スターリン@Wiki
年表(総合)
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年表(総合)
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元の表は以下のような「蓑」形式で作成。
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出典及び略称
無印:年譜(ラジンスキー「赤いツァーリ」)
(S):スターリン全集年表第1巻、第2巻
(R):ロバート・コンケスト「スターリン ユーラシアの亡霊」(原著1991)
(V):ヴォルコゴーノフ「勝利と悲劇」(原著1988)
(L):ヴォルコゴーノフ「レーニンの秘密」(原著1994)
(B):佐藤正則「ボリシェヴィズムと<新しい人間>」(2000.03.30水声社)
(U):ブドウ・スワニーゼ「叔父スターリン」吉田健一訳(1953.03.20ダヴィッド社)…偽書?
(K):スヴェトラーナ・アリルーエワ「スベトラーナ回想録」江川卓訳(1967.12.20)
(AV):Another View of Stalin
(SAR): Stalin as Revolutionary
(S):スターリン全集年表第1巻、第2巻
(R):ロバート・コンケスト「スターリン ユーラシアの亡霊」(原著1991)
(V):ヴォルコゴーノフ「勝利と悲劇」(原著1988)
(L):ヴォルコゴーノフ「レーニンの秘密」(原著1994)
(B):佐藤正則「ボリシェヴィズムと<新しい人間>」(2000.03.30水声社)
(U):ブドウ・スワニーゼ「叔父スターリン」吉田健一訳(1953.03.20ダヴィッド社)…偽書?
(K):スヴェトラーナ・アリルーエワ「スベトラーナ回想録」江川卓訳(1967.12.20)
(AV):Another View of Stalin
(SAR): Stalin as Revolutionary
幼年期(~15歳-1894)
19C | 初 | め | _ | 曾祖父ザザ・ジュガシヴィリ、リアフヴィス谷に誕生 |
農民暴動に参加の後、チフリス近郊ジジ・ジロ村に定住 | ||||
19C | 前 | 半 | ザザの子ヴァノ(祖父)誕生 | |
葡萄園にて働く。[SAR]2004.05.23 | ||||
1850 | ヴァノの子ヴィッサリオン・イワノヴィチ・ジュガシヴィリ(父)誕生 | |||
通称ベソ | ||||
誕生地は同じくジジ・ジロ村 | ||||
後チフリスに移り靴職人となる | ||||
1857 | 母ケケ(エカテリーナ)、農民グラフ・ゲラーゼの娘としてゴリに生まれる | |||
1870. | 04. | 22 | レーニン誕生(L) | |
1873. | 08. | 22 | ボグダーノフ ベラルーシに誕生(B) | |
1874. | 05. | 17 | 父母の結婚、ゴリ村に定住 | |
チフリスより45マイル。1871年に完成したポチ(黒海沿岸)~チフリス間の鉄道の駅が存在。[SAR] |
マクシム・ゴーリキイの証言
「ゴリはクラ川の谷間にある小さな町で、まあ大きな村といったところだ。中央に高い丘。丘の上に城塞。全体に野生的な独特の雰囲気がある。町の上には炎熱の空。クラ川の荒れ騒ぐ急流、近くに山々、その中に洞窟遺跡、そのさらに向こうに永遠の雪をいただく主脈の峰々」
1878. | 12. | 06 | _ | ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ、ゴリ村にて誕生 |
(公称1879.12.21、旧暦1878.12.9生まれ) | ||||
靴職人の雇い主の家に他の職人と同居(R) | ||||
1881. | 03. | 13 | アレクサンドル一世暗殺(L) | |
1883. | チャルクヴィアニ神父の家に以後10年間同居(R) | |||
父ベソ、家族を残しチフリフの靴工場へ | ||||
以後、母が雑役婦として生活を支える | ||||
1884 | 6歳、天然痘にかかり生涯あばたが残る、馬車に轢かれ重傷を負う | |||
1885 | チフリス神学校ロシア人学長チュデツキーの暴行事件 | |||
犯人のグルジア人神学生ジブラーゼは懲役三年(R) | ||||
シブラーゼは後の指導的マルキスト | ||||
1886. | 6. | チフリス神学校ロシア人学長チュデツキー射殺事件 | ||
犯人は学外追放された元神学生 | ||||
一年間の学校閉鎖、ロシア家政策強化へ(R) | ||||
1887. | 05. | 08 | レーニンの兄アレクサンドル絞首刑(L) | |
1887. | 08. | 25 | レーニン、カザン大学入学(L) | |
1987. | 12 | レーニン、学生デモ参加で退学処分(L) | ||
1887- | 8~9歳、ロシア語を習いはじめる | |||
(ただし国民の大多数はグルジア語しか話さない)(R) | ||||
1888. | 09 | 9歳、ゴリの初等神学校入学(S) | ||
(4年制(S))(教会付属学校(R)) | ||||
学資はゴリの裕福なユダヤ商人ダヴィド・ピスマーメドフが提供。 | ||||
・宗派はどこか? ギリシア正教(R) | ||||
・使われていた言語は何か? グルジア語、ロシア語は神学校在学中に公用語化されたが第二言語として学習(R) | ||||
ゴリの教会学校入学時点ではロシア語は外国語として学習。(SAR78) | ||||
グルジア正教でグルジア語を使っていたのでは? 同上(R)) | ||||
後に同じ職業革命家となるダヴィド・スリアシヴィリと同学となる | ||||
学友イレマシヴィリ(R) | ||||
拳闘三銃士(ペーチャ、ミーシャ、グリーシャ) | ||||
グルジア人作家カズベギ「父殺し」愛読(山岳民族を率いて帝政ロシアと戦う主人公無法者コーバ)(R) | ||||
ウプリス・チヘの洞窟都市(R) | ||||
グルジア近辺はアフリカで生まれた「新人」が最初に移動していったところで、そこに長期間定住した後、西と東に三分したという説もある。→http://www.1101.com/nakazawa/2005-10-28.html | ||||
1889 | - | 90 | 10歳、舞い戻った父ベソに連れ出され約一年間チフリスの靴工場で働く。(R) | |
母の奔走で後復学。 | ||||
1890 | ギリシア正教会でのロシア語公用語化(中学校での反対運動)(R) | |||
ゴリの教会学校でもロシア語による授業が義務づけられる(SAR78) | ||||
1891. | 11 | レーニン、学外生としてベテルブルグ大学司法試験合格(L) | ||
1892. | 02. | 13 | 13歳、ゴリにて公開処刑を見る、 | |
ゴーリキーが居合わせ後に情景を書き残す | ||||
1892 | ボグダーノフ、モスクワ大学理数学部自然科学科入学 | |||
1893 | チフリス神学校にてグルジア語・文学教育を求める学生スト | |||
学校は1ヶ月閉鎖。2004.11.30[SAR] | ||||
ラド・ケツホヴェリ(ワノ兄)が指導(R) | ||||
1894. | ボグダーノフ、学生運動に連座してトゥーラ流刑(B) | |||
チフリス神学校時代(15歳~20歳1994-1899)
1994. | 09 | _ | 15歳、初等神学校を首席で卒業(06(S)) | |
チフリスの中等神学校(正教)へ進学(09.06(S)) | ||||
(クラスメート、イレマシヴィリと長年の友人関係へ) | ||||
奨学金取得(R) | ||||
チフリス神学校はグルジアにおける事実上の最高学府(大学はなく富裕層はロシアかドイツへ留学(R)) | ||||
卒業するとロシアの大学の入学資格を得た。2004.11.30[SAR90] | ||||
教育内容:典礼文、聖書精読、教会スラヴ語、ギリシャ語、ラテン語、ロシア語教育が最重点(R) | ||||
第一学年では修身と学業に高い評価(R) | ||||
1895 | 第二学年から反抗的な態度を示し始める(R) | |||
当地の流刑の身であった社会主義者グループと接触(S) | ||||
神学校校内で社会主義サークル運動を開始(S) | ||||
級友ワノ・ケツホヴェリを通じてマルクス主義に接近、96-7には自らをマルクス主義者と自覚(R) | ||||
バクーニン影響下のネチャーエフ著「革命家の基本テーゼ」にふれ革命思想に目覚める | ||||
グルジア詩壇の帝王イリヤ・チャフチャワーゼ主催の雑誌「イヴェリア」に詩を発表(15~6歳頃、6編(R)) | ||||
(後の1907「グルジア詩華集、或いはグルジア詩名作選」に転載される) |
▼少年スターリンの詩
月輝き
突如 地上照らし
その月明かり遠く稜線上
青白く
紺碧の林のうえ
ヨナキツグミさえずり
木笛のやさしいしらべ
途切れず のびやかに漂う
ひとときのしじま
山々のわき水のせせらぎ またさやさやと
かろやかなそよ風 ひとそよぎ
目覚める夜半の 暗い森
逃げまどう亡命者 ひとり 敵に追われ
また 悲しみの地に踏み迷う
地獄の責め苦
ふと 太陽の顔のぞかせしは-
ことのとき 垂れこめる黒雲
灰色のヴェール 吹き払われ
望み 大きな声となり
あらためて 私の心をゆさぶる
空高く かけのぼる詩人の魂
わけあって 高鳴る心
私は知る この望み
幸多く 清らかなことを
生田真司訳
(ドミートリー・ヴォルコゴーノフ「勝利と悲劇」)
「月に向かって」
我は知っている
灰燼の如く大地に倒れし者を
遙かなる昔、奴隷にされたる者を
彼は再び飛翔する、光り輝く希望の翼を広げて
神聖なる山々の上を(R)
「?」
バラは花びらをほころばせ、
ヴァイオレットと抱き合う。
リラもまた目を覚ます。
花々は、その頭をそよ風に垂れる。(R)
1895. | 12. | 21 | _ | レーニン、左翼活動家としてペテルブルグで逮捕される(L) |
1896 | ボグダーノフ、「人民の意志」派からマルクス主義へ転向 | |||
・ハリコフ大学医学部で精神医学専攻(B) | ||||
1897. | 02. | 10 | レーニン、シベリア流刑3年 (L) | |
1897 | 18歳、チフリス市内の Chelidze 所有の本屋で禁書を読んでいるところをたびたび補導される |
Letourneau's Literary Evolution of the Nations, before that Victor Hugo's Toilers of the Sea, then Hugo's Ninety-three; (AV)
1898. | 01 | _ | 19歳、チフリスの鉄道修理工場での社会主義サークル活動に参加(S) | |
1898. | 03 | ロシア社会民主労働党結党(L) | ||
(第一回党大会で結成された同党は警察の弾圧でその後名前のみ存続(L)) | ||||
(出席代表9名の殆どが即日逮捕で懲役または流刑(R)) | ||||
後に設立されたチフリス地方委員会に参加(1898-1900頃か?(S)) | ||||
1898. | 07. | 22 | レーニン、クルプスカヤと結婚(L) | |
1898. | 08 | メサメ・ダシに加入、新聞発行運動(S)、 | ||
コーバを名乗る((AV)によれば97) | ||||
左翼活動が神学校でたびたび問題とされる | ||||
1898. | 09. | 19 | 学生集会で報告者として学校当局の禁書を朗読 | |
1898. | 12 | 神学校の懲戒独房に5時間閉じこめられる/神学校監督官報告書(R) | ||
ロシア人学長ヘルガモン、ロシア人副学長ムラホフスキーとルザヴェンスキー、グルジア人監督官アバシーゼ(R) | ||||
1898. | 年 | 末 | メサメ・ダシ指導者ノイ・ジョルダニアの元を訪問 | |
神学校を中退して専従宣伝員になることを希望するが退けられる(R) | ||||
半年後ジョルダニアは、労働者サークル内でスターリンが反ジョルダニア・ジブラーゼ運動を煽動していることをジブラーゼから教えられる[SAR88] | ||||
1899. | 05. | 29 | 20歳、神学校より放校処分を受ける | |
ロシアの大学への進学資格を失う。[SAR90] | ||||
1899. | ボグダーノフ、再逮捕されカルーガ・ヴォログダに流刑 | |||
カフカス地方活動家時代(20歳~26歳1899-1905)
1899. | 12. | 26 | _ | 21歳、チフリス中央気象台就職。((S)12.28) |
観測・記録も行う会計係、ワノ・ケツホヴェリの紹介(R) | ||||
1900. | 01. | 01 | 夜勤の観測係として新世紀を迎える | |
?単なる空想だが、この場面は入れたい。 | ||||
1900. | 04. | 23 | メーデー演説(S)、チフリス郊外の非合法メーデー集会参加者200名(R) | |
このような非合法メーデー集会は前年にもラド・ケツホヴェリ(ワノの兄)らが組織(R) | ||||
(AV)によれば5月1日、マルクスとエンゲルスのポートレイトが掲げられた下で500名を前にして演説。 | ||||
1900. | 07. | 29 | レーニン、流刑を終え西ヨーロッパへ出国→「イスクラ」発行へ(L) | |
1900. | 08 | チフリス鉄道修理工場のストライキ指導(S) | ||
1900. | 夏 | レーニン指導下の「イスクラ」のエージェント、ヴィクトル・クルナトフスキーを知り、レーニン主義者となる | ||
?これは本当か?(R)もそう書いているか?確認必要! | ||||
クルナトフスキーはラド・ケツホヴェリと協力して「ブルゾーラ」発刊へ。[SAR] | ||||
流血デモの準備に奔走 | ||||
?具体的にどんな? 革命運動のパシリがどんな日常生活を送っているのか、学生生活と違って、イメージが湧かない。 | ||||
それがつかめない限り、この部分は難しい。 | ||||
→ヒント: | ||||
ケストラー:文筆家として名を成した党員なので参考にはならない。 | ||||
トロツキー:「黒いジャンバー、赤いマフラー、汚れた靴」この記述がどの著作にあるのか分からない、 | ||||
タッカー:若き革命家の描写に役に立つかも? 早く届いてくれ! | ||||
Stalin As Revolutionary | ||||
1901. | 02 | バツーミにてストライキ・デモで2000人以上の労働者逮捕 | ||
?バツーミはアジャリア。こんなところまでスターリンは出向いたわけではあるまい。不参加? | ||||
1901. | 03. | 21 | 22歳、気象台宿舎の家宅捜索を受ける(S)、 | |
部屋に非合法文書が発見されなかったため逮捕を免れる(R)=[C] | ||||
1901. | 03. | 28 | 気象台辞職、非合法活動へ(S) | |
[SAR92]では1900.3で気象台勤めは3ヶ月しか続かなかったことになっているが、これは誤り? | ||||
1901. | 05. | 01 | 流血デモ、指名手配を受けゴリへ逃走。一時母と暮らすが後にチフリスへ戻る。 | |
((S)では4.22 チフリス中心兵隊広場でメーデーデモ指導) | ||||
2000名参加。14人死亡は誤りで実際には14人負傷、50人以上逮捕(R) | ||||
ノイ・ジョルダニア等の社会民主党員は多く逮捕されたが、スターリンは怪我もせず逮捕もされない(R) | ||||
?要するにおびえて家に逃げ帰ったというだけのことではないのか? | ||||
?社会民主党の創立は何時だ?→1898.03 ロシア社会民主労働党結党(L) | ||||
ロシア社会民主労働党チフリス委員会の非合法活動家として労働者への煽動活動 | ||||
レーニンに傾倒 | ||||
黒いジャンバー、赤いマフラー、汚れた靴 | ||||
1901. | 09 | バクーにて非合法グルジア語新聞「ブルゾーラ(闘争)」発行、「編集部から」掲載(S) | ||
新聞主催者はラド・ケツホヴェリ(R) | ||||
「イスクラ」のエージェント、クルナトフスキーがラドと協力して発行[SAR] | ||||
1901. | 11. | 11 | ロシア社会民主党最初のチフリス委員会の一員に選出される(S) | |
組織内の反抗的党派活動(穏健派ジョルダニア・急進派ジブラーゼ両方を敵に回す)のために 党内裁判を受け、チフリス党支部より追放(R) | ||||
1901. | 11 | 末 | 黒海沿岸の港町バツーミに活動拠点を移す(迷路のような狭い路地、海風) | |
コスモポリタン的港町、ロスチャイルド等西欧資本の工場にロシア人労働者が多く働く(R) | ||||
ロスチャイルドは石油精製所[SAR94] | ||||
穏健派チヘイゼ?指導の社会民主党地方組織に潜り込む(R) | ||||
チフリス委員会の決定に基づき党組織設立活動(S) | ||||
バクー~バツーミ間にはパイプライン建設中。 | ||||
1901. | 12 | 「ブルゾーラ」第2/3号に論文掲載(S) | ||
ロスチャイルド・マンタシェフ・シデリジス等の工場に党サークルを組織(S) | ||||
1901. | 12. | 31 | 党バツーム委員会の事実上の選出を組織(S) | |
バツーミ組織のトップとなり、流血デモ頻発 | ||||
1902. | -2. | 17 | マンタシェフ工場でのストライキ組織(S) | |
1902. | -2. | 27 | スチャイルド工場でのストライキ組織(S) | |
1902. | 03. | 08 | ストライキ逮捕者32名の釈放要求デモ組織、300名逮捕(S) | |
1902. | 03. | 09 | ストライキ逮捕者300名の釈放要求デモ組織。(S) | |
参加者6000名以上。(S) | ||||
軍隊発砲で死者15名・負傷者54名・逮捕者500名(S) | ||||
デモ・刑務所襲撃で死者25名・負傷54名、逮捕者500名以上(R) | ||||
組織者として、後世の公式文献には載っているが、当時の調査リストには名前無し(R) | ||||
1902. | 03. | 12 | 抗議デモ組織(S) | |
山中のクロム村落に一時潜伏後バツーミに戻る | ||||
1902. | 04. | 05 | バツーミで最初の逮捕、 | |
(指導グループ会議中に逮捕(S)) | ||||
他の社会民主党員とともに逮捕(R) | ||||
バツーミ・クタイシの監獄を経てイルクーツク県ニージニャヤ・ウダ村へ流刑 | ||||
尚、(S)ではクタイス | ||||
(バクー・グルジア西部内陸主要都市クタイシ合計18ヶ月拘留(R)) | ||||
1902. | 04. | 06 | バツーミ監獄へ投獄(S) | |
党組織と連絡を取りながら監獄内で囚人への宣伝活動続行(S) | ||||
1903. | 03. | 24歳、ロシア社会民主労働党内での昇進 | ||
(チフリス委員会から全カフカス委員会メンバーへ欠席のまま選挙) | ||||
1903. | 04. | 19 | クタイシ監獄へ移送、 | |
党組織と連絡を取りながら監獄内で囚人への宣伝活動続行(S) | ||||
1903. | 07. | 09 | シベリア流刑3年宣告(R) | |
1903. | 07. | 30 | ブリュッセル・ロンドンでの第二回(L)-08.23 | |
ロシア社会民主労働党大会で党の分裂 | ||||
=メンシェビキ(プレハーノフ)とボリシェビキ(レーニン)への内部分裂 | ||||
ボリシェビキの事実上の出発点[SAR124] | ||||
1903. | 秋 | シベリア流刑囚としてバツーミ監獄へ移送(S) | ||
1903. | 秋 | ボグダーノフ、ボリシェヴィキ加入 | ||
1903. | 11. | 27 | イルクーツク県ニージニャヤ・ウダ村へ流刑囚として到着(S) | |
1903. | 11 | 最初の脱走に失敗 | ||
1903. | 12 | 流刑地にてレーニンの回状を受け取る(S) | ||
(これを通して初めてレーニンを知る(V)) | ||||
1903. | 12. | レーニン、「イスクラ」編集部辞任 | ||
1904. | 01. | 05 | 25歳、脱走。偽造旅券でチフリスに戻り潜伏。以後1908.03の逮捕まで逃げ回る | |
(但し1905並びに1906.01.28に逮捕・脱走の記録有り) | ||||
(スパイとなることを条件に逃走を黙認?) | ||||
(後にレーニンもそれを承知で二重スパイとして利用?) | ||||
カーメネフ(年少のボリシェビキ)指導下に入る | ||||
カーメネフ: | ||||
(1901中学卒業後チフリスからモスクワ法律大学へ、 | ||||
逮捕後パリに行きレーニンと会って「イスクラ」編集委員 | ||||
トロツキーの妹と結婚、 | ||||
1903レーニンの指示でチフリスへ(R)) | ||||
以後、メンシェビキからボリシェビキに方向転換(R) | ||||
カーメネフ逮捕後、党内分派抗争へ(R) | ||||
結党以来の古参党員セイゲル・アリルーエフ(鉄道工場員)を知る | ||||
?アリルーエフとの「友情」は物語の大きな殻となるだろう。 | ||||
アリルーエフはどのような気持ちでこの年下のゴロツキを受け入れたのだろう。彼の心の中には慈父のような哀れみがあったのではあるまいか? | ||||
1904. | 02. | チフリス着、カフカス連盟委員会で活動(S) | ||
エカテリーナ・スワニーゼと同棲(U)←怪しい・出典の信頼性無し | ||||
1904. | 春 | ボグダーノフ、スイスにてレーニンと初対面(B) | ||
1904. | 06. | バクー着、現地党組織の脱メンシェビキ・ボリシェビキ化に従事(S) | ||
母の従兄弟グレゴリイ・クルジアニ神父のもとゴリ村で結婚(U)←偽書による偽情報、多分 | ||||
ムドゥヴァニ公爵邸で披露バーティー(U)←上に同じ | ||||
1904. | 夏 | 外カフカスを回り討論会でメンシェビキ・連邦主義者・無政府主義者への反対工作(S) | ||
クタイシでボリシェビキ的イメレチニ・メグレリ委員会設立(S) | ||||
1904. | 09. | 01 | 「プロレタリアティス・ブルゾーラ」に「社会民主党は民族問題をどう理解するか」掲載(S) | |
1904. | 9- | 10 | クタイシ地方滞在、ライプチヒ在のM・ダヴィタシヴィリ宛書簡がレーニンの認めるところなる(S) | |
1904. | 秋 | ボグダーノフ、ロシアに戻りペテルブルグで活動(B) | ||
1904. | 11 | バクー着、第三回党大会のための党内工作(S) | ||
同月のトランスコーカサスボリシェビキ第一回大会代表団に加えられない泡沫活動家(R) | ||||
1904. | 12. | 13- | バクーゼネスト扇動 | |
1905. | 01. | 22 | 26歳、血の日曜事件から第一革命へ | |
チフリスにてカフカス労働新聞発行に携わる | ||||
この頃まで主にグルジア語を書き言葉とする(田中) | ||||
同時に、レーニンの直接指導下に現金強奪・暗殺等の数々のテロ活動? | ||||
第一革命で革命の実態を知った富裕知識層の離反による党の資金難が背景 | ||||
幼なじみのアルメニア人カモ(シモン・テル・ペトロシャン)をテロ活動の盟友とする | ||||
テロ活動の中で腕を負傷 | ||||
1905. | 02 | 初 | カフカス委員会・チフリス委員会のボリシェビキ化に成功 | |
以後、反メンシェビキ・無政府主義者・エルエス工作に従事 | ||||
??トランスコーカサスではメンシェビキが5000名で圧倒的多数派(R) | ||||
バツーミではメンシェビキ1000名に対しボリシェビキ10~15名、チフリスでは数名(R) | ||||
最初の国会では全グルジア8議席の内5議席がメンシェビキ(R) | ||||
1905. | 04. | 25 | ロンドンにて第3回ロシア社会民主労働党大会(L) | |
(大会は党運営を巡るメンシェビキとの対立抗争、 | ||||
1912まではメンシェビキを含む単一政党(R)) | ||||
トランスコーカサス代表団4名(団長カーメネフ)にも加えられていない(R) | ||||
ボグダーノフ、同大会で党中央委員に選出(B) | ||||
討論集会でのメンシェビキ指導部弾劾演説(R) | ||||
1905. | 07 | 討論集会での無政府主義者・社会革命党員非難演説(R) | ||
1905. | 10 | 十月勅書で内閣総辞職 | ||
1905. | 12. | 06 | モスクワ蜂起弾圧 | |
1905. | 12. | 11 | 憲法公布(二院制国会制定) | |
ボグダーノフ、逮捕・国外追放。 | ||||
しかしフィンランド・クォルカ(露領)にレーニンとともに潜伏(B) | ||||
「カフカスの活動家」から「ロシアの活動家」へ(26歳~33歳1905-1913)
1905. | 12. | 12 | _ | レーニンに指名されボリシェビキ第一回協議会出席、レーニンと初対面 |
(タムメルフォルス、フィンランド現タンペレ(L)) | ||||
(レーニンは1915.07段階でもスターリンの名前を覚えていなかった(L)) | ||||
-17 | (カフカズ連盟代議員として出席)(S)(流刑を除けば初めてコーカサスを離れる(R)) | |||
1906. | 04. | 10 | 27歳、レーニンに指名され第4回党大会出席(ストックホルム)(S) | |
(ボリシェビキ・メンシェビキ再統一(L)) | ||||
-25 | (反メンシェビキ活動)(S) | |||
(チフリス代表のうち10名はメンシェビキでボリシェビキはスターリン1名(R)) | ||||
(大会そのものがメンシェビキが圧倒的多数(R)) | ||||
(大会後、反メンシェビキ的代議員報告書をバクーの新聞に発表してレーニンの目に留まる(R)) | ||||
1906. | 04. | 15 | チフリス郊外アヴァルバール秘密印刷所摘発、スターリン密告説(R) | |
グリャズノフ将軍暗殺事件 | ||||
1906. | 09. | 25 | ショスタコーヴィチ、ペテルブルグにて誕生 | |
1907. | 05. | 19 | 28歳、レーニンに指名されボリシェビキロンドン(第5回党(V))大会出席、 | |
トロツキーと初顔合わせ | ||||
レーニンは大会代議員大量獲得に成功したが、スターリンには議決権ある代議員資格取得に失敗(R) | ||||
大会後レーニンを追ってベルリンへ行き会談 | ||||
チフリスに戻り、反メンシェビキ・エルエス工作(S) | ||||
1907. | 06. | 03 | ストレイピン・クーデター(第三国会の制定と革命の終焉) | |
ボグダーノフ、第三国会への参加を巡りレーニンとの対立表面化(B) | ||||
1907. | 06. | 26 | チフリスのエレヴァン広場金塊強奪事件(国立銀行現金輸送馬車襲撃) | |
(実行隊15名、7発の爆弾が投げられ、現金強奪。後に現金はすべて回収。(R)) | ||||
1907. | 6 | (V) | チフリスで出会った党員アレクサンドル・スワニーゼの妹エカテリーナと結婚 | |
(ダヴィド・スワシヴィリと恋敵となる。妻の信仰のため式は教会で挙げられる) | ||||
(神学校同級生フリストフォル・トヒンヴォレリの下、聖ダヴィド教会にて(V)) | ||||
(結婚は1905(R)) | ||||
新婚生活はバクーにて営まれる。借家。妻は裁縫女。 | ||||
(現金強奪事件で党地方委員会から追放されたため(R)) | ||||
(川で溺れかけたアリルーエフの娘ナージェニカを救う…いつ?) | ||||
↑(K)では一九〇三年、バクーの海岸で、ナジェージダ二歳というが、その頃イオシフはシベリア流刑中 | ||||
1907. | 07 | 末 | アリルーエフにペテルブルグへの移動資金を提供 | |
この頃、レーニンの指示でバクーの石油採掘現場で扇動活動(2年間) | ||||
バクーにて反メンシェビキ・エルエス工作(S) | ||||
1907. | 09 | (V) | 長男ヤコフの誕生(妻死亡時ヤコフは2ヶ月(V)) | |
1907. | 11. | 25 | チフリスにて妻、病死。/チフリスに赴く(S) | |
ヤコフは妻の妹に育てられる(~1921) | ||||
ヤコフはスターリンの叔父と叔母に育てられる、成人後モスクワに移ったときはロシア語を殆ど知らず(R) | ||||
ヤコフは祖母タマール・スワニーゼに育てられる(U) | ||||
?警察に拘留中だったのを特に許されて葬儀に出席したと何かに書いてあったのを読んだ覚えがあるが、あれは何だったのか? (SAR)? | ||||
1908. | 03. | 25 | 29歳、ハイオザ・ニジアラッセの名で逮捕、バクー市バイロフ監獄に投獄(S) | |
エルエス党員セミョン・ヴェレシチェク回想録=バイロフ監獄のスターリン、かなり自由な監獄、刑事犯との交際(R) | ||||
1908. | 09. | 29 | ヴォログダ州ソルヴィチェゴトスクへの流刑宣告(R) | |
1908. | 11. | 09 | ヴォログダ県への流刑決定(S) | |
刑期3年、後に2年に軽減 | ||||
1909. | 01 | ヴォログダ県ヴォログダ監獄に収監(S) | ||
1909. | 01. | 27 | 再度ヴォログダ県ソリヴィチェゴークへの流刑決定。移送される。(S) | |
1909. | 02. | 08 | 移送中、ヴァトカ監獄でチフスに感染し生死の境を彷徨う、一時病院へ。(S) | |
グリゴーロフ家に間借り 450人に政治犯とともに食料を宛われながら暮らす | ||||
1909. | 05 | レーニン「唯物論と経験批判論」でボグダーノフ批判 | ||
1909. | 06 | パリ「プロレタリー」紙拡大編集会議でレーニン派、ボグダーノフ派の追放決議 | ||
ボグダーノフ派(ルナチャルスキー、クラーシン、ポクロフスキー、ゴーリキー)は「前進」派結成 | ||||
(ボリシェビキの分裂) | ||||
ボグダーノフ派、カプリに独自の党学校運営 | ||||
後(1910-11)にボローニャにも独自の党学校運営 | ||||
1909. | 06. | 24 | 30歳、脱走 | |
1909. | 07. | 初 | 数日のペテルブルグ滞在(S)、セルゲイ・アリルエーフと接触(R) | |
バクー到着(07中旬(R)) | ||||
カフカスに潜入9ヶ月 | ||||
1909. | 09. | 前 | チフリス訪問、反メンシェビキ工作(S) | |
1909. | 10. | 19 | チフリス訪問、新聞発行準備(S) | |
1909. | 11. | 12 | バクーに戻る(S) | |
1910. | 当中央委員会全権委員(中央委員会エージェント)となる(S) | |||
ボグダーノフ「信仰と科学」でレーニンに反論 | ||||
1910. | 03. | 23 | 31歳、再逮捕/ザハール・グリゴリヤン・メリクヤンツの偽名(S) | |
1910. | 03. | 26 | バクー市バイロフ監獄に収監(S) | |
バクー憲兵本部にて3ヶ月間取り調べ | ||||
5年間カフカス居住禁止の総督決定を受ける(S) | ||||
1910. | 09. | 23 | 再度ソリヴィチェゴークへ出発(S) | |
1910. | 10. | 29 | 再度グリゴーロフ家に間借り | |
食事代と家賃を賄うのに十分な政府の補助金を受ける(R) | ||||
レーニンと連絡を付け、流刑地にて政治活動 | ||||
1910. | 12 | パリのレーニンに書簡を送り支持を表明・ロシア国内にボリシェビキ中央活動センター設置を提案(R) | ||
海外亡命者間の対立抗争をコップの中の嵐と評する書簡(モスクワボリシェビキ宛)でレーニンの不興を買う(R) | ||||
1911. | ボグダーノフ、前進(フペリョート)派離脱、 | |||
政治を捨て自らの哲学研究に専念 | ||||
1911. | 01. | 10 | 32歳、未亡人マリア・プロコビエヴナ・クザコワの家に移る | |
(後に隠し子コンスタンチン・ステパーノヴィチ・クザコフの誕生 | ||||
1995年、自分がスターリンの息子であることを認める)(1914?(R)) | ||||
1911. | 03 | -06 | たびたび家宅捜索を受ける(S) | |
1911. | ? | カモ、パリのレーニンを訪ね1907ドイツでの逮捕体験を語る(刑務所で4年間)(L) | ||
1911. | 06. | 01 | パリ社会民主党中央委員会議で、欠席のまま、組織委員会委員候補に任命される(S) | |
1911. | 06. | 27 | 刑期を終え居住先にヴォログダを選ぶ(首都に入ることを禁じられる)(S) | |
1911. | 07. | 16 | ヴォログダ着(S) | |
1911. | 09. | 14 | (ストレイピン、キエフにて暗殺) | |
西暦 ?他の年号との整合性が分からない | ||||
1911. | 09. | 07 | レーニンの指示でペテルブルグに向かう(S) | |
トドリヤ、アリルーエフと接触(S) | ||||
1911. | 09. | 09 | ペテルブルグ入り3日後に逮捕(S) | |
12月中旬まで取り調べ | ||||
刑期3年の流刑、ただし居住地は選択可能との判決 | ||||
1911. | 12 | 末 | 自ら選んだヴォログダ着 | |
異説(コンケスト)
1911. | 06 | 刑期満了(R) | ||
モスクワ・ペテルブルグ・コーカサス以外の居住を禁じられる(R) | ||||
1911. | 09 | 本意のヴォログダ行きを諦めペテルブルグへ行きセイゲル・アリルーエフと再会(R) | ||
逮捕(R) | ||||
1911. | 12 | ヴォログダへ追放(R) | ||
1912. | 01. | 05 | _ | 33歳、第6回プラハ全党協議会で、欠席のまま、ボリシェビキ党中央委員に選任(S) |
(レーニンの意向(R)) | ||||
背景(コンケスト&ヴォルコゴーノフ) | ||||
ボグダノフらとの哲学上の対立からレーニンはボリシェビキ内で孤立(R) | ||||
生物学者にしてマッハ主義者のボグダノフらはレーニンの単純な唯物論を批判(V) | ||||
ボリシェビキだけを集めたプラハ大会においてメンシェビキ完全排除の組織を樹立 | ||||
マノフスキー、オルジョニキーゼを含む7人の中央委員選出しイエスマンで固める | ||||
大会後、権限に基づき、スターリンを含む2名を中央委員に任命 | ||||
メモ:ボグダーノフの政界引退は前年の1911年であることに注目。主導権を握った後の体制固めと位置づけるべきか? | ||||
1912. | 02 | 中 | セルゴ・オルジョニキーゼ、レーニン指令で、亡命先のフランスより訪ねて来て、脱走を求める | |
(年下のグルジア人貴族出身党員) | ||||
1912. | 02. | 29 | 脱走 | |
チフリスを経由してペテルブルグへ向かう | ||||
(黒いコートと黒い帽子、茶色い目と黒い口髭) | ||||
1912. | 03. | チフリス・バクー滞在(S) | ||
1912. | 04. | 01 | バクーからペテルブルグへ出発(S) | |
1912. | 04. | 10 | ペテルブルグ到着(S) | |
レナ川流域金鉱山労働者ストでの虐殺事件を機に一時的に革命気運が盛り上がる、煽動論文(R) | ||||
同時期のボリシェビキ機関誌プラウダ創刊は、マリノフスキーの仕事で、スターリンではない(R) | ||||
国会議員選挙を指導 | ||||
先にレーニンが派遣したイネッサ・アルトマンと秘書のギオルギー・サファロは到着と同時に逮捕 | ||||
モロトフと出会う | ||||
モロトフはスクリャービンの従兄弟で自身もヴァイオリンを演奏(R173) | ||||
逮捕を恐れ御者の溜り場やいざか屋でテーブルにつっぷして眠る | ||||
1912. | 04. | 22 | 逮捕(05.05(R)) | |
1912. | 07. | 18 | ナルイム地方へ追放出発(S)、刑期3年(R) | |
1912. | 09. | 01 | 脱走 | |
1912. | 09. | 12 | ペテルブルグ到着(S) | |
1912. | 秋 | ブドウ、チフリス高等学校を首席で卒業、18歳(U)(原本では1913、誤記?) | ||
ブドウ、反ロシア陰謀の嫌疑で秘密警察オフラーナの取調を受ける(U) | ||||
1912. | 10 | モスクワ滞在(S) | ||
レーニン夫妻、オーストリア領ポーランド・クラクフ滞在 | ||||
(以後1914.08.08の逮捕まで拠点とする)(L) | ||||
1912. | 10. | 29 | ペテルブルグに戻る(S) | |
1912. | 11. | 10 | ポーランド・クラクフのレーニンの下を訪れる(S) | |
1912. | 11 | 前 | クラクフ党中央委員会会議に出席(S) | |
1912. | 11 | 末 | ペテルブルグに戻る(S) | |
ブドウ、ペテルブルグの大学の法学部に入学(U) | ||||
友人イワネイ・メスキイのつてでボリシェヴィキ加入(U) | ||||
月に二、三度、集会でパンフレットの類を読む(U) | ||||
プラウダ編集係ヴィアチェスラフ・ミハイロヴィッチ・スクリャービン(モロトフ23歳)の手伝い開始(U) | ||||
1912. | 12 | 末 | クラクフのレーニンの元に戻る | |
この2回の訪問を通して初めてレーニンと二人だけで話し合い、民族問題についての論文を構想(R) | ||||
1913. | ボグダーノフ「普遍的な組織化の科学-テクトロギア」(-1922)(組織形態学) | |||
1913. | 01 | 後 | 34歳、レーニンを追いウィーンへ、滞在数週間(R) | |
バクーの大富豪スコベレフの息子の住居でトロツキーと出会う | ||||
レーニンの指示で「民族問題とマルクス主義」脱稿、初めてスターリンと署名 | ||||
ブハーリンらドイツ語の出来る同志の協力を得る(R) | ||||
ブント(ユダヤ人労働者総同盟)の民族的・文化的自治権要求に対する反論を目的とする | ||||
マリノフスキー(金属工組合)議員への手紙:下らない馬鹿げた仕事 | ||||
マは1911年より国会のボリシェビキ派議員の筆頭 | ||||
(中央委員会2月協議会参加) | ||||
最後の海外滞在経験(R)(後のテヘラン・ポツダム首脳会議を除く) | ||||
1913. | 02 | 末 | ペテルブルグに戻り国会のボリシェビキ派活動を指導 | |
1913. | 02. | 27 | ブドウ、モロトフの元でイオシフ(偽名イワネイ・ニコラーゼ)と再会(旧暦?)(U) | |
メンシェヴィキの女性新聞記者エカチェリーナ・ゴップネル(母グルジア人)と交際(U) | ||||
グルジア人貴族でロシア太后妃付き副官オルベリャーニ公爵の支援(U) | ||||
グルジア人貴族でツァーリ近衛士官・ボリシェヴィキ秘密党員チャフチャヴァーゼ公の支援(U) | ||||
1913. | 02. | 23 | 慈善コンサート会場(カラシニコフ取引所広間)で、マリノフスキー議員と同席中に逮捕される(S) | |
((R)では3月初旬、(S)は旧暦か? (U)では03.23女装・サモイロフ議員) | ||||
逮捕直前、警察のスパイとして弾劾の動きあり |
逮捕(作家ユーリー・トリーフォノオフ)
私の祖母T・スロヴァチンスカヤはボリシェヴィキ党員で、秘密アジトに娘(未来の私の母)と一緒に住んでいました。そのアジトの一室に何度かの流刑と監獄の経験をもつボリシェヴィキ党員のA・ソリツが潜んでいました。祖母は言いました。「召使い用の小さな部屋でした。ある時ソリツが同志「カフカス人」を私に紹介したいと言った。そしてすぐに、実はこのカフカス人はもう何日も前からソリツの部屋に身を潜めていたことが分かりました。鉄のベッドが一つしかないあの小さな部屋に、どのようにして暮らしていたのか、全く見当もつきません。おそらく地下生活の不文律が私にさえ顔を見せることを許さなかったのでしょう…こうして私はスターリンを知ったのでした。
私には初め彼があまりにもまじめで、閉鎖的で、内気すぎるように思われました。彼が何よりも恐れていたのは誰かに迷惑をかけはしないかということでした。私はやっと、もっと大きなゆったりとした部屋で寝るように彼を説き伏せました。仕事に出かけるときに、私はいつも子供たちと一緒に食事をするように彼に頼みました。でも彼は一日中部屋に閉じ籠もって、ビールとパンですませていました…彼が逮捕されたのは-十三年の春、慈善コンサートの夜でした。私たちはしばしば同郷の学生たちを集めてコンサートを開いていました。慈善の目的のように装ってはいましたが、実際は党の資金集めのためでした…今でも目に見えるようです…彼は小さなテーブルをはさんで…マリノフスキー議員と話していました。そのときつけられていることに気づいたのです…彼はちょっとアーチスト控え室に出ていって、私を呼ぶように頼みました…彼は、警察が来ている、もう逃げられない、すぐに逮捕されるだろうと異って、コンサートの前にマリノフスキーと一緒だったことを伝えてくれ、と私に頼みました。そしてスターリンがもどると、すぐに二人の私服が彼のテーブルに歩み寄り、同行を求めました。マリノフスキーがスパイであることは、当時はまだ誰も知らなかったのです…」(R)
シベリア時代(33歳~38歳1913-1917)
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2004/03/23(12:53:10)
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2004/03/23(12:53:27)
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2004/03/23(12:53:36)
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2004/03/23(12:53:51)
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(R)によればモナストルイスコエ村 カーメネフら他のボリシェビキと一緒に生活(R) ボエイシェビキ女性流刑囚を巡りスヴェルドロフと三角関係に(R)
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2004/03/23(12:54:08)
2004/03/23(12:54:08)
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2004/03/23(12:55:00)
2004/03/23(12:55:00)
(脱走計画がマリノフスキーから漏れたため、スヴェルドロフと一時同室となり不仲に(R)) (義妹の手記によれば庶子誕生はこの頃(R)) 釣り・狩猟・読書等にふける(R)
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2004/03/23(12:55:40)
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2004/03/23(12:56:42)
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2004/03/23(12:57:05)
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2004/03/23(12:57:25)
2004/03/23(12:57:25)
反戦活動を行ったボリシェビキ派議員のシベリア追放 一時、モナストルイスコエ村に戻り党内抗争を見聞(R) (プラウダ編集長カーメネフがレーニン路線に乗って反戦反逆活動をしたとして糾弾を受ける(R)) (党は、むしろ反逆をしなかったとしてカーメネフ弾劾(R)) (スターリンは不介入の立場を堅持し、クレイカ村へ戻る(R))
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2004/03/23(12:58:00)
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2004/03/23(12:58:39)
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2004/03/23(12:59:34)
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2004/03/23(12:59:43)
2004/03/23(12:59:43)
同地の流刑囚カーメネフ(レーニンの盟友)に接近 (パイプをくゆらせ、むっつりと不機嫌(R))
ロシア革命(38歳~1917-)
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2004/03/23(13:00:05)
2004/03/23(13:00:05)
?本当に同日だったのか? 革命が起こったその日に報せがシベリアまで届くのだろうか? 既に電信が存在?
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2004/03/24(15:12:09)
2004/03/24(15:12:09)
「プラウダ」編集長として活動 ソヴィエト執行委員に迎え入れられレーニン路線から逸脱 (メンシェビキとの融和・戦争継続・民族統合) (グルジア人メンシェビキでソヴィエト議長チヘイゼの引き)
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2004/03/24(15:13:56)
2004/03/24(15:13:56)
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2004/03/24(15:14:13)
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2004/03/24(15:16:10)
2004/03/24(15:16:10)
1917.04.29 レーニン推薦で立候補し中央委員へ選出 中央委員会ビューロー(後の政治局)設立 (レーニン・スターリン・ジニヴィエフ・カーメネフ)
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2004/03/24(15:16:19)
2004/03/24(15:16:19)
ソヴィエト内に留まりボリシェビキ派との仲介役を演じる レーニン指導で武装蜂起の試みを繰り返す クロンシュタット軍港要塞水兵を勢力下に指導者ラスコーリニコフ少尉 (革命初日より提督を含む約150名の士官射殺・ボ派委員会設置)
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2004/03/24(15:18:05)
2004/03/24(15:18:05)
トロツキー、ルナチャルスキー即刻逮捕 レーニン・ジノヴィエフ・カーメノフ潜伏
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2004/03/24(15:57:50)
2004/03/24(15:57:50)
第6回ボリシェビキ党大会をレーニン代理として取りしきる 右派勢力の台頭を恐れたケレンスキーは黙認 アリルーエフ家に同居 コルニーロフ将軍反乱を機に臨時政府、ボ派と関係修復 トロツキーらの釈放 臨時政府の弱体 混乱 ボ派のペトログラドソヴィエト掌握・議長トロツキー
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2004/03/24(15:20:12)
2004/03/24(15:20:12)
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2004/03/24(15:21:36)
2004/03/24(15:21:36)
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2004/03/24(15:22:02)
2004/03/24(15:22:02)
スモーリヌイ宮殿本部でトロツキーが指揮 左派社会革命党抱き込み
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2004/03/24(16:00:19)
2004/03/24(16:00:19)
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2004/03/24(15:23:01)
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2004/03/24(15:25:26)
2004/03/24(15:25:26)
(聴衆を装って兵士を傍聴席へ・議事進行妨害) デニキンロシア南部武装兵段結成
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2004/03/24(15:26:06)
2004/03/24(15:26:06)
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2004/03/24(15:26:31)
2004/03/24(15:26:31)
講和を拒否する左派社会革命党の閣僚辞任政権離脱 トロツキー軍司令官へ 旧士官の採用と軍政治委員制度の確立 干渉戦争と内戦
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2004/03/24(15:27:29)
2004/03/24(15:27:29)
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2004/03/24(15:27:46)
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2004/03/24(15:28:06)
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2004/03/24(15:28:30)
2004/03/24(15:28:30)
フョードルとナジェージダ(16歳)アリルーエフ・赤軍400人を伴う ナジェージダと事実上結婚 当地で赤軍司令官ヴォロシーロフと結びトロツキー系列の旧軍出身者に対抗 英トルコに制圧されたバクーソヴィエトの生き残りミコヤンを通じて石油確保
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2004/03/24(15:30:03)
2004/03/24(15:30:03)
下手人のブリュムキン(チェカー幹部)は三年判決を恩赦されボリシェビキに加わる=スパイ
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2004/03/24(15:30:22)
2004/03/24(15:30:22)
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2004/03/24(15:30:44)
2004/03/24(15:30:44)
1918. | 08 | 日本軍ウラジオストック占領 | ||
国土の四分の三を失う | ||||
西と南からドイツ軍 | ||||
北からイギリス軍 | ||||
東からチェコ軍と日本軍 | ||||
東南にデニキンのロシア南部兵団 | ||||
北西にユデーニチの白衛軍 | ||||
ボリシェビキ派モスクワとペトログラード周辺のみ支配 | ||||
ブドウ、戦線崩壊に伴いウクライナからモスクワへ戻りイオシフと再会・再婚に立ち合う(U) |
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2004/03/24(15:32:10)
2004/03/24(15:32:10)
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2004/03/24(15:32:34)
2004/03/24(15:32:34)
トロツキー指導の赤軍大攻勢でカザン・サマラ・スムビルクス奪還
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2004/03/24(15:32:58)
2004/03/24(15:32:58)
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2004/03/24(15:33:33)
2004/03/24(15:33:33)
(開戦時志願兵になり意図的に独捕虜へ→捕虜への情宣活動)
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2004/03/24(15:33:57)
2004/03/24(15:33:57)
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コルチャック中将白軍掌握 独軍撤退後、ウクライナは民族主義者ペトリューラ、外カフカスは英支配
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2004/03/24(15:35:45)
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コルチャック軍ウラル進行やまず
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2004/03/24(16:03:51)
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石油事業家ズバロフ二世の家(バツーミとバクーに精油所所有・ドイツ系)(K) ミコヤン・ヴォロシーロフ・シャポシニコフがズバロヴァ二号、スターリンはズバロヴァ四号(K) スターリン夫妻は二階、アルリーエフ夫妻が階下に住む(K)
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2004/03/24(15:37:06)
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カーメネフ、トロツキー、スターリン レーニン意向でその他の重要部門を兼任・トロツキー牽制 民族問題と労働者・農民管理の2人民委員部の長 中央委員会議長 ペテルブルグ・西部・南部戦線革命軍事ソヴィエト議長 その他重要委員会の委員兼任
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2004/03/24(15:38:41)
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2004/03/24(15:39:56)
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この頃より軍務解除をレーニンに再三にわたって申し入れ トロツキー、ユデーニ軍ペテルブルグ再進撃阻止 以降、白軍敗走へ
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2004/03/24(15:41:05)
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2004/03/24(15:41:26)
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その後、トロツキーによってクリミア陥落
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2004/03/24(15:43:07)
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2004/03/24(15:43:44)
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第10回答大会、穀物割り当て徴発制廃止→ネップへ 同時に党内の一切の分派活動を禁止
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2004/03/24(15:48:38)
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次男ワシーリー誕生(妻レーニンの秘書を辞す・党員候補への降格) 長男ヤコフ(13)を引きとる
イサドラ・ダンカン
私はゲーペーウーによて彼女につけられました。彼女はモスクワではダンカーシャと呼ばれていました。彼女はコムニストでした。私たちは当時、戦時共産主義の恐怖から開放されつつありました。ところが彼女はひどく流行遅れで、「赤旗のイデー」や第三インターナショナル賛歌を踊っていました…。やがて彼女は大変な無頼の徒でスキャンダルメーカーの大詩人エセーニンを知ることになるのです。彼の見てくれは金髪ちぢれ毛の天使のようでした。彼女はもうおばさんでしたし、彼は英語を一言も知りませんでした…知らなくたってかまいませんよ、だって彼らは初め愛の言葉で話し合っていたのですから。愛の後はロシアの生活が始まりました。彼は騒ぎを起こして、彼女に長靴を投げつけ「ばばぁ」と呼んで、口汚なくののしる…。殴りさせしました。ところがこんなし打ちをされるのが彼女は好きだったんですよ。それから彼女は彼をアメリカに連れて行きました。ところが彼は彼女を棄てて、もどって来ると、首を吊って死んでしまったのです。私はすべてをきちんと報告に書きました。だって私自身が作家の妻でしたから、文学が好きで」(R)
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2004/03/24(15:49:28)
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2004/03/24(15:49:51)
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レーニン、チェカーをKGBへ 実質政治局直轄へ 党員監視を強める
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2004/03/24(15:50:44)
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ネップに反対する党内統制を目的 書記局決定は、組織局委員の反対のない場合、組織局決定になる 政治局委員の反対がない場合、政治局決定になる 第二書記はスターリン推薦でモロトフ モロトフの推薦でカガノヴィチを中央委員会組織部長に任命 地方党指導者の査定・任命権獲得
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2004/03/24(15:51:27)
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2004/03/24(15:52:04)
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2004/03/24(15:53:42)
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1922. | 秋 | レーニンと関係悪化 | ||
レーニン、カフカス問題を口実にスターリン書記局長解任画策 | ||||
トロツキーと結ぼうとするが、これが逆にトロツキーを恐れるカーメネフ(モスクワソヴィエト議長・人民委員会会議副議長)・ジノヴィエフ(コミンテルントップ)・ブハーリン(プラウダ編集長)らをスターリンの下に結束させる |
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2004/03/24(16:06:31)
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2004/03/24(16:08:09)
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一時期回復を見せるが、10月を境に急速に悪化 水面下でトロツキーと包囲網の権力闘争
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2004/03/24(16:09:01)
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(1930には党の70%がスターリン書記長時代の入党者) 論文批判を契機にトロツキー、革命軍事ソヴィエト議長職を失う 後継者フルゼンを経てヴォロシーロフが軍トップへ 軍改革により徴兵された農民の若者主体の軍へ
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2004/03/24(16:10:17)
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2004/03/24(16:10:38)
2004/03/24(16:10:38)
(ヴォロシーロフ、モロトフ、カリーニン) キーロフがレニングラード議長に ジノヴィエフ・カーメネフの実質失脚 ジノヴィエフ、レニングラード議長職を失う カーメネフ、労働防衛会議議長職失う
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2004/03/24(16:11:56)
2004/03/24(16:11:56)
トロツキーにジノヴィエフ接近 ボグダーノフ、血液研究所設立
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2004/03/24(16:15:11)
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ジノヴィエフ、コミンテルンのポストを失う
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2004/03/24(16:17:02)
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2004/03/24(16:18:00)
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2004/03/24(16:18:14)
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トロツキー、流刑
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2004/03/24(16:18:28)
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長女スヴェトラーナ誕生
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2004/03/24(16:18:53)
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ブハーリン、政治局のルイコフ・トムスキーをバック カリーニン・ヴォーシロフ・カーメネフを説得工作(失敗)
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2004/03/24(16:19:44)
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2004/03/24(16:20:01)
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2004/03/24(16:20:14)
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2004/03/24(16:20:41)
2004/03/24(16:20:41)
旧トロツキー派の取込
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2004/03/24(16:21:36)
2004/03/24(16:21:36)
工業大学は右派の拠点で、ナジェージダは次第に影響下に 工業大学人造繊維科:当時最先端の化学工業部門(K)
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2004/03/24(16:22:19)
2004/03/24(16:22:19)
強制移住による富農撲滅・農業集団化作戦推進 …32年までに40万人+24万世帯
メンジンスキー
ゲーペーウーのトップに立っていたのはヴェチェスラフ・メンジンスキーだった。裕福な家庭に生まれたこの異様な遊び人は、若い頃から革命運動に入った。1909年に彼は社会革命党の新聞に「レーニンは政治的ジェズイット(偽善者)である」と書いた。ところが2月革命後、メンジンスキーはボリシェヴィキ党と近い関係になると、レーニンは彼を暖かく迎え、「われわれの世帯はどんな有能な卑劣漢も仕事をみつけることができるほど、ゆったりとした広さがある」と言った。
十月革命後、彼は財務人民委員のポストについたが、事態をすっかり紛糾させてしまったので、まもなく解任された。しかし1919年に、レーニンはメンジンスキーが法律家であることを思い出して、チェカーの指導部にポストをあたえた。この「卑劣漢」が、頭を悩ます挑発の練り上げに換えがたい存在になることをレーニンは見抜いたのである。独特の知恵のゲームである。メンジンスキーは赤色テロのすべての恐ろしい事件に参加した。しかし拷問と銃殺に立ち会うことはいやがった。スターリンは書記長に任命されると、すぐにこの恐ろしい男と緊密な関係を結んだ。チェカーの正式の指導者ジェルジンスキーはその頃多くの要職についていたので、実際にはメンジンスキーがボリシェビキの特種任務を指導していた。そしてジェルジンスキーの死後、スターリンは彼をチェカーの議長に任命した。…
…
そして今、一九二八年から二九年にかけてメンジンスキーは新しい風を捕らえた。つい先頃、主要な敵はすべて根こそぎにされたと宣言された。ところが今度はクレムリンのカフカス人が、敵は根こそぎにされなかったどころか、何百万もいる、と公言したのだ。大きな仕事が待ち構えていることをメンジンスキーはさとった。大指導者は明らかに赤色テロの復活を決意したのだ。これからの大仕事はメンジンスキーの気をそそらなかった。妻の死後、彼はますますやりきれないさびしさを感じるようになった。スターリンは彼の無気力を感じとり、彼に対する関心がうすれた。そして裁判の初期にはメンジン