捨てられていたためにビクター神父自身により育てられた。年老いたシスターから行儀見習いやオルガンの弾き方を習い、修道士として神父の補佐としての役目を担っていた。
くすんだ茶色い髪と同じ色の瞳をしており、そばかすの跡が目立つ平凡だが心優しい少年の名前はクラヴィといった。
「私は幼い頃から、何でも口に入れる癖がありました。母の乳房、自分の指に玩具。お気に入りのものばかりです。ただ口に含むだけならば問題はありません。しかしいつからか、それを咀嚼し呑み込みたくなったのです」
それが食物でなくとも関係はない。己が愛したものは口にいれなくては気が済まなくなったのだ。
「私は神に救いを求めました。浅ましい私の魂をお救いくださいと。自らを律し、神の愛を一心に信じ続ければ、いつかこの恐ろしく醜い欲が消え去るものだと」
「だがそれは叶えられることはなかった。俺と出会ったからか?」
「そうかもしれません。そうでないかもしれません。神の愛を受け入れてから10数年私はその餓えを抑えることができました。……誤魔化していたのかもしれませんね。愛を説きながら己の愛を押し殺していたのですから」
神父の言葉は悪魔の言葉をはぐらかすというよりも、自分でもわからないと言いたげだった。
「クラヴィは赤子の時、私が教会の扉の前に捨てられているのを見つけ、私が名づけ、私が育ててきました。あの子は神父の私では得ることのできない息子のような存在のはずでした」
神父はシチューを口にしながらも淡々と背の悪魔に語った。鍋のシチューは多く、神父一人では食べきれる量ではないのに手を動かし続けている。
「ある時クラヴィが言いました。私を愛していると。父親のように接してくれる神父様が大好きだと。それで満足するべきでした。いえ、満足するのが人間というものなのでしょう」
私はすでに外れてしまいました。
何杯目かのシチュー皿にたくさんの肉と汁を盛りながら神父は言葉をつなげた。
「私は言いました。私はおまえ以上におまえのことを愛していると。おまえは私の愛に応えてくれるだろうかと」
父性への慕情と幼い恋情を混同させて神父は少年から愛という名前のついた思慕を受け取った。
そうして気づいた。
「おまえを食べてしまいたいと」
神父は自らの欲を目覚めさせた。
そして。
欲望の赴くまま彼を貪った。その肉体を犯すことは一切ないまま。
彼が好きだった薄味で飴色のシチューを仕立て上げた。彼自身の肉で。
血涙の悪魔が神父の心の闇を肥え太らせたのは、ごくごく僅かだった。もともと持ちうる欲望を、心の囁きのようにごく近くで神父の耳に届けただけだ。
喰らってしまえばいいと。
誰かに取られて、汚されてしまう前に。
美しく、清らかな間に。
自分を愛していると告げた少年を。
ほんの少し、肯定の言葉を投げかけてやるだけだった。
あっけないとも言える。
だが、確かにそれで神父は神よりも堕ちる快楽の中で至福を見つけたのだ。
「クラヴィ」
鍋の一滴でさえ舐めとるように舌を這わせて神父は、恍惚とした顔でその名前を呼んだ。
「愛している」
その瞬間に血涙の悪魔は神父の背中に手をあてた。
血色の悪い指先が心臓のある位置でぴたりと止まり、くるりくるりと円を描いた。
「クラヴィ」
小さな呟きを残して神父は頽れた。食卓はひっくり返り、空の鍋と皿が床に落ち、スプーンが甲高い悲鳴をあげた。
神父は事切れていた。最愛の少年を食らって大きく膨らんだ腹から逆流し、わずかなスープを口から滴らせながら。
それらを眺めていた悪魔の目には何の感慨も浮かんでいなかった。
彼の手にはどす黒く染まって、自ら光るというよりは闇の塊と化してしまった発光体が浮かんでいた。その大きさはちょうど心臓ほどで、ゆらゆらと所在なく浮かんでいる様は風に翻弄される蝋燭の炎のように頼りなかった。
「神は残酷だ。殺すこともしてやらないで、ただ生き地獄を味わわせて、芝居の見せ物くらいにしか思っていない」
所詮そんなものなのだと笑いながら、どす黒く染まった塊を血涙の悪魔は一口で呷って咀嚼した。頼りない姿をしているが咀嚼すると感触を持って歯を愉しませる。
「欲の突っ張った人間などより、おまえのように己を殺しながら誰かに肯定してほしいという苦悩を抱えているほうが俺にとっては、美味いものだよ」
次なる獲物を求めて、血涙の悪魔は翼を広げ飛びたった。
その教会にはもう誰もいなかった。
オリジナル 悪魔8 【心、失せてしまった】
その昔、異界の秘術を用いてこの世のすべての真理を知った賢者がいた。
知りたいという欲から芽生えた願望は実を結び、彼は世界の成り立ちから悪魔の王の真実の名前、星の彼方に描かれているという運命の行く末すら全てを知った。
だがその瞬間から、彼は知りたいと思うものがなくなってしまった。
もはや彼にわからぬことはなく、それと同時に彼が人間である必要もなくなったのである。すべての答えを知った彼は人間という有限の肉体を永遠に保たせる方法まで知ってしまった。
そして彼は「答え」になったのだ。
「ナガガミ」
そこはどこにあるとも知れない荒野。生き物の気配のしない寂しい視界が広がる。唯一の色彩を持つのは、痩せた大地に巨大な根をはる紅い巨木だった。
本来の植物が持つ瑞々しさとは程遠く、枯れ果てた老人の肌のような地面に貼りつき、空にまで歪んだ悪意を押しつけているかのように見える。荒野の中心にある巨木はまるでそこら一帯の生気というものを奪い取っていた。
遠目には巨大な柳の木に似ているが実際は違う。紅く見えるのは人間の髪で、巨人のたわむれのように枝枝にかけられており、それが乾いた風に吹かれるたび弱くそよぎ、柳のように見えるのだ。
赤い髪の根本には人間が座していた。大人が囲んでも3人分は必要かと思われる太い胴回りの幹に背を預け、あまつさえ下半身を土に埋もれさせている。まるで幹から伸びた枝と根が抱き取るようにその体を幹に固定させていた。
「ナガガミ」
巨木の前に影が差す。どこから現れ出でたのか、血涙の悪魔がそこに佇んでいた。
ナガガミと呼び掛けられた人間は、伏せていた顔をあげる。その名は彼の忘れられた真実の名前ではなかったが、彼の意識を浮上させる鍵のようなものだ。
赤い髪にふちどられながらも、血色の悪い肌と落ちくぼんだ生気のない瞳。その色は虚無の空を映した灰色である。
「問いに答えろ」
ナガガミの名と、答えよという命令。その二つで、人外の叡智を得た彼の答えを得ることができる。ただし、答えを得るには相応の代償が伴う。
ナガガミが代償を求めるのではなく、ナガガミを『守る』ものが答えに見合う代償を求める。が、未だ血の痕を拭うことのない血涙の悪魔には特別にそれが要求されない。
「我が待ち人は」
「三界何処にも来たらず」
人間界、天界、魔界いずれにも。
低く掠れた声がナガガミから漏れた。
「そうか」
それだけの言葉で血涙の悪魔は納得したように飛びたった。
ナガガミは質問者が消えたことでまたうなだれる。
余りにも短い出来事である。
「ナガガミさん」
悪魔の禍々しい翼の影が消え失せたと同時に、かろやかな少女の声が降りたった。皮膜の翼の悪魔とは違い、薄緑色の羽毛がふわりと抜け落ちる。
翼女(ハルピュア)である。
全裸の愛らしい少女の姿をし、背中からではなく両腕と一体化した翼で空をかける低位の妖魔だ。
ふくらみかけた乳房をおしげもなく晒し、翼女はナガガミの前にちょんと立った。
「アタシの質問に答えて?」
翼女は過去に二度、ナガガミの元を訪れていた。一度目は好奇心から「明日の天気」、二度目は「餌になる獲物の場所」。仲間内で実在すら疑われていた「答える者」を偶然見つけた翼女はたわいもない質問ばかりで、代償も彼女の美しい羽根や髪の一房だけで済んでいた。
ナガガミはまったく情動のない仕草で顎を持ち上げ、翼女を見る。
「アタシの思い人、あのやさしい人間。あのヒトはアタシのものになる?」
「ならず」
間髪入れずにナガガミは答えた。躊躇いもなく、用意された答えを読み上げるように。
「えっ!?」
同様する翼女を尻目に、ナガガミを取り巻いていた木肌が蠢く。枝というより触手に近い茶色のそれが、翼女の前でテーブル状に平たく広がる。
ナガガミが背を預ける幹にも変化が起こる。ひび割れた幹が流動し、精悍な男の顔を形どる。
彼こそナガガミの守護者。質問者の代償を求める異形であった。
『代償を』
ナガガミよりも若さを感じさせる、だが重々しい雰囲気を持った声音が幹の人面から発せられる。
『代償を』
「なんでよ!アタシのあのヒト!どうしてアタシのにならないの!」
『代償を』
「イヤよ!ナガガミ!答えてよ!どうして!」
「翼女は」
びゅっと枝がしなった。赤い髪を絡めていた細い枝が閃き、髪がふわりと地に落ちた瞬間に、翼女は心臓を鋭利に尖った枝で指し貫かれていた。
「代償を払わなかった故に守護者に殺される」
きぃっと漏れた翼女の断末魔が荒野にあえなく消えた。
根が蠢き、事切れた翼女の肉体がゆっくりと大地の下へと呑み込まれてゆく。ナガガミはただそれを瞳に映していた。
『ナガガミ』
完全に妖魔の体を取りこみ、枝や根はまた元のようにするすると戻ってゆく。地に落ちたナガガミの赤い髪を掬い上げ、空へ遊ばせるように枝が持ち上げる。
『問いに答えてください。……ノアン・クフリオとは?』
木肌の守護者はこのうえなくやわらかな声音で尋ねた。
灰色の回答者はそれに応えた。
「全知の賢者。三界いずれにも属せぬ異界の秘術ハーラ・ムーダによりこの世の全てを知る。狭間のさまよえる荒野にて、血涙の悪魔と契約し、異形の木となった弟子のサーライ・ゼムの庇護下にある」
そこで初めてナガガミは一息ついた。そして、溜息のように密やかに、サーライ、と小さく反復した。己が口にしたその者の名を確かめるように。
「サーライ」
『ここにいますよ』
あなたのそばに。
異形の木肌、かつてはサーライという名前の人間だったそれは、愛おしげに枝をナガガミに絡めた。それはまぎれもない抱擁だった。
サーライが異形となり果ててまで守ろうとした賢者ノアンはどこにもいなかった。
「全知は罪」
ノアンを荒野に落とした天使はそう言い置いて去った。天使は人間を殺すことはできない。慈しむべき存在が身に余る業に見舞われたとしても。
「だが無知なる人間に利用されるよりは良いだろう」
死ぬことの出来ない、ただ質問に答えるだけの人間。それは周りの人間に影響を及ぼす。全知を従えたならば人界は途方もない乱世に至るだろう。
それは精一杯の天使なりの慈悲だったのかもしれない。
サーライはノアンの一番弟子だった。ともに全知を追求し、秘術の完成に携わったのもサーライだけだった。
「それはすでに人間ではない」
秘術をその身に受け、全知の存在となったノアンはすでにまともな精神をしてはいなかった。人間という入れ物には途方もない膨大な知識を注入したがために、彼本来のすべては押し潰されてしまったと言って良い。
「なおも求めるか?」
「人間から守るなんて言い訳だろう。天使も、悪魔も……みな同じだ。答えを求めるためにここへ来る。人間と、変わらないじゃないか」
制限されたのは人間だけだ。
「いずれこの方を狙う輩が出る。ならば俺がこの方を守る」
打ち捨てられた木偶のようなノアンを抱き上げたサーライは、荒野へと導いた悪魔を見やった。
「あんたはこの方の知識が欲しいと言ったな」
「そうだ。俺は捜し物をしている。三界を見通す目と運命を読みとる力があるならばそれが欲しい」
「俺の望みはこの方を見つけだすことだ。そして、二度と俺の元から離さぬこと。ハーラ・ムーダの秘術はこの方にしかかけられていない。引き離すことは不可能だ」
赤く薄汚れた髪に顔を寄せても、ノアンは瞬きひとつしない。
「悪魔よ、俺を異形に変えてくれ。その代わりにおまえが求める答えが見つかったらすぐに教える。俺はここでこの方を守り続ける。身の程知らずの答えを求める者には代償をつきつけてやる」
そうすれば理不尽な回答に激し、ノアンに危害を加えようとする者はいなくなるだろう。頑なに拒否をするよりもある程度の枠を設けて受け入れるほうが、二人が生き延びる可能性が高くなる。
「その契約、違えるな」
黒く皮膜の翼を畳み、喪服のように黒づくめの悪魔は頷いた。目を閉じたままの顔に二つの赤い線がくっきりと刻まれている。
「ああ。そうだ、悪魔。どうせなら俺を木に変えてくれ。こんな草もない荒野では寂しすぎる」
あの方は草木がお好きだったから。
「叶えよう」
そしてサーライは生半可な悪魔ですら屠る魔樹となり、回答者を永遠に守護する異形へと成った。
「サーライ」
全知の賢者ノアンの名は忘れられ、荒野を訪れるのは嘘か誠かもしれぬ回答者の存在を求める幾ばくかの者。あるいは、サーライと契約を交わした血涙の悪魔。彼の捜し物はいまだに見つからぬ。
そして時折、サーライはナガガミという名でしか反応しなくなった回答者に、「ノアン・クフリオ」の意味を求める。
そして必ず、その回答に含まれる「サーライ・ゼム」を口にすると、しばらくの間それを唱え続ける。
「サーライ」
精神、情動、すべての心の動きを止めてしまったナガガミの唯一の例外をサーライは至福として受け入れる。
『ここにいますよ、ロアン様』
「サーライ」
荒野に風が吹く。さらさらと枝にかけた赤髪が揺れる。
閉じられた、二人の異形の世界は生き物すべてを拒む荒野であってもサーライにはどうでもよかった。
ただそばに愛おしい者がいる。それだけで。
サーライはこの上もない幸福を感じられたのだから。