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オリジナル短編小説:『バス停』
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deja
バス停(2002年7月20日) |
上り坂の途中にあるそのバス停には、昼間でも10分おき位でバスが通っている。本を読む程でもなく、しかし手持ち無沙汰なこの待ち時間には、バス停の周り にいる人達をぼんやり眺めるのが唯一の楽しみだ。少し離れた所には、ギターを弾きながら声を張り上げるミュージシャン気取りの若者が、行き交う人から小銭 を乞うため、足元のギターケースに見せ金の数セントを忍ばせている。そういえばあるバス停の前で、かなりの腕前をもったバイオリン弾きのおじいさんが喝采 を浴びていることがあった。プロ並の音色をなびかせ、誰もがほっとできる小さな舞台を自然に作り上げていたものだ。しかし今聞こえてくるのは、蒸し暑さに 苛立つ通りの足音に負けない位のやかましさでしかない。腹を立てるほどではないにしろ、決して居心地の良さを感じさせるものではなかった。ため息まじり に、何となく空を見上げた。 すると、すぐ近くにある交差点から出てきた車が、勢い良くクラクションを鳴らした。誰もが振 り向くその方向には、車に向かって中指を突き上げながらよろよろと歩いている、うす汚い出で立ちの大柄な男がいた。いつもスーパーの前に座り込み、道行く 買い物客に悪態をつきながら小銭をせびる、あの男だった。どうやら車とぶつかった訳ではなさそうだが、わざわざ車の前をのろのろと邪魔をしながら歩いてい る様子だった。ドライバーはそのことが気に入らなかったのだろう。あまりの嫌がらせに、ついクラクションを鳴らしたようだ。 その男は、わざわざ車の前で立ち止まり、大声でわけの分からない言葉をドライバーに浴びせていた。あきらかに失敗したという表情のドライバー。助手席の女 性も、困り果てた目をドライバーに向けている。聞き取ることはできないものの、言っていることはおおよその見当がつく。小銭をくれない道行く人に浴びせて いる、いつもの言葉に違いない。その男は、車の前をようやく通り過ぎたにも関わらず、後ろ向きのまま罵声を浴びせ続けていた。 と、その時だった。車道から一段高くなっている歩道の段差に男はつまづくと、そのままゆっくりと力なく倒れていった。ドライバーはと見ると、罰が当たった んだという蔑むような視線を男に送り、そのまま車を走らせていった。怪我をしようが、同情などするものかといった、晴れ晴れとしたような表情にも見えた。 恐らくその光景を見ていた全員が、違和感なくこの状況を受け入れていただろう。同情されるべきは、ドライバーの方であったからだ。 だが、その男は、普段歩いている時から足がもつれ気味だったせいか、なかなか立ち上がることができない様であった。いや、起き上がることを、はじめから諦 めているようにも見えた。遠くから、たくさんの無表情な眼差しが男に注がれている。気にはなるものの、誰も助けようとは思っていないようだ。ふと気が付く と、バス停はその男からそう遠くない所にある。他の誰よりも近くにいる訳だ。そのことを理解した途端、黙って見物を決め込んでいた自分に罪悪感が湧いてき た。たとえ道行く人々に悪態をつき、異臭を放ちながらふらついている男とはいえ、彼は今、圧倒的な弱者だ。見て見ぬ振りをすることは、ある種の痛みさえ覚 える。 運が悪かったと自分を納得させ、気の進まないまま腰を上げた。他に誰も助けようとする者は見当たらない。いや、す でにその男を視界に入れている人は、誰もいないようでさえあった。男に近付き、「大丈夫か?」と声をかける。すると、はじめて気が付いたのか、ゆっくりと だらしのない顔でこちらを見返した。仕方なく手を差し出すと、大きくて黒く汚れた手で掴まれた。重い。近くで見ると、かなりの大男だ。それ程栄養のあるも のを食べているとは思えないのだが、かなりがっちりした体格のその男は、全体重をかけて起き上がろうとしてきた。思わず足を踏ん張り、重みに耐えながら男 の手を引き上げると、立ち上がりながら男が口を開いた。 「金はあるか?」 上目遣いにだらしのない顔をして、助けてやった男が最初に口にした言葉。物乞いをしている男に、無論何も期待してはいなかった。だが、開口一番金をくれとはどういうことか。一瞬、手をほどいて突き放してやろうかとさえ思った程だ。 「いや、持ってない」 もちろん、この男にやる小銭など持っていないという意味だ。何を触ったか分からないような汚れた手を引いて助けてやったことを、今さら少し後悔していた。 「あー、いいんだ。神の御加護を、神の御加護を」 つぶやくように男はくり返した。ようやくのことで直立すると、さらに何度も同じ言葉をくり返した。 「ありがとう」 そう言い返すと、何ごともなかったようにそそくさとバス停に引き返した。しばらくは意識してその方向を振り返ることもしなかったが、適当なころ合いを見計らい、男のいた方向に首を振った。そこには、よろよろと右に左に揺れながら、男が歩いていた。 不思議と腹は立たなかった。その男の口から、最後までありがとうの言葉は聞けなかったが、それも気にならなかった。ひっかかっていたのは、最初の言葉だ。 「金はあるか」と、毎日小銭をせびるあの言葉。これまでに、どれほどこの言葉を呟いてきたのだろうか。人に会うと、恐らく考えるよりも先にこの言葉が出て くるのだろう。あの上目遣いの表情は、決して物乞いをしている時のものではなかった。あの男は、心の中では感謝の気持があったのだろう。だが、口を突いて 出た言葉は、いつもの言葉だった。恐らくは、人間としてもっとも恥ずべき言葉かも知れない。それが無意識に、手を貸してくれた相手に向かって出てしまうの だ。それだけ、みじめな生活を送っているのだろう。 もう一度その男の方を振り返ると、まだよろよろと坂を上っている。あ の男が腹を立てているのは、たぶん自分自身にだろう。それを何処にもぶつけることができず、誰かれ構わず悪態をついているのだ。暑い夏の昼間、ほんの一瞬 暑さを忘れる程の悲しみが襲った。いつもより長い待ち時間の中でぽっかりと開いた空白の余韻を残して、遅れてきたバスの窓際に腰を下ろした。流れゆくいつ もの景色の中で、無意識に男の姿を探していた。たぶんどこかで道を曲がったのだろう。その姿を見付けることはできなかった。そして恐らくは、その男の目に は、このバスの車内さえ見えないのだろう。小さなバス停は、あの男にとって存在さえしていないのかも知れない。どこにでもある、何の変哲もないバス停。し かし、あの男には無縁の場所だった。窓にうつる自分の姿を見ながら、ふとそんなことを考えていた。 |